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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
omote-matsuuraseizan.JPGura.JPG実は昭和48年(1973年)の本です(○。○)。なので、見たい方は古本屋探すか、図書館を探すかしないと入手不可能な物です。
裏表紙は日産ローレルです。フェンダーミラーとか広告の字体とか、左上の「技術の日産」というキャッチフレーズに昭和を感じます(^^;)

内容はタイトルの通り、江戸時代の主な大名家を100家を地方別に取り上げて、簡単な説明と資料写真で紹介しているという物です。拙HPのネタの宝庫ヾ(--;)島津家とか伊達家とか大大名を取り上げているのは当然としても、近畿・東海・関東辺りの1桁万石の小大名の選別基準がよく分からない…そういう小大名を含め半ページ以下しか割り当てがないような藩もありますので、内容はかなり簡単です。
また、執筆者を見ると杉本苑子氏や村上元三氏など作家が多く名前を連ね、大学の研究者らしい人は少ないように思いました。昭和40年代までは趣味としては興味深くても、学問の研究対象としてはつまらない時代と思われていたのかも知れませんね>江戸時代 まあ、昭和40年頃に一線で活躍していた人の祖父母は確実に江戸時代を知っている人ですし、また数は非常に少ないですが江戸時代生まれの方もご健在でしたし(○。○)ちょっと生々しすぎる部分があったのかもと思います。なので、内容は巷説をそのまま真に受けて書いたと思われることも多く、余り参考にはならないかなと思います。

むしろ興味深いのは資料写真。数は多くないのですが、余り見られないような肖像画などが掲載されていました。
shimadzu-shigehide-romaji.JPG島津重豪が書いたというローマ字の文章。本には実物大サイズで掲載されてました。15cm四方だったかな。

ちなみに書いてある文章分かりますか?正解は「つづきはこちら」で。



matsuura-seizan.JPGseizan-ohzeki-sanada-sanyuzou.JPG左は江戸後期の有名な名君・松浦静山(清)。40歳の頃。
ちなみにこの本の表紙はこの掛け軸を拡大した物です。

右は晩年の頃の静山(一番右側の隠居姿の老人)+真田幸貫(真ん中)+大関増業。天保10年(1830年)に徳川斉昭がこの3人を水戸藩邸に招待し、その宴席でお抱えの絵師に書かせた物という。この3人はそのころ「3名君」として知られていて、斉昭もあやかりたかったらしい…。まあ静山の子沢山にはあやかったかも知れませんね、斉昭ヾ(--;)

matsudaira-sadakatsu.JPGmatsudaira-sadayuki.JPG左が松平定勝、右がその息子の松平定行です。
定勝は久松松平三兄弟の一人(徳川家康の異母弟)。定行は伊予松山藩主で、一般的には「一六タルトの発明者」、拙HPでは島津久賀の次女伊集院忠真の忘れ形見・千鶴の夫となった人と言った方が通りがいいかもです。

…親子ともにのっぺりした顔されてますね(^^;)

asahi-in-matsuyadera.JPG朝日…といっても、豊臣秀吉の妹の方じゃなくて、高台院(北政所ねね)の母親の方。
日出藩木下家(高台院の甥の子孫)の菩提寺である松屋寺に伝わった物だそうです。この人は大河ドラマ『秀吉』で八千草薫が演じたことがありますが、それ以前はほとんど知られていない人でした。秀吉と非常に仲が悪かったことで有名です。でもなくなったのは秀吉が死んだのと同じ年…
こちらも高台院像と何となく似てるように思いますね。特に輪郭。

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時々拝見させていただいているこちらのブログなのですが
先日の更新が拙HPにも関係していることなので興味深く拝読させていただきました。

結論としては
「うーーーーーーーーーーーーん」
なんですが(爆)

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…をBS-TBSで拝見しました。
100年ちょっと前の話なのに、かなり分からなくなっていることが多いようです。ということに驚きました。

一番興味深かったのは、斉彬の曾祖父・島津重豪の紹介をするときに『国史大辞典』にも載っているあの肖像画の方じゃなくて、鶴嶺神社蔵の坊主姿の木像の方が紹介されていたこと。今回初めて見ました。というか、余り本でも紹介されてないのではないかな、重豪木像。

鶴嶺神社にはどうも他にも島津氏関係者の多くの肖像画や木像が所蔵されているようなんですが、この件について尚古集成館に問い合わせたら「今後公開する予定もないし、写真が載っているパンフもない」とけんもほろろの回答をされた記憶が…(T-T)

番組HPはこちら

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公式サイトはこちら

今までそんな物があることも全く知らなかったんだがヾ(^^;)
某所掲示板でタイトルが出てきたりとかこちらのブログでちょっと話題になったので初めて知りました。

「豪華執筆陣!」
…の代表で上げられた人が
  • 童門冬二:『プレジデ○ト』か『歴史街○』の二番煎じのようなヾ(^^;)
  • 火坂雅士:今年のあの大河の原作者です…後は察して下さい…
…なんか読もうという気が起こらない…ヾ(^^;)

