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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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さて、以前桐野作人氏のブログで「島津亀寿の名前」についていろいろコメントしたことがあるのだが
『歴史読本』2009年4月号の坂田氏のコラムを読んで考えたのは

島津亀寿は幼名を晩年まで名乗っていた可能性もあるのではないか

ということ。
もっとも拙HPで説明しているように、人からは「御上様」と呼ばれることがもっぱらだったようなので、自称するぐらいで「亀寿」を使う機会は少なかったと思われる。
この説では「新城島津家文書」(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家分け10』所収)にある亀寿書状の謎の末尾サイン「か」は「亀寿(かめじゅ/かめひさ?)」の略と言うことになるが…。ちなみにこの時代の女性、なぜか自分のサインをするときに頭一字しか使わないことが多いです(例:北政所書状で「ね」(「禰々」か「寧」の略)など)。

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ちょっと日本史に詳しい人なら、表題の人物の名前を聞いてこの人が浮かぶだろう。
殺生関白・豊臣秀次の正室!
豊臣秀吉に近い(というかごますり野郎というか)の公家・菊亭晴季の娘で2回目の結婚で秀次の”正室”になったとされ、その後、秀次が養父(で叔父)の秀吉と対立して切腹に追い込まれると運命は一変、三条河原で他の秀次の側室達と一緒に処刑されたという悲劇の女性である。ちなみに1回目の結婚で産まれた娘を連れ子として嫁いだが、その娘も秀次の側室となっており母と一緒に処刑されたという数奇な運命の人物である。

しかし、最近知ったのだが、秀次には他にも正室がいたらしいのである。池田輝興の姉妹とされる人物で「若御前」と呼ばれていたとされる。豊臣秀吉に関しては「北政所も淀殿も正室」という新説?が福田千鶴氏によって提唱されているが(『淀殿―われ太閤の妻となりて (ミネルヴァ日本評伝選)』 )、秀次にも複数の正室がいたと言うことなのだろうか?
この点を説明してくれている論文や本の類をまだ管見では見つけられていない。


ところで、同時代に「一の台」という人物は「豊臣秀次”正室”、菊亭晴季女」だけではなかった。
他にも知名度はかなり低いが「一の台」と名乗った人物がいるのである。
拙本宅HPでも紹介している「国上時通女」である。彼女はまだ実は調査続行中で、謎が多い人物なのだが、
  • 島津義久の後妻・種子島時堯女のお付き女中となった
  • その後、奥向きを取り仕切る権限をもち、島津家中で筆頭上臈に上り詰めたと見られる
ことは確実である。

他に「一の台」を称した人物がいる。
島津勝久の次女で、父の亡命先である大友家の領地のある豊後で誕生、成長して大友義次の一台役となったと、系図(『鹿児島県史料 家分け 諸家系図』所収)にある。大友義次なる人物が誰なのか、今のところ不明なのではっきりしないが、大友宗麟につながる大友家の縁者であることは確実であろう。結婚したならば「嫁す」等と系図にも書かれるであろうが、「一台役となった」と言うところに引っかかる。「一の台」或いは「一台」は国上時通女のようにこの時代に流行でもした高級上臈の雅名の一種であったのだろうか?
となると、菊亭晴季女も当初は秀次に使えた高級上臈だったのではないかという推察も出てくるが…。

最後にもう一人「一の台」をなのった人物を上げておく。
この人物が一番謎で、島津義弘からも「一臺」といわれているところから島津義久の後妻の一人ではないかとも思われるのだが、「島津氏正統系図」などには該当する人物が全く見あたらない。もしかしたら、生存した時期が重なるところから最初にあげた国上時通女と同一人物かとも思われるのだが、そうすると史料では義久と並んで扱われているなど、あくまで「島津義久上臈」という国上時通女の立場と一致しないと思われるのである。


戦国時代の島津氏に関係する人物だけでも3人?の「一の台」が存在した。彼女たちはどうも武将の正室ばかりではないようである。もしかしたら、私が知らないだけで他の戦国武将の家にも「一の台」がいるのかもしれない。

「一の台」はこの時代に流行った呼び名のようであるが、それにはいかなる意味が秘められているのであろうか?

