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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
書いてあるのが事実に近いか、それとも150%美化なのかヾ(^^;)
…それはともかく、戦国時代の武将は意外に肖像画を残している。理由は遺族が法要をするときに故人の姿を偲ぶための肖像画や木像が必要だったからなのだが。
たまに「聞いたことないよ〜」という泡沫武将(失礼)ですら肖像画が残っていたりすることを知って驚愕することがある。

ところが、
教科書に名前が出てくるような武将で
しかもその後その一族が滅亡したり改易されたわけでもないのに
全く肖像画や木像の類が残って無くて皆無!
…ということがある。
その気の毒な数少ない?武将の一人が島津義久だろう。
なにしろ一瞬とはいえ九州全土を制覇しようとしたのにも関わらず
その祖父(島津忠良)父(島津貴久)弟(島津義弘)(たぶん不肖のヾ(--;))義理の息子(島津忠恒(家久))が肖像画や木像が残っているのにも関わらず
義久だけが一枚(一体)もその姿を知る術が残ってないのである。

これに関しては
「義久の遺言で肖像画とかの類を残させなかった」
とか
「義久と忠恒(家久)の対立の煽りで、義久関係の史料は余り残らなかった?」
等々の説をいろんな本など(タイトルとか忘れた(爆))で拝見した記憶がある。

ところが
『島津世家』(『鹿児島県史料集』37巻)の「慈眼公」(「慈眼」は忠恒(家久)の戒名の一部)条に、義久の供養のために義久の木像を高野山の蓮金院に納めたという話が出てきている。
「なーんだ、義久の木像残ってるじゃん。」
…と思って、高野山に行ってみると…
蓮金院は既に廃絶してありませんでした_(。_゜)/

ということで、希望はついえた?…と思っていたのだが、
先日取り寄せたある論文に興味深い話が載っていた。

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時代劇チャンネル『八代将軍吉宗』を昨日から拝見中。
おもしろかったという評判だったのだが、チャンネル権がなかったため(ToT)完全に見逃してしまった。
本放送から10年目にして、やっと見ることがかないました。

『勇者ライディーン』の3○年ぶりに最終回よりマシかf(^_^;)


さて、表題の方の登場はまだ先のようだが
この方について触れている本を入手した。

第四章「島津家との縁組み」のあたりで詳述されている。
まず

(島津家は加賀藩前田家、仙台藩伊達家の次に来る大大名でありながら)縁組みは江戸初期以来島津家内部で行っていた。
藩祖家久は、叔父の島津家当主、義久の娘を正室とし、その没後は一門の島津忠清の娘を正室としている。
二代藩主光久も家臣伊勢貞昌の娘を正室として迎えるという外様大名としては異例の縁組を行った。正室の没後は、公家の平松中納言時庸の娘を継室に迎えた。
島津家の始祖忠久は、近衛家の家司とされており、中世以来近衛家の「門流」であった。(中略)平松家も近衛家の「門流」であり、門流同志で縁組みをしたことになる。ここには徳川家一門や他の外様大名との縁組を避けたいという気持ちが表れている(以下略) 


うぎゃー、島津家専門家として知られる山本氏にあるまじきダウトを発見(・∀・)。どこが間違いなのか?拙HPの更新したてのここを参照して下さいませ(^^;)
2代藩主光久の結婚については、私は別の見解を持っているのだが…別館のネタに付きここではひ・み・つヾ(--;)
それと、初代藩主家久は、自分の姪達を徳川家一族の松平定行に嫁がせているので(参照  )、全く徳川家一族との縁組みを避けたわけでもないし、自分の跡継ぎに徳川忠長を迎えようとしたこともあったし(勿論本心からではなかったのだが) 、3代藩主の父(光久の嫡子)・綱久以降はそれなりの大名家や高家から正室を迎えているのは事実である(但し、綱久以外には正室との間に子を儲けた当主はいないことなどから見て、島津家が余り正室を大事にしていなかったことも事実のようだが)。
また、山本氏は「基本的に(鹿児島)藩主の子女は藩内家臣との婚姻が優先で、他大名との婚姻は避けていた。余った子女のみが他大名と婚姻させられた」という意味のことを書いてられる。他大名の例を余り知らないので具体的な例を挙げての断言は出来ないが、小大名並の有力家臣や支藩や分家の多かった外様大名の場合、藩内結束を固めるために家中での婚姻が多いように思われ、島津家だけを特殊例とは言えないのではないだろうか。

