【パリ4日時事】中世から欧州各地を支配したハプスブルク家のスペインの王朝(1516~1700年)断絶について、近親婚の繰り返しで発症する遺伝子疾患が原因だった可能性が高いとの説を同国の学者チームがこのほど、米オンライン科学誌「プロス・ワン」に発表した。
スペイン・ハプスブルク朝最後の王カルロス2世(1661~1700年)は体が小さく病弱で内臓疾患や血尿に悩んだ。2度結婚したが性的に不能だったとされ、世継ぎがないまま死亡。仏ブルボン家にスペインの王座を渡す結果となる。
この王の16世代にわたる祖先や血縁者3000人の系図情報を基に、スペインのサンティアゴデコンポステラ大学の遺伝学者らが近親婚のリスク度を示す「近 親交配係数」を計算したところ、係数は初代カルロス1世の父親の0.025から代を重ねるごとに上昇、カルロス2世では10倍の0.254に達した。
同王朝の結婚11例中9例は近親婚で、カルロス2世も両親がおじとめいの関係だった。頻繁な近親婚は劣性遺伝子を発現させやすく、「2つの異なる遺伝子疾 患(下垂体ホルモン欠乏症と遠位尿細管性アシドーシス)の同時発症」がカルロス2世を襲ったと遺伝子学者らはみている。(2009/05 /04-15:04)
拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
先日BSジャパンで放送していたのを録画して、今頃拝見しました(^^;)
さる2003年にタリバン(ターリバン)による爆破でほぼ完全に消滅してしまったバーミヤンの石窟をCGで建設当時の状態まで復元するという、コンピューターって素晴らしいですね!…っていう番組でした。しかし、それでも本物にはやはりかなわないわけで…うむむ。
実はこのバーミヤン石窟、破壊前はもちろん破壊されてから後も、盗掘などで相当量の壁画や石仏が海外に流出したのではと推測されています。盗掘は当然犯罪なんですけど、このバーミヤンのように偏執的宗教団体による破壊などの現実を見せられると、まだ盗掘とかで海外に流出した方がマシとすら思えます。
このタリバンみたいな恥ずかしいことが、実は日本でもありました。それもほんの120年ほど前です。
明治維新の直後、新政府派の思想背景となっていた国学が極端に先鋭化し、廃仏毀釈運動が起こります。
当初は神仏習合が進んでいた日本の寺社仏閣を単純に寺と神社にわけるだけという条例だったのが、一気に新政府では歯止めが利かないほどになり、大規模な寺の打ち壊し運動になりました。
その廃仏毀釈が日本で最も盛んだったのが鹿児島県です。仏教(特に禅宗)に帰依していた島津氏らによって建てられた1000以上あったという寺が2,3年で0軒になったというのですからすさまじいです。島津氏らによって大量に寄進されていた仏像などは
「鹿児島県が日本で最も進んだ場所であることを示すため」
という理由によって、ほとんどが焼却処分されたと記録は伝えています。
心ある人によってこの危機を逃れたわずかな物も、明治10年の西南戦争でほとんどが罹災・官軍による強奪の被害にあったのは以前拙ブログでも言及したことがあります。
バーミヤンの壁画とか仏像みたいに、鹿児島の仏像とか仏画とか、島津義久の肖像画とか(結局それかよ)、国外流出してアメリカとかヨーロッパ辺りに眠ってないですかねぇ…。
さる2003年にタリバン(ターリバン)による爆破でほぼ完全に消滅してしまったバーミヤンの石窟をCGで建設当時の状態まで復元するという、コンピューターって素晴らしいですね!…っていう番組でした。しかし、それでも本物にはやはりかなわないわけで…うむむ。
実はこのバーミヤン石窟、破壊前はもちろん破壊されてから後も、盗掘などで相当量の壁画や石仏が海外に流出したのではと推測されています。盗掘は当然犯罪なんですけど、このバーミヤンのように偏執的宗教団体による破壊などの現実を見せられると、まだ盗掘とかで海外に流出した方がマシとすら思えます。
このタリバンみたいな恥ずかしいことが、実は日本でもありました。それもほんの120年ほど前です。
明治維新の直後、新政府派の思想背景となっていた国学が極端に先鋭化し、廃仏毀釈運動が起こります。
