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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
別館で戦国時代の島津氏関係の女性についてのHPを運営しているが、島津家に限らず、日本の昔の女性というのはともかくデータが乏しく、重要な役割を果たしている人でも生没年はおろか、名乗っていた名前すら分からないことが普通である。

江戸時代になってもしばらくは状況は変わらない。
島津本家の当主ですら、初代藩主・島津家久の最初の正室(島津義久三女)…の名前はさすがに分かっているが(ちなみに「亀寿」という)、次の正室の名前は全く伝わっていない。正室の名前がはっきり島津家側の記録に残るのは四代藩主・吉貴になってから(桑名藩久松松平定重の娘で「福姫」。ちなみに吉貴の父・三代藩主・綱貴も島津家側の史料には記録がないが、相手側の史料などにより、先妻「米姫」後妻「鶴姫」という実名は判明している。)
そんな「名前のない女」の一人が、今回のネタである二代藩主・島津光久の後妻である通称「陽和院殿」こと平松時庸女(実父は時庸の実弟である交野時貞)である。

まず、彼女が光久の後妻に納まるまでの前史を語らねばならない。たぶん、それを話さないと何で京の弱小の公家の娘が70万石の大藩(見かけ倒しとはいえヾ(--;)の正室に納まったかが分からない。
光久の先妻はこれまた名前が分からない。一般的に法号をとって「曹源院殿」と言われていることが多い。陽和院殿も何で70万石の大藩の正室になれたか不思議な家柄だが、曹源院殿はもっと不思議である。なんと曹源院殿の祖父は薩摩藩の筆頭家老・伊勢貞昌。江戸時代になってからは次期藩主たる世子の正室が家中、それも家臣の一人である家老一族から迎えられるなんて常識外れもいい「事件」だったらしい(普通なら大名の娘か公家の娘)。この話を聞いた細川忠興が息子・忠利に「珍しいところから嫁を迎えるなあ」といった内容の書状を送っている(この書状についてはで紹介されている)。これについては、私的には理由の目処は付いているのだが、別館のネタにしようと思っているので省略ヾ(--;)。ここで言えるのは、当の光久は当然ながらこの結婚に不満があったようで、この結婚を取り決めた父・家久が死ぬと公然とこの妻を無視し始めたことである。
まず、父・家久が亡くなった翌年の寛永16年(1639年)には側室との間に娘を儲けている。そして、曹源院殿はまだ若かったと思われる(実は生年未詳なのだが曹源院殿実父・伊勢貞豊が寛永元年1623年)31歳で亡くなったこと、寛永9年(1632年)に光久との間に第一子の島津綱久を生んだことから推測して、元和年間の生まれで光久と余り年は変わらないのではと推測できる)※曹源院殿の年齢を確認できる資料を後日発掘したので訂正(2008/10/30)、以後、光久との間に子供を産むことはなかった(ちなみに寛永16年の時点で曹源院殿は25歳である。)。一方で、夫・光久は側室や不特定多数の女中(名前不詳の「家女房」)達との間に次々と子供を儲けている。その間の曹源院殿の動静は不詳である。
次に彼女の動静がはっきりするのが万治元年(1658年)、曹源院殿は病気のため早世するのである。享年44歳(参考「御祭祀提要」(『尚古集成館紀要』5))。この死に様も、管見で見た史料(「薩藩旧記雑録」追録)を見る限りでは寂しい物だったことが推測できる。実は曹源院殿が死病にとりつかれたころ、息子・綱久の嫁である伊予松山藩主・松平定頼の娘(この人も実名不明)も重い病気にとりつかれていたのだが、家臣の心配はもっぱらこの松平定頼女一身に集まっており、定頼女の回復を祈願する祈祷や読経が熱心に行われた一方、曹源院殿は放置同然の状態だったようで、息子・綱久が地元・鹿児島の寺に母の健康回復を祈願するよう命じた書状が1通残るのみなのである。
…そして曹源院殿の1周忌がすむやいなや、光久は今回のネタヒロイン陽和院殿とさっさと再婚してしまうのである。