…つっこみが長くなったが。
徳川綱吉と側室・大典侍(清閑寺煕房娘)の間に養女として迎えられた今回のネタヒロイン清閑寺煕定の娘・竹姫(当時4歳)は、養子縁組後すぐに島津継豊(といってもこの時成人してない、まだ8歳である)と婚約させられそうになるが、島津家の方から断りがあり、この婚約は流れる。山本氏はこの背景についての考察をしてないが、おそらく
・将軍家から嫁を迎えるとともかく金がかかる
これが一番の理由だろう。そこらへんのヾ(--;)譜代や外様の大名との姫様を迎えるのとは大変さが違うのである。
その後、
島津家では(御広敷役人の)堀正勝から「天英院様が継豊様と竹姫の婚姻が調わなかったことを残念に思っておられている」という話を聞き、まもなく長門国萩藩主毛利吉元の娘との縁組を成立させた。
とある。ここからも、島津家が将軍家姫君の嫁入りを迷惑に思っていたことが伺える。しかし、更に気になるのは天英院(六代将軍・徳川家宣正室)が竹姫を片づけたがっている(きつい言葉ですみません…)ことである。
これについても山本氏は
天英院は竹姫を子供の頃から知っていて、妹同然に思っていた
からとする。別の著者の本になるが『大奥の奥』では「天英院が行き遅れになっていた竹姫をかわいそうに思っていたから」としている。確かに、天英院付きの女中が島津家宛てに書いた手紙の中に「天英院は竹姫を妹同様に思し召し」という話は出てくるようだ(山本氏の本より)

が、私はそんな甘っちょろい理由ではないように考えている。
先述のように、竹姫は五代将軍・綱吉の養女である。綱吉はご存じの方も多いと思うが、六代将軍家宣の父・綱重と不仲で家宣とも確執があり、最後まで家宣を将軍家後継者とすることを躊躇していたのは有名である。
一方の天英院は、先日NHKの「その時歴史が動いた」でもとりあげられたように(かなり過大評価され気味であったが)、夫・家宣との中は良好であり、綱吉に対しては余りよい感情を持っていなかったであろう事は容易に推察できる…綱吉の縁者である竹姫を大奥から追い出そうとするのは当然ではないだろうか。