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「戦国いい話悪い話」などでも紹介されているので、ご存じの方も多いかと思いますが

寛永7年(1630年)10月、島津亀寿が亡くなったときに島津家久(忠恒)は江戸にいたが、亀寿付きの女中とおぼしき”おいま”という女性に手紙を送った。そこには何故か超不仲であった亀寿への挽歌が書いてあったのだが…その内容はとんでもない物だった。
あたし世の 雲かくれ行 神無月 しくるる袖のいつはりもかな
(この10月に亀寿は亡くなってしまった、涙で袖は絞れるほどである…というのは嘘!)
この和歌については家久(忠恒)ホンネストレートに出しすぎだろという内容なのでヾ(--;)、桐野作人氏のブログのこの記事でもやりとりしたことがある。が、結論は出なかった。

ところが、「島津家メモ」のこの記事によると、こういう意見があったそうである。つまり、伊地知季安が濁点を写し忘れたのではないか?という物。
実はこういうことは割とある話なのである。
例えば、島津歳久の末裔家の旧蔵文書であった「日置島津家文書」でも、「薩藩旧記雑録」に所収された物は文章として意味が通らなかったのだが、その後、尚古集成館が買い取った文書に「薩藩旧記雑録」と所収されている文書の原書があり、よくよく見るとシミのように見えていたのが濁点だった、それで読み直すと意味が通ったという物が1点あるそうである(「尚古集成館所蔵の日置島津家文書について」『尚古集成館紀要』4)。
そうなると、「島津家メモ」で紹介されているような、まあ平凡というか無難な内容の和歌になる。

しかし、気になるのは最初書いたとおり、超不仲の元正室の死に際して何で挽歌を送ったのか?ということ。挽歌を送るくらいなら、3回忌の法要ちゃんとしろ厨恒!と言う所だがヾ(^^;)
もしかしたら挽歌を送るついでに、”おいま”に何かの探りを入れていたのではないかという気がするが…残念ながらこの挽歌に対してのおいまの返信などが残っていないので、家久(忠恒)が何を企んでいたのかはなんとも分からないのだが…。

この後、亀寿が父・島津義久から相続した島津家の宝物を家久(忠恒)の家老・山田有栄に引き渡したときの担当が”おいま”であるところからみて、”おいま”は宝物の管理を担当していた重要な女中なのではないかと思われる。この宝物は元和8年(1622年)に家久の次男である虎寿丸(後の島津光久)に相続されることに決定していた物の、寛永7年当時はまだ亀寿が保管していた。宝物の状況は島津家当主であった家久(忠恒)には非常に気になるところであっただろう。

敢えて強引に推測すると、実は亀寿への挽歌は建前であって、本当の用件は「島津家宝物のこと」だったのでは無かろうか。亀寿の死後半年でそれらの宝物は島津家久(忠恒)の家老が回収した-つまり亀寿の遺志に反して島津家の宝物は光久ではなく家久(忠恒)の所有に帰してしまったことからそう考えてみたが、いかがであろうか。

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第1話はこちら
第2話はこちら

wikipedia「島津久保」の幼名で未だに怪しげな情報が載っている理由が分かりました。
「征韓録」(島津史料集所収)の補注(p.208)にこんな事が書いてある_| ̄|○
又一郎久保は島津義弘の子で、幼名万寿丸と称し、天正二十年朝鮮征伐の初めから、父義弘とともに出陣し、ついに文禄二年九月八日、二十一歳で戦病死した。
…こりゃ、wikipedia編集するような素人はこれが正しい情報だと思って間違えるよ。でも、この情報をどこから得たんだろう、北川鐵三氏は…