陽和院殿は確かに「名家」という公家では下のクラス、しかも養女に行った伯父・平松家は200石取り、これでも少ないと思うなかれ。実家の交野家は御蔵米30石という、薩摩藩の貧乏郷士もびっくりという貧乏公家だったのである。しかし、彼女には「薩摩藩の家老の孫娘」という大大名の正室としては弱い弱い立場の曹源院殿とは違って2つの強力な「武器」があった。
まず1つ。平松家は「桓武平氏流・西洞院家の分家」…というのが表向きの家柄であるが、この平松家は島津家の名目上の主筋に当たる摂関家・近衛家の門閥なのである(参考文献)。光久のホンネではこの近衛家の姫辺りを後妻に迎えたかったに違いない、が、島津家は名目上はあくまで近衛家の”家臣”筋、さすがにプライドの高い近衛家の機嫌を損ねかねない。そこで、同じ近衛家の”家臣”筋である平松家の姫(実は交野家だけど)を後妻に迎えたのではなかろうか。光久の後妻に陽和院殿を紹介したのも案外と近衛家だったりして。
もう一つの武器は、彼女の「前歴」である。彼女の妹が「山の井」という源氏名で後水尾天皇の女房として仕えていたのは、以前「島津家文書」の目録を調べたときに偶然知ったのだが、先日、別件で検索していたときに、この陽和院殿も天皇に仕えた前歴があったことが分かったのである。陽和院殿は独身時代は「弁内侍」と名乗り、後水尾天皇の息子である後光明天皇の掌侍を務めていた。つまり、れっきとした女官で今風に言えば公務員だったと言えば分かってもらえるだろうか(ちなみに紫式部や、陽和院殿の妹の山の井が務めていた「女房」はあくまで臨時雇用の立場。)。参考こちら
つまり、陽和院殿は摂関家筆頭・近衛家との関係があり、そしてそれ以上に皇室との関係が深い女性だったのである。

ところで、島津光久は先妻・曹源院に不満があったにせよ、どうして急いで陽和院殿を後妻にしようとしたのだろうか。(ちなみに光久は先妻曹源院との間に2人、他に不特定多数の側室や女中との間に大勢子供がおり、跡継ぎには困っていない状態である)
私は、光久が高い官位を狙っていたからではないかと考えている。島津光久が理由不明ながら、父・家久より低い官位(家久の最高位は従三位、光久は従四位下)に留まっていた事を不満に感じて、熱心に猟官運動をしていたという指摘があるのである(参考)。江戸時代の武家の官位は徳川幕府の専権事項になっており(参考)、光久の努力だけではいかんともしがたいガチガチの制度に固まりつつあったが、そこを、光久は官位発給の大元である朝廷を動かすことで何とかしようとしたのではなかろうか。


延宝元年(1673年)、光久は従四位上左近衛中将に昇格する。…しかしこれが最初で、そして最後の昇格であった。貞享四年(1687年)、光久は隠居し後を孫の綱貴に譲った(先述の長男・綱久は寛文13年(1673年)に早世している)。その後光久は故郷の鹿児島に移ったが、陽和院殿は同行しなかった。光久と陽和院殿の間に子供は産まれなかった。その8年後の元禄7年(1695年)11月29日、光久は79歳という長寿を全うし生涯を終えた。陽和院殿は当然ながら臨終には立ち会えなかった。その翌年、陽和院殿は落飾(実はこの時から「陽和院」を名乗るようになる)。その後は光久の菩提を弔いつつ、先妻の曹源院殿のように家臣からガン無視されるという目に遭うこともなく、先代藩主の妻として大事に扱ってもらったようである。光久に遅れること16年後の正徳元年に死去。彼女の遺品の中からは光久の自筆の漢詩などが出てきたという(『薩藩旧記雑録』追録)。