しかし、毛利吉元の娘(皆姫)は享保12年3月20日(旧暦)に子供を儲けぬまま病死する。その2年後、突如、薩摩藩家老は老中・松平乗邑に呼び出され「竹姫を継豊の後妻にするようにとの将軍・吉宗公の命である」と言われるのである。山本氏曰く、通常、老中が言い渡した「将軍の命」はまず断れない。
山本氏は突如吉宗がこう言うことを言いだした背景には「大奥の人件費削減」があるとしている。しかし、吉宗が松平乗邑経由で島津家に渡した約定の内容からして、この婚姻が尋常の「将軍家姫君降嫁」でないことが伺える。山本氏の本によると、その内容は
「継豊に側室の男子がいることは知っている。この男子を嫡子として、竹姫が万が一男子を産んでも跡継ぎにしなくてもいい。」
というものだったという。養女とはいえ、曲がりなりにも将軍家の姫君が産んだ男子が跡継ぎになれないということを将軍命で約束するとは前代未聞である。
しかも更に奇妙なのは、通常断れないはずの将軍の命を、その後もいろいろと画策して島津家が断ろうとしていることである。どうもそのなかには
「竹姫はブスなので結婚したくない!」
…という、子供じみた、というか超失礼極まりない(はっきり言って薩摩藩取りつぶされてもこれでは仕方ないだろうヾ(^^;)という言葉もあったらしい。
しかし、山本氏の話によるとここに先述の天英院が登場。竹姫降嫁を念押しする(というより強引に圧力かけたヾ(^^;)。この時に大奥老女(おそらく天英院付きの上臈の一人であろう)・秀小路との話を島津家老女の佐川が書いたという文を見ると、ますます竹姫降嫁には裏があると思わざるを得ないのである。
「竹姫様は、御年若の頃から、ご相応の相手もなく、数年間御暮らしになっており、公方様(=吉宗)がことのほか御苦労様に思し召し、幸い大隅守様(=島津 継豊)が御奥様もいられないので、先だっても御内々のことがございましたが、一位様(=天英院)にお頼みなさったので、本日佐川を召し、この段を申せとの 上意でございました。公方様はことのほか御孝行で遊ばしますので、一位様を文昭院様(=家宣)同様に思し召されてます、もっとも、竹姫様のご器量は勝れていると言うほどの物ではございませんが、 ことのほかご利発にご幼少の頃から御覧なされてますので、一位様にも御孝行でございます。なにとぞお片付けなされたくと思し召されてます。先年も上総介様 (=島津吉貴、継豊の父)が縁談をお断りになられた事情も、一位様はご存じで遊ばされます、この度もまたまた断りになられるかと思い、今日佐川を召し、こ の段を詳しく申せ、との御事でございます。」
…一言でまとめると「難癖つけて断ろうなんて思うなよ!」という脅迫文そのものだがヾ(^^;)、
一方で「竹姫ブス説」については、怒るどころかむしろ素直に認めて、「それでも嫁にもらってくれ」という泣き落とし調である。また「吉宗は天英院に対して孝行者」というのは前後の文と全くつながらないし、竹姫の降嫁とは直接関係しない事項である。その話が唐突に出てくることは、「竹姫を島津家に降嫁させることが、すなわち吉宗にとって天英院の意向に添うことである」という考察を裏付ける物であろう。

その後、天英院は更に老女・秀小路を使わして念押し、島津家は降伏(オイ)する。
しかし、そこは関ヶ原でも減封0石転封無し!で生き延びたナイロンザイル生命力+スーパーサイヤ人の島津家ヾ(^^;)、以下のような無理難題を幕府に了承させていた。
1)竹姫の御殿用地として芝の薩摩藩邸北6870坪を与えられる。幕府は当初4700坪を提示していたが、薩摩藩の要求により大幅UPした。
2)享保20年(1735年)、玉川上水の水を屋敷内に引くことを許可される。
など。

それにしても、徳川幕府は何故ここまで失礼なことを大藩とはいえ一外様大名の島津家に言われながらも我慢し、大幅な譲歩をして、竹姫を島津家に嫁がせたのか?

ここに有名な巷説がある。竹姫は徳川吉宗の愛人だったという物である。

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…って、信長とそれ とか 秀吉とそれ の関係に比べると
全然盛り上がってなかったのは周知の事実かも知れないが。ヾ(^^;)

公称77万石実際の数値は半掛け以下らしい(参考 こちら 保護中ページなのがいまいちだが)の大名の割に、その宝物を管理している尚古集成館にはろくな茶道具がないし(暴言)
※もっとも、昭和初期に連帯責任をとってかなりの財産を処分したという話もあるので、その時に散逸した可能性もあるが。

島津義久の家老の一人が書いた『上井覚兼日記』を見ると「茶の湯」の記事は散見されるので、全くやってなかったわけでもなさそうだが、『鹿児島県史料』所収の「旧記雑録」には茶会記がほとんどないところから見ても、茶道に不熱心だった方の戦国大名であることは間違いない。

