拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
先週(先々週?)の大河ドラマ『西郷どん』では島津斉彬の子供が呪い殺される?と言うシーンが登場していました。
「毒殺とか暗殺ならともかく、わら人形(仮)で呪い殺すなんて~いくら江戸時代でも~」
…と、普通の方なら思って当たり前のこのシーン。
-が、ご存じの方も多いでしょうが、これは有名すぎる実話でした(!)。
しかも、鹿児島藩(薩摩藩)では、「有力な後継者を呪い殺すという手段は当然あってもおかしくない!」…とみんなに思わせる事件が過去に実際にあったのです…
気になる方は「続きはこちら」をクリックプリーズ
※なお、多忙につき実際の史料を掲示できないので「速報版?」という形で書いてます
後日閑になったら、実際の史料も書く予定です(←希望)
「毒殺とか暗殺ならともかく、わら人形(仮)で呪い殺すなんて~いくら江戸時代でも~」
…と、普通の方なら思って当たり前のこのシーン。
-が、ご存じの方も多いでしょうが、これは有名すぎる実話でした(!)。
しかも、鹿児島藩(薩摩藩)では、「有力な後継者を呪い殺すという手段は当然あってもおかしくない!」…とみんなに思わせる事件が過去に実際にあったのです…
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※なお、多忙につき実際の史料を掲示できないので「速報版?」という形で書いてます
後日閑になったら、実際の史料も書く予定です(←希望)
幕末から遡ること約200年前。
慶長17年(1612年)、島津家久(忠恒)に待望の男子が誕生します。母は島津亀寿…な訳は当然なくてヾ(^^;)、側室の鎌田政重の娘(この後通称「東の丸殿」と呼ばれる)女性でした。
正室・亀寿とは早くから不仲で子供がいなかった家久にとっては初めての子供でもあり、しかも跡継ぎとなれる男子だったため、大変にかわいがられたようです。
島津家の男子は通常「○○丸」(例 島津義久は「虎寿丸」、島津家久(忠恒)は「米菊丸」)と付けられることが多いのですが、この子には「兵庫頭」という官名が付けられます。実は「兵庫頭」は島津義弘の初官名でもあったのですが、何でこんなかわった命名になったのかは史料が無く謎です。
が、この長男「兵庫頭」は慶長19年(1614年)にあっけなくなくなってしまいます。わずか3歳でした。
その後も家久の寵愛深い東の丸殿は何人も子供を産みますが、なぜか女の子ばかりでした…。
次の待望の男子は2年後の元和2年(1616年)に誕生します。
この男子にもまたまた「兵庫頭」という名前が付けられます。
…が、その5ヶ月前に別の側室・島津忠清の娘が既に家久の男子を産んだところでした…。
ちなみに5ヶ月前に別の側室が産んだ男子には「虎寿丸」と名付けられます。これは島津義久と同じ幼名です。
島津家久にとっては三男に当たる2代目?「兵庫頭」は初代と違って身体は丈夫だったようで順調に成長します。
一方、家久にとっては次男に当たる別の側室が産んだ「虎寿丸」ですが、こちらも順調に成長し、元和8年(1622年)には島津義久三女・亀寿の養子となります。寛永2年(1625年)には江戸で時の将軍・徳川家光に直々に拝謁し、正式に島津家の跡継ぎとなります。
…が、恐らくこの頃に東の丸殿は最初の?「行動」を起こしたと見られます。
「虎寿丸」を呪詛する祈祷を山伏に行わせたのです!
どうして東の丸殿はこういう事件をしでかしたのでしょうか?
-賢明な読者ならお察しかと思いますが、東の丸殿には「虎寿丸」を呪い殺したいとまで思い詰める理由がいくつもありました。
(1)最初に跡継ぎを産んでいたのは自分だった
(2)次に産んだ男子が虎寿丸のわずか5ヶ月後に誕生したので跡継ぎになれなかった
…「虎寿丸」さえ死んでしまえば、今後は自分が産んだ2代目「兵庫頭」が跡継ぎになれると考えてもおかしくはありません。
この事件が発覚したことで東の丸殿は側室から追放されてもおかしくはなかったのですが、呪詛事件の首謀者は東の丸殿の両親と言うことにされ、しかもその処罰は軽い物でした。この背景には東の丸殿が家久の寵愛が最も深い側室だったことが考えられます。
その証拠に、2代目「兵庫頭」が元服して「島津忠朗」と改名すると、今度は祖父・島津義弘の遺領である加治木とその家臣まで相続して分家した上、藩政にも関わるようになります。これは家久が忠朗及び、その母である東の丸殿に怒っていたら考えられない処遇でしょう。
それどころか、家久は本心では「虎寿丸」より2代目「兵庫頭」に跡を継がせたかったようで、その噂は領民にまで広まっていたらしく、筆頭家老の伊勢貞昌が東郷重位にぼやいている手紙が残っています。
-しかし、家久は結局「虎寿丸」を廃嫡しませんでした。と言うか、島津亀寿の養子となっており、将軍の拝謁まで済んでいた「虎寿丸」を廃嫡できなかったというのが本当のところかも知れません。
寛永15年(1638年)に家久が死去。跡を「虎寿丸」こと島津光久が継ぐと、東の丸殿の境遇は一変します。
それまでは忠朗のいた加治木城で暮らしていたのですが、武村という場所に押し込め処分を受けます。一説に寄れば、古井戸に閉じ込められたとも言われます。光久としては自分を殺そうとした人物が平然と暮らしているのですから我慢できるはずが無く、このような処分になったのは当然の所でしょう。
東の丸殿実家の甥たちは全員遠島処分となりました。
こんな境遇にありながら、家久死後、東の丸殿は31年も生き、寛文9年(1669年)に亡くなっています。
島津忠朗には特に厳しい処分はありませんでしたが、その後は血統が断絶し、光久の子孫が養子相続しています。
…いかがでしたでしょうか。
自分でも改めて書いて思ったのですが、お由羅騒動と人物関係やら非常に似てますね。
父親の愛情の薄い跡継ぎの兄。
父親が溺愛している弟。
その弟の実母で寵愛を獲ている側室。
実は本命は弟である藩主。
お由羅騒動の発端となった「呪い人形事件」の真犯人は結局見つからなかったのですが、過去に似たような事件があった鹿児島藩では「側室が実子に跡を継がせたいため、兄を呪い殺す」と言う発想は自然とみんなが考えた物と思われます。
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