島津光久と陽和院殿の結婚は完全に政略を狙った結婚だったが、当初の目的だった「光久の官位昇進」ではうまく機能しなかったようである。既に時代は1元女官の嘆願より、幕府の方針の方が重視される時代になっていたのである。しかし、後光明天皇の元掌侍、そして和歌が堪能だったという彼女の教養の深さは、曹源院で不満を感じていた光久を十分に満足させる物だったのではなかろうか。
陽和院も、夫婦としての幸せはこの結婚で得ることは出来なかったと思われるが、仕えていた後光明天皇が承応3年(1654年)に亡くなり、宮中での居場所も怪しくなっていたときに、この結婚話は格好の寿退職の「渡りに舟」ではなかったではないだろうか。

おまけ
陽和院殿直筆の歌集 こちら(京都大学データベース)

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拙ブログ関連ネタ こちら

島津義弘はゲームヲタなら当然ヾ(^^;)、大河ドラマでも関ヶ原の合戦がらみで出てくることが多い武将なので、戦国大名・島津家を良く知らない人でも名前を知っている人は多いと思われる。

しかし、この人が「義弘」に改名した経緯を研究した論文などはおそらく皆無なのではないであろうか。

まず、天正14年にあの足利義昭から上一文字を偏諱にもらい「義」と改名する。ちなみに「義珍」で「よしまさ」というらしい(「町田氏正統系譜」『鹿児島県史料』所収)。…一発で読めない…。
ところが翌年、早々と有名な「義」に改名してしまう。前掲「町田氏正統系譜」によると天正15年8月のことらしい。この改名には同年の豊臣秀吉の「九州御動座」により、島津家は豊臣秀吉軍の前に完敗、ほぼ九州一円を支配下に納めていたのもつかの間、一気に薩摩・大隅・日向の一部と領地を大幅縮小させられる。これが改名のきっかけになったのは間違いないだろう。

しかし、更に疑問がある。「珍」にしても「弘」にしても、以前には島津氏がこれらの字を名前で使っていた例がどうも管見では見あたらないのである。
…今回は見たまま珍字の「珍」はおいといてヾ(^^;)、「弘」を検討してみたい。



「○弘」「弘○」という名前の武将は義弘以前のご先祖様の中にはいないようだが、ズバリ「義弘」という名で有名な武将が過去には存在した。
 大内義弘
現在の山口県を中心として勢力をふるった守護大名・大内家の室町初期の当主である。南北朝末期の混乱期の室町幕府を支え、最盛期には周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の計6カ国の守護となった。が、その権勢を脅威に感じた足利義満によって攻め滅ぼされたという、激烈な生涯を送った人物である。

実は、島津義弘とこの大内義弘が間接的に関係があったという説を、wikipediaでみてビックリした。
妙円寺 (日置市)
問題箇所についての質疑応答
興味深く読みつつも、何しろ誰でも何でも書き込めてしまう(よって、ガセネタも多い)wikipediaだけに話半分に聞いていたのだ
が、
なんと、本当の話だったらしい(○。○)

後日、別件で検索しているときに問題の日置市の妙円寺が公式HPを作っていたことが分かり、その沿革を見ると
(当寺は)今より約600年程前の、室町時代の高僧、石屋眞梁禅師により、時の長州太守大内義弘の息女の供養のために建立されました。

後に、島津家十七代当主、島津義弘公が石屋禅師の教えにいたく感銘し、自らの菩提寺と定めて更に栄え、その規模は380石を誇りました。島津義弘公の曹洞宗への信仰は並々ならぬもので、明治二年迄は義弘公の仏像が置かれていました。(以下略)
http://myoenji.jp/goaisathu.html

とある。
もっとも、江戸時代後期に書かれた『三国名勝図絵』等に掲載された沿革とは異なるうえ、上記公式HP沿革の続きにもあるように、妙円寺は廃仏毀釈で寺伝の多くを失ったため、どこまで本当かという問題点はある。
しかし、妙円寺の主張が事実とすれば、島津義弘は大内義弘にあやかって改名したという考えも成り立つのではないだろうか。

だが、疑問は残る。先述したように、大内義弘は
時の中央政権に逆らい滅亡に追い込まれた
人物である。どうして島津義弘はそのような不吉な人物の名前にあやかろうとしたのであろうか。

…この話題、また思いついたら続く?ヾ(--;)

