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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
番組公式HPはこちら



…実は
BShi「大河ドラマ50」に浮気して最初の1時間と最後の1時間しか見てません!ヾ(--;)
その上で感想をば


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正確に言うと「紛失物」じゃなくて「除物」(理由があってリストから削除された物)なんですが。
あと、昨日のニュースに今頃反応して本当に済みません…

1250年…幻の大刀 聖武天皇ゆかりの品だった 奈良・東大寺出土 (1/2ページ)

2010.10.25 19:50
このニュースのトピックス歴史・考古学
正倉院の宝物だったことが判明した東大寺大仏殿からの出土品で国宝「金堂鎮壇具」の金銀荘大刀二振。左が陽剣、右が陰剣(頼光和弘撮影)=25日午後4時28分、奈良県生駒市の元興寺文化財研究所保存科学センター(頼光和弘撮影) 正倉院の宝物だったことが判明した東大寺大仏殿からの出土品で国宝「金堂鎮壇具」の金銀荘大刀二振。左が陽剣、右が陰剣(頼光和弘撮影)=25日午後4時28分、奈良県生駒市の元興寺文化財研究所保存科学センター(頼光和弘撮影) 

  奈良市の東大寺大仏の足下から明治40年に出土した国宝・金堂鎮壇具(こんどうちんだんぐ)の金銀荘大刀(きんぎんそうのたち)2本が、同寺を創建した聖 武天皇没後に妻の光明皇后が大仏に献納し、その後約1250年にわたって行方が分からなくなっていた「陰寶劔(いんほうけん)」と「陽寶劔(ようほうけ ん)」だったことが分かり、元興寺文化財研究所(奈良市)と東大寺が25日、発表した。2本は、大仏に献納された聖武天皇の遺品目録「国家珍宝帳(こっか ちんぽうちょう)」の大刀の項目の筆頭に記された正倉院宝物。献納後に光明皇后が持ち出し、埋納した可能性が高い。

 同研究所によると、 陰・陽寶劔の記載欄にはいずれも献納を取り下げる意味の「除物(じょもつ)」の付箋が張られ、大仏殿竣工(しゅんこう)翌年で光明皇后の死去前年の759 年12月26日に正倉院から出された記録が残っている。除物の付箋がある宝物は7件あるが、所在が判明したのは今回が初めて。

 同研究所の X線調査で、大刀のさびついた刀身の内側の根本からそれぞれ「陰劔」「陽劔」という象眼(ぞうがん)された銘文を発見。東大寺によると、大刀はいずれも長 さは約98センチで鞘は漆で塗られ、金や銀の装飾が施されており、光明皇后が756年に聖武天皇の四十九日法要に合わせて献納した陰・陽寶劔と刀身の長さ や装飾の特徴もほぼ一致した。

 2本は、明治40年の大仏殿修理の際、本尊・盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)(国宝)の右ひざの下あたりから出土し、金銀荘大刀として同時期に周辺から出土した銀の壺や水晶合子(ごうす)などとともに地鎮のための鎮壇具として昭和5年に国宝指定された。

 杉本一樹・宮内庁正倉院事務所長の話 「除物とある宝物の用途が判明した初めての例で非常に重要。残りの金堂鎮壇具も除物された宝物の可能性がある」

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101025/acd1010251959005-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101025/acd1010251959005-n2.htm
こういう事があるから歴史は面白い
ただ土中に埋めるとどうしても保存状態が悪くなるので、個人的な感想を言うと本当はそのまま正倉院に入れて置いて欲しかったなあ、と。

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番組公式HPは無し_(。_゜)/ 紹介はこちら


10月11日(月)の晩放送だったのですが、録画したのを本日までにヾ(^^;)拝見しました
…ビデオ録画も1時間超えると切れ切れにしか見られない現状がつらい(つд`)

