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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前回はこちら
今回は『秘録 板垣征四郎』から板垣本人の文章である「巣鴨日記」を紹介します。 ここに全く予測してなかったのですが、今田のことに関する記述が2箇所ありました。 ではまいる。
(昭和21年)6月11日 山田氏来訪、補佐として佐々川知治氏選定決定の件並びに諸情報パンフレット「リットン報告に対する帝国意見書」を受領す。片倉証人承知のこと、寺田ノモンハン事件承知のこと、要すれば証人として立つこと、堀場支那事件纏めたること、満州事変に付き建川の行動、今田の関係なきこと、石原中将その他多数取調を受け居ること、田中隆吉も証人に立つこと(以下略)p.374
<補足>
・山田氏:板垣の主任弁護人
・片倉:ご存じ片倉衷 証人としてばかりではなく実質的に板垣の弁護のために東奔西走したことは本人も『秘録板垣征四郎』などで語っているばかりでなく、「石原莞爾日記」にも登場する。
・寺田:よく分からなかった 誰か御教示お願いします<(_ _)>
・堀場:堀場一雄 陸軍士官学校36期の「三羽烏」(後2人は服部卓四郎と辻政信)、「三羽烏」の中では一番の真人間、たぶん。今田と戦争指導課で同僚だったことがある。
・建川:建川美次 満州事変時には参謀本部第一本部長で「止め男」だった…が、その頃から満州事変に干与していたという噂は絶えなかったようだ 東京裁判時には既に故人。
・石原中将:ご存じ石原莞爾 治療のために山形から東京に転院したら、待ってましたとばかりGHQに絞られたのは本人の日記ばかりでなく知人の回想にも頻出
(昭和22年)9月5日 (前略) 今後の態度決定要素。満大日記(8日すみ)。原田熊雄日記(8日すみ)。今田新太郎の件。花谷正の件(8日すみ)。(後略) p.434
<補足>
・満大日記:関東軍の業務日誌、現在は防衛省防衛研究所所蔵
・原田熊雄日記:現題『西園寺公と政局』 原田熊雄は男爵で、西園寺公望の筆頭秘書
・花谷正:ご存じ満州事変の花谷。ビッグマウス。

上記二点の板垣の記述は箇条書きになっているので流れが捕らえにくい部分があるのですが、推測してみるとだいたい以下のようなことかと考えます
昭和21年6月11日 主任弁護士との打ち合わせで、以下のことを話し合った(1)補佐弁護人の決定(2)リットン報告関係の資料の受領(3)片倉衷が証人を了承してくれたこと(4)寺田という人物がノモンハン事件の件について了解してくれたこと(資料提出?)、場合によっては証人になってくれること(5)堀場一雄が支那事変についてまとめてくれたこと(6)満州事変時の建川美次の行動についての話(7)今田新太郎は(満州事変に)関係がないこと(8)石原莞爾他多数の人間が(満州事変の件で)取り調べを受けていること(9)田中隆吉も証人になること
今田新太郎はこの時まだシンガポールで抑留の身の上でしたが、その時点で既に満州事変に関係がないと言われていたことが分かります。文の流れから見て「今田満州事変無関係説」を言ったのは板垣征四郎本人でしょう。今田をかばったと言うだけではなく、満州事変の実行犯だった今田が招致されようものなら、今田の性格から見て完全に真相を伏せることは恐らく無理でしょうし、その点からも今田無関係説を強く主張した物と思います。 ところが、板垣のこれほどの主張があったにもかかわらず、まだ今田に対する「疑い」は晴れていませんでした。昭和21年6月21日条にも出て来た田中隆吉が満州事変の今田干与説を強硬に主張していたからと思われます(拙ブログこちら参照)。そして1年以上経った翌年の9月5日、再び今田が話題に登場します。
昭和22年9月5日 今後の裁判の態度を決定する情報 (1)満大日記(9/8済)(2)原田日記(9/8済)、今田新太郎の件、花谷正の件(9/8済)
この時には今田は復員し(昭和21年12月)、東京に戻っていました。さてこの時、板垣が今後の裁判戦略対策として、いろんな資料や証言者になりそうな人物とのすりあわせを行っていたことが伺えるのですが、9/5に項目をリストアップし、9/8までにはほとんど確認を終えているのに、今田にだけは確認を終えていなかったようです。そして、板垣の巣鴨日記にはその後二度と今田の名前が出なかったため、この後今田と連絡は取れたのかどうなったのか、全く分からないまま終了しています。

