拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
タイトルの元ネタになった『葵・徳川三代』(NHK大河ドラマ)は関ヶ原合戦前夜から日光東照宮建立に至るまでの徳川家康→秀忠→家光の徳川幕府草創期の将軍3代のお話でした。最初の関ヶ原の合戦にお金をかけすぎたためか?後半(特に大坂の陣)が終わってからのテンポの悪さが難でしたが、これで今まで「真面目で地味な2代目」というイメージしか持たれていなかった徳川秀忠(演じたのは西田敏行)に注目が集まった点で、評価すべきドラマだったと思います。
さて、そのころ拙HPのネタの宝庫ヾ(--;)島津家は…
徳川家康が将軍になろうとする頃、島津家は歴史学者からは「二殿体制」とか「三殿体制」とか言われる3人の殿様がいる状態になっていました。
一人は先代の殿様で現行の殿様の伯父で義父・島津義久。
もう一人が現行の殿様の父で豊臣政権から当主と見なされていた島津義弘。
そして現行の殿様・そしてネット界では「ああ”あの”家久」「悪恒」として名高いヾ(--;)島津忠恒(家久)
しかし、現行の殿様・忠恒の権力基盤はかなり弱いものだったと推測されています。
まず、本来は忠恒の兄・久保が義久の三女の亀寿と結婚して後を嗣ぐ予定になっていたのですが、その久保が朝鮮出兵で若くして急死。その後豊臣政権が忠恒を大坂に呼びだし、上方で人質になっていた亀寿と結婚させ(この時、島津家の意向は聞かれなかった)、忠恒を勝手に跡継ぎに据えてしまったのです。こんな背景がありますから、忠恒・亀寿夫妻の仲が良かろう訳がなく、まず、この点で義父(で伯父)・義久の不興を買っていたと思われます。
また、忠恒自身の性格にも問題がありました。庄内の乱の頃、徳川家康が派遣した山口直友への対応がまずいことに義久が苦言を呈している書状が残っていますし、門外不出の家宝の刀を勝手に京に持ち出して父・義弘に怒られるなど、「若いから」では済まされないような軽率な行動が多い人物だったのは事実のようです。
そんな忠恒(家久)が外の二殿より突出した才能を持っていた分野がありました。…それは「暗殺」(○。○)
まず慶長4年3月に筆頭家老だった伊集院忠棟を茶会に呼び出し自ら(!)殺しています。
次に慶長7年に上洛する際、その伊集院忠棟の長男・忠真を、鷹狩りの鉄砲の誤射と見せかけて殺しています。
その次は飛んで慶長15年、島津義久・亀寿に近かった家老といわれている平田増宗を、家臣に命じてやはり射殺させています。
慶長16年、「三殿」の一人・島津義久が亡くなると、目の上のたんこぶが無くなったとばかりに忠恒(家久)は、不仲だった正室の亀寿を本城である鹿児島城から追い出して国分城に別居させ実質的に離婚、次々と側室を抱え、その後寛永14年に63歳で死ぬまで33人も子供を作ります。「三殿」のもう一人・島津義弘はまだ生きていましたが、何しろ実父ですから、義久ほどの不仲ではなかったと思われますので…まあ義久を扱うよりは楽ちんだったでしょう、忠恒(家久)にとっては。
義久の死後、義久直属の家臣(その中にはあの東郷重位も含まれる)の多くは、鹿児島城下にうつされてしまいます。残ったわずかの家臣が国分城にうつされた亀寿に使え続けますが、寛永7年に亀寿が死ぬとその家臣の多くも鹿児島城下に引き抜かれ、残ったわずかの直臣は国分の郷士として身分を落としてしまったようです…。一方の義弘直属家臣の多くは義弘の死後もそのまま存続され、その後忠恒(家久)の三男が分家するとそのまま「加治木島津家」という分家の家臣団として存続します。ここにも忠恒(家久)の義久に対する気持ちと義弘に対する気持ちの違いが大きく現れているように思います。
では、忠恒(家久)は義久の存在を克服できたかというと、どうもそれがそうではなさそうなのです。
慶長16年、義久が死ぬとその分骨が高野山に治められますが、その時に忠恒(家久)は義久の姿を映した木像を塔頭の蓮金院(現在廃絶)に治めたといいます(「島津世家」)。
慶長18年、忠恒(家久)は東福寺の塔頭・即宗院を再建しますが、実はこの即宗院の再建は生前の義久の遺言による物でした(『東福寺誌』)。
