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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前回、前々回で紹介した掲示板からもう一件。
私にとって武田先生に対する印象は、やはり一念が岩をも貫くという堅くピュア(純粋)な信念の持ち主だったということです。まさしく、あと百歳に1カ月という「前人未到」の長命は、石原将軍や信仰されていた日蓮上人のご加護かと思えます。
また私にとって忘れがたい思い出は、何と言っても武田先生が参議院議員時代に、『永久平和の使徒 石原莞爾』(冬青社、1996年刊)という本を出版させて頂いたことです。だだ、その過程でひと悶着あったのです。というのは、当時(平成6年)、共編者のお一人だった菅原一彪氏(故人)と完全原稿に仕上げて、あとは武田先生から二つ返事を頂いて印刷にかける算段で議員会館にお邪魔したのですが、原稿を見るなり、「これでは出版できませんね。出版は中止しましょうか」という思わぬお言葉を頂いたのです。
唖然、呆然と言うか、全く予期していなかった返事に、ただただ驚いて菅原氏と顔をしばし見合わせました。私が「先生、どうしてですか、その理由をお聞かせ下さい」と尋ねると、武田先生は遠慮がちに「実は、この本は陛下にご覧頂くつもりだったのです。軍服姿の写真が沢山入ったこれでは困るのです」と。実は、この本には鶴岡市の資料館から多数お借りした写真のうち200枚を載せた「本邦初の写文集」を売りにするつもりだっただけに、この写真掲載を否定されることは私にとって出版意義が失われるだけでなく、すでに印刷工程が完了しているだけに、会社にも迷惑をかけることになり、私は必死で喰い下がりました。「先生、石原将軍は昭和16年に現役を退いたものの、まさしく将軍と尊称されるように、その生涯は軍人一筋でした。もし膨大に残っている軍人姿の写真を取り除くことは、石原将軍の全身のうち半身を切り刻んで半面の姿しか写し出さないのではないですか?」と。
すると、しばらくの間、時間が止まったように沈黙が続きました。私は部屋の窓から見える隣りの衆議院会館の姿をしばらく見つめていました。数分後、武田先生はおもむろに「それでは、私がこの本のために新たに原稿を書きますから、それを付け加えることで如何ですか?」とポールが跳ね返されてきました。ともかく、写真削除は免れたので、私と菅原氏は即座に賛同し、それは本文の最初に「序章」という形で処理することで妥協が成立しました。
さて出版後、「この出版目的は、陛下にご覧頂くことである」という武田先生の願望にどう応えるか、私は元宮内庁職員だった方を頼りに三笠宮殿下に献本をしましたが、ほどなくしてある日、渡辺 允侍従長の要請により、武田先生の事務所に「この本を陛下、皇太子、三笠宮殿下にご覧頂きたいので宮内庁に献本して頂きたい」との連絡が入りました。すぐに武田先生が自ら宮内庁に出向き計5冊が献納され、遂にこの出版目的は果たせました。
思いのほか早く夢が実現できた背景には、実は、武田先生はソニーの井深 大会長の斡旋で、現明仁天皇が皇太子時代に農業問題を御進講されており、かつ現皇太子徳仁(なるひと)親王と雅子様の御成婚時(平成5年、1993年)には国会議員の代表として宮内庁で祝詞を申し上げています。武田先生の歴代内閣の農業諮問委員の活躍のみならず、数々の誠実な実績があってこその栄誉、宮内庁の評価と思います。
この中に出てくる「武田先生」という人物、フルネームを武田邦太郎と言います。
実は参議院議員を1期だけ勤められたのですが、この時もう一人の候補として考えられていたのが、歌手・加藤登紀子氏の夫・藤本敏夫(故人)だったそうです。病気のため外されたとか。http://free2.nazca.co.jp/mk15/taku123/bbs.cgi?mode=res&thno=456