最も、戦国大名との結びつきで興隆したように思われがちな茶道ではあるが、実際お茶熱心だった戦国大名といえば松永久秀とか織田信長とか、やはり畿内との結びつきが強かった武将が多く、武田信玄とか上杉謙信とかが茶道楽だったという話は知らない。そういう話をご存じの方がいらっしゃいましたら具体的に史料付きで教えて下さいませ

戦国大名・島津氏が茶道に不熱心だったのは、「中興の祖」として有名な島津忠良のご託宣のせいもあるだろう。
「魔のしょゐか 天けんおかみ 法華教 一向宗に すきの小座敷」
→「天眼拝み」(=キリスト教)、法華宗、一向宗、「数寄の小座敷」(=茶道)に熱中するのは、魔が差した者のすることである、といった意味
ところが。この忠良を尊敬してやまなかった孫の島津義弘は何故かどっぷりと茶道にはまってしまい、関ヶ原の敗戦後、豊臣秀吉の人質となっていた妻・宰相殿が自分の道具は何も持たず、秀吉から拝領した茶入(銘「平野肩衡」)だけを持って大坂から逃亡してきたのを「さすが武士の妻たるもの良き心がけ」と激賞しているくらいである。

しかし、その義弘の息子である島津家久(旧名 忠恒)になると、家老・伊集院忠棟を茶会にかこつけて呼び寄せぶっ殺した所から見て、茶道に関してそれなりの素養はあったようだが、後に徳川家光を江戸の屋敷に招いたときには「式正御成」(室町幕府流儀の接待方法のこと)で準備を整えたところ、最後になって幕府側から「式正とは堅苦しい、お気楽に数寄(=茶道風味)の接待にしてくれ」とクレームを入れられたと言うことがある。※もちろん、支度を1からやり直させられることになったので、島津氏側から見るとちっとも「お気楽」じゃなくて、むしろ嫌がらせですらある。

実は、今日借りてきた、島津氏とは全く関係のない本に、島津氏と茶道の距離感の理由を解決できるヒントがあった。
 
茶碗に限らず、茶道具の中で唐物と高麗物は大きな役割を果たしている。まず唐物は茶の湯以前から禅宗文化及び東山文化に大きく貢献しており、コレがそのま ま茶の湯の世界にも継承されている。(略)ところが茶碗においては室町時代末から桃山時代に掛けてこの唐物を押しのけて高麗茶碗が登場してくる。(略)遂 に桃山期にいたっては唐物茶碗を凌駕することになる。これには茶の湯界における大きな変動が影響していると言えよう。
それは侘び茶の進展と、武士社会における茶の湯の流行とが重なって起きた現象と言えるであろう。
なぜ武将達が茶の湯にのめり込んだのかは、各大名が外来文化に憧れを持ったからだけではなく、その文物を政策の対象にまで持ち上げたからでもある。織田信長や豊臣秀吉が茶の湯政道を掲げた裏には、唐物や高麗者を戦利品とし、また褒賞の対象としたからであった。
(略)かくして諸大名は時の為政者と親交するためにも茶の湯に励むことになる。(後略)
P.12より ※太字は当方補足

島津義久が茶の湯に関心がないように見え、義弘が茶の湯熱心なのには政治的な背景があるのではないかという指摘は『尚古集成館研究』「鹿児島ニ召置御書物並富隈ヘ召上御書物覚帳」(松尾千歳)などでも既に為されているが、『島津義弘の賭け』(山本博文)で指摘されている「秀吉政権に距離を取る島津義久と、秀吉政権に近づこうとする島津義弘」の構図は茶の湯においてはしっかり証明されていると言うことが言えよう。

しかし、その息子の家久の茶の湯に対する態度は父に比べると複雑である。いちおう一般教養としては茶道をたしなんでいるという雰囲気で、父ほどの熱意は感じられない。
徳川幕府には室町幕府風の接待を見せつけることで「島津氏は徳川氏より実は格上ざます」という演出をしようとしたのかも知れないし、幕府側もそれを見抜いて土壇場で一端キャンセルをするという嫌がらせをした可能性がある、と私は考えている。