当初は神仏習合が進んでいた日本の寺社仏閣を単純に寺と神社にわけるだけという条例だったのが、一気に新政府では歯止めが利かないほどになり、大規模な寺の打ち壊し運動になりました。
その廃仏毀釈が日本で最も盛んだったのが鹿児島県です。仏教(特に禅宗)に帰依していた島津氏らによって建てられた1000以上あったという寺が2,3年で0軒になったというのですからすさまじいです。島津氏らによって大量に寄進されていた仏像などは
「鹿児島県が日本で最も進んだ場所であることを示すため」
という理由によって、ほとんどが焼却処分されたと記録は伝えています。
心ある人によってこの危機を逃れたわずかな物も、明治10年の西南戦争でほとんどが罹災・官軍による強奪の被害にあったのは以前拙ブログでも言及したことがあります。
バーミヤンの壁画とか仏像みたいに、鹿児島の仏像とか仏画とか、島津義久の肖像画とか(結局それかよ)、国外流出してアメリカとかヨーロッパ辺りに眠ってないですかねぇ…。
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- 元親記:タイトルそのまま、長宗我部元親の攻防を記した軍記物。著者は元家臣の高島正重(後山内氏家臣)。元親33回忌に当たる寛永8年(1631年)に記念して書かれた物。
- 長元物語:これも長宗我部元親に関する覚え書き。著者は元家臣の立石正賀(後熊本藩細川氏家臣)。万治2年頃の成立。
- 細川家記(細川三好君臣阿波軍記):阿波守護・細川家の大名としての滅亡までを記した家記。細川氏の末裔に伝わった物。ちなみに当文書に寄れば、末裔は帰農したらしい。明治時代までは存続されていたようだが…。やはり敵であった長宗我部元親に関しては悪口がすごい(爆)。後、平島公方のこともちょこっと。
- 三好記:タイトルそのまま。三好氏の阿波細川氏放逐から長宗我部元親による三好氏の没落までを描く。著者は阿波国の医師・福長玄清で、祖父・父が三好氏家臣だったという。巻頭に三好氏と阿波細川氏の系図付き。
- 昔阿波物語:タイトルそのまま。阿波国の戦国時代の攻防についての覚え書き。著者は道知(元十河存保家臣という)。成立は慶長11年頃か。
- 十河物語:十河存保の軍記物…の筈なのだが、後半は何故か島津氏の記述に重きが置かれているというわけわかめな文書。著者も成立年代も不明。
- 澄水記:伊予国の国人で長宗我部元親の同盟者であった新居軍高峠城主・石川氏と金子城+高尾城主・金子氏の、豊臣秀吉の四国侵攻における戦いをその落城まで書いた軍記物。著者は地元西条市の宝蓮寺の住職・尊清で、天和4年に高峠城主・石川通清の100回忌を記念して書いた物という。
- 南海通記:こちら参照。伊予国に関する記述のみが所収されている。
また、秀吉に降伏してからは
- 中国治乱記:中国地方の戦国時代を書いた軍記物。著者不詳。間違いが多いらしい。
- 大内義隆記:タイトルそのまんま(^^;)奥書を信じるなら、書いたのは大内氏縁の寺・竜福寺の僧で天文20年前後に成立したらしい。義隆マニア(をい)なら必読。
- 言延覚書(大内様御家根本記):山口多賀神社の宮司兼武将だった禰宜言延が慶長20年に毛利輝元の要望により提出した覚え書き。大内義隆の興隆から滅亡までを個条書きに記している。義隆滅亡の一因となったと言われる寵臣・相良武任の言い訳(相良武任申状写)付き。
- 二宮佐渡覚書:慶長8年に亡くなった尼子家臣→吉川家臣の二宮佐渡俊実の想い出話を口述筆記した物と思われる。尼子氏の記述が中心。「老翁物語」のネタ本になったとも。
- 森脇覚書:元和7年になくなった吉川家臣・森脇飛騨守春方の覚え書き。毛利元就が死ぬまでの毛利氏勢力拡大に関する記述が中心。「老翁物語」のネタ本。
- 武家万代記(三島海賊家日記):毛利氏配下となった水軍の長・村上氏の覚え書き。編年通りに記述されてないのが問題点。毛利輝元に関する悪口が散見されるらしい(爆)
- 宇喜多戦記:タイトルそのまんま。戦国のダースベイダー・陰謀の宝庫ヾ(^^;)宇喜多直家のファンなら必読。但し家族関係の記述などで他の史料と異同があり、内容の信頼性にはちょっと「?」が付くらしい。