この武田邦太郎、晩年の莞爾に非常に関わった人物です。
その詳細についてはこれらの論文に書かれています。
「伊地知則彦の生涯と宗教思想に関する研究 : 石原莞爾の宗教思想との関連から」
http://libir.soka.ac.jp/dspace/bitstream/10911/3331/1/so36-091.pdf
「石原莞爾とその関係者を中心とした共同体運動の変容」http://libir.soka.ac.jp/dspace/bitstream/10911/3194/1/so34-067.pdf
上記の論文によると、武田邦太郎は1935年に東大西洋史科を卒業後、翌年に鐘淵紡績(鐘紡、後のカネボウ)に入社、農林部長・池本喜美夫の部下として鐘紡の満州での事業に従事します。池本喜美夫はフランス国立サンシール大学で農学博士号を取った人物で、東京農業大学教授時に行った公演が石原莞爾の共感を呼び、その後莞爾の要請で鐘紡農林部長となった人物です。鐘紡が池本の案により満州で行った事業とは「モデル農場を経営し、ゆくゆくは中国農民に向けて寄贈すること」この背後には池本の「満州事変はいずれ日支戦争(日中戦争)になると思われるが、そんな不毛なことをするよりその予算を中国農民の啓蒙に回すべきである」という考えがありました。
1939年10月21日に武田は池本に随行して石原莞爾に初めて会うのですが、この時既に莞爾は京都の第16師団長となっており、軍部の中枢からは追放されていた状態でした。武田は莞爾の要請で病気の池本にかわって著書を上梓したりとかかいがいしく働いています。また、モデル農場の経営も手堅く行っていて有能な人物だったことが伺えます。

が、この時点ではまだ武田邦太郎は日蓮などには関心はなかったようです。これについては別の人物が関わっています…それがタイトルにも出ている「伊地知則彦」なる人物です。実はこの人、石原莞爾が吹っ飛ぶぐらいの強力デンパなお方なのです…。


かなり長くなりそうなので項を変えて続く_(。_゜)/



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以前「今田新太郎も気になる。2」で、阪本芳直氏も石原莞爾と今田新太郎のつながりがいつから始まったのか調べたが分からなかった、との旨を書いたのだが、

検索していて非常にアヤシイ記述を見つけた。もしかしてこれか?
锑子君ノ懇切ナル御骨折一一対シ押火様、今田新太郎君及ビ五月十三日綈子君ノ御
手紙ロロ「戦争カ平和カ」到着。帯伯林人士ノ遊覧所也。
http://books.google.co.jp/books?ei=7AeCUZeuMsaOlQXaq4C4Ag&hl=ja&id=zLvTAAAAMAAJ&dq=bibliogroup%3A%22%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE%E9%81%B8%E9%9B%86%22&q=%E4%BB%8A%E7%94%B0#search_anchor
これ、『石原莞爾選集2 ベルリンから妻へ』の一節。
つまり、莞爾がベルリンに留学させられてた大正12年(1923年)には既に今田新太郎と莞爾の間に接点があったということになる。

どうやって知りあったのよヾ(^^;)

なお、今田新太郎は東京出身ですが、陸軍幼年学校は仙台幼年学校に通ってました。ので莞爾の後輩という事になります。



<追記>
上記の文章の確認のため、『石原莞爾選集2 ベルリンから妻へ』取り寄せてみました。
(大正12年)六月二十一日
(中略)
押火様、今田新太郎君、及ビ五月十三日テイ子君ノ御手紙□□「戦争カ平和カ」到着
(以下略)
p.118
おおむね間違いないようです。
なお、この他に今田が出てこないか読んでみたのですが、どうも出てないっぽい。しかも、この後ご存じの関東大震災があり、莞爾は親戚や友人いろいろのことを案じているのですが、その中に今田のいの字も出てこないので、この頃はまあそれくらいの間柄だった、ってことでしょうね。

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私は以前この記事で、今田新太郎が満州事変後にノイローゼになったという片倉衷の話を紹介した。