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戦国時代の島津氏に詳しい人ならば、「島津氏中興の祖」として島津忠良という人物がいたことを知っているだろう。「関ヶ原の戦い」で”島津の退き口”で知られる島津義弘の祖父に当たる。

そして、もう少し詳しく調べたならば、同時代に全く同姓同名の「島津忠良」という人物がいたことをご存じの人もいらっしゃるかも知れない。
こちらは先の島津忠良と対立して島津氏当主の座を追放されたと言われる14代島津本宗家当主・島津勝久の息子である。
いずれ私の別館でもふれる機会があると思うのでここでは詳細は省略する。

ところが、その忠良の孫・義弘にも同姓同名の人物がいたとは知らなかった。
しかもほぼ同時代の人物である。

島津義弘(しまづよしひろ、天正2年(1574年) - 寛永11年4月16日(1634年5月13日))は、越前島津氏(播磨家)17代目。

生涯
越前島津氏16代目忠之の嫡男。母は相野荘官山本大次郎村岡の妹。「天正三年忠之が『青山の合戦』で戦死した祭、義弘の母は僅か二歳の義弘を抱え、足軽を 使って十文字鑓をもち、石蜘城から領地下揖保庄上村にかえる。」と伝えられる。成人し、宇野氏の女を娶り、彦兵衛尉蔵人義弘と名乗る。

弟・佐渡守忠之、長男・蔵人豊後太夫忠遠、次男・長井大膳太夫忠頼と共に、内大臣豊臣秀頼公に仕え、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では大坂城に籠 城する。同20年(1615年)の大坂夏の陣後、大坂城を逃れて、赤松祐高らとともに網干大覚寺に籠もる。しかし、池田勢に包囲され、赤松祐高は衆兵を救 わんとして切腹する。こうして、義弘は逃れ、下揖保庄上村に帰って鬀髪し、宗賀と名乗る。しかし、2ヵ月後、上村においても池田勢に包囲され、長男・忠 遠、次男・忠頼は父に代わって切腹する。

家督は、本家は三男・甚左衛門政之(18代目)が継ぎ、切腹した長男・忠遠の子・忠範は下揖保庄西の野田の郷長となる。この時代薩摩藩は、龍野藩の「室津 港」を江戸・京都への拠点としており、薩摩公が来た際には、道案内や、京都上洛のお供、揖保川東岸において御座所を設け、これを迎えたりした。こうした交 誼は、19代目の藤太夫義綱の代まで続いた(『兵庫県大百科事典』、『播磨の島津氏』)。

寛永5年(1628年)辰年正月、「慣例申伝之事」を子孫に書き残す。これには、文書類を火災などで失わぬこと、家系は絶やさず、血縁を持って繋ぐこと、埋葬方法などが記されている(揖保上の本家に保存されている。)。

享年61。龍野如来寺に葬られる。

ただ、この「島津義弘」なる人物が本当に越前島津家の直系子孫なのかについては、私は疑問がある。以下に理由を列挙しておく。
1)越前島津家はそれまで代々「忠」の字を通字として使っているのに、義弘は使っていない。では先祖が「義」「弘」の字を使っていたかというと、その形跡もない。  <参照>越前島津家代々wikipedia 播磨屋.com
2)「母親が幼児の○○を連れて逃れた」という伝承が戦国時代の名家には多いが、その子孫を自称する家の多くが実際は無関係ではないかといわれている。  <例>北畠氏(有馬氏) 明智光秀の落胤

江戸時代中期に、鹿児島藩主・島津吉貴が子供を分家させて越前島津家を「再興」したとき、この播磨の島津氏の存在が問題となったらしく調査したが、その結果がグレーゾーンの結論で終了したようなのは、wikipediaの「越前島津氏」記事(おそらく『兵庫県史』の引用かと思われる)にも書かれている。