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「おまえそれで今まで良く会社勤めしてきたな」
「おまえごときにこの会社継ぐ資格なんか無いわ」
…上司が部下を人格攻撃するいわゆる「パワーハラスメント」の典型的な言葉ですが、
これらは上司が私の夫に言った事実の発言でもあります。
問題はこの上司=夫の父(つまり今の言葉で言うところの「毒親」)であることで、問題がややこしく複雑になっている原因なのですが…

※「毒親」についてはこちら
「パワーハラスメント」「パワハラ」についてはこちら



これは実は今回の前置き_(。_゜)/で
こういうひどい目にあって、初めて理解できたことがあります。

幕末の日本をお騒がせした大事件に「お由羅騒動」(別名「高崎崩れ」)といわれる事件があります。
一般的には
父(薩摩藩主):島津斉興 vs 子(薩摩藩世子):島津斉彬
の親子対立に藩内の対立が絡まって、このような大事件になったものと理解されているかと思います。
この親子対立については藩主の権力に固執する斉興に対し、人並み以上に聡明且つやる気満々の斉彬に対して、いつまで経っても他藩なみに跡目を継がせないため、結果、巨大な親子喧嘩となったとして知られがちです。
しかし、この対立のものすごさは単に親子喧嘩と片づけていいのか理解に苦しむ部分がありました。どれくらいひどい対立状況だったかはこちらのブログでその一端が伺えるかと思います。

しかし、今回先述のようなパワハラを目の当たりにしたことで、この対立の根底にある物が少し理解できたように思います。
おそらく島津斉興は典型的な「毒親」だったのでしょう。
勿論斉興が斉彬に対して「おまえは駄目人間だ」「おまえなんかに鹿児島藩渡してなるものか」…と明言したという史料は当然残ってませんが(実際言っていたとしても恥ずかしくて残せる物ではないだろう事は容易に推測できる)、斉興と側室・お由羅の方の間に生まれた忠教(後の島津久光)の種子島氏養子縁組を一方的に破棄し、島津家に戻した文政8年(1825年)3月時点で、斉興の心の中は「島津家の跡取りは忠教一本」に固まったと考えられ、その中で、徳川幕府にも認められた世子・斉彬をいかに排斥するかと言うことに斉興の頭は一色になったと思われます。

但し、江戸時代も後期も大詰めで海外からごちゃごちゃいろいろお越しに為られてはいますがヾ(^^;)基本的には平和そのもののこの時期ですから
(1)斉彬を暗殺!
(2)斉彬を陰謀にはめて排斥!
…というのはかなり難しい。特に、正室(鳥取藩池田氏出身)出生で江戸生まれ江戸育ち、一橋家出身の正室を迎えて徳川家は勿論幕閣にも覚えのめでたい斉彬を廃嫡するのはそう簡単ではなかったと思われます。
そこで斉興がやらかした手段というのが、親子関係を楯に取ったパワハラではなかったか。
儒教全盛のこの時代、親に逆らうのは今以上に難しい物だったことは容易に想像できます。
戦後の学会では原口虎雄氏の『幕末の薩摩』(中公新書)のように「斉興:善 斉彬:悪」という考えのほうが主流のようですが(大河『篤姫』の原作・宮尾登美子氏の小説『天璋院篤姫』もそれに近い)、実際パワハラにあっている者にすれば、誰に言っても解決できないそのフラストレーションたるや相当なものがあったはずです。鹿児島藩崩壊すれすれの密貿易の密告をして、フラストレーションの親玉たる父・斉興を追い出そうとする気持ちは非常に分かります。だって私も舅をこの世のどこかにいるという「仕事人」という方に(以下自粛)