感想ですが
・現代の奈良を舞台に、当時の再現映像が入る
・現代の発掘現場の画像が入る
・研究者による最新の研究の解説とインタビューが入る
・と思えば、NHKのアナウンサーの実況のような場面も唐突にある
…と、構成が統一されていないので、何か取っつきにくいというか
画面の前で見ている視聴者はしらけちゃうような内容になってましたヾ(^^;)

しかし、平城京遷都1300年記念とはいえ、
「藤原仲麻呂の乱」なんて歴女も喰わないマイナーなお話ヾ(--;)にチャレンジした勇気は買います。

内容ですが、構成が既述の通り統一されてないので分かりにくい印象を受けましたが、NHK得意の
歴史捏造に等しい編集ヾ(--;)は無かったので、それも評価できるかと。
ついでながら、孝謙・称徳天皇役は今年の4月に放送されたNHKドラマ『大仏開眼』の石原さとみじゃなくて、こちらの番組のおばちゃんヾ(--;)のほうが史実に近いかと(^^;) 但し!この番組では奈良時代の乙姫様姿で終始登場の孝謙天皇ですが、実際はこの当時出家してしまってますので、乙姫ルックは不正確です。

個人的には最後に紹介された「藤原仲麻呂の墓」が興味深かったです。江戸時代(安政頃?)に作られたらしい地図に「伝承地」として書いてあったそうなのですが、余呉湖の近く?にあるそうで。

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こちらを読んで色々言いたいが、持ちネタばらすことになるので悶々している私がいるヾ(^^;)
その独裁ぶりや正室亀寿への冷淡さなどから、あまり評判のよくない家久ですが、考えてみれば、舅(義久)と姑(カタリナ夫人)には永年苦しめられた婿さんですね
義久はともかく(※亀寿との結婚は豊臣秀吉との命令でもあったので逃げられなかった)、カタリナ夫人の場合、そもそもその娘を側室にしなければこんな大地雷踏むこともなかったわけで。
要は忠恒(家久)は若い女に引っかかりやすいバカだったんですよ(暴言)
…まあ、側室の身辺調査はやっとくべきだったでしょうね、と、そのあたりを突っ込んでいくと私の持ちネタをばら(以下自粛)
カタリナ夫人を種子島に追放した前後、家久は病床にあります。もう晩年ですからありえることでしょうが、カタリナ夫人がらみの精神的な心痛が起因ではないでしょうか?
今具体的な資料を出せないのですが、かなり前から体調は悪かったような。喉のトラブルを都度都度訴えているので、喉頭癌じゃないかとにらんでますが。ちなみに家久(忠恒)没年は事件発覚後6年経った寛永16年(1638年)ですね。…目の上のたんこぶが無くなってせいせいして寿命が延びたのかな?(苦笑)

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前の話はこちら

『歴史読本』2009年4月号の巻頭コラムは
「戦国女性の姓・苗字・名」坂田聡
でした。
坂田氏についてはこちら参照。申し訳ないのですが全く存知ませんでした(中央大学の史学って余り…だし)。しかし、経歴を見ると「日本の人名の歴史の専門家」といって間違いないと思います。

