拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
かなり気になり出したので独立させてやってみることにした
後悔はちょっとしているヾ(--;) 島津と莞爾と今田の3足のわらじはきつすぎる…でもどれも捨てられない(^^;)
今田新太郎が気になり出したというのは
・満州事変の実行犯 しかも前日に中止が決定したのをひっくり返したという…(花谷正証言による、と言うかこれしかない) もしかしたら一応中止を了解していた莞爾より問題があるのでは
・でも子供の頃からの中国フェチ。満州事変の1年後には日中融和を説く論文をそれも「偕行社記事」という軍人専門誌に載せてるという…(「今田新太郎-50年前の一枚のハガキから」『中江丑吉の肖像』)
・石原莞爾の一番の子分とか弟子とか言われてる そのため東條英機ににらまれ軍歴の最後が悲惨なことに…
・が、戦前屈指のリベラリストである中江丑吉とは幼少時からの親友
…とまあ、何か矛盾の固まりみたいな人なのですよ。
でもほとんどネットでも情報ないし、評伝も出てない…こういう人にすごく惹かれる(ヲイ)
まず取りあえず年譜作成
ただ上記のように情報少ない人なので、随時更新修正していく予定です。
年譜は続きに
後悔はちょっとしているヾ(--;) 島津と莞爾と今田の3足のわらじはきつすぎる…でもどれも捨てられない(^^;)
今田新太郎が気になり出したというのは
・満州事変の実行犯 しかも前日に中止が決定したのをひっくり返したという…(花谷正証言による、と言うかこれしかない) もしかしたら一応中止を了解していた莞爾より問題があるのでは
・でも子供の頃からの中国フェチ。満州事変の1年後には日中融和を説く論文をそれも「偕行社記事」という軍人専門誌に載せてるという…(「今田新太郎-50年前の一枚のハガキから」『中江丑吉の肖像』)
・石原莞爾の一番の子分とか弟子とか言われてる そのため東條英機ににらまれ軍歴の最後が悲惨なことに…
・が、戦前屈指のリベラリストである中江丑吉とは幼少時からの親友
…とまあ、何か矛盾の固まりみたいな人なのですよ。
でもほとんどネットでも情報ないし、評伝も出てない…こういう人にすごく惹かれる(ヲイ)
まず取りあえず年譜作成
ただ上記のように情報少ない人なので、随時更新修正していく予定です。
年譜は続きに
…想像もしてなかったのだが、遂にこのネタで10件目…
前回引用させて頂いた掲示板から興味深い話をもうひとつ。
あ、そういえば犬養道子氏はこんな事を書いていたとか。実はこっちのネタの方を先に見つけていたのだ。
犬養政権はある意味莞爾が起こした満州事変の後始末内閣だったからなあ。莞爾のせいで祖父が殺されたと道子氏が思っていても間違いはなかろう。でも、軍部暴走を始めるきっかけ「統帥権干犯」という“錦の御旗”を作ったのはこの犬養毅と「ルーピー」鳩山由紀夫の祖父・鳩山一郎であって(しかし鳩山家ってろくな政治家いないなヾ(--;))
※私は今まで調べた印象では満州事変は莞爾単独の思いつきじゃなくて、陸軍の間接的な支持があったから可能だったと考えています。
ではおまけネタ
前回引用させて頂いた掲示板から興味深い話をもうひとつ。
下記の系譜にあるように、芳澤謙吉は第29代総理大臣・犬養 毅(77歳、岡山県岡山市出身)の娘婿です。実は、私は犬養首相の三男・健(たける、衆議院議員、法務大臣などを歴任)の長男・康彦氏(現在86歳、元共同通信社社長)にお会いしたことがあります。しかも、「苦い思い出」として……。
ご承知のように、犬養首相は昭和7年(1932年)5月15日に首相官邸で、海軍の青年将校・三上 卓(中尉、27歳)らに襲われ、ピストルで銃殺されたわけですが、その時に放った「話せばわかる」という言葉は、余りに有名です。襲撃当日、官邸には犬養首相とお手伝いさんと一緒に居た孫の康彦氏(4歳児)しか居なかったと言います。幼少ながらも暗殺の雰囲気を知っている康彦氏は、毎年青山墓地で開かれている慰霊祭に、「木堂会」の会長として祭主を務めてきました。