以下、今田に直接関係ないこと 要点を箇条書きでいきます。

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今回紹介させて頂くのは、陸軍大臣にもなり、戦後、東京裁判で東条英機等と共に死刑となったA級戦犯の一人・板垣征四郎の回顧録『秘録 板垣征四郎』の紹介です。
さてこの本の装丁ですが、信州産の手漉き和紙に何かの葉っぱ(本物)がスキ込んであるという凝った物になってます…って、『秘録永田鉄山』と一緒かいな_| ̄|○ この装丁、信州出身の永田スペシャルだと思ってたのに…。
なお、芙蓉書房からは『秘録永田鉄山』『秘録板垣征四郎』そして以前紹介した『秘録石原莞爾』と秘録シリーズ(^^;)が3つ出版されましたが、何故か他の軍人については秘録シリーズは作成されなかったようです_(。_゜)/ そして、永田と板垣については関係者を中心とした刊行会によって作られましたが、石原については陸軍幼年学校と士官学校の同期であった横山臣平の回想という形になっています。

…脱線したので元に戻る。
この人は今まで拙ブログでも何回も登場しましたが、満州事変の首謀者の一人として今田とは非常に関連のある人物でもあります。が、今までいろんな本とか読んだ限りでは、石原莞爾と違ってそれほど親しいとは見えないわけです。また、今田の親友・中江丑吉の元には多田駿や岡本寧次ら様々な軍人が出入りしていたことが知られていますが、板垣は一時支那派遣軍総司令官も務めていたにもかかわらず、中江の所を訪問した形跡がありません(※ただし若い頃の板垣は、中江を囲む勉強会に参加していた(中江丑吉年表など))。
果たして今田と板垣の関係はどの程度の物だったのか?以前から気になっていて、板垣征四郎の関連本と言えばどうもこれくらいしかないようで(^^;)入手してみました。
ざっと一読した程度ですが、今田にかかわる記述はかなり多かったです。特に興味深かったのは巻末に参考資料として付された「巣鴨日記」。タイトルから分かるように、東京裁判中に収監されていた巣鴨プリズンで判決のその日まで書き綴られた日誌です。と言う事で、紹介箇所がかなり多い為、回想録などの紹介を今回(前編)、巣鴨日記の紹介を次回(後編)で行う予定です。