巻頭コラムは、今までの通説とは違う話も紹介されており、非常に興味深い内容でした。かなり長文ですので、要点のみ紹介します。
  1. 「姓」と「苗字」の違いについて
    日本史に関心のある人は既に周知のことではありますが、「姓も苗字も一緒じゃないの?」という方は先にこちらをご覧下さい→苗字(名字)姓(氏)
    坂田氏曰く「姓は”氏”という集団の名前、苗字は家の名前」とのこと。
    姓(氏)は天皇に奉仕する集団の呼称であるため、天皇が上から与える物。苗字は財産の相続(基本的には父から嫡男への先祖代々の相続)により「家」制度が成り立ってくるのに対してそのシンボルとして下から誕生した物。苗字の成立は財産相続が分割相続から単独相続に変わっていく14世紀(南北朝)頃ではないか。
  2. 女性の「姓」と「苗字」
    鎌倉時代以前は女性も「姓」を持っており、結婚しても変わることはなかった(例:平政子)。逆に「藤原氏女」「源氏女」という形で姓しか名乗らないことも多かった。これは女性も「氏」の集団の一因として認められていたからである。
    しかし、室町時代以降になり苗字が一般化すると、同じ「家」に属する夫婦は同じ苗字を使うことになる(坂田氏によると16世紀の前半に丹波国山国荘の女性「さいま」は鶴野”家”の出身だったが結婚先の「井本」という苗字を名乗っている。が、このように苗字を変えたという例が分かる方が珍しいことから考えて、女性は苗字を使う機会がなかったのではないかと考えられる。つまり”姓”より”苗字”が一般的に使われるようになると、公的な行事に出てくることの少ない女性は”姓”も失い”苗字”も名乗る機会がなかったのではないか。
  3. 「名前」について
    近世以前の男性はいくつもの名前があるのが普通であった。成長に応じて童名→<成人(烏帽子成り)>字(仮名)→<官途成り>官途名→<入道成り>法名と変わっていった。他に「源頼朝」の”頼朝”のように”姓”とセットで使われる実名もあった。このようにいくつもの名前を変えていくのが当時の一人前の社会人として認められた男性であった。が、一生童名で過ごさざるを得ない男性も存在した。その人達は要は子供同様=「一人前の人」として認められない、差別された人であった。
    近世以前の女性については、鎌倉時代までは「平政子(=北条政子)」のように姓と実名を持つ者もいるが、一方で成人なのに「亀女」「松女」といった動物・植物名や「釈迦女」「薬師女」といった仏教・神道に関わる名前を名乗っている女性が見られる。このような名前は男性の童名の特徴と共通しており、要は成人したのに一人前と見なされてない人間であると考えられる。室町・戦国時代になると
    1. 生涯童名を名乗る(=子供同様半人前扱い)このパターンの名前が増加する
    2. 男性名+女(例:「衛門太郎女」「平内女」など)を名乗る、これは家の長である男性の名前を付けて名乗っているもので、(1)同様女性の地位が低下したことを示している
    3. 法名、つまり尼さん。これも嫁取婚が一般化すると共に夫の死後再婚せず子供の成人まで「後」として家を守り、夫や「家」の先祖を供養することが義務となっていったことが関係していると考えられる。
結論として
  • 室町・戦国時代になると大半の女性が生涯童名を通さねばならなかった。つまり年齢と共に名前を変える男性とは明らかに区別されていた。名前を変えられない男性下層民同様の「半人前」の存在であった。
  • 戦国時代に家制度が成り立つと、家長である男性のみが家を代表するようになり、すべての公的な場から閉め出された女性は「○○妻」「○○母」と言った表記に見られるように「家長の付属物」としてみられて童名すら名乗れないケースが増えた

なかなか興味深い論ですが、細かい点を見ていくといくつか疑問も生じます。
  • 女性が”姓”を使わなくなり”苗字”も名乗る機会が無くなり名前も生涯ほとんど変わらなくなる室町~戦国時代を女性の地位の低下のターニングポイントと坂田氏は考えてられるようだが、鎌倉時代以前の大半の女性の名乗り(”姓”+女)も実名を名乗ってないのだから、女性の地位の低下を表している物と見られるのではないか。例えば「尊卑分脈」では紫式部は「藤原為時女」とされ実名は書いてないし、平安時代にさかのぼる史料「小右記」で「越後守為時女」と書かれるなど紫式部の実名が分かる物はない。
  • 江戸時代以降になると年齢や立場の変化によって呼び名が変わる女性がいる事が分かる(『江戸の少年 (平凡社ライブラリー)』等で実例が紹介されている)。これは男性の名前の変化と関連があるのかどうか。今回の論で言及した時代の範疇から外れるためかだろう、比較などはなかったのが残念。
…が、大筋では坂田氏の論はだいたい鋭いところを付いているのではないかと考えます。

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