「木堂」とは、達筆だった犬養首相の号で、私は12年ほど前でしょうか、この会に関係していた石研の女性会員のお誘いで、慰霊祭に初めて参加させて頂きました。会長の犬養康彦氏との面談目的は、同じく石研の会員で、かつて三上 卓の大東塾の塾生であった方(今は故人)の「伝言」を伝えるためでした。その「伝言」の内容は、射殺犯・三上 卓は昭和46年(1971年)に伊豆で客死するまで(享年66歳)、「犬養首相の命日5月15日には毎年祭壇に雪洞(ボンボリ)を灯して、一日中瞑目を絶やさなかった」というものです。即ち、被害者の犬養 毅首相にその罪を詫び続け、ねんごろに供養していたというものです。
塾頭である三上 卓は、塾生の「5・15事件」を自慢する発言を強く戒め、この命日は特に峻厳に注意し、近寄りがたい姿だったと言います。
その旨を、私が康彦氏に伝えたところ、康彦氏の顔はみるみる険しい顔になって、「それがどうしたんですか?!」と強い口調で私に突っかかってきました。その言葉に、私は瞬時に「殺人の和解は第三者が考えるほど甘くはない。殺人に時効なし。仲介は難しいものだ」と感じ、喉から苦い唾液が湧き出るのを感じました。安易に引き受けた浅はかさと同時に、しかし一方、加害者側の遺志を伝えるのも意味ある役目では、と煩悶しつつ、返す言葉を失っていました。
当日の慰霊祭は、小雨が降る中での会合で、私にとっては何とも後味の悪い「冷たい」一日となりました。帰宅後も、後味の悪さが残り、赤穂浪士と吉良家末裔の手打ち式も300年近くかかっているなーと、改めて社会事件、殺人事件の憎悪の重さ、深さを感じたものです。康彦氏にとっては、「総理大臣の暗殺者は極刑」が当然であったでしょうし、「助命嘆願」の世論の盛り上がりで、軍法会議で死刑求刑も禁固15年の判決、5年後の釈放は「余りにも許しがたい暴挙」と感じていたでしょう。
姉の犬養道子氏(92歳、評論家)は、「父を殺した元凶は陸軍の石原莞爾だ」と公言していたので康彦氏も同じ思いだったのか、私が「石研」を名乗った時から嫌悪感が走っていたのかも知れません。話が順調に進めば「それは誤解ですよ」とお伝えしたかったのですが、それは初っ端から頓挫してしまいました
http://free2.nazca.co.jp/mk15/taku123/
あ、そういえば犬養道子氏はこんな事を書いていたとか。実はこっちのネタの方を先に見つけていたのだ。
祖父犬養木堂暗殺の重要要素をなした満洲問題は、 その発生から満州国建立までの筋書一切を、極端に単純化して言うなら、たったひとりの、 右翼的神がかりの天才とも称すべき人間に負うていた。 「満洲問題解決のために犬養のよこす使者はぶッた斬ってやる!」と叫んだ(『花々と星々と』晴れた暗い日の章)あの、 石原莞爾(昭和十三年当時少将、北満作戦部長)その人である。 読者の忍耐をもうしばらく乞うことにして、太平洋戦争への確実な第一歩であったあの石原構想 つまり満洲大問題について触れてみよう。 忘れてはならないのは、石原莞爾が国学者の家に生まれ、東北出身者であったと言うことである。 「神ながらの道」「すめらみことによる四海平和と五族同等」の「王道」を謳う国学に幼くして胸おどらせ、 長じては草の根すら食用にするほどに荒れはてて貧しい日本の農村の悲惨に胸ふるわせた。 財閥は肥え政治家は資本家と結託する・・・・・・「すめらみことの王道を実現し、 広き天地に農民を救い」・・・・・・と石原青年は大夢をえがいた。 その大夢の地を彼は、日露戦争の結果ロシアから鉄道と炭鉱の権益をもらいうけ従業の日本人も守護の兵をも 多く送りこむことになった、あの満洲に見出したのである。 単純極まりなく、彼は「そこに王道政治をつくれば」満洲地元の民、つまり満人も支那人も「共によろこぶ」と考えた。 迷惑なのはそう勝手に信じこまれ見込まれた地元側であった。 大夢を抱く神がかり的青年は、身を軍籍に置くや、夢抱く人にしてはめずらしい、 理論的な明晰な軍法家であることを示し出した。 彼の兵の用い方や作戦法はそれこそ天才的だった。日本の不幸はそこに始まったと言ってもよい。何か文章が莞爾に対して侮蔑的だと感じていたのだが、そういうことだったのね。