- 別所長治記:播磨三木城城主で、毛利氏と同盟関係にあったため豊臣秀吉の総攻撃に遭い、城兵の代わりに自害した別所長治の伝記。著者は別所氏の家臣であった来所弥一右衛門という。
- ”鳥取城合戦始末記”:…というサブタイトルが付いているが、こういう史料が現存しているのではなく、歴史に名高い「秀吉の鳥取城干殺し」についての諸史料をまとめた物。吉川経家が子供に当てた遺言状などを収録。
- 高松記:やはり豊臣秀吉の水攻めで有名な備中高松城の攻防を、その城主であった清水宗治の子孫がまとめ、元文4年に長州藩に提出した物。
- 身自鑑(玉木土佐守覚書):毛利元就、輝元、秀就の3代に仕えた玉木吉保の覚え書き。元和3年成立。元就から関ヶ原までの毛利氏の攻防に関する記録はもちろんだが、それ以外にも料理に関する蘊蓄なども何故か詳細に書かれており興味深い。
卑弥呼の墓か、築造期一致 奈良・箸墓古墳http://www.47news.jp/CN/200905/CN2009052901000239.html
邪馬台国の女王卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市の箸墓古墳の築造時期が、土器などの科学的分析で240-260年と推定されることが、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の研究グループの調査で29日分かった。 中国の歴史書「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は248年ごろに死亡したとされる。研究グループの春成秀爾同館名誉教授(考古学)は「時期が一致し、卑弥呼の墓の可能性が極めて高くなった」と指摘。畿内説と九州説に二分される邪馬台国の所在地論争に大きな影響を与えそうだ。 箸墓古墳は、3世紀初めごろに出現した当時国内最大の集落跡、纒向遺跡にある全長約280メートルの前方後円墳。宮内庁が陵墓に指定しているため、墳丘内の発掘はできず、周辺の調査で見つかった土器などが年代を知る手掛かりになっていた。 研究グループは「放射性炭素年代測定法」と呼ばれる手法を使い、箸墓古墳の周濠から出土した築造時とみられる土器10点に付着した炭化物を分析し、測定値を年輪年代測定法の年代で換算した。この手法については、精度や測定データ処理に対し、慎重な見方をする研究者もいる。 研究成果は、日本考古学協会総会で31日に発表する。 【共同通信】
2009年5月29日 邪馬台国 ナゾ解き続く 化学分析、畿内説に"軍配" 箸墓古墳http://www.sankei-kansai.com/2009/05/29/20090529-010451.php
「昼は人が造り、夜は神が造った」と日本書紀に記された箸墓古墳(奈良県桜井市)。邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説もあり、大和か九州かで揺れる邪馬台国の所在地論争もからんで、被葬者は古代史最大の謎ともされる。その築造年代を「放射性炭素年代測定」は西暦240~260年とはじき出した。これは、中国の歴史書に記された卑弥呼の没年とほぼ合致。科学分析は邪馬台国畿内説に“軍配”をあげた形になった。しかし、測定法の精度を疑問視する見方もあり“謎解き”はまだ続きそうだ。 「卑弥呼が魏に朝貢(239年)。2代目女王・壱与(いよ)朝貢(266年ごろ)」。中国の歴史書「魏志倭人伝」は、3世紀の日本について年代順に細かく記述している。 年代測定を行った国立歴史民俗博物館の研究チームは、箸墓古墳や他の遺跡出土の土器など数千点の放射性炭素年代を調査。箸墓古墳の周(しゅうごう)から見つかった「布留0(ふるゼロ)式」とよばれる土器は、西暦200~300年代の測定結果が出されたが、これより少し新しいとされる形式の土器「布留1式」では270年ごろと割り出したことなどから、「布留0式」を240~260年に絞り込むことができたという。 研究チームの小林謙一・中央大学准教授は「かなり精度の高いデータが得られた」と強調する。 一方で、考古学者を中心に慎重な見方が多いのも事実だ。