その後、年度は不明ながら、義久の菩提寺として建てられた金剛寺(鹿児島県霧島市、現在廃絶、義久の墓がある)の寺領・100石の内70石を藩の財政不足という理由で勘落しますが、その補填として亀寿が10石を寄付したことを知るや、忠恒(家久)も10石を返還しています(「国分諸古記」)。
義久に関する寺社仏閣に対し、腫れ物にさわるようなこの忠恒(家久)の行動は、おそらくあの忠恒(家久)ですら義久に対する後ろめたい物を払拭できず、義久の祟りを恐れた物ではないかと思います。
また、忠恒(家久)はたびたび連歌会を催しています。戦国時代には大名の教養として尊ばれ大流行していた連歌ですが、江戸時代に入ってからはその流行も下火になっていました。そんな時代遅れの遊びに何故忠恒(家久)が熱心だったかを考えると、義久が和歌が趣味で、たびたび連歌会を催していたことに思い当たらざるを得ないのです。忠恒(家久)は、義久の趣味を真似ることで自分の家督継承の正当性を家臣団に訴えようとしていたのではないでしょうか。
ちなみに、義久・義弘死後の忠恒(家久)の政治ですが、「旧記雑録後編」をさらっと見た感じですが、自ら先頭に立って改革を行ったという印象が薄いです。どちらかというと家老、特に筆頭家老であった伊勢貞昌に丸投げした印象が否めません。忠恒(家久)は権力の奪取には興味はあったようですが、その権力をどうやって生かして藩を盛り上げていくかと言うことには興味が湧かなかったと見えます。
こんな忠恒(家久)の後始末二代目として登場したのがその忠恒(家久)の息子の光久なのですが…彼もまた父親以上のコンプレックスに悩まされることになったのではと思われるのです。
…ちょい長くなったので続く_(。_゜)/
さて、そのころ拙HPのネタの宝庫ヾ(--;)島津家は…
徳川家康が将軍になろうとする頃、島津家は歴史学者からは「二殿体制」とか「三殿体制」とか言われる3人の殿様がいる状態になっていました。
一人は先代の殿様で現行の殿様の伯父で義父・島津義久。
もう一人が現行の殿様の父で豊臣政権から当主と見なされていた島津義弘。
そして現行の殿様・そしてネット界では「ああ”あの”家久」「悪恒」として名高いヾ(--;)島津忠恒(家久)
しかし、現行の殿様・忠恒の権力基盤はかなり弱いものだったと推測されています。
まず、本来は忠恒の兄・久保が義久の三女の亀寿と結婚して後を嗣ぐ予定になっていたのですが、その久保が朝鮮出兵で若くして急死。その後豊臣政権が忠恒を大坂に呼びだし、上方で人質になっていた亀寿と結婚させ(この時、島津家の意向は聞かれなかった)、忠恒を勝手に跡継ぎに据えてしまったのです。こんな背景がありますから、忠恒・亀寿夫妻の仲が良かろう訳がなく、まず、この点で義父(で伯父)・義久の不興を買っていたと思われます。
また、忠恒自身の性格にも問題がありました。庄内の乱の頃、徳川家康が派遣した山口直友への対応がまずいことに義久が苦言を呈している書状が残っていますし、門外不出の家宝の刀を勝手に京に持ち出して父・義弘に怒られるなど、「若いから」では済まされないような軽率な行動が多い人物だったのは事実のようです。
そんな忠恒(家久)が外の二殿より突出した才能を持っていた分野がありました。…それは「暗殺」(○。○)
まず慶長4年3月に筆頭家老だった伊集院忠棟を茶会に呼び出し自ら(!)殺しています。
次に慶長7年に上洛する際、その伊集院忠棟の長男・忠真を、鷹狩りの鉄砲の誤射と見せかけて殺しています。
その次は飛んで慶長15年、島津義久・亀寿に近かった家老といわれている平田増宗を、家臣に命じてやはり射殺させています。
慶長16年、「三殿」の一人・島津義久が亡くなると、目の上のたんこぶが無くなったとばかりに忠恒(家久)は、不仲だった正室の亀寿を本城である鹿児島城から追い出して国分城に別居させ実質的に離婚、次々と側室を抱え、その後寛永14年に63歳で死ぬまで33人も子供を作ります。「三殿」のもう一人・島津義弘はまだ生きていましたが、何しろ実父ですから、義久ほどの不仲ではなかったと思われますので…まあ義久を扱うよりは楽ちんだったでしょう、忠恒(家久)にとっては。