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前の話はこちら

初代鹿児島藩主・アレな家久(忠恒)の後を嗣いだのは、その息子の光久です。
母親は島津亀寿の後に正室となった島津忠清女(西ノ丸殿)、但し、光久が5歳の時にその島津亀寿が光久を養子としています。なので、系図上では光久は島津義久の孫と言うことになるわけです。又、実は実母の西ノ丸殿自体が島津義久の曾孫(島津忠清は島津義久長女・御平の息子)なので、実際に光久は義久の縁者と言うことになります。
父方で島津義弘→家久(忠恒)、母方で島津義久の血を引く光久は、義久の婿養子(しかもそれは島津家の内意を得ないで豊臣政権が勝手に勧めた物である上、その後実質的に離婚した)父・家久(忠恒)に比べれば血統上では正当性があったといえます。

が、光久もまたその生まれが生涯のコンプレックスになったと思われます。
問題は実母・西ノ丸殿の母(光久の外祖母)が有名なキリシタンであったことでした。通称「竪野カタリナ」と言われるこの女性は、元々キリシタン大名・小西行長の家臣であった皆吉続能なる武士の娘だったといわれています。主君の影響を強く受けた熱心なキリシタンで、慶長14年に島津義久・島津常久(島津歳久の孫、島津忠清の甥)の招きにより薩摩に移っても全くキリシタン信仰を捨てる気はなかったようです。イエズス会宣教師が本国に送った手紙によると薩摩の殿(=島津家久(忠恒))の度重なる説得にも関わらずおおっぴらに信者を集めることをやめなかった(結城了悟「鹿児島のキリシタン」)というのですから、キリシタン業界(をい)では超有名人だったと思われます。
しかし、寛永10年、藩内の些細な騒動から遂に徳川幕府まで彼女の信仰がばれることとなります。一番まずかったのは彼女が大坂の陣で活躍した明石全登(元宇喜多秀家家臣でキリシタン)の息子を長年に渡りかくまっていたことがばれたことと言われています。明石全登は大坂の陣終了後も生死が確認できず、徳川幕府にとってその動向は大坂の陣が終わって10年以上立った寛永になっても恐れられていたと言われています。
この事件は下手をすると光久の廃嫡、最悪のケースでは鹿児島藩改易も考えられる物でしたが、徳川幕府に太いパイプを持つ伊勢貞昌と島津久慶(島津常久の息子で、家久(忠恒)の娘婿)の二家老の奔走で、関係者の流刑でなんとか納まったようです。が、この時に竪野カタリナは勿論、その娘2人、孫娘までもキリシタンであることが分かり、更に連座は島津久茂(家老・島津久元の息子、島津忠長の孫)、家老であった喜入久政にまで及ぶなどカタリナの影響力が鹿児島藩の権力中枢に食い込んでいたことが分かります。これもそれもカタリナの孫が次の鹿児島藩主だったからなのでしょうが、この事件以後、光久は徳川幕府に色眼鏡を懸けてみられることになったと思われます。
寛永16年、家久(忠恒)の死去により光久は藩主となりますが、その時、光久は家老・伊勢貞昌と共に幕府に呼び出しを受け、「何事も伊勢(貞昌)の意向により政を行うよう」厳命されます(「西藩野史」など)。光久が襲封時24歳と若かったからと言うのが表向きの名目ですが、実のところは徳川幕府とツーカーの仲である伊勢貞昌によって、光久を監視しようと言う意図があった物でしょう。光久自身は8歳の時から江戸暮らし、しかも実母・西ノ丸殿はその翌年に江戸で死去しており、鹿児島在住であった祖母・カタリナの影響力がどこまで及んでいたか不明です。おそらくキリシタンが何かも余りよく分かっていなかったのではないでしょうか。なので、このように幕府に見られたのは気分の良い物ではなかったと思われます。