さて
「パワハラ上司」「毒親」に為られるこの世のゴミのような皆様にはある共通点があるのだそうです。
それは、「自己愛・自己中心主義」「毒親の親もまた毒親」ということ。
島津斉興にも…いました。自己中が激しい「毒親」が。
それは実の両親ではありません。なぜなら、実父・島津斉宣は文化8年の「近思録崩れ」で強制隠居・実権を失い、以後は江戸の芝の鹿児島藩下屋敷で世捨て人のような隠居生活を送らされる羽目になります。実母・鈴木氏は藩主の生母として鹿児島城に下り「御国御前」と言われてはいたものの実態は「敬して遠ざける」そのものだったようで、島津家の家族として認められ「御内証様」の称号をもらうのは何と60歳になってからでした。そしてこの両親は当然斉興とは早くに別れて暮らしています。実際に斉興の養育に幼いときから関わったのは祖父の島津重豪だったかと推測されます。斉興は世子として江戸在住ですし、重豪も隠居として江戸在住だったからです。この重豪は「蘭癖大名」として知られ、国元の財政状況を無視して浪費をし、娘・寧姫(広大院)が前代未聞の「外様大名出身の御台所」となった権威を笠に着て「高輪下馬将軍」と言われて様々な大名から賄賂を取っていたという伝説もある曰く付きの殿様です。その逸話はさておき、「薩藩旧記雑録」などに残る史料からも、その傲慢自己中ぶりは手に取るように伺えます。

さて、この重豪が曾孫の斉彬をかわいがっていたというのはシーボルトの日記などからも判明するのですが、重豪と斉興の間がどういうものだったかは伺える史料を寡聞にして見かけません。しかし、重豪と斉興の父・斉宣との中は「近思録崩れ」で分かるように険悪な物でしたから、斉宣実子である斉興に対しても重豪の風当たりは冷たい物だったのは容易に推測できるのではないでしょうか。もしかしたら、始終斉興実父・斉宣の悪口を重豪は斉興に吹きかけ、斉興を精神的虐待していたかもしれません。斉興にとって重豪はまさしく「煙たい毒親」そのものであったに違いありません。
そして、皮肉なことにその重豪が溺愛したのが斉興の長男・斉彬だったわけです。重豪が亡くなったあと、その恨みが斉彬に移っていったのもまた自然な経緯であったでしょう。

ところで。
大河『篤姫』関連で幕末研究家としてあちこちで名前が出てくるようになった芳則正さん、『島津重豪』(吉川弘文館人物叢書)という、島津重豪に関する研究書を出してられるのですが、そこでページ数は失念しましたが重豪のことを「名君」と書いてらっしゃるんですよね。でも、重豪こそ島津家に禍根を残した問題のバカ殿のような気がしてならないんですが…。まあ、そのバカ殿がいなかったら、幕末の四賢候のひとり・斉彬の誕生もなかったわけですけど…。
にしても毒親の存在が幕末の日本を生んだというのは余りいい気分ではありません。

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タイトルの件はちょっとした謎の一つである、らしい。

南部信順は島津重豪の13男(10男とする史料もあり)、重豪69歳(○。○)のときの子供である。その後、男子を全員亡くし嗣子不在となっていた八戸南部藩の婿養子となる。
ところが、
南部家と島津家の間にはそれまで全く縁戚関係がなかった上
八戸南部藩は2万石程度、しかも盛岡藩の支藩的存在(※支藩ではない、佐土原藩と鹿児島藩の関係といっしょ。)であまりにも格がつりあわない。
しかも島津家側にも南部家側にもこの養子縁組に関する史料が残されてないため、この経緯は「謎」とされていたのである。
例えば
そんな中で、島津信順が、八戸藩八代藩主南部信真(のぶまさ)の娘、鶴姫の婿養子になったのは天保九年(1838)、二十五歳の時だった。四年後の天保 十三年、信真が隠居し、信順が八戸藩主となったのだが、島津重豪と南部信真の間にどんな交際があったのか、なぜ養子縁組をしたのか、全く記録がない。
http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/06/bakumatu01.html

と書かれているとおりである。
『八戸市史』通史編では
(蘭癖大名の代表格である)重豪が、ロシアをにらむ八戸藩の地理に目を付けて養子を送り込んだのではないか
としている。