ところで、京都の島津製作所創業者・島津源蔵はやはり先祖が播磨の出身だが、家伝では「島津義弘の化粧料の差配に貢献し、家紋と名字をさずかった」とあるそうな

島津源蔵の祖先は、井上惣兵衛尉茂一といい、1500年代後半に播州に住んでいました。薩摩の島津義弘公が、京都の伏見から帰国の途上に、豊臣秀吉公から 新たに拝領した播州姫路の領地に立ち寄った際、惣兵衛は、領地の検分などに誠心誠意お世話をしました。その誠意に対する感謝の印として、義弘公から“島津 の姓”と“丸に十の字(くつわ)の家紋”を贈られたと伝えられています。
 記事全文こちら

この「島津義弘」も、織豊時代に薩摩島津氏が豊臣秀吉からあてがわれた化粧料の差配に絡んで「島津義弘」の名前を名乗った可能性もあるのではないかとも考えられる。しかし、なにぶん現状では情報も少ないため、なお検討を続けていきたい。

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私の関連ブログは

一時期、「近思録崩れ」に興味があり、関連の資料などを斜め読みしたこともあるのだが。
さすが島津重豪がこの辺りの書類を焼却処分させたとか言う経緯もあって、具体的な流れがわかりにくいわかりにくい_| ̄|○
例えば『鹿児島県史料』の最新刊は「薩摩藩法制史料」だが、この巻頭の解説でも島津義久と島津斉宣の関係史料が異様に少なく、おそらく
・義久は豊臣秀吉に降伏したという点が島津家の恥部とされ
・斉宣は近思録崩れの件が島津家の恥部とされ
関係史料が収録されなかったのでは、と推測されていた。

ただ、現在のところ『島津重豪』 / 芳 即正など数少ないこの時代の概説書では
近思録崩れとは
「節約に関心のない先代藩主・島津重豪vs節約政策を採る当代藩主・島津斉宣のお家騒動」
という捉え方をされている。…まあ事実そうだと思うのだがヾ(^^;)

ホントにそれだけだったのか?という疑問が消えないのである。

というのも
去年、高野山に島津家関連の墓の調査?にいったのだが島津義久以降島津斉興まで歴代の墓を確認したのだが、
島津斉宣、島津斉彬、島津忠義
は確認出来なかったのである。
このうち
斉彬は幕末の混乱期に亡くなり、後に神格化されたこと
忠義の時に島津氏は神道に改宗したことで高野山に墓所を作る必要が無くなった
と言うことで説明できる。
どう考えても説明できないのが斉宣。現在高野山の島津氏墓所を管理している正智院に正式に確認する必要があるが、3カ所ある島津氏墓地をさんざん探してないのだから、斉宣の墓が高野山にない可能性は非常に高いとにらんでいる。
つまり、歴代藩主として高野山で弔われなかった(ほぼ)唯一の人物、それが斉宣なのである。
更に疑問なのは、高野山に残る島津家の墓を最後に整備したのはどうも島津斉興のようなのだが、斉宣は斉興の実父なのである。どうして斉興は実父の墓を築かなかったのか?特に儒教観念の強い江戸時代の武家ともなれば疑問きわまりない。

もう一つの疑問は、斉宣の実母・堤代長女(お千万の方)に対する扱いである。本来なら公家出身で、お世継ぎも産んだ女性であれば正室相当(ちなみに重豪には2人正室がいたが早々と亡くなっている)の扱いをされて当然のはずなのだが、重豪の娘・茂姫が11代将軍・徳川家斉の御台所になるという珍事の為に茂姫の母・市田氏女(お登勢の方)によって鹿児島に追われたという悲運の女性でもある。その後も重豪の意向に翻弄された人生を送るのだが、それは拙ブログを参照されたい。

