拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今田さんの方の優先度を上げちゃおうかしらんヾ(--;)
前回(石原莞爾が気になる。11)の元ネタ論文を見ていたときに気になったのだが
なお、参照にした論文の続きを読まれた方はご存じでしょうが、かいつまんでまとめると
その後莞爾は当時在職していた第16師団をこの東亜連盟思想で洗脳鼓舞し、満州へ派遣させようとしたようなんですが、当然東条英機に目を付けられるところとなりまして、莞爾は予備役編入、第16師団の満州派遣も中止となってしまいます。そりゃそうだろ(^^;)
おまけ
この師団長時代に、あの悪名高い戦陣訓が東条英機により訓示されますが、莞爾は「こんな物読んでる暇あるなら他のこと勉強した方がマシ」と戦陣訓を禁書扱いにしたとかどうとか
前回(石原莞爾が気になる。11)の元ネタ論文を見ていたときに気になったのだが
石原は北満開発とその意義について「国防のためにも、東亜連盟のためにも、北満の事業はその基礎事業を為す物である」と論じる。そして開拓地は、先住民の物を買収するのではなく、民族共和・王道楽土の建設のために「本当の未墾地を拓いて」いかなければならないと主張する。またこの未墾地に軍隊が「新しい生活様式を生みながら国防の第一線に立つと、開拓民の生活も、簡易剛健、而も快適な真の日本民族、特に超非常生活に適するたるべき事は云うまでもない。この北満開拓の逞しい建設事業は同時に日本に於ける簡易剛健生活運動の前衛をなすものである。そうしてかかる気持ちで日本の農民が多数北満に移っていったなら満州国建国の精神である民族協和にも極めてようい作用をなすものと信じる」という。これ読んで思わず屯田兵思い出してしまったのは私だけでしょうか。いろいろ戦史研究をしているらしい莞爾ですが、屯田兵は研究したことあるんだろうか。
http://libir.soka.ac.jp/dspace/bitstream/10911/3194/1/so34-067.pdf (3-1章辺り)
※下線は当方補足
なお、参照にした論文の続きを読まれた方はご存じでしょうが、かいつまんでまとめると
その後莞爾は当時在職していた第16師団をこの東亜連盟思想で
おまけ
この師団長時代に、あの悪名高い戦陣訓が東条英機により訓示されますが、莞爾は「こんな物読んでる暇あるなら他のこと勉強した方がマシ」と戦陣訓を禁書扱いにしたとかどうとか
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今田新太郎がいわゆる「張学良軍事顧問輔佐」になった時の物と思われる公文書がありましたので、リンクを掲載しておきます。
陸軍歩兵少佐矢崎勘十外一名中華民国政府ノ招聘ニ応スルノ許可ヲ与フルノ件(昭和6年5月23日)
陸軍歩兵少佐矢崎勘十外一名中華民国政府応聘期間中同国政府ヨリ俸給其ノ他給与ヲ受クルノ件(昭和6年5月23日)
陸軍歩兵少佐矢崎勘十外一名中華民国政府ノ招聘ニ応スルノ許可ヲ与フルノ件(昭和6年5月23日)
陸軍歩兵少佐矢崎勘十外一名中華民国政府応聘期間中同国政府ヨリ俸給其ノ他給与ヲ受クルノ件(昭和6年5月23日)
数日前、冷やかし半分で「今田新太郎」をGoogleで検索してみたら
拙サイトが上位5番目にヒット…(○。○)
…今田さんが不憫すぎる…誰かプロの作家とか歴史学者で彼をちゃんとやってくれませんかね マジで
以上雑談終了。
でも今日のネタはかなり雑談。
プロの歴史学者から見たらどうでも良いことに引っかかるばんないでございます(^^;)
今回のネタもそういう話。
今田新太郎自体は東京生まれ東京育ちですが、両親は奈良県出身です。
ちなみに師匠の石原莞爾はかなりの山形弁なまりだったそうです(わざと矯正しなかったとも)。
拙サイトが上位5番目にヒット…(○。○)
…今田さんが不憫すぎる…誰かプロの作家とか歴史学者で彼をちゃんとやってくれませんかね マジで
以上雑談終了。
でも今日のネタはかなり雑談。
プロの歴史学者から見たらどうでも良いことに引っかかるばんないでございます(^^;)
今回のネタもそういう話。
今田新太郎自体は東京生まれ東京育ちですが、両親は奈良県出身です。