義久の死後、義久直属の家臣(その中にはあの東郷重位も含まれる)の多くは、鹿児島城下にうつされてしまいます。残ったわずかの家臣が国分城にうつされた亀寿に使え続けますが、寛永7年に亀寿が死ぬとその家臣の多くも鹿児島城下に引き抜かれ、残ったわずかの直臣は国分の郷士として身分を落としてしまったようです…。一方の義弘直属家臣の多くは義弘の死後もそのまま存続され、その後忠恒(家久)の三男が分家するとそのまま「加治木島津家」という分家の家臣団として存続します。ここにも忠恒(家久)の義久に対する気持ちと義弘に対する気持ちの違いが大きく現れているように思います。
では、忠恒(家久)は義久の存在を克服できたかというと、どうもそれがそうではなさそうなのです。
慶長16年、義久が死ぬとその分骨が高野山に治められますが、その時に忠恒(家久)は義久の姿を映した木像を塔頭の蓮金院(現在廃絶)に治めたといいます(「島津世家」)。
慶長18年、忠恒(家久)は東福寺の塔頭・即宗院を再建しますが、実はこの即宗院の再建は生前の義久の遺言による物でした(『東福寺誌』)。
その後、年度は不明ながら、義久の菩提寺として建てられた金剛寺(鹿児島県霧島市、現在廃絶、義久の墓がある)の寺領・100石の内70石を藩の財政不足という理由で勘落しますが、その補填として亀寿が10石を寄付したことを知るや、忠恒(家久)も10石を返還しています(「国分諸古記」)。
義久に関する寺社仏閣に対し、腫れ物にさわるようなこの忠恒(家久)の行動は、おそらくあの忠恒(家久)ですら義久に対する後ろめたい物を払拭できず、義久の祟りを恐れた物ではないかと思います。
また、忠恒(家久)はたびたび連歌会を催しています。戦国時代には大名の教養として尊ばれ大流行していた連歌ですが、江戸時代に入ってからはその流行も下火になっていました。そんな時代遅れの遊びに何故忠恒(家久)が熱心だったかを考えると、義久が和歌が趣味で、たびたび連歌会を催していたことに思い当たらざるを得ないのです。忠恒(家久)は、義久の趣味を真似ることで自分の家督継承の正当性を家臣団に訴えようとしていたのではないでしょうか。
ちなみに、義久・義弘死後の忠恒(家久)の政治ですが、「旧記雑録後編」をさらっと見た感じですが、自ら先頭に立って改革を行ったという印象が薄いです。どちらかというと家老、特に筆頭家老であった伊勢貞昌に丸投げした印象が否めません。忠恒(家久)は権力の奪取には興味はあったようですが、その権力をどうやって生かして藩を盛り上げていくかと言うことには興味が湧かなかったと見えます。
こんな忠恒(家久)の
…ちょい長くなったので続く_(。_゜)/
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実は以前から気になっていたのですが、偶然こちらのブログのこの記事を読んで、ちょっとまとめてみようかという気になりました。
管見で見た限りじゃ、論究した人も今までいないようだし。早物勝ち(ヲイ)
島津義弘には何種類かの肖像が伝わっています。管見で知っているのはこの3つ。
(1)尚古集成館蔵のこれ。たぶん一番有名な義弘像。
(2)確か尚古集成館か鹿児島県立歴史史料センター黎明館かが所蔵している僧体の像。
新納忠元の肖像画などとセットになっている。
※(2009/5/1追記)ネットで検索中に偶然見つけましたので、リンクしておきます。所蔵は鹿児島県立図書館みたいです。ちがってたーごめんなさい 肖像画はこちら
(3)現在、日置市の徳重神社蔵になっているやはり僧体の木像。
旧所有者の妙円寺と所蔵を巡って因縁の争いをした(今もしている?)曰く付きの像。
これとかこれとかは後世の作で論外ということで(…)
上記3つのうち、作成由来などもはっきりしているのは(3)。義弘自身が京都の相国寺の僧侶に頼んで造らせた像である。なので、(3)はおそらく義弘の生前の姿に一番近い物と思われる(みんな、がっかりすんなよー)。
(2)は、その黎明館の特別展のパンフに掲載されていたのを拝見したことがあるが、(3)に似ている。おそらく(3)とあまり時期をへだたたらないうちに作成された物であろう。
で、問題の(1)である。この画像にはいくつかの不審な点がある。
・衣装:衣冠束帯である。
・顔:戦国武将はひげを生やすことが通例だったのに、この画像はひげを生やしていない。武士がひげを剃るのが普通になったのは、江戸時代初期以降といわれる。