が、『中江丑吉の肖像』の著者の阪谷芳直はこれに猛然と反論している。長いが全文打ってみる。
[追記]
本稿校正中に発売された『将軍の遺書-遠藤三郎日記』(宮武剛著・毎日新聞社)には、柳条溝事件に絡んで当時の関東軍参謀片倉衷大尉(今田の一期下、後の少将)が語ったという次のエピソードが載っている。
「今田大尉がノイローゼになったんだ、仕方なく内地に転任させた。あの人は18日夜、(北大営を急襲し、張学良の命令でほとんど無抵抗の)支那兵を切った。抵抗しない人間を切ると印象に残るもんだ。幻想に襲われて夜眠れない。今田が、そうだと言うんじゃないが、軍人が勲章ほしさに好んで殺傷するようじゃ修養が足りないんだ。」
(下線の場所は毎日夕刊連載時にはなく、出版に際し新たに挿入された個所-阪谷)
今田新太郎の9・18から昭和7年3月15日東京帰任までの動静は、「今田町日誌」の淡々たる記述が示すとおり、ノイローゼになっている暇など無い八面六臂の活躍ぶりで、母堂も「新さんへちょっと消息、自分の喜びを申送りし」と書き留めている位である。9.18から六ヶ月後の参本帰任が幻想に悩まされる人間の内地送還などとは考え得ないし、また勲章ほしさに好んで殺傷する軍人の例を今田新太郎に求めるなら、これほどの見当違いもないであろう。流石の片倉将軍も、言った後でバツが悪くなって「今田がそうだと言うんじゃないが」と取り繕わざるを得なかったことがこれを証明している。
満州事変にその発端から関わった軍人達がことごとくこの世を去り片倉将軍はほとんど唯一の生き残りであろう。このような生き証人の不用意・軽率な発言によって、歴史の真実が歪められたり、故人となった人々が致命的な誤解を受けたりすると、その誤りを正すのは容易ではない。敢えて追記を以てこの点を指摘することとした。
「今田新太郎-五十年前の一枚のハガキから-」『中江丑吉の肖像』p.297~298
うーむ、個人的にはノイローゼになった新太郎君(ヲイ)のほうが好きなんだけどな だって
「愛する中国と事変の引き金を引いた自分との間に板挟みになり悩んでいる新太郎」
…って感じがいかにもするじゃないですか。
でも確かに史料見てみたら、とてもノイローゼじゃないですよね、新太郎。
9/26(10/1着) 長春から「無事活動」の手紙を送る
10/13 チチハルから同駅付近で仕事している旨の手紙を送る
10/15 片岡・奥戸が一昨日帰郷した旨の手紙を送る(ばんない注 片岡、奥戸は柳条湖事件で今田と共に行動した雄峰会の活動家である)
10/17 北満州から奉天に帰った旨連絡
10/22 町、新太郎に「自分の喜びを申し送」る手紙を送る
(昭和7年)
2/10 3月に帰任する旨の手紙を送る
2/22 町、中江丑吉から新太郎に来た手紙を転送
3/15 12時前に帰宅
「今田新太郎-五十年前の一枚のハガキから-」『中江丑吉の肖像』p.290~291所収の「今田町日誌(仮)」を要点抜粋

それにしても、どうして片倉衷はそんな話をしたんだろうか。
もしかして自分たちより早々と内地に帰国した今田がうらやましかったのか。
しかもwikipedia「片倉衷」みてたら莞爾同様左遷人事っぽい飛ばされかただしな(関東軍参謀→久留米12師団参謀)

ちなみに上記のエピソードの初出は『片倉衷談話速記録』です。

関係のないおまけ

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やはり、今田新太郎と石原莞爾と言えば「満州事変」を落とすわけにはいかないだろう。

現在の学会では「満州事変」は「関東軍-それも板垣征四郎+石原莞爾他ごく一部の参謀-による独断専行の事件」とするのが主流のようで、それが一般的な認識でもあるように感じる。
しかし、石原莞爾を調べてみて(但しネット+一般書限定(汗))どうも腑に落ちない。事実、今村均(事変当時は参謀本部課長)は自著『一軍人六十年の哀歓』(後『今村均回顧録』と改題)において、陸軍上層部でも「満州・蒙古問題の解決には行動を起こしてもやむを得ないという認識はあった」としっかり明言されているのである。
そして石原莞爾の日記(『石原莞爾選集9 書簡・日記・年表』所収)には事変直前に陸軍上層部が上記の方針を大きく変えてしまったことに対して莞爾が立腹していることが簡略ながらこれも明言されているのである。