まずご存じの方も多いですが、板垣征四郎の人となりをざっと
・1885年(明治18年)1月21日、岩手県生まれ 生家は南部藩で漢学者を代々勤めた名門だったが、南部藩が奥羽越列藩同盟に参加した為に敗者となり、以後は不遇をかこっていた。(p.88)
・7人兄弟の三男。(p.88)「征四郎」だから四男だと思ったのだが違うのね(^^;) ※最も後掲の写真の注記から見て、上にもう一人兄がいた可能性もあるが…
・兄弟は長兄・賛三→工学博士、南方で司政長官も務める、キリスト教の運動にも深く関わる 次兄・政参→医学博士、九州大学教授、久留米大学創設者の一人 弟・盛→海軍少将 姉・ふさ→盛岡農学校校長・藤根春吉の妻(p.88) なかなかのエリート一家
 三男政参、次男賛三、そして征四郎の学生時代 賛三夫妻と征四郎夫妻 
・征四郎を産んだ直後に母は死亡、更に公務員であった父は転勤が多く、そのため祖父母によって養育された。祖父は征四郎に漢学の素読を仕込むなど漢学一家に相応しい教育を行った(p.88)
・1897年(明治30年)、盛岡中学入学 三年上に米内光政、一年上に金田一京助、田子一民(衆議院議長)、郷古潔(三菱重工業社長)、及川古四郎(海軍大臣)、野村胡堂(「銭形平次」の原作者)、一年下に石川啄木がいるというそうそうたるメンバーの中で成長する。(p.89)このうち何故か米内とは晩年まで仲良かったそうなのだが、他のメンバーとはそんなに交流はなかったらしい。後述するように陸軍幼年学校に転校してしまったからだろうな。
  同窓会にて。向かって右が米内光政、左端が板垣
・1899年(明治32年)9月、仙台陸軍幼年学校に合格。この時に板垣の生徒監だったのが後に壮烈な戦死をして”軍神”といわれた大越兼吉で、後に板垣はこの大越の娘と結婚することになった(p.89)。
・1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校卒業(陸士16期)。同期にはあの永田鉄山とか小畑敏四郎がいたが、成績が芳しくなかったらしい_(。_゜)/板垣は永田とか小畑に比べて目立たない存在だったようだ といっても20番台ならそんなに酷くもないのではとも思うが…(p.89)
  真ん中が永田鉄山、汽車に乗っているのが板垣
・成績はいまいちだったが、どうもそれを気にしている形跡はなかったらしい。陸軍大学校にも同期生の中ではかなり遅く合格(1913年(大正2年))したが、妻には「陸大に入ったのは出世の為ではなくて、支那問題で口がきける立場になる為だよ~」と言ってたとか(p.90)
・日露戦争では重傷を負うも一歩も後退しない活躍で、「連隊の華」(by今村均)といわれてたとか
・その後は希望かない主に中国関係に従事。
 1906年(明治39年)1月~ 天津駐屯歩兵連隊勤務
 1917年(大正6年)8月~ 参謀本部付(雲南省昆明派遣)
 1919年(大正8年)7月~ 漢口派遣隊参謀
 1922年(大正11年)~ 参謀本部兵要地誌班長兼陸軍大学兵学教官
 1924年(大正13年)6月~ 北京大使館付武官補佐官
 1928年(昭和3年)~ 津歩兵第33連隊長(奉天勤務)
 1929年(昭和4年)5月~ 関東軍高級参謀
以後の話は有名+後述するので略
大正8年の漢口勤務時代に石原莞爾も漢口勤務となり、この時に板垣と石原が盟友になったというのはかなり有名な話で、昭和4年に板垣を関東軍高級参謀に押したのは石原ではないかという説もあるくらい。 漢口時代の板垣(中)と石原莞爾(左)
大正11年からの陸軍大学教官時代には今田を教えていた可能性がある(稲田正純の証言より(p.222))。また、大正13年に北京大使館勤めをしていたときの部下に鈴木貞一がおり、この頃中江丑吉を囲む勉強会に参加していたことがある。
・若いときは美少年と言われたそうで、あの今村均も「花のような容姿」とか言ってるが…判断はみなさんにお任せしたい。→ 右上:幼年学校時代 右下:士官学校時代
・板垣の性格について、多くの人の回想に共通するのは「一見ぼーっとしているが部下に対する包容力があり、決断力がある」 鈴木貞一曰く「板垣は一言で言うと至誠の人であった。至誠を以て断行する人であった。彼は決して知謀の人ではない。智者から見ると愚物だと思われるであろう。(中略)彼には智者を付けると素晴らしい働きをする。その智者たる部下がいつでも生命を捧げて、彼のために尽悴する徳を備えていたと言うべきである。反面彼は、その智者たる部下のため誤られることもあり得る。部下を絶対に信頼して、その責任を自ら取るためその行動が矛盾して受け取られることがある。」(p.264)
・家族:妻・喜久子(先述したが幼年学校の教官・大越兼吉の娘)、長男・裕(早世)、次男・(シベリア抑留で辛酸をなめる、帰国後参議院議員)、三男・征夫、長女・喜世子、次女・美津子
・軍人達との関係:皇道派のボス・荒木貞夫は板垣が士官候補生時代に訓育を担当していた関係で巣鴨プリズンでも本を貸し借りするなど終始仲は良かった 石原莞爾は仙台幼年学校の後輩だが「天才」と言って尊敬していた(その割に莞爾の足を引っ張ったりもしていますが…) 東条英機との関係は微妙、巣鴨プリズンで弁護士達への謝礼代わりにA級戦犯一同で揮毫をしたのだが、その時板垣が東条の揮毫を見て一言「東条さんも立派な肚が出来て、公判の時の陳述も極めて立派であった」 あと意外なところで辻政信のことをとっても買っていたらしい_| ̄|○この辺は後述するかも

