拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今回紹介させて貰う資料は畑俊六元帥の日記です。
「…あれ?それならまえ紹介済みでは?」
と言うあなたは正しい。
今回紹介するのは「続・現代史資料 陸軍」(みすず書房)に所収された昭和4年~昭和20年(昭和11年頃のみ欠番)の日誌です。巻頭写真で見ると大学ノートに横書き(ちなみに左書き(!))です。細かくびっちりですが、本庄日記に比べるとまだ読めるヾ(^^;)
なおこの日記ですが、畑俊六本人が防衛庁に持参して寄贈したという逸話があるそうです(前書きより)
ではまいる。
今田の登場箇所は1箇所のみです…
・上京:この時畑俊六は台湾軍司令官
・宇垣内閣の流産:西園寺公望が「うるさい陸軍でも陸軍出身者なら,そして豪腕のこいつなら抑えられるだろう」と思って切り札として次期総理指名したのが宇垣一成大将だった…が、陸軍リストラの過去がある宇垣は実は陸軍内では非常に人気が無く、様々な妨害を食らって首相指名を泣く泣く返上するという前代未聞の事態となった。最も畑の日記見てたら政治に欲望ギラギラの宇垣さんはリストラ抜きでもかなり嫌われてたようですが(^^;) なお後述されるが、この妨害の主犯が石原莞爾に代表される"満州派"の将校である。
・石原:ご存じ石原莞爾
・片倉:ご存じ片倉衷
・河本大作:張作霖爆殺事件の主犯にして、多田駿の義兄。宇垣内閣の流産に関わっていたという証言はこれが初めてかも知れない。
・香月:香月清司陸軍中将。こちらのブログが非常に詳しい
・成富:調べたがよく分からない 誰か御教示お待ちしてます
・林大将:林銑十郎 宇垣の代わりにこの後首相になったがすぐに投げ出したのは有名かも。
たしかに畑の指摘にもあるが、宇垣内閣の流産で活躍したのは満州事変関係者、所謂"満州派"の将校なんだよね。今田もこの時が華だったかもしれん。
…ただ、この時今田がやってたことがどうかというと、多分余り宜しくないことのような気がしますがヾ(^^;)
残りの興味深い箇所は長いので要点のみ箇条書きで。
※畑俊六の紹介は前回エントリをご参照下さい。
「…あれ?それならまえ紹介済みでは?」
と言うあなたは正しい。
今回紹介するのは「続・現代史資料 陸軍」(みすず書房)に所収された昭和4年~昭和20年(昭和11年頃のみ欠番)の日誌です。巻頭写真で見ると大学ノートに横書き(ちなみに左書き(!))です。細かくびっちりですが、本庄日記に比べるとまだ読めるヾ(^^;)
なおこの日記ですが、畑俊六本人が防衛庁に持参して寄贈したという逸話があるそうです(前書きより)
ではまいる。
今田の登場箇所は1箇所のみです…
昭和12年3月29日<補足>
(中略)
上京各方面の話を聞くに、東京も中央はまだ何となく明朗ならず、大臣は部内は強化せられたりと楽観しあるも必しも然からず、先般の宇垣内閣の流産の如き、石原、片倉、今田など数人が中心となりこれに河本大作辺りが大部金を蒔いて暗中飛躍を無し、上官に迫りて陸軍一般の反対空気を作りたるが如く、当時新聞紙上にありたる三長官会議にて推薦したる三人の候補者中、香月中将の如きは出ても差し支え無しと述べたりといふ(成富が聞きたる宇垣大将の話)こと、片倉が昨年11月頃より林大将担ぎ上げより平沼が広義国防を妨害する為林を立てたるが如き話もあり、皇道派、統制派といふものは表面無くなりたるも未だ其の暗流あること、又皇道派には人物無きも近来再び台頭したりといふが如きことを憲兵司令官より聞き、事変当時の関東軍参謀即事変参謀が即中堅組として策動したることを聞き、中央尚未だ明朗ならずの感を深くせり
(後略)
・上京:この時畑俊六は台湾軍司令官
・宇垣内閣の流産:西園寺公望が「うるさい陸軍でも陸軍出身者なら,そして豪腕のこいつなら抑えられるだろう」と思って切り札として次期総理指名したのが宇垣一成大将だった…が、陸軍リストラの過去がある宇垣は実は陸軍内では非常に人気が無く、様々な妨害を食らって首相指名を泣く泣く返上するという前代未聞の事態となった。最も畑の日記見てたら政治に欲望ギラギラの宇垣さんはリストラ抜きでもかなり嫌われてたようですが(^^;) なお後述されるが、この妨害の主犯が石原莞爾に代表される"満州派"の将校である。