・背景:肖像画をみると、幕の向こうにある義弘様を拝む、といった構図になっているが、徳川家康の肖像画とそっくり。
まず、顔にひげが生えてないという点からみて、義弘が実際に戦国武将していた時期にかかれた物ではないことは明らかである。が、この肖像画の顔は若いのでその点ですでに矛盾がある。
次に衣装であるが、黒の衣冠束帯であるから、この時代の有職故実からみて義弘が従四位以上に在籍したときの肖像画ということになる。はたして、義弘が正式に任官したのは天正16年(1588年)に従五位下、次に昇格したのは慶長4年(1599年)に従四位下、が、この慶長4年に義弘は出家してしまっている。つまり、実際に義弘が黒い衣冠束帯を着られた時期は慶長4年の、それもわずかの時期しかないのでそのときにかかれた物となる…はずなのだが、先述の「顔」の考証(戦国武将を引退した頃か、あるいは極端に若いときにかかれたか)と矛盾する。
最後に構図であるが、幕(御簾?)の向こうの上段の間に座っている衣冠束帯姿の人物を拝見させられるという構図は、先述の通り徳川家康や豊臣秀吉の有名な画像とほぼ同じである、つまりこれら「天下人」の画像の影響を強く受けて作成された物ではないだろうか。
結論をまとめると
「島津義弘の一番有名な肖像画は義弘の生前に描かれた物ではない可能性が高い」
ということ。
そして、義弘を天下人になぞらえようとする構図から見て、義弘を極度に顕彰しようとする意図がこの肖像画にはあったと思われる。義弘死後に義弘をここまで顕彰しようとする人物はただ一人、その三男で家督を継いだ物の、先代の伯父・島津義久から歴代の系図などいっさいの重要な相続品を受け継げなかった島津家久(忠恒)その人しか考えられない。
慶長7年(1607年)徳川幕府より島津家の当主として認められて実質的に当主にはなってはいた物の、形式的には当主としての体裁を整えられないままだった家久。彼にとっては父・義弘が島津家の当主となったという”物語”を作り出すこと、そして”当主”義弘から直々に家督を継いだという「虚構」を作り出すことが重要だったのではないだろうか。そのための義弘肖像画作成だったのではと思われるのである。
関連記事 こちら
管見で見た限りじゃ、論究した人も今までいないようだし。早物勝ち(ヲイ)
島津義弘には何種類かの肖像が伝わっています。管見で知っているのはこの3つ。
(1)尚古集成館蔵のこれ。たぶん一番有名な義弘像。
(2)確か尚古集成館か鹿児島県立歴史史料センター黎明館かが所蔵している僧体の像。
新納忠元の肖像画などとセットになっている。
※(2009/5/1追記)ネットで検索中に偶然見つけましたので、リンクしておきます。所蔵は鹿児島県立図書館みたいです。ちがってたーごめんなさい 肖像画はこちら
(3)現在、日置市の徳重神社蔵になっているやはり僧体の木像。
旧所有者の妙円寺と所蔵を巡って因縁の争いをした(今もしている?)曰く付きの像。
これとかこれとかは後世の作で論外ということで(…)
上記3つのうち、作成由来などもはっきりしているのは(3)。義弘自身が京都の相国寺の僧侶に頼んで造らせた像である。なので、(3)はおそらく義弘の生前の姿に一番近い物と思われる(みんな、がっかりすんなよー)。
(2)は、その黎明館の特別展のパンフに掲載されていたのを拝見したことがあるが、(3)に似ている。おそらく(3)とあまり時期をへだたたらないうちに作成された物であろう。
で、問題の(1)である。この画像にはいくつかの不審な点がある。
・衣装:衣冠束帯である。
・顔:戦国武将はひげを生やすことが通例だったのに、この画像はひげを生やしていない。武士がひげを剃るのが普通になったのは、江戸時代初期以降といわれる。
・背景:肖像画をみると、幕の向こうにある義弘様を拝む、といった構図になっているが、徳川家康の肖像画とそっくり。
まず、顔にひげが生えてないという点からみて、義弘が実際に戦国武将していた時期にかかれた物ではないことは明らかである。が、この肖像画の顔は若いのでその点ですでに矛盾がある。