ところが、検索していて、偶然に興味深い話を見つけた。
  ■ 外様大名との縁組
(中略)
利雄の世子で廃嫡となった嵩信(利謹の初名)室麻姫は筑前福岡五十二万石・黒田継高の娘。利謹は三十八代利済の生父である。黒田家との通路は古く、行信の娘津屋姫が黒田宣政の室となり、麻姫は宣政の養嗣子(実は従弟)継高の娘。継高にも嗣子がなく、薩摩鹿児島藩主島津重豪の子長溥(のち治之)を養嗣子としたが、八戸藩九代を相続した信順は長溥の実弟である。
http://www.morioka-times.com/news/2006/0607/14/06071404.htm
※太字は当方補足強調 ちなみに黒田長溥黒田治之は年代も違う別人であり、この記事は事実誤認している。

島津家と南部家の間に直接縁はなかったのだが、福岡藩黒田家を通した縁で養子に送り込まれたとは考えられないだろうか。
当初南部家は縁戚の中から適当な男子を捜したが黒田家も自家の跡継ぎに恵まれない状態で、適当な人材がいなかった。そこでその黒田家の親戚である島津家から…と信順を奨められた可能性は考えられよう。

ちなみに島津家と黒田家の間は継高の嫡子・重政に島津継豊と後室・竹姫の間に生まれた菊姫が嫁いだことから初めて縁が出来、その縁が一つのきっかけとなって重豪の9男・長溥が福岡藩の養子となったのである。

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先日、ひこにゃんフィーバー築城400年祭りに沸く彦根に行って参りました(・∀・)
実は○○年ぶりだったんですが(^^;)余り変わってない?ヾ(--;)
町の雰囲気はなだらかーな寂れ加減も含め松阪市と似ています。城下町で、牛肉の名産地というところも似てますね。唯一違うのは、彦根は立派な城の建物が残っていると言うことだが。

彦根城は国宝・重文の建物も勿論すばらしいが、城郭の復元にも比較的熱心。
その中の一つ

hikonejo-muzeum1.JPG彦根城博物館。
彦根城の政庁であった表御殿をそっくりそのまま復元した物で、コンクリ部分と宮大工による完全木造部分があります。木造部分は江戸時代の図面や解体直前の写真から復元した正確無比の物で必見。




一応彦根市立の歴史博物館と言うことになっているのですが、場所柄「井伊家専用博物館」の雰囲気があります。私が行ったときには、井伊直政と直孝の展示が中心だったのだが…直政と直孝をヨイショする内容だったのはまあともかくとして(^^;)
興味深かったのは「幻の2代藩主」とされた井伊直勝(直継)の展示。…彦根市(というか井伊氏)的には、直勝(直継)はなかったことになってるんですね…一応10年近く当主だったのですが。

直勝(直継)についてはwikipediaの当該項目がまとまっていると思う。正室出生の嫡子だったのに「病弱」と言うことで徳川家康の命で井伊家の当主から排除させられたと言っても過言ではない人物である。

ところが、今回の展示では別の説が紹介されていて興味深かった。直政の死後、井伊家の家中でお家騒動が勃発しかかっていたという物である。
井伊直政というのは、滅亡寸前の井伊家を一代で再興したと言っても過言ではない人物で、武功ばかりでなく交渉でも能力を発揮し、豊臣秀吉からも独立大名同様の扱いを受け(島津家の伊集院忠棟と似た扱いなのかな)、徳川家中では別格の存在だったらしい。最もそのためか、自分にも厳しく、他人にも厳しく(同僚の本多忠勝とはよく言い争いをしていたらしい)、特に家臣には超厳しかった人物のようだ。近藤秀用は、直政の性格に愛想が尽きて、家康の元に脱走したくらいである。
…そんな鬱憤が家中にたまっていたのも原因したのか、直政の死後に家中のごたごたが爆発した物と推測される。
が、展示では、家中の対立は
  • 遠江時代からの井伊家代々の家臣
  • 徳川家康が直政を取り立てるときに新たにつけた家臣
の間で酷い物だったと説明されていた。
そして、当時の書状
  • 慶長19年(1614年)頃、直勝(直継)は徳川家康の命で留め置かれ、安中(現群馬県安中市)に幽閉状態に置かれていたこと(大阪市天守閣所蔵「日下部家次書状 木俣守安宛」)
  • 慶長20年(1615年)、徳川家康により大坂の陣へは直勝(直継)ではなく弟・直孝が井伊家軍を率いて出陣するように命じられ、直勝(直継)は安中に別に所領を与え、鈴木氏など井伊家に古くから使えていた家臣は家康の指示により直勝(直継)の家老とすること(井伊達夫氏所蔵「井伊直孝書状 木俣守安宛)
※ちなみに両方の手紙に出てくる木俣守安とは井伊氏の筆頭家老。木俣家はその後も彦根藩の家老を務め、屋敷跡として塀と門のみが佐和山口多聞櫓の袂に残っている。
により、徳川家康の命によって井伊直勝(直継)は強制的に当主の座から追われて別家を建てさせられたとする。博物館の説明では
「京に近い交通の要所を守る譜代大名・井伊氏には当主も統率力のある人物が期待されたのです」
とあった。確かにそれはその通りだと同意するが、上記の処分は徳川家康の命による強制隠居も同然の物であり、しかも対立していた家臣団の内、古くから井伊氏に仕えていた有力者が直勝(直継)と共に実質的に追われるような形になったのは興味深い。

