拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
ということで、問題の文書を書いたと睨んだ「山口伊美吉(忌寸)」こと山口沙弥麻呂関連の文書も何点か取り寄せてみた。
その結果は以下の通り。
(1) 天平20年9月22日「経琉奉請帳」(続々修15帙5 『大日本古文書』10-276)
(2) 天平21年4月10日「造東大寺司牒」(続修別集6 『大日本古文書』3-215)
(3) 天平勝宝3年5月22日「造東寺司請経文」(続々修42帙5裏 『大日本古文書』11-556)
(4) 天平勝宝5年5月7日「紫微中台請留経目録」(続々修12帙2裏 『大日本古文書』12-441)
(5) 天平勝宝7歳8月21日「紫微中台請経文」(続々修16帙7 『大日本古文書』13-154)
(6) 天平宝字5年12月23日「甲斐国司解」(正集18 『大日本古文書』4-523)
比較のため、前回記事と重複になるが、問題の文書の「山口伊美吉」自書と思われる個所をもう一度張っておく
造東大寺司解案(続々修16帙1)表末尾
造東大寺司解案(続々修16帙1)裏末尾
えっと、ざっと見た感想ですが…
これまた予想と違っていて絶句( ゚ Д゚)
(a)それぞれ筆跡バラバラなんですが…「山口伊美吉」と末尾にサインしていても、書いた人は山口伊美吉とは別人って事なのか?
(b)(今回の件に直接関わりないけど)後世、山口沙弥麻呂は改名したのか「佑義麻呂」とサインしている件
…どうも私の読みは当てが外れたようです_| ̄|○
ただ、何点か気になる文書があります。
(1)天平20年9月22日「経琉奉請帳」、(2) 天平21年4月10日「造東大寺司牒」と今回の問題のネタの文書は、私の目から見る限りでは同一筆者に見えます。「山口伊美吉」「佐伯」とか筆跡が激似。
と言う事は、今回の問題のネタの文書は、天平20年当時に書かれた物と考えてよいんじゃないでしょうか?
推論としては
推論<1>
・筆者Aが「造東大寺司解案」の末尾に追記+反対側に概要を“清書”、また「経琉奉請帳」「造東大寺司牒」を書く
・筆者Bが「造東大寺司解案」の概要を見て、”表”の「式部尊」の横に「大輔藤原朝臣」を追記
推論<2>
・筆者Bが「式部尊」の横に注記「大輔藤原朝臣」を書く
・それを参考にした筆者Aが、「造東大寺司解案」の末尾に追記したついでに、反対側に概要を書くときに「式部大輔藤原朝臣」と書いた。
・なお筆者Aはその後、「経琉奉請帳」「造東大寺司牒」も執筆
とも考えられるかと。
おまけに
・筆者Aだが、山口伊美吉(忌寸)沙弥麻呂の可能性は低いかも。後世書かれたサインとの筆跡が違いすぎるので…。
…最初に立てた推測が外れまくって、話しがあちこちに飛んだ今回の考察ですが、
「造東大寺司解案」に登場した謎の「式部尊藤原朝臣」ですが、現在『大日本古文書』の注記にある藤原豊成という比定は間違いで、「式部尊藤原朝臣」は藤原八束であることは確実と考えます。
となると、当時式部省の長官に知太政官事・鈴鹿王と言う人物がいたにも関わらず、「式部尊」という尊称で公式文書にも書かれた式部省次官(式部大輔)・藤原八束の権威というのは、天平後期当時なかなか絶大だったのではないかと考えられます。近年、木本好信氏らによる「華々しい内容の『続日本紀』の藤原真楯(八束)薨伝だが、これは遺族が書いた粉飾である」という説が出ていますが、あながちそうとも言えないのではないかと。
では、「式部尊」など尊称として使われた「尊」。実際この奈良時代当時はどれくらい権威があったのでしょうか。それを当時の実際の文書「正倉院文書」で検討してみようかと思います。
…なんか、些細なことからえらい大判風呂敷になってきたなあ…つづく(^^;)
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