かつて箸墓古墳を発掘した奈良県立橿原考古学研究所の寺沢薫・総務企画部長は「研究途上の炭素年代測定によって、10年単位まで絞り込むことができるのか疑問がある。これで箸墓古墳の築造時期が決まったとはとても思えない」と指摘する。 箸墓古墳を270年ごろの築造とみる兵庫県立考古博物館の石野博信・館長も「科学的な炭素年代を頼りにしたいが、まだまだデータが不足している」と慎重な立場だ。被葬者像については「箸墓のような巨大古墳は、戦乱をおさめ、卑弥呼の後に女王になったとされる臺与(とよ)(=壱与)こそふさわしい」と話した。 【写真説明】放射性炭素年代測定が行われた箸墓古墳出土の土器=奈良県橿原市の奈良県立橿原考古学研究所 (2009年5月29日 14:25)
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ということで、先週末は大々的にニュースになってました。
しかしどうよ。
いや、
箸墓古墳が一番古い前方後円墳とか、
もしかしたら古墳時代じゃなくて一般的に弥生時代とされている時代の”古墳”じゃないのか
…という話よりも「箸墓古墳=卑弥呼の墓=だから邪馬台国は大和国にあった!!!」…というところに焦点を宛てた報道しかできないマスコミの貧困さにあきれ果てて声が出ませんわ。日本の古代史は邪馬台国しかないのかよ。
あるいはこう書かないと
そんな中、かつて「ゴッドハンド」騒動スクープで新聞協会賞を取ったhentai毎日新聞さんは「うちは他とは違うんざます!」といわんばかりのタイトルで報道。
箸墓古墳:歴博年代測定、「箸墓は卑弥呼の墓」 信頼性疑問もhttp://mainichi.jp/enta/art/news/20090601ddm041040065000c.html
国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)の研究グループは31日、古墳時代の始まりを示す箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)は240~260年に築造されたと、東京・早稲田大であった日本考古学協会の研究発表会で報告した。247年ごろとされる邪馬台国の女王・卑弥呼の死亡時期と重なるため、邪馬台国所在地論争の点で注目される。しかし、この測定で箸墓を卑弥呼の墓とするには問題が残り、数値が独り歩きすることへの懸念がある。 発表後、司会者の同協会理事が「(発表内容が)協会の共通認識になっているわけではありません」と、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請を行った。 歴博グループは、放射性炭素年代法によって全国で出土する土器に付着した炭化物を中心に年代を測定。箸墓でも、築造時の土器とされる「布留(ふる)0式」など16点を測り、この前後につくられた他の墳墓や遺跡の測定結果も総合して240~260年を導いた。春成秀爾(ひでじ)・歴博名誉教授は「この時代、他に有力者はおらず、卑弥呼の墓であることが確定的になった」と述べた。 しかし、土器付着炭化物は同じ地点から出た他の資料に比べ、古い年代が出る傾向がある。中国の史書「魏志倭人伝」では、卑弥呼の墓は円形とあって前方後円墳の箸墓とは異なるなど、文献上からも問題があり、会場からはデータの信頼度などに関し、質問が続出した。【伊藤和史】
…毎日は今後はこの分野だけに特化した新聞になればいいと思うよヾ(^^;)
ちょっと前のニュースですが
…えー、戦国時代の島津(特に島津日新斎忠良お祖父様以降)…ヾ(--;)
そうか、アレな忠恒も近親交配の結果に違いない!(と思ったが、母親は島津氏とは縁のない家から来てるしなぁ)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200905/2009050400181「近親婚の繰り返しで断絶」=スペイン・ハプスブルク朝-遺伝学者
…えー、戦国時代の島津(特に島津日新斎忠良お祖父様以降)…ヾ(--;)
そうか、アレな忠恒も近親交配の結果に違いない!(と思ったが、母親は島津氏とは縁のない家から来てるしなぁ)