・石原:ご存じ石原莞爾
・片倉:ご存じ片倉衷
・河本大作:張作霖爆殺事件の主犯にして、多田駿の義兄。宇垣内閣の流産に関わっていたという証言はこれが初めてかも知れない。
・香月:香月清司陸軍中将。こちらのブログが非常に詳しい
・成富:調べたがよく分からない 誰か御教示お待ちしてます
・林大将:林銑十郎 宇垣の代わりにこの後首相になったがすぐに投げ出したのは有名かも。
たしかに畑の指摘にもあるが、宇垣内閣の流産で活躍したのは満州事変関係者、所謂"満州派"の将校なんだよね。今田もこの時が華だったかもしれん。
…ただ、この時今田がやってたことがどうかというと、多分余り宜しくないことのような気がしますがヾ(^^;)
残りの興味深い箇所は長いので要点のみ箇条書きで。
※畑俊六の紹介は前回エントリをご参照下さい。
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今田新太郎が関わった?と言われる神兵隊事件。
実際どれくらい関わったのか、
と言うか本当に関わったのかどうかすらさっぱり不明なのだが…
検索中に、偶然裁判記録が残っていることを発見。
しかも問題の人物・片岡駿、奥戸足百の分が読めるようです。
早速入手してみました。
その結果…
実際どれくらい関わったのか、
と言うか本当に関わったのかどうかすらさっぱり不明なのだが…
検索中に、偶然裁判記録が残っていることを発見。
しかも問題の人物・片岡駿、奥戸足百の分が読めるようです。
早速入手してみました。
その結果…
今回紹介させて頂くのは満州事変当時、その関東軍の最高責任者になっていた本庄繁の日記です。
現在「満州事変当時の関東軍責任者」と言うぐらいしか知られていない知名度の低い人と思いますが、同期には皇道派の首領・荒木貞夫と真崎甚三郎、南京事件の松井石根、第36代総理・阿部信行(因縁の稲田さんの舅)などそうそうたる人物が揃っています。
この人はいろんな本を見る限りでは、現在も歴史家の評価が真っ二つに別れている人のようで、
「石原莞爾と板垣征四郎に巻き込まれて当時の関東軍の責任を結局一人で負わされた人」
「石原莞爾と板垣征四郎を抑えられなかった無責任な人」
と両極端です。
私個人の今のところの評価は前者に近いでしょうか。石原と板垣の計画が熟し切った直前に異動でやってきたのですが、これが不運?の始まりだったように思います。どうも満州事変が石原と板垣の陰謀だったらしいことはうすうす察知していたらしく、親しかった磯谷廉介に「(石原莞爾は)厄鬼である」と愚痴をこぼしていたようです(『石原莞爾―生涯とその時代』)
また、この人は2.26事件当時、注目を浴びます。注目を浴びる原因となってしまったのが、本庄繁がこの時昭和天皇に近侍する侍従武官となっていたにもかかわらず、溺愛していた婿・山口一太郎が2.26事件首謀者の将校達の仲間であったこと。本庄は2.26事件の直後他の多くの幹部と共に陸軍を去りますが、その一因にこの婿を昭和天皇の前で擁護して怒りを買ったことがあったようです。
巻頭の「資料解説」によると、本庄繁は当時の軍人の中でも特にマメだった人のようで大正12年~昭和20年の死の前日までの日記が残存しているそうですが、この『本庄日記』で公開されたのは
・満州事変の頃
・2.26事件の前後
と一部だけになっています。理由は「日記の読解困難のため」要は「悪筆で読めませんでした!」_(。_゜)/ということらしい。…確かに添付写真に日記の原文が写真で載っているのだが、毛筆がつぶれて読みにくいのなんの…日記は先のとがった物(シャーペンとかボールペンとか)で書きましょう、あ、今はブログとかで書いている人の方が多いかな。
当然満州事変の当時者なので、その時の記述は臨場感あふれてます…が、肝心の今田新太郎は日記に登場してくるのか?