光久は79歳で亡くなるまで38人もの子供を設けた艶福家ですが、そのうち22人については公式史料(「寛政重修諸家譜」「島津氏正統系図」など)では生母の出身が未詳となっています。これも上記のキリシタン疑惑を考えると、納得がいきます。キリシタンは一夫一妻を教えとしますので、節操のない女性関係を見せることは、手っ取り早くキリシタン疑惑を解消する手段なのです。…にしてもやりすぎのような気がしますが(^^;)この辺がコンプレックスの成せるわざなんですかね。この派手な女性関係の一番の被害者は最初の正妻であった曹源院殿(伊勢貞昌の孫娘)でしょう(詳しくは拙ブログのこの記事)。ところで、この節操のない女性関係は後に意外なところでネタに使われたりしたようです。

また、光久の実母・西ノ丸殿はその後島津家の供養名簿からも外れた形跡があり(「島津家列朝制度」)、当の光久自身も養母・島津亀寿への供養は熱心に行った(「薩藩旧記雑録 後編」)ものの、実母に関する供養は管見では見あたらず、寂しい限りです。これも実母の供養を熱心にすると、問題の祖母・竪野カタリナの扱いが浮上するため、実母を表立って扱えなかったのが一因にあるように考えられます。
しかし、竪野カタリナが亡くなったとき、光久はその世話をしていた種子島家に銀3000貫という大金を香典として送っています。自分の足を引っ張った祖母に対する思いには複雑な物があったのでしょう。


島津家の3代目 に予定されていた のが光久の長男・綱久です。
生母は先述の曹源院殿。光久は父・家久が死ぬやいなや、まだ25歳の若さだった曹源院殿を遠ざけてしまったようで、おそらくその息子である綱久も寂しい幼少期を過ごしたのではないかと思います。最も、父・家久に廃嫡するぞとばかりの行動をとられていたせいか、光久はその辺は割り切っていたようで、綱久を軽んじるような行動をとった形跡は管見では見あたりません。
しかし、母を大事にしてもらえない姿を見て成長していった綱久は、成長してこういう行動に出ます。

綱久は正室に伊予松山藩・松平定頼の姫を迎えます。松平定頼の母は島津家久(忠恒)の養女(忠恒の姉・島津御屋地の娘)なので、親戚と結婚したことになります。綱久はこの正室以外全く見向きもしませんでした。3代目予定者なんだが、どこぞの2代目ヾ(^^;)そっくりです。
綱久とこの正室の間には3男2女が産まれます。男子一人は夭折してしまいましたが、二女はそれぞれ譜代の有力大名(小浜藩酒井忠隆、下野壬生藩鳥居忠英)の正室となったのは、母親の実家が伊予松山藩という譜代有力大名であった権威によった物でしょう。ちなみに島津氏で実子を譜代大名に嫁がせたのはこの綱久が初めてになります。これは子沢山ではあった物の子女のほとんどが藩内有力家臣の養子・正室となった先代2人(家久(忠恒)、光久)とは大きく異なる点です。

で、この綱久が光久の後を無事嗣いでいたら、その後の島津家の政策もかなり変わっていたのではと思われるのですが…
延宝元年に父・光久に先立って死んでしまいます。41歳でした。
そのため、結局この綱久の遺児が島津家の3代目になります。以前「土芥寇讎記」で紹介した島津綱貴がその人です。
島津家の世子・綱久と譜代の名門・久松松平家出身の母を持つ綱貴の登場で、ようやく島津家の当主は生まれのコンプレックスから解放されたのでした。

綱貴
「我こそは本当は4代目になるはずだったけど、いろいろあって繰り上がり3代目になったんだが、1代目はああいう人で、2代目は(ぴ~)という血縁があったりして…まあ、表だっては言えない問題がいろいろあったんだが、私は産まれながらの3代目だからね!」
家臣
「お殿様ややこしくてその台詞じゃ平伏できませんよ…」
 
※このやりとりは架空です。
 

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