彼が在満日本軍つまり音に聞こえたあの関東軍の中心人物となったころ、 支那の方では、満洲鉄道や炭鉱やその他、条約に明記される権限以上に――はるか以上に ――投資はするわ人間は送りこむわの日本に、 ようやく強い反撥を示し出していた。 「なんてったってお客じゃないか、土地はこっちのもので、土地までやった覚えはない」と言う気持である、 「図々しいじゃないか」
しかし、石原の頭の中には、貧苦にあえぐ東北農村を救い、「立ちおくれた支那民衆」にも「光明を与える」 理想国家の青写真がもう出来上っていた。 その青写真が現実のものとなる上に邪魔するヤツは、日本の総理犬養であろうと、支那の総統蒋介石であろうと、 満洲の王者のごとくふるまう小僧らしい若僧張学良であろうと、容赦はしない。 天才的軍略家の彼は綿密に計画をたてた。昭和六年秋九月のことである。 彼の計画と手際がどれほどみごとであったかは、のちに国際連盟から調査を依頼されて満洲事変をしらべに行った 英国のリットン卿の次の言葉によって証される ・・・・・・「九月十九日の朝、奉天市民がいつものように平穏に起き出てみたら」 「支配者がなんと、一夜で変っていた」!
http://www.c20.jp/p/ikanji.html
犬養政権はある意味莞爾が起こした満州事変の後始末内閣だったからなあ。莞爾のせいで祖父が殺されたと道子氏が思っていても間違いはなかろう。でも、軍部暴走を始めるきっかけ「統帥権干犯」という“錦の御旗”を作ったのはこの犬養毅と「ルーピー」鳩山由紀夫の祖父・鳩山一郎であって(しかし鳩山家ってろくな政治家いないなヾ(--;))
※私は今まで調べた印象では満州事変は莞爾単独の思いつきじゃなくて、陸軍の間接的な支持があったから可能だったと考えています。
ではおまけネタ
と言う事で前に予告してましたが、やってしまいました(^^;)
しっかし、ネット上では本当に情報少ない人ですな…「満州事変実行犯」こればっかりしかひっかかんない_| ̄|○
・父方は大和郡山藩の藩士の末裔(津野田知重(後述)が「今田新太郎は福島県郡山の出身」と書いているのは完全な誤解、と言うか先輩の出身地ぐらい調べなさいよ…)
母方は医者の家系(ちなみにあの天誅組にちょっと関わりがあるらしい?)、母親自身も津田梅子と懇意にし,梅子の開設した女子英学塾に通っていたという。新太郎の学問の幅の広さはこの母親に起因すること大だろう。
・姉妹6人のうちの男の子一人。たった一人の跡継ぎなんで大事にされたんだろうな…と思いきや、近所に住んでいた中江兆民の息子・丑吉と常に比較されて「丑さんを見習え!」と言われていたらしい…
・その中江家とは家族ぐるみでつきあいがあり、先述の中江丑吉とは兄弟同様の親交が丑吉が死ぬまで続いた
※以上はこちらのHPを参照しました
・丑吉関連ではかなりのエピソードが伝えられている
例えば「今田新太郎は早くから丑吉に私淑していたが、それに関して丑吉は「今田が自分に心服しついてくるのは、自分がすぐれた理論を言うからとか、高い識見をもっているからというのでは決してないのだ。自分の言行一致のところを、自分の行動を見て、それでついてくるのである」と人に言っていたという」
「丑吉が病気になったとき、今田は看護していた人に「そんなマヅイ食物ばかり差し上げないで、鯛のお茶漬けとか鰺の干物とかもっとオツリキなものを工夫すべし」と手紙を送った。すると丑吉は「オツリキで栄養のないものを食ったら死んでしまう。まずいのは病気にとって当然だ。ジンギスカンなら狩りをする気で戦争したろうが、近代戦にシュメルツは必然だ。自分はシュメルツに耐えて戦争するつもり也、と返事に書いてくれ」と答えたそうな」本題とは脱線しますが”オツリキ”って珍しい言葉で、検索すると「一風変わっていてしゃれている・こと(さま)。」と言う意味らしい。今や死語かも知れない…。