そこでキーポイントになりそうなのが今田新太郎の行動。
これは、先日やっとこさ借りられた『中江丑吉の肖像』(阪谷芳直著)に所収されていた「今田新太郎-五十年前の一枚のハガキから」を読んで気が付いたのだ。と言うかこの論文、すごく満州事変にとって重要なことを書いてあるのに、今まで読んだ本でこれを取り上げたり参照している物を今のところ1本も見たこと無いぞ!ヽ(`Д´)ノ

今田新太郎が満州事変の発端となった「柳条湖事件」で実行犯の主力として働いたのは、後の数々の証言+先述の石原莞爾の日記からでもはっきりしている。
 証言その一 見津(みつ)実上等兵(東京都在住)
 九月十八日の夕方、川島中隊長の官舎へ呼ばれ、行ってみると、中隊長夫妻、河本中尉、それに見知らぬ大尉が応接間にいて「今田大尉だ」と紹介された。今田が「そのトランクを開けてみよ」と言った。小型の布製トランクの中に中国製らしい爆薬が約二十個入っていた。川島から「これから中隊は演習へ行くが、お前は今田大尉と同行せよ。誰とも話すな」と厳命され、ワインで乾杯したのでタダゴトではないと予感した。
 河本中尉が何人かをつれて先発、薄暗くなって今田と私は北大営とレールの中間点に伏せの形で潜伏していた。三十分後にバーンと爆発音が三回聞こえ、火柱が西南方に見えた。すぐ中隊主力が到着し、北大営に攻撃を開始した。戦闘が始まって少しのち兵営内へ入ると、今田と川島が「もう大丈夫だよ」と話しあっていた。そのようすから日本側の謀略だな、と見当をつけた。その後、特務機関の二階に約一カ月軟禁されたのち、中隊へ帰った。
(秦郁彦著「昭和史の謎を追う 上」(文春文庫、1999年)p70-74)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-5/ad1931b.htm
※太字はばんない補足

ところで、満州事変の準備自体はかなり早くから始められたとする説が有力のようにみうけられる。人事に限ってみてみても、主力メンバーの赴任時期は
板垣征四郎 昭和4年(1929年)5月14日
石原莞爾 昭和3年(1928年)10月10日
花谷正 昭和5年(1930年)※コトバンク参照
となっている。
が、今田新太郎は違う。上記のように事件の核心部を担っているのにもかかわらず、満州に移り謀議に加わったのは新太郎の母・町の日誌などから見て事件勃発のわずか6ヶ月前と推測されるというのが阪谷氏の説である。以下、阪谷氏の論文に引用された「今田町日誌(仮題)」を使って昭和6年の新太郎の動向を見てみよう(尚記述は簡略にしています)
1/15 揚子江方面に旅行
2/9 旅行先の洛陽丸船中より手紙を送る
2/13 沙市から手紙を送る
2/15 長沙から漢口への旅行の途中で手紙を送る、2月下旬に帰張予定
3/6 町、今井武夫大尉(※今田新太郎の同期生)から新太郎が臨時帰郷することを知らされる
3/11 北平(現北京)から20日頃帰郷することを連絡
3/15 町、参謀本部から新太郎が14日に北平を立ち15日に天津より船に乗り20日帰郷する旨連絡を受ける
3/19 正午「翌朝7時着」という電報を送る
3/21 午前8時帰宅
3/23 小田原へ行く
3/26 小田原より帰宅
3/27 訓令を受ける
3/28 町、新太郎の要請で女中を捜す、「片岡」という人物が来訪する
3/29 女中と片岡を引き合わせる 昼、河本(ばんない注 阪本氏の推測では河本大作、あの張作霖爆殺事件の首謀者である)と昼食を共にする
3/30 町、明日出発の新太郎と女中を同行させるために女中に心付けをする、が夜になって女中の両親が断ってくる
3/31 9:45、出発。町、女中の姉の家に回って、相談が調い女中が同行したことを送りに行った者から聞いて安心する
4/10 4/6に奉天着、「感慨決心」の手紙を送る
4/18 ハガキ2枚送る(ばんない注 実際は別々の日に投函したのが一緒に届いたのだろう、石原莞爾の手紙を見ていたときに気が付いたのだが、この頃の軍人の郵便はこういう事が多々ある)
4/20 奉天の状況をいろいろ報告
4/24 町、奉天に印刷物を送る
4/27 「片岡」が出立前に立ち寄る旨連絡
5/3 東北辺防軍司令長官顧問に異動(※阪本氏によると「東北辺防軍司令長官」=張学良のことだそうである)
5/8 「片岡」が電報で10日に訪問の旨連絡する
5/10 参謀本部より新太郎が4/10付けで異動したので4月分の給料20日分を返納するよう連絡してくる
5/22 12日に出発した「片岡」が18日に到着した旨連絡
6/9 無事の手紙を送る
6/24 吉林よりハガキを送る
7/7 「片岡」が新太郎の北平行きと近況を知らせる
7/8 北平より無事の手紙を送る
7/20 町、中江丑吉に送る塩煎餅を買いに行く
8/20 「今月の送金が出来ない」旨の手紙を送る
9/12 北平から手紙を送る
9/14 北平よりハガキを送る
9/18 夜10時半、支那兵が満鉄線を爆破、日支衝突
9/21 電報で「冬用の軍装を送れ」と言う旨知らせる
9/22 町、奉天へ上記の軍装一式を送付
なおこの文中に出てくる「片岡」を、阪谷氏は「柳条溝事件工作に携わった雄峰会の浪人連中」と推定しているが、図星であろう。花谷正証言に「片岡といった雄峰会の連中も北大営(張学良の本拠地 ばんない注)への襲撃に加わった」という話が出てくるのである。