奈良県出身。祖父は郡山藩の武芸指南で黒川奉行を勤め、廃藩後は国樔郷の連合小学校長を務めた今田正儀(同墓)。父は漢学者の今田主税・母は町(共に同墓)の1男6女の長男。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/imada_shi.html
※こちらのHPでは「奈良県出身」とあるが、「今田新太郎-50年前の一枚のハガキから」(『中江丑吉の肖像』)によると東京生まれとのこと
妻の今田町(同墓)は奈良県鷲家口で医を業としていた久保耕庵の末女。父の今田正儀の塾生であり、その縁で後に主税と結婚する。つまり両親が関西出身の新太郎は関西弁をしゃべっていたのか?という謎。
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/imada_chi.html
ちなみに師匠の石原莞爾はかなりの山形弁なまりだったそうです(わざと矯正しなかったとも)。
前回の話は1,2
こんな話とっとと終わってしまいたいヾ(--;)
伊地知に変わって武田邦太郎がリーダーとなった「わとう会」のメンバーは、結局石原莞爾のいた西山農場(山形県鶴岡市)に転がり込みます。
…ところがこれが問題の種となります。
先述のように「わとう会」のメンバーは”大御魂”なる物を信仰していました。旧来の西山農場の仲間は
「こんなの本当の日蓮様の信仰と違う!」
と不満を持つようになります。当然ですわな。
-ところが武田は、それまで西山農場にいたメンバーと違う才能を持っていました。鐘紡の農場で指導をしていたくらいの農業のプロだったのです。実は、それまで西山農場で興した事業はうまくいっておらず、莞爾のポケットマネーで持っている状態でした。
武田は経営状態が悪くなって混乱していた西山農場をまとめ上げ、再出発させようと貢献しました。
武田邦太郎は早くから石原莞爾と知り合いだったのではありますが、その後伊地知則彦と知り合い日蓮信仰にどっぷりと浸かった入ったことで、再び石原莞爾と再会、晩年の莞爾を支える人物となったのです
蛇足ながら、この「西山農場」のその後を追記します。
満州国の開拓は、東条英機らにより失敗したのは何回も書いているとおりです。そして、この西山農場も結局は失敗に終わったのです。
莞爾が1949年8月15日になくなると、精神的+経済的支柱を失った西山農場から多くの人が去っていきました。更に、西山農場は農場開発のプロ・武田を持ってしてもどうにもならない土地だったようです。西山農場の管理をしていた莞爾の弟・石原六郎が亡くなると土地は四散し(多分相続税の関係?)、現在は住宅地となっています。
参考 http://free2.nazca.co.jp/mk15/taku123/bbs.cgi?mode=res&thno=202
更に、参考論文には書いてなかったですが、「わとう会」が他の日蓮信者も弾いてしまうような強烈な信仰に至った経緯を私なりに分析。
この信仰は、最初伊地知則彦という特殊な人物一人だけの物でした。ところが、日本の敗戦で状況は一変します。伊地知の家には助けを求めてだいたい20人もの人間が転がり込んでいたのです。満州国崩壊時の悲惨な状況というのは何度もTVドラマ化されてご存じの方も多いでしょうが、極限の緊張状態、更に狭い空間での集団生活ということで、人格的に一番強烈な(しかもシェルターの家主だった)伊地知の信仰がみんなに伝播して行きやすかったと言うことでしょう。
おまけ
こんな話とっとと終わってしまいたいヾ(--;)
伊地知に変わって武田邦太郎がリーダーとなった「わとう会」のメンバーは、結局石原莞爾のいた西山農場(山形県鶴岡市)に転がり込みます。
…ところがこれが問題の種となります。
先述のように「わとう会」のメンバーは”大御魂”なる物を信仰していました。旧来の西山農場の仲間は
「こんなの本当の日蓮様の信仰と違う!」
と不満を持つようになります。当然ですわな。
-ところが武田は、それまで西山農場にいたメンバーと違う才能を持っていました。鐘紡の農場で指導をしていたくらいの農業のプロだったのです。実は、それまで西山農場で興した事業はうまくいっておらず、莞爾のポケットマネーで持っている状態でした。