では気になる記述をご紹介
現在「満州事変当時の関東軍責任者」と言うぐらいしか知られていない知名度の低い人と思いますが、同期には皇道派の首領・荒木貞夫と真崎甚三郎、南京事件の松井石根、第36代総理・阿部信行(因縁の稲田さんの舅)などそうそうたる人物が揃っています。
この人はいろんな本を見る限りでは、現在も歴史家の評価が真っ二つに別れている人のようで、
「石原莞爾と板垣征四郎に巻き込まれて当時の関東軍の責任を結局一人で負わされた人」
「石原莞爾と板垣征四郎を抑えられなかった無責任な人」
と両極端です。
私個人の今のところの評価は前者に近いでしょうか。石原と板垣の計画が熟し切った直前に異動でやってきたのですが、これが不運?の始まりだったように思います。どうも満州事変が石原と板垣の陰謀だったらしいことはうすうす察知していたらしく、親しかった磯谷廉介に「(石原莞爾は)厄鬼である」と愚痴をこぼしていたようです(『石原莞爾―生涯とその時代』)
また、この人は2.26事件当時、注目を浴びます。注目を浴びる原因となってしまったのが、本庄繁がこの時昭和天皇に近侍する侍従武官となっていたにもかかわらず、溺愛していた婿・山口一太郎が2.26事件首謀者の将校達の仲間であったこと。本庄は2.26事件の直後他の多くの幹部と共に陸軍を去りますが、その一因にこの婿を昭和天皇の前で擁護して怒りを買ったことがあったようです。
巻頭の「資料解説」によると、本庄繁は当時の軍人の中でも特にマメだった人のようで大正12年~昭和20年の死の前日までの日記が残存しているそうですが、この『本庄日記』で公開されたのは
・満州事変の頃
・2.26事件の前後
と一部だけになっています。理由は「日記の読解困難のため」要は「悪筆で読めませんでした!」_(。_゜)/ということらしい。…確かに添付写真に日記の原文が写真で載っているのだが、毛筆がつぶれて読みにくいのなんの…日記は先のとがった物(シャーペンとかボールペンとか)で書きましょう、あ、今はブログとかで書いている人の方が多いかな。
当然満州事変の当時者なので、その時の記述は臨場感あふれてます…が、肝心の今田新太郎は日記に登場してくるのか?
では気になる記述をご紹介
『建国大学の研究』で、
東大教授だった平泉を建国大学学長として引っこ抜こうとした辻政信に対し、
「今平泉先生が国外に行ったら(残った若手将校の教育は)どうするの?」
と止めに入ったのが今田らしい、と言う話は聞いていた。
ところが、久しぶりにGoogleで「今田新太郎」で検索してみると、何とその平泉自身が今田の想い出を語った記録があった。最近UPされたんだろうな…
ではちょっと紹介してみる。
東大教授だった平泉を建国大学学長として引っこ抜こうとした辻政信に対し、
「今平泉先生が国外に行ったら(残った若手将校の教育は)どうするの?」
と止めに入ったのが今田らしい、と言う話は聞いていた。
ところが、久しぶりにGoogleで「今田新太郎」で検索してみると、何とその平泉自身が今田の想い出を語った記録があった。最近UPされたんだろうな…
ではちょっと紹介してみる。
以前、偶然に今田新太郎が皇道派の首領・真崎甚三郎とつながりがあることを知り、ショックだったことはこの記事に書いた。
しかも真崎は今田に対してめちゃくちゃ高評価。おい真崎よ、今田は当時から統制派将校の代表格と書かれているんだぞ…
ところが。
この真崎と今田のつながりは、なんと2.26事件の後も続いていたらしい。
しかも真崎は今田に対してめちゃくちゃ高評価。おい真崎よ、今田は当時から統制派将校の代表格と書かれているんだぞ…
ところが。
この真崎と今田のつながりは、なんと2.26事件の後も続いていたらしい。