※以上はこちらのブログを参照しました
・中国共産党員だった鈴江言一が憲兵に捕縛されたときには助けをさしのべ、結果鈴江は8ヶ月で釈放された。これも上記の丑吉との縁だろう(鈴江は丑吉の弟子的存在だった)
※以上はこちらのHPを参照しました
・なお、新婚の鈴江夫妻(妻は丑吉の姪)と取った記念写真が、上記で参照したこちらのHPに掲載されている。実はこの写真、ネットで見られる唯一の今田新太郎の写真。それにしても中国共産党員と大日本帝国陸軍参謀の並んだ写真って…。同じくこちらのHPによると新太郎は「陸軍の黒豹」とも言われてたらしいですが、ちょっとこの外観からは想像出来ん
・『靖獻遺言摘註』を出版。
ちなみにこの本の著者が新太郎の父。ちょっと調べたがかなりの稀覯本で、都道府県立図書館でも所蔵はないみたいだ…所蔵者の皆様、地元の図書館に寄贈したら感謝されるかもよ?
・太平洋戦争(大東亜戦争)中に東條英機暗殺(○。○)を計画した津野田知重は新太郎の部下。しかし知重よ、先述の「福島県郡山出身」もあれなんだが、下の記述もどうかと思うぞ↓
・石原莞爾の弟子だったのが東條英機に目を付けられ、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には激戦地のニューギニアサルミ島に配属の師団("雪"兵団)ごと送られ、しかも補給を止められ見捨てられる(○。○) ちなみにこの"雪"兵団の主な構成員は東北出身者なのだが、特に莞爾の出身だった山形県庄内地方が多いようだ…もしかして…(((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル なおこの師団長・田上八郎も東條英機と対立してはぶられた人物のようだ…
※"雪"兵団の悲劇についてはこちらのHPがくわしい
・終戦後はシンガポールに戦犯容疑者として収容されたらしい(どこかのHPで見たが、思い出せない…)この頃に日本で東京裁判が始まり、あの田中隆吉が満州事変の真相を検事に追求されて、シンガポール拘留中の今田をかばってこれだけはあいまいに供述したという
・その後、莞爾の側近から「莞爾を交えた座談会を行って本にしたい」と言う企画を持ち込まれ、これに参加することに同意する が、肝心の莞爾本人が昭和24年8月15日に死去、企画はお流れに(『石原莞爾 生涯とその時代』)…新太郎もそのわずか2週間後に死去…
また続くかも
しっかし、ネット上では本当に情報少ない人ですな…「満州事変実行犯」こればっかりしかひっかかんない_| ̄|○
・父方は大和郡山藩の藩士の末裔(津野田知重(後述)が「今田新太郎は福島県郡山の出身」と書いているのは完全な誤解、と言うか先輩の出身地ぐらい調べなさいよ…)
母方は医者の家系(ちなみにあの天誅組にちょっと関わりがあるらしい?)、母親自身も津田梅子と懇意にし,梅子の開設した女子英学塾に通っていたという。新太郎の学問の幅の広さはこの母親に起因すること大だろう。
・姉妹6人のうちの男の子一人。たった一人の跡継ぎなんで大事にされたんだろうな…と思いきや、近所に住んでいた中江兆民の息子・丑吉と常に比較されて「丑さんを見習え!」と言われていたらしい…
・その中江家とは家族ぐるみでつきあいがあり、先述の中江丑吉とは兄弟同様の親交が丑吉が死ぬまで続いた
※以上はこちらのHPを参照しました
・丑吉関連ではかなりのエピソードが伝えられている
例えば「今田新太郎は早くから丑吉に私淑していたが、それに関して丑吉は「今田が自分に心服しついてくるのは、自分がすぐれた理論を言うからとか、高い識見をもっているからというのでは決してないのだ。自分の言行一致のところを、自分の行動を見て、それでついてくるのである」と人に言っていたという」