漢学者一家の出身という点は今田や石原莞爾と同じですね(ただ石原家は幕末に当主が早世したりなどで漢学素養は殆ど受け継げなかったようですが)。また意外だったのは、非常にキリスト教に関係のある家庭で、兄2人はキリスト教信者、親族には牧師になった人物もいた(p.361)こと。

では今田の関連記述から先にまいる 「つづきはこちら」をクリックお願いします

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先日実家で『Precious』と言う雑誌を読んできたのだが、そこに小沢征良さんという人がおばあさんの思い出を書いていたのだな。小沢征良さんと言えば俳優・小沢征悦の姉で父はあの小澤征爾
つまり、祖父は満州建国に関わった満州青年同盟の代表の1人だった小沢開作。
超間接的にいまこのブログでやってるネタと関係がある人なのだ(^^;)
さて、小沢征良のおばあさんというのは、つまりは小沢開作夫人と言うことで、一体どんな女性だったのかというと
「孫にはビーフストロガノフとかのロシア料理を作って、ロシアの昔話を語って聞かせ、そして普段着ている服はシャネルのスーツだった」
…そうである。恐れ入りました。



では本題。
「永田鉄山」といういかめしい名前に覚えがある人は、日本近代史にかなり詳しい人だと思う。
実は戦前は陸軍の大物としてかなり有名だった人らしい。
ところが、2.26事件の直前に皇道派と「統制派」の対立の中で「統制派」の大ボスと見られた永田は、何と勤務中に他の陸軍将校に暗殺されてしまうというトンデモナイ最期を迎えてしまう。
戦後は忘れ去られた存在になっていたように感じられる。「統制派」の首領と言われていたことや、あの東条英機が慕っていたことがマイナスイメージになったように思われる。

何でこの人を調べようとしたかというと、
・今田も「統制派」扱いされてたからw
・もしかしたら陸軍大学の教官として今田を教えていたかも?という可能性が出て来たから
です。

ところが、実際調べはじめて見るとたかだか80年前に死んだ人の割にはかなり資料の少ない人なのですな。しかし近年『永田鉄山: 平和維持は軍人の最大責務なり (ミネルヴァ日本評伝選)』(森靖夫著)という超一般向け入手しやすい本としてこの人の伝記が出たことで、情報を簡単に入手できるようになりました。(しかしよくこんなどマイナーな人物をラインアップした物だ>ミネルヴァ) それによると、資料が少ない理由は「戦争による空襲で日記や書簡などの殆どを灰にしてしまった」これらしい。
この本と、後輩・友人達による回想本『秘録永田鉄山 (1972年)』の2冊から永田鉄山と今田の関係を探ってみたいと思います。

