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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
戦国ゲームヲタでもないと知らないだろう?人物に
「島津久保」
という武将がいる。
簡単なデータはこちらにあるが、あの島津義弘の次男といった方が通りがいいかも知れない。次男といっても兄が夭折しており、島津氏当主であった伯父・島津義久に男子がいなかったため、実質的に後継者と見なされていた若武者である。しかし、朝鮮出兵で客死。享年21歳。彼の死後、島津家の跡目を巡って血みどろの争いがあったことは、はっきり言って余り知られていない。(『島津義弘の賭けでも当然の如く久保の弟・忠恒(家久)が次期当主になったように比較的あっさり書かれているが…)

ところで、次期当主と見なされていた物の夭折したためか、久保に関する史料は弟・忠恒と比較して余り残っていない。例えば忠恒の幼名は「米菊丸」、夭折した兄は「鶴寿丸」ということが史料により判明しているが、久保の幼名は全く不明なのである。
ところが、本日『鹿児島県史料』の「薩藩旧記雑録後編1」というのをぼんやり眺めていると、こんな史料に目が止まった
「(前文略)
大英檀藤原朝臣忠平、同鎌寿丸、如意寿丸并女大施主云々
天正三乙亥年八月十一日
(後文略)」
「藤原朝臣忠平」というのは実は島津義弘その人である。この頃はこんな名前だったんだよーん違和感あるけど。この頃、義弘にはまだ女子一人、男子二名しか生まれていない。そのうち女子一名は先妻のもとで養育されていた(拙HP参照)となると、一緒に併記されている男子二名と「女大施主」は義弘の息子二名と後妻の宰相殿とみて間違いないであろう。「鎌寿丸(かまじゅまる/けんじゅまる)」は「鶴寿丸(かくじゅまる)」と音が近いことによる書き間違いではないかと考える。

つまり
島津久保の幼名は「如意寿丸」
あるいはそれに近い発音の名前(だって鶴寿丸が間違って書いてあるからこうしか書きようがないんだもん)と考えられるのでは無かろうか。

ちなみに参考にした資料は『鹿児島県史料』「薩藩旧記雑録 後編1」の807「飯野一宮大明神棟札」(p437)でーす。都道府県立の中央図書館とか、史学部があるような大きな大学の図書館ならこの本おいてあると思います(たぶん)

ところで
wikipediaの該当データ
幼名は万寿丸

とあるけれど、これの元ねた何なんだ?最もwikiでも「要出典」なんて補足が書かれてますけど(^^;)

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別館つながりである女性に興味を持って、片手間に調べているのだが
その女性とは
8代鹿児島藩主・島津重豪の側室であったお千万の方(おちまのかた)
という人物である。

『島津重豪』(人物叢書)によると、公家・堤代長の娘で、重豪の義理の祖母に当たる浄岸院竹姫につかえる上臈(高級女中)だったのが、浄岸院の死後に重豪の手が着いて側室になり、島津斉宣を産んだ人物だという。
こちらのページで簡略版が読めます。

この浄岸院竹姫というのはなかなかの人生を送った人物である。上記の『島津重豪』簡略版にも少しは書いてあるが、これは史料上の表面の話をたどっただけであって、実体はかなりどろどろしていたらしい。詳しくはこちら
この竹姫の実家である清閑寺家の分家の一つがお千万の方の実家である堤家である。あまりにもマイナーな公家で、私もよく分からなかった。検索してもこれくらいしかデータがない。
歴史資料館promised landの堤家の紹介
堤家は公家の中では下の方である「名家」のクラスで、しかも江戸時代になってから新設された新参者だった上に、正式な収入は御蔵米30石しかなかったらしい。幕府の御家人や鹿児島藩の郷士もびっくり!という貧乏公家である(^^;)お千万の方が浄岸院の上臈になったのもおそらくは「口減らし」だった可能性が高い。(事実、平成新修旧華族家系大成所収の堤家の系図を見ても幕府上臈や宮廷女官として出仕し、未婚の女性が多い。)
ところが、監督官のうるさい浄岸院がいなくなったところで手の早い重豪が側室にしちゃったというのが真相なんでは無かろうか。
ちなみにこの時代、武士が上臈に手を着けるというのは禁止行為であった。私の知ってる限りでは上臈に手を着けたエロ馬鹿殿は重豪と水戸斉昭ぐらいだ。ここにあの徳川家斉も入れて江戸時代3大精力爺トリオと私は勝手に読んでいるが。
もうひとつちなみに。島津家で側室に公家出身者がいるのはこの重豪が最初で最後である。