「丑吉が病気になったとき、今田は看護していた人に「そんなマヅイ食物ばかり差し上げないで、鯛のお茶漬けとか鰺の干物とかもっとオツリキなものを工夫すべし」と手紙を送った。すると丑吉は「オツリキで栄養のないものを食ったら死んでしまう。まずいのは病気にとって当然だ。ジンギスカンなら狩りをする気で戦争したろうが、近代戦にシュメルツは必然だ。自分はシュメルツに耐えて戦争するつもり也、と返事に書いてくれ」と答えたそうな」本題とは脱線しますが”オツリキ”って珍しい言葉で、検索すると「一風変わっていてしゃれている・こと(さま)。」と言う意味らしい。今や死語かも知れない…。
※以上はこちらのブログを参照しました
・中国共産党員だった鈴江言一が憲兵に捕縛されたときには助けをさしのべ、結果鈴江は8ヶ月で釈放された。これも上記の丑吉との縁だろう(鈴江は丑吉の弟子的存在だった)
※以上はこちらのHPを参照しました
・なお、新婚の鈴江夫妻(妻は丑吉の姪)と取った記念写真が、上記で参照したこちらのHPに掲載されている。実はこの写真、ネットで見られる唯一の今田新太郎の写真。それにしても中国共産党員と大日本帝国陸軍参謀の並んだ写真って…。同じくこちらのHPによると新太郎は「陸軍の黒豹」とも言われてたらしいですが、ちょっとこの外観からは想像出来ん
・『靖獻遺言摘註』を出版。
ちなみにこの本の著者が新太郎の父。ちょっと調べたがかなりの稀覯本で、都道府県立図書館でも所蔵はないみたいだ…所蔵者の皆様、地元の図書館に寄贈したら感謝されるかもよ?
・太平洋戦争(大東亜戦争)中に東條英機暗殺(○。○)を計画した津野田知重は新太郎の部下。しかし知重よ、先述の「福島県郡山出身」もあれなんだが、下の記述もどうかと思うぞ↓
恋しい女に会いたいという女々しい心情とは雲泥の差師とも仰いでいた今田新太郎が上海にいるのである。…お前達は腐女子の餌食になりたいのかヾ(--;)
・石原莞爾の弟子だったのが東條英機に目を付けられ、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には激戦地のニューギニアサルミ島に配属の師団("雪"兵団)ごと送られ、しかも補給を止められ見捨てられる(○。○) ちなみにこの"雪"兵団の主な構成員は東北出身者なのだが、特に莞爾の出身だった山形県庄内地方が多いようだ…もしかして…(((((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル なおこの師団長・田上八郎も東條英機と対立してはぶられた人物のようだ…
※"雪"兵団の悲劇についてはこちらのHPがくわしい
・終戦後はシンガポールに戦犯容疑者として収容されたらしい(どこかのHPで見たが、思い出せない…)この頃に日本で東京裁判が始まり、あの田中隆吉が満州事変の真相を検事に追求されて、シンガポール拘留中の今田をかばってこれだけはあいまいに供述したという
田中が法廷で証言に窮したのは柳条溝事件であった。…が、後に明らかにされた供述調書見たらしっかり言ってるやん(^^;)
昭和6年9月、柳条溝の満鉄線が爆破されたのを中国側の仕業だとして、関東軍が軍事行動を開始したが、この爆破作業は石原莞爾の命令で、今田新太郎がやったものだ。今田はその時、張学良の軍事顧問だった。田中は直接今田の口から聞いていた。
・・・ウエップ裁判長は、『君が答えなければならぬ』という。
切羽つまった田中は、『日本は中国側がやったといい、中国は日本側がやったといった』と苦しまぎれの証言をした。
田中がこの証言を渋ったのは、当時今田がシンガポールで抑留されていたからだった。・・・・・
http://www.tante2.com/tokyo-saiban-tanaka3.htm#eguchi1