直勝(直継)に代わって井伊家当主となった井伊直孝は謎の多い人物でもある。生母・伊具(印具)氏は直政正室・奥山氏(但しこれも諸説があって、松平康親の娘とか鳥居元忠の娘とかの異説多数、どうなってるの?)の侍女だったと言われる(博物館でもこの説明で、これが公式見解のようだ)が、遠江の農民の娘だったとも言われる。どっちにしろ、直孝は長くに渡って井伊家中から離れた別の場所で成長したようで、父・直政に対面したのはその死の前年の慶長6年(1601年)だったという。井伊家の史料では「病弱な兄・直勝(直継)に代わって早くから家中を切り盛りしていた」とも言われるが、実は直政が死んだ時点では直孝はまだ数え13歳に過ぎない。いくら昔の人物が揉まれてしっかりしていたとはいえ、子供であることには変わりないのである。

上記の史料でわかるように
  • 井伊家の相続問題は徳川家康の直接の差配で決着したこと
  • その問題に乗じて古くからの井伊家家臣が「追い出し」を食らって、その後の井伊氏の重臣は家康が直政につけた元徳川家臣で占められたこと
から見ると、実質的にはこの直勝(直継)→直孝の流れは「直勝の病弱による家督委譲」と言うよりは「家康の口出しによる井伊家乗っ取り」という物だったように思われてならない。この井伊家騒動が大坂の陣直前に家康の口出しで決着したことも、非常事態を口実として、旧来の井伊家家臣を押さえ込む家康の作戦のように思われるのである。
そういえば、井伊直孝には土井正勝などと同様、早くから「家康ご落胤説」が流れていたようだが、上記の流れを見るとこういう噂が流れても最、と思われるし、いや実は…とも考えさせられてしまうのである。

なお、興味深いことに、安中藩に「隠居」させられてから直は「直勝」と改名したのだが、これは実質的”隠居”により井伊家の宗家を継いだという意味が強調される「継」という字を幕命で取り除かれた物であろう。
更に、その後の安中藩(後転封を重ね最終的に越後与板藩)主は代々幼名「万千代」を名乗っているが、この「万千代」、井伊直政が徳川家康から直々にもらった由緒ある幼名なのである。
これには直勝(直継)系の
「こっちこそが本当の井伊の正統なるぞ!」
…という自己主張がかいま見えるような気がする。
ただ、残念なことに直勝(直継)系の血統は直勝から5代後に断絶し、その後は彦根の本家からの養子でつないでいる(ちなみに次期与板井伊家御当主は井伊家との血縁関係すらない(苦笑))


おまけ
井伊直政木像(井伊美術館蔵) 井伊直孝木像
…確かに親子にしては似ていない?
最も井伊直政についてはこんなの(井伊家菩提寺龍潭寺所蔵)とかこんなの(彦根城博物館蔵)とか三物三様でバラバラですが…(^^;) ちなみに井伊直孝はいろいろ肖像画が残っているがみんな同じような鬼顔のおっさんでした_(。_゜)/

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