次に衣装であるが、黒の衣冠束帯であるから、この時代の有職故実からみて義弘が従四位以上に在籍したときの肖像画ということになる。はたして、義弘が正式に任官したのは天正16年(1588年)に従五位下、次に昇格したのは慶長4年(1599年)に従四位下、が、この慶長4年に義弘は出家してしまっている。つまり、実際に義弘が黒い衣冠束帯を着られた時期は慶長4年の、それもわずかの時期しかないのでそのときにかかれた物となる…はずなのだが、先述の「顔」の考証(戦国武将を引退した頃か、あるいは極端に若いときにかかれたか)と矛盾する。
最後に構図であるが、幕(御簾?)の向こうの上段の間に座っている衣冠束帯姿の人物を拝見させられるという構図は、先述の通り徳川家康や豊臣秀吉の有名な画像とほぼ同じである、つまりこれら「天下人」の画像の影響を強く受けて作成された物ではないだろうか。
結論をまとめると
「島津義弘の一番有名な肖像画は義弘の生前に描かれた物ではない可能性が高い」
ということ。
そして、義弘を天下人になぞらえようとする構図から見て、義弘を極度に顕彰しようとする意図がこの肖像画にはあったと思われる。義弘死後に義弘をここまで顕彰しようとする人物はただ一人、その三男で家督を継いだ物の、先代の伯父・島津義久から歴代の系図などいっさいの重要な相続品を受け継げなかった島津家久(忠恒)その人しか考えられない。
慶長7年(1607年)徳川幕府より島津家の当主として認められて実質的に当主にはなってはいた物の、形式的には当主としての体裁を整えられないままだった家久。彼にとっては父・義弘が島津家の当主となったという”物語”を作り出すこと、そして”当主”義弘から直々に家督を継いだという「虚構」を作り出すことが重要だったのではないだろうか。そのための義弘肖像画作成だったのではと思われるのである。
関連記事 こちら
…タイトルの人物を知っているというあなたはかなりの島津ヲタヾ(^^;)
知らないほとんどの皆様にヾ(^^;)説明すると
あのゴージャスバブリー散財大名・第8代鹿児島藩主の島津重豪の三男
…と、『島津氏正統系図』とか『寛政重修諸家系譜』などの公式史料には書かれている人物である。
しかし、江戸時代も寛政頃の人物、しかも島津重豪という当時の有名人物の息子の割には、実はこの人の出自は余り明確ではないのである。
まず、「公式史料」の例として『島津氏正統系図』の記述を引用すると
が、まずこの生母として書かれている女性が本当に彼の母親かどうか、いや重豪の側室として存在していたかどうかもアヤシイのである。「旧記雑録追録」2822−1(『鹿児島県史料』所収)のこの史料を御覧頂きたい。
この話は非常にもめたようで、この後、同じ問答を延々と往復している書簡が5通も残っているのである。しかし結局
「重豪の3人の息子の実母は”島津式部少輔の密子”と書け」
という何とも不思議な形で決着したらしい。
なぜ、重豪の3人の息子の母の出自でこれだけもめたかというと、この頃、重豪の養女・明姫(実父は重豪の従兄弟・加治木島津家当主の島津久徴)の婚礼話が進んでおり、どうもその親族書に書かなければいけない事項だったのでもめたのである。結婚にまつわる書類となれば嘘は書けないし、親族書に書くのがはばかられるほど身分の低い側室なら、形式上の養女縁組みをしてそれなりに地位を上げておくこともあった。
なのに「島津式部少輔の隠し子」という何とも情けない記述に落ち着いたというのである。
ところが「重豪の3人の息子の実母=島津式部少輔の隠し子」という話自体が、よりによってその真っ赤な嘘だった可能性が高い。
重豪の生きていたころに書かれた島津家の家系図「御家譜」(『鹿児島県史料集』6所収)では、上記の問題になった3人の母についてはこう書かれている。
上記では、忠厚(=雄五郎)と亀五郎(=亀五良)は同母兄弟のようにも見えるが、なんと忠厚の父親は島津重豪でないとある。これだけ読んでいると”島津式部少輔の密子”というのは重豪の側室ではなく、分家の島津久徴の側室だったのだろうかとも読める。が、そうなると何故忠厚と亀五郎は「(重豪)養子」と書いてないのかという疑問が出てくる。ちなみに、感之介の母は「於豊の方」という人物のようだが、彼女は最初にあげた「旧記雑録追録」で”島津式部少輔の密子”とされた「於房の方」というのと同一人物なのだろうか?