武田は経営状態が悪くなって混乱していた西山農場をまとめ上げ、再出発させようと貢献しました。
武田邦太郎は早くから石原莞爾と知り合いだったのではありますが、その後伊地知則彦と知り合い日蓮信仰に
蛇足ながら、この「西山農場」のその後を追記します。
満州国の開拓は、東条英機らにより失敗したのは何回も書いているとおりです。そして、この西山農場も結局は失敗に終わったのです。
莞爾が1949年8月15日になくなると、精神的+経済的支柱を失った西山農場から多くの人が去っていきました。更に、西山農場は農場開発のプロ・武田を持ってしてもどうにもならない土地だったようです。西山農場の管理をしていた莞爾の弟・石原六郎が亡くなると土地は四散し(多分相続税の関係?)、現在は住宅地となっています。
参考 http://free2.nazca.co.jp/mk15/taku123/bbs.cgi?mode=res&thno=202
更に、参考論文には書いてなかったですが、「わとう会」が他の日蓮信者も弾いてしまうような強烈な信仰に至った経緯を私なりに分析。
この信仰は、最初伊地知則彦という特殊な人物一人だけの物でした。ところが、日本の敗戦で状況は一変します。伊地知の家には助けを求めてだいたい20人もの人間が転がり込んでいたのです。満州国崩壊時の悲惨な状況というのは何度もTVドラマ化されてご存じの方も多いでしょうが、極限の緊張状態、更に狭い空間での集団生活ということで、人格的に一番強烈な(しかもシェルターの家主だった)伊地知の信仰がみんなに伝播して行きやすかったと言うことでしょう。
おまけ
前回はこちら
…実はもうこの話中断したいよとか思っていることは内緒だぞヾ(--;)
武田邦太郎というのが晩年の石原莞爾にとって重要人物だったのは前回お話ししたのですが、そのなれそめというのは莞爾が惚れ込んだ農業学者の弟子の一人が武田で、この時はそれ以上でもそれ以下の関係でもありませんでした。
武田が莞爾にとって重要人物となるのには、もう一人の人物の登場を願うことになります。それが「伊地知則彦」というのですが、この人は石原莞爾が吹っ飛ぶぐらい強烈な人物でした…
論文を読んでクラクラしつつ要旨を箇条書き
・1914年2月19日鹿児島県生まれ
・実家の宗旨は日蓮宗。だけど葬式仏教レベルのノンポリだったようだ。
・1937年に満州に渡り、国民学校の教師となる
・が、満州国の余りの退廃っぷりに「内地で聞いていた話と違う!」…と落胆を覚えるようになる…
・1938年3月、新京(現在の長春)で石原莞爾と出会い日蓮の教えと出合う
・その後、1週間に1回以上、莞爾の元に日蓮の教えを習いに日参していた と言うか莞爾本来の仕事はどうしたのだ
・莞爾が忙しいときには「秘書の杉浦さん」から日蓮の教えを習っていたという 秘書よお前もか
・1939年1月1日から日蓮上人に祈願を立て(但し何故か祈願先が新京神社…)6日間ぶっ通しで祈りをする。6日目の朝、鮮血を吐いてたおれる。結核にかかっていたのだ。このため2ヶ月入院、更に帰国して郷里・鹿児島で4ヶ月も静養することになる。
・更に郷里で伊地知は両親がこんな新興宗教に入ってしまっていたというショッキングな出来事を知る。両親を折伏したが失敗、その結果両親と絶縁する。
・その後満州に帰るが、又喀血し1年も入院する羽目に。
・また、満州の日本人の振る舞いに対して憂慮していた(特に内地から来た女性の差別的傾向が強かったようだ)
・1942年3月頃帰国。入信仲間と会合を持つ。
・1942年5月頃、満州に帰り新京から蒙古(モンゴル)へ移り、蒙民中等学校育成学院の教師に。
・1944年中頃、石原莞爾の推薦状を持ち、武田邦太郎に会いに行く。この時に武田を日蓮宗仲間に入れることに成功する と言うか実際はそんな大層なことじゃなくて、「武田さん、日蓮の題目唱えたことないの?では良い機会だから一緒に唱えてみましょうよ」とお誘いしたらしい。こんな簡単なことで入信したことになるのか…。
・伊地知の日蓮信仰は一風変わっていた。毎朝昇る朝日に向かってお祈りするのである。そのうちなんと神様らしい声が聞こえてくるようになったらしい(○。○)これやばいぞ 伊地知はこの声の主を「大御魂様」と呼ぶようになった あれ?日蓮の声じゃないの???