... 日関する調査は、きわめて慎重に行なわなければなりませルネオあたりにいるはずであります。問題の鉄道爆破に答今でも生存していると思います。彼は、どこかボ問現在、その人物は生存していますか。今田新太郎という名前の人物であることが判明していた ...ともかくどうなったか分からないのだが、結局今田新太郎は罪に問われず、昭和21年(1946年)に復員した
http://books.google.co.jp/books?id=Z_45AAAAMAAJ&q=%E4%BB%8A%E7%94%B0%E6%96%B0%E5%A4%AA%E9%83%8E&dq=%E4%BB%8A%E7%94%B0%E6%96%B0%E5%A4%AA%E9%83%8E&hl=ja&sa=X&ei=bE58UY3gK4uokgXw8IDoCA&ved=0CDAQ6AEwADgo
・その後、莞爾の側近から「莞爾を交えた座談会を行って本にしたい」と言う企画を持ち込まれ、これに参加することに同意する が、肝心の莞爾本人が昭和24年8月15日に死去、企画はお流れに(『石原莞爾 生涯とその時代』)…新太郎もそのわずか2週間後に死去…
また続くかも
この人知っている人は重度の軍ヲタである、と思う。
あ、でも満州事変マニアなら名前ぐらいは知っているという人多いかも。
というのも
満州事変の実行犯の一人がこの今田新太郎なのである。
ちなみに事変時は陸軍から出向中で、満州事変の一方の主・張学良の下で軍事顧問になっていたと言うから…何か妙な立場の人ですな。
先祖代々儒学者であったという学問に精通した両親の元で育った。
あの中江兆民とも近所で、兆民の息子・丑吉とは親友だった。なお後の話になるが、蘆溝橋事件後、対立が深まる中国・日本の仲裁を丑吉は当時陸軍中央で参謀だった新太郎に度々依頼している。しかし一参謀の新太郎にはどだい無理な相談だったと思うんですが。それくらい心配して追いつめられてたんでしょうな丑吉さん。
なお、この時新太郎は石原莞爾と共に「不拡大路線」を主張しています。これは丑吉の思いとも一致していましたが、残念ながら陸軍の中では少数派でした。
家庭はどちらかというとリベラル気風だった様に思われるのだが…軍人になっちゃった。
そして、関東軍での石原莞爾との出会い。…彼は思いっきり莞爾に洗の…いや感化され(^^;)陸軍一といっていい莞爾ファンになってしまったのである。前に話した辻ーんこと辻政信とはレベルが違うと私は思う。辻は確かに石原莞爾の名前をよく挙げており行動を真似ようともしたが、部下に失敗を押しつける(莞爾は絶対にこれはしない)など、真似は皮相的であった。一方、今田はその思考も行動も見習おうとしたのである。
…その末路に待っていたのは「莞爾の失脚と共に没落」という道であった。
昭和20年。新太郎は満州からも日本からも遠く離れたニューギニアの離島で、当時陸軍最強と言われた第36師団こと"雪”兵団の参謀長となっていた。
しかし、補給が全くない状態での戦闘は当たり前だが困難を極め、10000人いた師団は最後に全体では1/3まで減ったという。部隊の中には「玉砕」した物もあった。そして、今田は不幸にも?その生き残りの中にいたのである。
当時今田が残った同胞達に語った「母を語る」メモが今に残っている。1 2 3 4
(新太郎の甥に当たる人のHPより)
それは実は石原莞爾の思想の影響を受けた物であったようだ。
戦後、シンガポールに収容されるも戦犯にはならずに日本に帰国。が、その僅か3年後、昭和24年8月29日死去。奇しくも師匠の莞爾の死の2週間後であった。
戦後、同僚だった片倉衷が「今田新太郎がノイローゼになった」話を同じく同僚の遠藤三郎に語っている。
おまけ
この人は検索するとどうも追悼録とかつくられてないみたいなのです。一応少将まで進んだ人なのであってもおかしくはないと思うんですが。
やはり軍歴の最後が悲惨すぎたから?謎。