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別件で検索中に見つけたのだが
今週の本棚:山内昌之・評 『島津久光=幕末政治の焦点』=町田明広・著  (講談社選書メチエ・1680円)  
◇「皇政回復」による維新実現の立役者
島津久光は明治維新の立役者でありながら、兄の斉彬と比べて凡庸な人物と理解されがちであった。しかし、町田氏はこうした通説を斥(しりぞ)け、久光を 「不世出の政治家」であり、「類稀(たぐいまれ)なる文化人・文学者」として評価し、斉彬も一目を置くほどの器量の持ち主だったと考える。
その片鱗(へんりん)は、著者が「久光四天王」と名付ける小松帯刀(たてわき)や大久保一蔵(利通)ら近臣を活用した中央政局への関与にまず現れる。なか でも大久保や西郷吉之助(隆盛)以上に小松こそ、久光の名代として明治維新を実現させたキー・パーソンだったことが重ねて強調されるが、これはすこぶる説 得力に富んでいる。
久光は「皇国復古」という標語のもとに、天皇権威の向上と天皇中心の政治体制への変革をテコに幕末の危機を乗り越えようとした。著者は、学問的に文久期前 半の久光らの政策を「皇政回復」として概念化し、慶応期の「王政復古」と区別している。久光は、文久二年から都合四回も時には大規模な兵を率いて入京し た。その度に中央政局は大きく転換し、久光はその存在感を次第に強めていった。兵力を率いた入洛(じゅらく)は、幕府との交渉で武威を誇るものでなく、久 光らの統制に従わぬ尊王志士の「義挙」つまり武装蜂起を妨げるためだったという。有名な寺田屋事件も薩摩藩内部の抗争の逸話などでなく、幕末政治史の本質 にかかわる悲劇だった点が強調される。
町田氏によれば、寺田屋事件こと「伏見義挙」の挫折は、長州の藩是を破約攘夷(じょうい)に転換し中央政局進出の発火点になり、薩長両藩不和の原因となっ たのである。久光の粛清は当然長州藩士に及ばなかったために、長州はその後の皇政回復運動の中心に成長したのだ。著者は、これこそ事件の隠れた政治的衝撃 だったと言いたいのだろう。久光は一部家臣を排除することで過激志士を嫌いな孝明天皇の信頼を得たが、薩摩の一体性を損なったことは否めない。その間隙 (かんげき)をついたのが長州であり、同士討ちをした誠忠組など薩摩の尊王派内部に久光への不満をもたらし、その後かれらの吸引極になったのが西郷でない かと私はにらんでいる。  明治維新に向けた最終段階の権謀術数に辣腕(らつわん)を振るったのは久光と徳川慶喜であった。しかし、王政復古から鳥羽伏見の戦いに至る革命のクライ マックスに久光は居合わせなかった。これで久光の中央政局での役割は終った。氏は久光帰国の理由として、足の疾患、藩内の率兵入洛反対派の説諭のためだっ たと語る。その名代格の小松帯刀も足痛のために薩摩に帰国していた。重要人物二人が中央政局を留守にしていた時に、回天の大事業が成ったというのは皮肉で もあり、謎めいている。このあたりに西郷や大久保や岩倉具視の詭計(きけい)がなかったのか否かにも興味を引かれる。
久光が天皇の下で公家や諸侯らの公議政体を構想し新政府の主要指導者になると確信していたと氏は指摘する。幕府や摂関制が廃止されて久光が依拠できる権威の源泉が消えたという説明にも納得できる点が多い。確かに王政復古の政変は久光の練った筋書きかもしれない。
しかし、久光ほど政治感覚に鋭敏な人間であれば、倒幕の決定と実行の現場に近い所にいなければ、大変革の功労者として手腕を振るえないくらいの政治メカニ ズムを知っていたはずだ。万一の保険なのかどうか、切所(せっしょ)に際会して権力変動の渦から離れた久光の真意はいぶかしい。読者に多くの想像や疑問を たくましくさせ、文章にも意気込みが感じられる好著である。
http://mainichi.jp/enta/book/news/20090322ddm015070008000c.html
毎日は比較的早く記事を削除する傾向があるので、念のため全文コピペ引用させていただきました。ご容赦の程。

気になった箇所があった。再度引用
重要人物二人(注:島津久光と小松帯刀)が中央政局を留守にしていた時に、回天の大事業が成ったというのは皮肉でもあり、謎めいている。このあたりに西郷や大久保や岩倉具視の詭計(きけい)がなかったのか否かにも興味を引かれる。
… 近年の幕末を舞台にした大河ドラマは、大政奉還→王政復古→戊辰戦争に至る流れを西郷隆盛・大久保利通・岩倉具視の共謀による陰謀!とする傾向が強い (『新選組!』『篤姫』)が、山内教授も大河の影響からは離れられないと言うことなのかな。ちなみにこの説は元鹿児島大学教授の原口泉氏も唱えていたよう に思う(というか、『篤姫』の考証は原口氏だから、むしろ火付け人か?)。


拙ブログ関連ネタ  

ネタにされた本はこちら

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