・1945年8月、日本が戦争に敗れ満州国が崩壊すると、伊地知は命からがら逃げてきた信仰仲間を自分の家にかくまった。その中に武田もいた。
・伊地知らは新しい日蓮宗仲間(わとう会という名前だったらしい)を結成。会員は法名で呼び合い、伊地知が時々受ける「大御魂様の声」に従って行動していた これってあの何とか真理教と一緒ではないのかヾ(--;)
・1946年7月、ようやくわとう会のメンバーは引き上げに成功する。
・同年10月12日、やっと帰国した小倉で、伊地知は又喀血、当地の病院に入院する。
・同年10月14日、伊地知に大聖霊が降りてきて「これから立派な”わとう村”を作るため、今後は武田に任せる」「建設地は武田が見つける、日蓮は申さずとも良い、使者(=伊地知のこと)は安静にせよ」とお告げをしたが、これが伊地知の最期の言葉となった。10月18日死去。
…ここまでみなさん、クラクラせずにお読み下さいましたでしょうか?ヾ(--;)
さて。
伊地知の遺言?を聞いたわとう会のメンバーは、新たな開拓地を探しますが、所属していた東亜連盟(石原莞爾が顧問をしていた)がGHQに目を付けられ「超国家主義的暴力団体」と言う事で強制解散させられ、結局莞爾がいた西山農場に転がり込んだのであった…。
取りあえずきっつい話が続いたので、更に続く_(。_゜)/
…実はもうこの話中断したいよとか思っていることは内緒だぞヾ(--;)
武田邦太郎というのが晩年の石原莞爾にとって重要人物だったのは前回お話ししたのですが、そのなれそめというのは莞爾が惚れ込んだ農業学者の弟子の一人が武田で、この時はそれ以上でもそれ以下の関係でもありませんでした。
武田が莞爾にとって重要人物となるのには、もう一人の人物の登場を願うことになります。それが「伊地知則彦」というのですが、この人は石原莞爾が吹っ飛ぶぐらい強烈な人物でした…
論文を読んでクラクラしつつ要旨を箇条書き
・1914年2月19日鹿児島県生まれ
・実家の宗旨は日蓮宗。だけど葬式仏教レベルのノンポリだったようだ。
・1937年に満州に渡り、国民学校の教師となる
・が、満州国の余りの退廃っぷりに「内地で聞いていた話と違う!」…と落胆を覚えるようになる…
・1938年3月、新京(現在の長春)で石原莞爾と出会い日蓮の教えと出合う
・その後、1週間に1回以上、莞爾の元に日蓮の教えを習いに日参していた と言うか莞爾本来の仕事はどうしたのだ
・莞爾が忙しいときには「秘書の杉浦さん」から日蓮の教えを習っていたという 秘書よお前もか
・1939年1月1日から日蓮上人に祈願を立て(但し何故か祈願先が新京神社…)6日間ぶっ通しで祈りをする。6日目の朝、鮮血を吐いてたおれる。結核にかかっていたのだ。このため2ヶ月入院、更に帰国して郷里・鹿児島で4ヶ月も静養することになる。
・更に郷里で伊地知は両親がこんな新興宗教に入ってしまっていたというショッキングな出来事を知る。両親を折伏したが失敗、その結果両親と絶縁する。
・その後満州に帰るが、又喀血し1年も入院する羽目に。
・また、満州の日本人の振る舞いに対して憂慮していた(特に内地から来た女性の差別的傾向が強かったようだ)
・1942年3月頃帰国。入信仲間と会合を持つ。
・1942年5月頃、満州に帰り新京から蒙古(モンゴル)へ移り、蒙民中等学校育成学院の教師に。
・1944年中頃、石原莞爾の推薦状を持ち、武田邦太郎に会いに行く。この時に武田を日蓮宗仲間に入れることに成功する と言うか実際はそんな大層なことじゃなくて、「武田さん、日蓮の題目唱えたことないの?では良い機会だから一緒に唱えてみましょうよ」とお誘いしたらしい。こんな簡単なことで入信したことになるのか…。
・伊地知の日蓮信仰は一風変わっていた。毎朝昇る朝日に向かってお祈りするのである。そのうちなんと神様らしい声が聞こえてくるようになったらしい(○。○)これやばいぞ 伊地知はこの声の主を「大御魂様」と呼ぶようになった あれ?日蓮の声じゃないの???
・1945年8月、日本が戦争に敗れ満州国が崩壊すると、伊地知は命からがら逃げてきた信仰仲間を自分の家にかくまった。その中に武田もいた。
・伊地知らは新しい日蓮宗仲間(わとう会という名前だったらしい)を結成。会員は法名で呼び合い、伊地知が時々受ける「大御魂様の声」に従って行動していた これってあの何とか真理教と一緒ではないのかヾ(--;)
・1946年7月、ようやくわとう会のメンバーは引き上げに成功する。
・同年10月12日、やっと帰国した小倉で、伊地知は又喀血、当地の病院に入院する。
・同年10月14日、伊地知に大聖霊が降りてきて「これから立派な”わとう村”を作るため、今後は武田に任せる」「建設地は武田が見つける、日蓮は申さずとも良い、使者(=伊地知のこと)は安静にせよ」とお告げをしたが、これが伊地知の最期の言葉となった。10月18日死去。
…ここまでみなさん、クラクラせずにお読み下さいましたでしょうか?ヾ(--;)
さて。
伊地知の遺言?を聞いたわとう会のメンバーは、新たな開拓地を探しますが、所属していた東亜連盟(石原莞爾が顧問をしていた)がGHQに目を付けられ「超国家主義的暴力団体」と言う事で強制解散させられ、結局莞爾がいた西山農場に転がり込んだのであった…。
取りあえずきっつい話が続いたので、更に続く_(。_゜)/