この意味不明な「御家譜」の記述の謎を解いてくれるのが、「御家譜」より少し時代が下がった天保八年頃に書かれた「近秘野艸」「麟址野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集」6所収)である。この著者は今も島津氏研究の重要文献となっている史料集「薩藩旧記雑録」の編者であった薩摩藩の史学者・伊地知季安で、この文書自体が家老・新納久仰の要請でまとめられたということ、伊地知季安自体が同時代人である点などから考えて信頼性は高いと思われる。
それには以下のように書かれている。
やはり、忠厚は重豪の実子ではなかったのである。
また、忠厚と同母兄弟と届けられた亀五郎・感之介は重豪の実子で、実の生母は石井正純という津和野藩主・亀井矩貞の家臣の娘で於豊の方→於房の方→於富貴の方と改名した側室であったことが分かる。
そして、重豪が忠厚を養子とし「自分の実子」として公表したため話がややこしくなったのではなかろうかと推測されるのである。忠厚の生まれた直後に誕生しすぐ亡くなった亀五郎・感之介というホントの実子とまとめて扱われるようになり、最初に述べた史料のような混乱を招くことになったのではなかろうか。
実は、去年の大河のネタも一時期「斉彬の本当の実子」という説を強硬に主張していた人がいたようなのだが、どうも系譜の工作をしている間に肝心の実家である島津氏家中でも訳が分からなくなってしまったという事態がこの忠厚にも起こったのではないだろうか。
それでも「実母 島津式部少輔の隠し子」という、本当の側室(石井氏)の名前を書くよりどう見ても恥ずかしい嘘を付いたというのは、腑に落ちないが…。
後にこの島津忠厚、今和泉島津家・島津忠温の養子となり3代今和泉家当主となり、9代藩主・島津斉宣が失脚しその長男の島津斉興が若くして10代藩主になったときには、重豪の命で国元での後見役となった人物である。ちなみに江戸での後見役は重豪次男で中津藩主の奥平昌高。
ところが、奥平昌高の養母(「実母」として届け出られる)は徳川家斉御台所・広大院茂姫の生母である市田氏(お登勢の方)、そして島津忠厚も正室は市田盛常の娘で広大院茂姫の姪に当たる女性であった(重豪が後に忠厚の娘・於並を養女「立姫」としているが、この立姫の生母は市田盛常の娘。参考 「近秘野艸」「麟址野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集」6所収)。
こういう点を見ると、島津斉興の父・斉宣が失脚した近思録崩れ(高崎崩れ)事件は芳即正氏がいうような島津重豪vs島津斉宣の財政運営対立(参照「島津重豪 (人物叢書)」)という単純な物ではなく、本当の対立は島津斉宣と広大院茂姫の間にあったのではないかという気がするのだが…。
拙ブログ関連ネタ
公家・堤家と鹿児島藩
文化朋党の乱
知らないほとんどの皆様にヾ(^^;)説明すると
あのゴージャスバブリー散財大名・第8代鹿児島藩主の島津重豪の三男
…と、『島津氏正統系図』とか『寛政重修諸家系譜』などの公式史料には書かれている人物である。
しかし、江戸時代も寛政頃の人物、しかも島津重豪という当時の有名人物の息子の割には、実はこの人の出自は余り明確ではないのである。
まず、「公式史料」の例として『島津氏正統系図』の記述を引用すると
とある。(島津)忠厚 母 島津式部少輔久般女(以下略)
が、まずこの生母として書かれている女性が本当に彼の母親かどうか、いや重豪の側室として存在していたかどうかもアヤシイのである。「旧記雑録追録」2822−1(『鹿児島県史料』所収)のこの史料を御覧頂きたい。
訳していても何がなにやら分からない文章であるが、要点をいうと(重豪の)御子様方のお母上のことについて、勘解由殿(=市田盛常、重豪側室・お登勢の方の弟、徳川家斉正室・広大院茂姫の叔父)におたずねしたところ、善兵衛殿(=篠原国宝)がここから出発される前に勘解由殿から話は聞いているご様子でした。雄五郎様(=今回のネタ(^^;))、亀五郎様(重豪の四男、五男とも)、感之介様(=重豪の五男、六男とも)ご三名様のご実母は島津式部少輔殿の密子(=隠し子)と申すことについて、この度他の御用で大炊殿(該当人物未詳)か ら「於房の方とはどの方の娘なのでしょうか」と訪ねられ、先のお達しの命によって回答申し上げたところ、「江戸では”密子”と申し渡すようにと聞いたのだ が」とお尋ねになり、私どもは承知しているとはいわなかったのですが、もっとも系図などを見ても(御子様の)母上については”密子”と記されております が、後から疑わしくなったのでしょうかと存じますがと申し上げたところ、まず私は思うところがあって「留守居の方へ餘家抔へも有之儀候哉→適当に訳できないためそのままにしておく)」 と、当たり障りのないよう、また尋ねておいてくれとの旨おっしゃいました。そこで、お留守居方に尋ねたのですが、いまだ回答がありません。「密子」という 用語は系図のどこを見ても見あたらず、いずれ「養女」と記されるだろうと私では考えていたのですが、そちらの方でも今一度この件をご検討下さり、勘解由様 にも伺いを立てて下さい。(以下略)
- 重豪の3人の息子の母「於房の方」は「島津式部少輔の隠し子」と称することになっていた
- が、系図などの公式文書を見てもそんなことは一言も書いていない、実は「於房の方は島津式部少輔の養女」じゃないのか?