先ず、永田鉄山の人となり
・長野県出身。長野県出身の軍人って何か印象が薄い…とおもっていたが、「硫黄島からの手紙 」の栗林中将と今田の同期・今井武夫は長野県出身でした。
・永田家は代々御典医という家柄で、鉄山の父も医者。裕福な家庭に育つ…と言いたいのだが、鉄山が小学生の時父が急死。以後はそれこそ赤貧洗う状況だったようです…
・父の遺言が「軍人になって御国にご恩返ししろ」そのため、異母兄や知り合いを頼って何とか中学に入学し、そこから陸軍幼年学校に入学。血のにじむような努力をしてトップに躍り出る。尚、同期にあの梅津美治郎(最後の参謀総長で石原莞爾の天敵)がおり、どうも梅津が学生時代の永田のライバルだったようです。
・陸軍士官学校の同期は小畑敏四郎、岡村寧次、そしてあの板垣征四郎も(○。○)。後に小畑・岡村とは因縁の友人となります。
・陸軍大学校を優等で卒業し、恩賜の軍刀を貰う。がこのときの首席がまた梅津美治郎。なお、梅津と永田の関係は調べたがよく分からない(森靖夫による)のが現状のようだ。
・その後は教育総監部に所属。石原莞爾本をいろいろ読んでいた限りでは参謀本部、陸軍省、教育総監部の中で教育総監部は一番日陰の部署のように思っていたのだが、永田は逆にここで頭角を現したみたい。
・陸大を優等で卒業した人へのボーナスであるドイツ留学で更に磨きを掛ける永田。ちなみに帰国は武藤章と同じくアメリカをわざわざ経由したらしい。どうもこの辺の感性が石原莞爾とはかなり違うような。
・教育総監部在籍時の功績が認められて、今度はデンマーク駐在武官に派遣!…ところが第一次世界大戦勃発中という微妙な時期だった為、永田は派遣先からシカトされるなど非常に冷遇されたそうです(つд`)このとき運良くスウェーデン担当の畑俊六武官が急に帰国することになり(畑の回想によると、妹が急死した為に兄・英太郎の尽力により帰国できたとのこと。最も畑はこの仕事はそもそも不本意だったらしい)その後釜に納まる。でもスウェーデンでもあまりいい扱いではなかったようだが… 『秘録永田鉄山』p.319~320
・その後今度はスイス駐在武官に転じる。この時、ロシア革命勃発の煽りでドイツに避難していた小畑敏四郎や岡村寧次らの同期と再会、あの「バーデンバーテンの誓い」を結ぶこととなります。
・帰国後は順調に出世、特に陸軍省の役職を歴任する
・満州事変時には陸軍省所属。永田が事前に満州事変を知っていたかどうかについては未だに定説がないようだ(森靖夫氏は知らなかった説)。
・その後、陸軍内で一大異変があり、荒木貞夫・真崎甚三郎に代表される「皇道派」が中心を握ることに。ただ、真崎に仲人をして貰うなど皇道派とも仲は悪くなかった永田は参謀本部第2部長に就任する。…これがこの後の悲劇の発端になるとは誰が予想しただろうか
・この時に親友だった小畑敏四郎(当時参謀本部第3部長)と絶交するまでの対立関係となり、小畑共々参謀本部を追い出されてしまう。周辺の回想では「対ソ連政策を巡っての対立が原因」とする物が大半だが、森靖夫氏は「小畑の永田に対する嫉妬」とする。