しかも今田新太郎の満州からの離脱も早かった。石原、花谷は翌7年8月の人事異動で内地へ(しかも石原は「陸軍兵器本廠附」役職無し)残った板垣も不遇なポストに置かれたのに対し、今田は同じ7年の3月には既に内地に帰っており、しかも役職は以前通りの「参謀本部付(支那局部員)」なのである。
阪谷氏は
満蒙問題解決のための「謀略」-最終的には柳条溝(注 この論文が書かれた時期は「柳条湖」より「柳条溝」の方が呼び名として通っていた)の鉄路爆破をイトグチとすることになった-に関連する重要任務が、参謀本部から今田新太郎に与えられたと考えざるを得ない。
『中江丑吉の肖像』「今田新太郎-五十年前の一枚のハガキから-」p.280
と結論されているが、私も全くの同意である。

では、今田をこの事件に巻き込んだのはいったい誰だったのだろうか?
実は私も気になってちょっと調べてみたのだが、この事件以前に今田新太郎と石原莞爾の間には接点が全く見あたらないのである。他のメンバー(板垣とか花谷とか…)が引き込んだ可能性もあるかも知れないけど、そこまで調べる気力はありません(ヲイ)
※ちなみに阪谷氏もこの辺を調べたが関係が分からなかったことを上掲論文(p.280)に書かれている。
ということは、陸軍中央部(それも石原莞爾を激怒させるほど方針転換した)のなかに、まだ密かに板垣・石原達に気脈を通じる者がいて、それが今田に関係していて、彼を満州に送り込んだということになるのだろうけど…軍ヲタじゃない私にはもう見当が付きません、はい。

なお蛇足ながら、この満州事変をきっかけに石原莞爾といろいろ関わりを持つ人物に遠藤三郎(最終的には中将)がいます。彼はそもそもは「満州事変留め男2号’s」としてやってくるのですが、石原にさんざんにやり込められて、帰国後に今村均参謀本部作戦課長(当時)に「なんだミイラ取りがミイラになったのか」と呆れられてしまいます。その彼が帰国後に参謀本部の某氏に「どうだ、今回のことはビックリしただろう!」といわれて、「そうか満州事変には参謀本部の一部が関わっていたのか」と思った(『日中十五年戦争と私』)そうですが…。

おまけ

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「本藩人物誌」より

川上因幡守久国入道商山
(中略)
○内室ハ渋谷次郎左衛門重治女也嫁スル時川上家ノ役人礼服ノ上二セヲヒ木トイフモノヲ負ヒ白帷子被シテ来ルトイフ是ハムカシ御当地ニハヤリシ物ノ由笈ノ様ナルモノニテレンシヤクアリカタニカケ足ヲ踏トムル軸アリテ人ヲノスルモノナリトソ扨其夜重治ヨリ裏ノ付タル筵二枚ヲ送ラル新婦ノ寝間ニ敷ヘシト也家来共ヲ初集会ノ面々是ヲナデテ見テ和ラカナヨロシキ物ト称美セシト也是当時ノ畳也是久国朝鮮帰陣以後也其比久国所領三千石余ナカラ宅中皆カヤムシロナリトソ