- この件について市田盛常にもう一度確認を取ってくれ
この話は非常にもめたようで、この後、同じ問答を延々と往復している書簡が5通も残っているのである。しかし結局
「重豪の3人の息子の実母は”島津式部少輔の密子”と書け」
という何とも不思議な形で決着したらしい。
なぜ、重豪の3人の息子の母の出自でこれだけもめたかというと、この頃、重豪の養女・明姫(実父は重豪の従兄弟・加治木島津家当主の島津久徴)の婚礼話が進んでおり、どうもその親族書に書かなければいけない事項だったのでもめたのである。結婚にまつわる書類となれば嘘は書けないし、親族書に書くのがはばかられるほど身分の低い側室なら、形式上の養女縁組みをしてそれなりに地位を上げておくこともあった。
なのに「島津式部少輔の隠し子」という何とも情けない記述に落ち着いたというのである。
ところが「重豪の3人の息子の実母=島津式部少輔の隠し子」という話自体が、よりによってその真っ赤な嘘だった可能性が高い。
重豪の生きていたころに書かれた島津家の家系図「御家譜」(『鹿児島県史料集』6所収)では、上記の問題になった3人の母についてはこう書かれている。
二 亀五良 天明四年辰二月二十八日生同六年四月十一日夭
香樹院殿秋露幻清大禅童子
母島津式部少輔密子ノ筋
三 感之介 天明五年午八月十七日生同六年四月十一日夭
義光院殿天真祐明大禅童子母於豊方
女子 於礼 松平但馬守養女
一 忠厚 雄五郎因幡実島津兵庫久微子天明二年壬寅
五月十九日生母島津式部少輔密子之筋
上記では、忠厚(=雄五郎)と亀五郎(=亀五良)は同母兄弟のようにも見えるが、なんと忠厚の父親は島津重豪でないとある。これだけ読んでいると”島津式部少輔の密子”というのは重豪の側室ではなく、分家の島津久徴の側室だったのだろうかとも読める。が、そうなると何故忠厚と亀五郎は「(重豪)養子」と書いてないのかという疑問が出てくる。ちなみに、感之介の母は「於豊の方」という人物のようだが、彼女は最初にあげた「旧記雑録追録」で”島津式部少輔の密子”とされた「於房の方」というのと同一人物なのだろうか?
この意味不明な「御家譜」の記述の謎を解いてくれるのが、「御家譜」より少し時代が下がった天保八年頃に書かれた「近秘野艸」「麟址野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集」6所収)である。この著者は今も島津氏研究の重要文献となっている史料集「薩藩旧記雑録」の編者であった薩摩藩の史学者・伊地知季安で、この文書自体が家老・新納久仰の要請でまとめられたということ、伊地知季安自体が同時代人である点などから考えて信頼性は高いと思われる。
それには以下のように書かれている。
三男 忠厚
初名 久邦 雄五郎 因幡 安芸 市正 老号山松
○天明二年壬寅五月十九日生于薩府、母島津式部少輔久般女実島津兵庫久徴之男、公為己子以告大家云、七年丁未六月九日、令于国中為己所生、七月九日、置於抱守御小姓令給事之、十三日告朝三男
(中略)
亀五郎
○天明四年甲辰二月二十八日生于芝邸、母石井進六正純亀井能登守矩貞臣女称於豊方、又改於房方、又改於富貴方
○此年七月二十九日夭亡、法名香樹院殿秋露幻清大禅童女(ママ)、安主于恵燈院
感之介
○天明五年乙巳八月十七日生于芝邸、母同上
○六年丙午四月十一日夭亡、法名義光院殿天眞祐明大禅童子、八月二日、帰埋遺毛于福昌寺、安主同上
やはり、忠厚は重豪の実子ではなかったのである。
また、忠厚と同母兄弟と届けられた亀五郎・感之介は重豪の実子で、実の生母は石井正純という津和野藩主・亀井矩貞の家臣の娘で於豊の方→於房の方→於富貴の方と改名した側室であったことが分かる。
そして、重豪が忠厚を養子とし「自分の実子」として公表したため話がややこしくなったのではなかろうかと推測されるのである。忠厚の生まれた直後に誕生しすぐ亡くなった亀五郎・感之介というホントの実子とまとめて扱われるようになり、最初に述べた史料のような混乱を招くことになったのではなかろうか。
実は、去年の大河のネタも一時期「斉彬の本当の実子」という説を強硬に主張していた人がいたようなのだが、どうも系譜の工作をしている間に肝心の実家である島津氏家中でも訳が分からなくなってしまったという事態がこの忠厚にも起こったのではないだろうか。
それでも「実母 島津式部少輔の隠し子」という、本当の側室(石井氏)の名前を書くよりどう見ても恥ずかしい嘘を付いたというのは、腑に落ちないが…。