・この頃から陸軍内での派閥争いが激しくなり、陸軍の統制を重視する永田は、若手将校を重用する(=軍の上下関係の統制を軽視)皇道派とは対立するようになる、と言うか本人は対立する気がなくてもそういう風に周りから見られてしまったというか
・荒木貞夫が急病の為陸軍大臣を辞職すると、永田は陸軍省軍務局長となり後任の林銑十郎の補佐となる。が、その頃には荒木/真崎の皇道派に嫌気が差した陸軍の他の人々や官僚・政治家などが林・永田を中心として皇道派の追い出しを図ろうとする。これが益々永田を苦境に追い込むことに。
・上記の騒動の結果、皇道派の若手将校は永田を仇として付け狙うことになる
・永田もストレスが見事に胃にあらわれ、晩年は暗殺直前まで医者がよいが欠かせなかった。なお永田の主治医は真鍋嘉一郎(東京帝大教授)(『永田鉄山』p.262)。真鍋は後に石原莞爾の主治医にもなった。
・昭和10年8月12日、勤務中の永田は乱入してきた将校に滅多切りにされるという最期を迎えたのであった…ちなみに暗殺犯・相沢三郎大佐は皇道派には珍しい中堅クラスの人物で、若手将校に感化された人物だったという
・家族構成は妻(先妻と後妻)、男の子3人に女の子2人。先妻は永田が中学入学時に学資など援助した人物の娘だったという。その先妻は病弱でしかも弱視だったらしい。その先妻死後に再婚するが、このときに座り仲人をしたのが先述の通り真崎甚三郎だった。
・先述したように名家の出身であったことからうかがえるが親戚も長野で功績を成した人が多く、信飛新聞社社主、小川鉄道大臣の実家、養命酒本家などそうそうたるメンバー。『秘録永田鉄山』p。394 なお父方の伯父に当たる守屋玄医は本業は医者であったにも拘わらず、明治維新の際には奈良県の十津川までいって勤王志士として大暴れしたという人物だったらしい。『秘録永田鉄山』p.299
・交友関係としては先述の小畑敏四郎、岡村寧次は非常に有名だが、実は岩波書店の創業者・岩波恒雄は尋常小学校以来の親友だったそうだ。これは意外な接点だった。『秘録永田鉄山』p.391他
・家庭観は非常にクラシック。欧米留学から帰ってきた親戚に対して「日本女性に参政権は必要ない、夫婦が相和してたらあんなもんはいらない、ヨーロッパでも最も進歩した国のスイスでも見て見ろ婦人参政権はないだろ、日本が強いのは日本の女性がいいのと家族制度がよいからだ」と延々と講義したそうだ(『秘録永田鉄山』p.387) この辺は石原莞爾とも似ているかも。 
・かたぶつのように思われがちな永田だが、酒と煙草は好物だったらしいw 『秘録永田鉄山』p.393
・趣味は「園芸」。といっても勿論イングリッシュガーデニングではないしヾ(--;)盆栽のようなちんまい物でもない。永田の園芸は大胆に庭の木によじ登り自ら選定をこなすこと。永田はリアル「天才バカボンのパパ」だった。ただ、男の家事によく言われる「やることは芸術的だが片付けが出来ない」典型だったようで、永田が庭仕事をした後、家族は夜まで後片付けに追われて最悪だったとか