川上久国(天正9年5月5日~寛文3年4月17日)は、川上忠克のひ孫、川上久朗の孫に当たります。川上家の傍流だった上に、曾祖父忠克は甑島に流刑という日陰の家系…だったはずなのですが、祖父の久朗がまだ17歳の時に才能を認められ島津義久の老中に抜擢されるという大出世を遂げ、以後、実質的な川上家嫡流になっていった系統になります。

あ、そうそう。上記で述べた経緯に加え、若くして戦死した後菩提寺も建ててもらったことなどから、久朗は島津義久の愛人説もありますね(爆)
それと、島津家の発給文書の末尾にある老中署名では、久朗はあの伊集院忠棟より順番が早かったりします。

…いかん脱線した。
で、今回のネタの久国さんもなかなかの才能の持ち主だったらしく、さすがに祖父の久朗みたいに若年ではありませんでしたが50歳の時に島津家久(忠恒)家老となり、その後家久の息子・光久の代まで家老を務めます。

そんな久国さんの相手は渋谷重治(天文20年~?)の娘。 渋谷さんの当初の名前は「白浜重治」、白浜氏は東郷氏の分家。重治さんは島津貴久正室・雪窓妙安大姉の従兄弟で、島津義久の御使衆を勤めていました。家格的には川上家の方が上だったように見えます。

さて、そんな2人の結婚は…

川上家ノ役人礼服ノ上二セヲヒ木トイフモノヲ負ヒ白帷子被シテ来ルトイフ是ハムカシ御当地ニハヤリシ物ノ由笈ノ様ナルモノニテレンシヤクアリカタニカケ足ヲ踏トムル軸アリテ人ヲノスルモノナリトソ

「婿側の川上家の家臣が、礼服を着た上に「背負い木」(笈(山伏が背負っている四角いリュックみたいな物)に似ており、肩に掛け、足をのせる軸があり、人を乗せる)を背負って、白帷子をかぶせてやってきた。これは昔この辺りで流行だった物だ」
だいたい意訳するとこんな所でしょうか。「レンシヤクアリ」というのがよく分からなかったのですが。
…で、この「背負い木」って花嫁乗せる物ですよね?多分。婿の久国乗せてるというなら…何か不気味だヾ(^^;)

扨其夜重治ヨリ裏ノ付タル筵二枚ヲ送ラル新婦ノ寝間ニ敷ヘシト也家来共ヲ初集会ノ面々是ヲナデテ見テ和ラカナヨロシキ物ト称美セシト也是当時ノ畳也

「その夜、舅の渋谷重治から裏地の付いた筵を2枚送ってきた。これは新婦の部屋に敷く物である。(川上家の)家来達
を始め披露の席にいた面々は、この筵をなでてみて「やわらくていい物だよね~」と誉めていた(ちなみに裏付きの筵は当時の畳である)」
とだいたい意訳しましたが、大丈夫かな。
しかし、婚礼家具をぺたぺた触るって、いや~んヾ(^^;)しかも新婚初夜に使う物だぞみんないやらしいヾ(--;) ところがこれに似た習慣が20年ほど前の京都ではしっかり残ってまして(○。○)。結婚する前に花嫁道具を近所のみなさんに披露するという…今はこの習慣無くなってると思うのですが、多分。

久国所領三千石余ナカラ宅中皆カヤムシロナリトソ

「久国の領地は3000石余りあったけど、家の床はみんな萱筵だったんだって」
内容はこんな所でしょうか。
なんか「3000石も領地あったのに、こんな貧乏くさい感じだったみたいよ」といわんばかりの文章のように感じたのは私だけかな。もっとも、この「本藩人物誌」が書かれたと推測される江戸時代後期、鹿児島藩を訪れた頼山陽は
「こんな底辺な所があるとは」
…とか言ってたらしいよ。久国のこと「家老クラスなのに貧乏くさいやーいやーい」と言える立場なのかしらん?>「本藩人物誌」の著者。

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