後にこの島津忠厚、今和泉島津家・島津忠温の養子となり3代今和泉家当主となり、9代藩主・島津斉宣が失脚しその長男の島津斉興が若くして10代藩主になったときには、重豪の命で国元での後見役となった人物である。ちなみに江戸での後見役は重豪次男で中津藩主の奥平昌高。
ところが、奥平昌高の養母(「実母」として届け出られる)は徳川家斉御台所・広大院茂姫の生母である市田氏(お登勢の方)、そして島津忠厚も正室は市田盛常の娘で広大院茂姫の姪に当たる女性であった(重豪が後に忠厚の娘・於並を養女「立姫」としているが、この立姫の生母は市田盛常の娘。参考 「近秘野艸」「麟址野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集」6所収)。
こういう点を見ると、島津斉興の父・斉宣が失脚した近思録崩れ(高崎崩れ)事件は芳即正氏がいうような島津重豪vs島津斉宣の財政運営対立(参照「島津重豪 (人物叢書)」)という単純な物ではなく、本当の対立は島津斉宣と広大院茂姫の間にあったのではないかという気がするのだが…。
拙ブログ関連ネタ
公家・堤家と鹿児島藩
文化朋党の乱
…と、タイトルのように書かれている本などが多いわけですが。参考 wikipedia「島津豊久」
あの絶版騒動を起こした『島津○る』もそうじゃなかったかな?失念。
しかし、本当にそうなんでしょうか。
島津義弘が80歳のころに自分で書いたという回想録「惟新公御自記」(
所収)で、関ヶ原の下りはこうなっている
次に、やや時代が経った延享元年(1744年)10月18日に完成した「惟新公関ヶ原御合戦記」(上掲本所収)を見てみると、伏見城攻めの時にも豊久の記述は見えず、後の方に
また同本では
それにしても、当事者の回想録や、その後の調査資料では一言も豊久が義弘をしたってor助けるために九州からはるばる関西へやってきたとは一言も書いてないのに、今ではどうしてそれが「常識」になってしまったのだろうか。
あの絶版騒動を起こした『島津○る』もそうじゃなかったかな?失念。
しかし、本当にそうなんでしょうか。
島津義弘が80歳のころに自分で書いたという回想録「惟新公御自記」(
所収)で、関ヶ原の下りはこうなっている
豊久のことは一言も出てこない。また、自分が西軍に着いた理由を「三成が家康の天下取りを恐れて上杉景勝と佐竹義宣と密約して西国の軍勢を動員したから」と書いているところは興味深い。どちらにしろ、当事者の島津義弘の回想録では、豊久は義弘をしたって(或いは同情して)関ヶ原に同行したわけではなさそうである。爰に江州沢山(=近江国佐和山)の城主石田治部少輔(三成)は太閤之御時股肱の臣と為り、其の威肩を双べる人無し。然る処、内府公(=徳川家康)の命有 り、出仕を止められ、蟄居するの中、思い含む所は、内府公が秀頼公に至りて、天下を譲らる可き儀これ有る可からずと。然からば、心を長尾(=上杉景勝)、 佐竹(義宣)に合せ、関西四十国の軍兵を催して、則ち伏見の城を攻め破り、美濃国に発向す。此の由関東に相聞え、忽ち 東国の軍兵打上る。時に慶長五年庚子九月十五日濃州関ヶ原に於いて合戦有り、数刻相挑むと雖も、今だ勝負を決せざる処、筑前中納言(=小早川秀秋)戦場に 於いて野心を起こすに依り、味方敗北し、伊吹山に逃げ登る。(以下略)
次に、やや時代が経った延享元年(1744年)10月18日に完成した「惟新公関ヶ原御合戦記」(上掲本所収)を見てみると、伏見城攻めの時にも豊久の記述は見えず、後の方に
とあるのが初出である。この文からも豊久が伯父をしたって関ヶ原に同行したとは読みとれない。同年(=慶長5年)九月義弘濃州大垣城外に陣す。同十三日石田三成陣中に来る。嶋津中務大輔豊久も亦此席にありて(以下略)
また同本では
と豊久に島津義久所属の軍勢がつけられていることも興味深い。ちなみにご存じの方が多いと思うが、島津義久はこの時在国で、当然関ヶ原の合戦には直接参戦していない。其翌十五日の暁寅卯の間(=午前五時頃)に、関ヶ原に到着す。則石田三成已に備を二段に設け、其の一段は嶋左近父子、雑賀内膳を将とす。又一段は三成此にあって指揮す。皆道路の北に備ふ。次に嶋津中務大輔豊久冨の隈方(=島津義久所属)の士卒是に属す。三成が備をさる事一町ばかり為り。
それにしても、当事者の回想録や、その後の調査資料では一言も豊久が義弘をしたってor助けるために九州からはるばる関西へやってきたとは一言も書いてないのに、今ではどうしてそれが「常識」になってしまったのだろうか。