では、『秘録・永田鉄山』から。昭和47年初版の本ですが、装丁がかなり凝っています。永田鉄山の郷里が長野県であることから、信州松崎和紙工業の特スキ和紙が使用されており、紅葉がスキ込まれているという。
軍人関係の本でこんな表装凝ってるのあまりないんじゃないんだろうか。

さて、これに思いがけない新資料が載っていました。何と今田の親友であった高嶋辰彦が回想を載せていたのです。
 「高嶋辰彦氏(日本史を動かした永田事件)」(第7章「永田鉄山小伝」(永田鉄山中将胸像復旧期成同盟会編)より)p.422~425
やや長文なので、要点のみ抜粋すると
大正13,4年頃に永田鉄山(軍事課兼陸大教官)の講義を受けたことがある。講義は計10回ほどだったが、最後に永田は高嶋に陸軍省への勤務を強く勧めたらしい。その後、高嶋は陸大卒業後僅か一年にして陸軍省勤務になった。
・高嶋は昭和4~昭和7にドイツに留学、帰国後小畑敏四郎(当時参謀本部第3部長)に挨拶に行ったとき、小畑は高嶋に「ヨーロッパから見た日本の満州対策についての初見」を求めた。高嶋が「ソ満国境付近の軍備充実第一主義より満州国の中央政治の充実確立+民生の安定を第一にした方がよい」というと、たちまちにして小畑の機嫌が悪くなり、話の続きも打ち切られてしまった。怪訝なまま退室した後、今度は永田鉄山(当時参謀本部第2部長)に挨拶に行ってこの話をしたら、何と自分の見解はほぼ永田と一致していた上、この話題が小畑と永田の喧嘩の原因だったことも知った。
・後に「皇道派」とか「統制派」と言われる人が入り乱れる中でお勤めしたけど、そんなに対立の実感はなかったよ!対立と言ってもそれは方法手段の見解の対立であって政党とか学閥の対立というのとは違うよ
・永田暗殺時には軍事課課員(予算主任)で、永田の部屋の二部屋隣にいたが、異変に全く気が付かなかった。その後すぐに駆けつけたが、もう手遅れの状態だった…。
注目はやはり一番上の抜粋。高嶋と陸士・陸大で同級だった今田も永田鉄山の謦咳に接したことがある可能性が出て来ました。…あ、でも陸大って、今のに日本の大学同様単位制だったっけなヾ(--;)『陸軍大学校』『陸軍大学校〈続〉 (1978年)』ではその辺書いてなかったような気が…
あと、皇道派と統制派の対立をそんなに感じなかったと言うが、これは派閥対立が強くなった頃にはまだ留学中だったことや、誰とでも仲良くできる高嶋本人の人徳もあるかも知れないです(何しろあの気の強い今田の親友なのですからな>高嶋)。

後、明記はされてないのだが、これどうみても今田さんの話ですよね(^^;)
目黒茂臣氏の話
(前略)
ある時ある人が私に、ある将校が恩賜のピストルを直接行動準備の為に右翼の誰それに渡したとと教えてくれたことがある(恩賜のピストルとは、戸山学校で優等学生に恩賜品として授けるピストル)
(後略)
『秘録永田鉄山』p.172
目黒茂臣は元陸軍憲兵大佐。後の2.26事件のきっかけとなる陸軍士官学校事件に巻き込まれた人物である。拙ブログではこちらで一度登場。
それにしても、長い間「恩賜のピストルって何よ」というのが疑問だったのだが、そうかあ、陸軍戸山学校で貰う物なのね。

他、今田に関係あるようなこととか無いようなことも気になるところピックアップ
「つづきはこちら」をクリック

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大分前のエントリで「後でまた出すから」と言ってすっかり忘れていた物です(^^;)
こそこそと今頃出してみる(^^;)

まず、この田村真作と言う人物と、このコラム「石原莞爾の悲劇」については『文藝春秋』編集部側でこのような説明が付されている。
本稿の筆者は元朝日新聞記者、後に繆斌氏を通ずる和平工作に挺進し、膨大な回想記を完成したが、本編はその中の石原莞爾氏に関する物のみを編集部に於いて抜粋した物である。
当時の筆者の立場は、言うまでもなく東亜連盟論者であり、これは既に戦後の厳正なる批判の下に在り、その点、読者諸氏が十分に批判的に読まれることを希望したい。
かくも中国の民衆を愛した石原氏が、然らば何故に満州事変の口火を切り、日本軍の大陸進入の端を開いたか-本稿はこの点、何の回答も与えていない。
しかしながら、派閥抗争に終始した軍の内部に於いて石原氏の一派が、東条一派と鋭く対立しながら、それに圧倒されていく経路が生々と描かれ、所謂「道義は」と言われる軍の一部の物の思想的動きが、極めて鮮明にされている点に於いて、一つの戦争史の資料として興味ある物と信ずる。
確かに全体的に石原莞爾信者臭がすごくて、かなりつっこみ所がヾ(^^;)
こういうコラムの中で、今田新太郎はこのように登場している。
ではまいる。

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前の話 こちら


国立国会図書館のHPを別件で検索していたら、どうも同図書館に真崎甚三郎の未翻刻の日記が所蔵されているらしいことを知る。
※昭和20年以前は翻刻済み(近代日本史料選書

そういえば、高嶋辰彦が『追悼録』で今田の葬式に真崎が出ていたとか書いていたような…めんどくさそうなんだが取り寄せてみるか。

その結果



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