ところが彼女が文化4年(1806年)鹿児島から江戸に登る辺りから、まるで腫れ物にさわるような扱いなのである。
まず藩主の実母とはいえ一側室にしか過ぎない彼女の行列に対し「薩摩藩大奥」という看板を掲げることが許可されている(該当史料は先述の『鹿児島藩史料』の追録5あたりに掲載)のだが、「大奥」と言えば本来は江戸幕府の奥方にのみ使われる名称である。
彼女はそのわずか4年後に亡くなるのだが、この時にあの茂姫が「お気の毒」としてわざわざお悔やみ状を送っているのである。ちなみにお悔やみ状の宛先は父・重豪じゃなくて斉宣である。茂姫母・お登勢の方と斉宣母・お千万の方の確執、また異母兄弟とはいえ、実際の立場は将軍御台所と一介の藩主という差もあることを考えると、これもまた異例である。

ここで気になるのは近思録崩れの際に採られた政策である。
一般的には、特に蘭癖大名・重豪の開いた施設を次々と廃止した政策が重豪の疳に障って失敗したとされているが、政策の中には江戸幕府の裁量権を無視したとしか思えない貿易振興策などもあり、それも重豪を刺激したことが先述の『島津重豪』でも指摘されている。芳氏は近思録派の主導者である樺山主税、秩父季保が中央の情勢に無知だったためにこんな政策を入れたのでは、と片づけていたが…。下級藩士であった秩父はともかく、樺山家は代々一所地格の上級藩士で、先祖にも家老を勤めた者が多い。中央の情勢に全く無知とは思えない−江戸幕府の意向を汲んで政策を採らなければならない事は分かっていたと考えられるのである。

ここで注目すべきなのは、島津斉宣が国学者・高山彦九郎と親交を結んでいたと言うことだろう。興味深い内容なのでソースも引用しておく。

 寛政3年(1791)5月17日の「寛政京都日記」によれば、参勤交代で薩摩に戻る途中、伏見の薩摩藩邸に滞在している松平豊後守(島津斉宣)に従行していた赤崎貞幹(海門)と彦九郎が会い、赤崎が18日に彦九郎の紹介で伏原宣條卿・岩倉具選卿・芝山持豊卿に会い、和歌をいただいたことについて、19日に、斉宣が赤崎に、どうして公卿方と会えるのか、歌などをいただくのは難しいと聞いている。
寛政4年(1792)4月2日の「筑紫日記」によれば、彦九郎の薩摩入国を喜び、藩主斉宣が自ら狩得た鹿で酒宴がひらかれ国賓的待遇を受けている。
4月13日には、造士館で歓迎の宴があり、桜島をながめながら、船中で酒宴が催された同時刻に「薩太守(斉宣)」も船遊しているのが遠くに見えたとある。
http://www.sunfield.ne.jp/~hikokuro/koyuroku.htm

彦九郎と知り合った藩主は数多いようだが、国賓とも言える対応をしたのは斉宣だけのようである。またこれに絡んでくるのが赤崎海門なる人物だが、ここの項目にまた興味深いことが書いてある。ソース引用。

(前文略)当時薩摩は京都公家派と幕府体制側に藩論が割れていたが、彦九郎は赤崎海門を軸に奔走した。(以下略)
http://www.sunfield.ne.jp/~hikokuro/koyuroku.htm


斉宣の母・お千万の方は堤氏という中下級公家の出身なのだが、彼女の幼少時に「宝暦事件」という国学者+公家+天皇(当時の天皇は桃園天皇)が絡む一大事件が起きている。斉宣もこの母からこの宝暦事件の顛末などは聞かされていたことは容易に推測できる。また、その内容はお千万の方の出身を考えると処罰された側の国学者や公家に同情的な内容であったろうと考えられる。
ちなみにその後、この宝暦事件の首謀者ともされた国学者・竹内式部がらみで「明和事件」なる事件が起き、これに巻き込まれた小幡藩織田家が懲罰的転封、また織田家一門も連座を食らっている。

私が何となくこれらから考えているのは、

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