こうして(実体は貧乏公家だが)高位の出身であり、跡継ぎも産んだとなればお千万の方の人生は恵まれたものとなったはず
なのだが
重豪の娘・茂姫が後の徳川家斉正室・広大院となったために、お千万の方は日陰の人生を送らされることとなる。というのも茂姫が将軍家の嫁となるとなると、その茂姫の母親の方を島津家はヨイショしなければ行けないわけで、結局、お千万の方は嫡子生母でありながら鹿児島送りとなって、茂姫の母親が正室並の扱いを受けることとなってしまったのである。ちなみに茂姫の母親・お登勢の方(おとせのかた)は鹿児島藩の公式資料には「大坂蔵屋敷の足軽の娘」とあるが、素性不明の商人の娘という説もあるらしい。ともかくお千万の方は遙かに身分の低い女性の足下に置かれる羽目となったのである。

その後お登勢の方の弟(偽称という説もある)・市田喜内が「将軍御台所の叔父」と言うことで鹿児島藩家老に取り立てられ専横を極めたため、それに対する反発が直接的にはあの「お由羅騒動」を上回る規模だったといわれる「近思録崩れ」のきっかけになっているそうだ。

その後のお千万の方であるが、ライバルであったお登勢の方が享和元年(1801年)に亡くなり「重豪が寂しがっているから」という理由で再び江戸住まいとなる。が、なんと寂しがっている割には江戸に呼ばれたのは文化4年(1807年)と6年も後である。ちなみに「近思録崩れ」が勃発したのが翌年の文化5年である。陰謀臭い…

こんな夫と息子の対立でお千万の方が弱らないわけがなく、お千万の方は文化8年(1811年)に江戸で没してしまった。

・・・
このような経緯なので、その後近衛家と島津家の腐れ縁ヾ(^^;)(こちら参照)に対して、堤家との縁は切れてしまった者だと思っていたのだ

そうではなかったらしい。
国際スパイ・吉薗周三
幕末の公家・堤哲長と女中であるギンヅルの間に生まれた庶子の子に当たる人で、このHPを見る限りはかなりのくせ者だったようだが
この「ギンヅル」という人がなんと鹿児島の出身(しかもあの上原勇作の親戚)だというのだから驚いた。堤家と島津家の腐れ縁は幕末までは続いていたわけだ。

話は脱線するが、この堤哲長の子供には津和野藩の養子に出された亀井茲明(かめい・これあき)がいるが、
http://www.silverbirch.jp/sunshine/kusaka_01.html
http://daimyokeizu.hp.infoseek.co.jp/kamei.html
島津家と亀井家のおつきあいのほどは不明である。

おまけ1
堤家の邸宅のあった場所(adobe acrobatが必要です)
京都御苑内の、近衛邸の近くだったようです。分かってたらついでに写真取ってきたのに_| ̄|○
おまけ2
堤家の菩提寺は松林院
京都には何カ所かありますが、これが伏見の松林院だとすると、薩摩藩御用達・寺田屋の菩提寺であります。ますます腐れ縁?ヾ(^^;)
ちなみに伏見の松林院は室町時代に天皇になり損ねた男?崇光院の菩提寺であり、かなり由緒ある寺なのだが予想通りマナーの悪い幕末ヲタの襲来のためか現在は拝観できなくなってしまったらしい(T_T)

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