「石原莞爾が気になる。」まさかここまで続くと思ってはなかったこのシリーズですが
莞爾よりもこの今田新太郎の方が気になりつつあります(をい)
…次回から「今田新太郎が気になる。」に改題しようかなヾ(^^;)
(でも莞爾より全然情報少ないけどな!_| ̄|○)
あ、でも満州事変マニアなら名前ぐらいは知っているという人多いかも。
というのも
満州事変の実行犯の一人がこの今田新太郎なのである。
ちなみに事変時は陸軍から出向中で、満州事変の一方の主・張学良の下で軍事顧問になっていたと言うから…何か妙な立場の人ですな。
先祖代々儒学者であったという学問に精通した両親の元で育った。
あの中江兆民とも近所で、兆民の息子・丑吉とは親友だった。なお後の話になるが、蘆溝橋事件後、対立が深まる中国・日本の仲裁を丑吉は当時陸軍中央で参謀だった新太郎に度々依頼している。しかし一参謀の新太郎にはどだい無理な相談だったと思うんですが。それくらい心配して追いつめられてたんでしょうな丑吉さん。
なお、この時新太郎は石原莞爾と共に「不拡大路線」を主張しています。これは丑吉の思いとも一致していましたが、残念ながら陸軍の中では少数派でした。
家庭はどちらかというとリベラル気風だった様に思われるのだが…軍人になっちゃった。
そして、関東軍での石原莞爾との出会い。…彼は思いっきり莞爾に洗の…いや感化され(^^;)陸軍一といっていい莞爾ファンになってしまったのである。前に話した辻ーんこと辻政信とはレベルが違うと私は思う。辻は確かに石原莞爾の名前をよく挙げており行動を真似ようともしたが、部下に失敗を押しつける(莞爾は絶対にこれはしない)など、真似は皮相的であった。一方、今田はその思考も行動も見習おうとしたのである。
…その末路に待っていたのは「莞爾の失脚と共に没落」という道であった。
昭和20年。新太郎は満州からも日本からも遠く離れたニューギニアの離島で、当時陸軍最強と言われた第36師団こと"雪”兵団の参謀長となっていた。
しかし、補給が全くない状態での戦闘は当たり前だが困難を極め、10000人いた師団は最後に全体では1/3まで減ったという。部隊の中には「玉砕」した物もあった。そして、今田は不幸にも?その生き残りの中にいたのである。
当時今田が残った同胞達に語った「母を語る」メモが今に残っている。1 2 3 4
(新太郎の甥に当たる人のHPより)
それは実は石原莞爾の思想の影響を受けた物であったようだ。
戦後、シンガポールに収容されるも戦犯にはならずに日本に帰国。が、その僅か3年後、昭和24年8月29日死去。奇しくも師匠の莞爾の死の2週間後であった。
戦後、同僚だった片倉衷が「今田新太郎がノイローゼになった」話を同じく同僚の遠藤三郎に語っている。
石原(莞爾 ※ばんない補記)から「満州の王様」と皮肉交じりに命名された片倉(衷 ※ばんない補記)大尉(当時)は、興味深いエピソードも語っている。-彼は軍人になってはいけなかった人なんだと思った。
「今田大尉がノイローゼになったんだ。仕方なく内地に転任させた。あの人は十八日の夜北大営を急襲し(張学良の命令で)ほとんど無抵抗の支那兵を斬った。抵抗しない人間を斬ると印象に残るもんだ。幻想に襲われて夜眠れない~修養が足りないんだ」。
http://blog.goo.ne.jp/oceandou/e/c288c0892d28a5cb960501c246b925a8
おまけ
この人は検索するとどうも追悼録とかつくられてないみたいなのです。一応少将まで進んだ人なのであってもおかしくはないと思うんですが。
やはり軍歴の最後が悲惨すぎたから?謎。
「石原莞爾が気になる。」まさかここまで続くと思ってはなかったこのシリーズですが
莞爾よりもこの今田新太郎の方が気になりつつあります(をい)
…次回から「今田新太郎が気になる。」に改題しようかなヾ(^^;)
(でも莞爾より全然情報少ないけどな!_| ̄|○)

