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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
「本藩人物誌」より

浜田民部左エ門入道栄臨初め重門 子孫浜田栄右エ門浜田佐渡守重好三男也」 村田越前守経定之附衆中ニテ於諸所軍労武功抜群ユエ 竜伯公鹿児島ヘ被召出」 秀吉公九州御動座之砌達台聡御目見被仰付御手鑓金房兵衛正次作一尺二寸余「今子孫ノ家ニアリ」并知行五百石拝領被仰付候得共知行ハ一ヶ年致取納御断申上 竜伯公へ返上仕候」持高百石」慶長十六年正月廿一日 竜伯公御逝去二月廿日御荼毘之砌於福昌寺殉死七十八歳法名鏡山栄臨居士殉死十五人ノ一二シテ第十一号ノ地蔵塔ナリ
 二ツナキ命ヲ君ニ奉ルコヽロノウチハスメル月カナ
 武士ノ取伝ヘタル梓弓君ニヒカルヽ後ノ世マテモ
栄臨ハ村田越前守手ニテ諸所之御合戦城責等ニ敵中又ハ城中ヘ忍入武功多ク 貴久公御代ヨリ 義久公御代迄御出陣コトニ戦功忍ノ巧者也

この方、拙HP「浜田経重女」でも紹介していますが、あの押川強兵衛の舅に当たる人です。
元々島津家の老中・村田経定の家臣だったのを島津貴久がスカウトしたようですね。
押川強兵衛も忍者でしたが、この浜田経重も忍者でした。娘を押川強兵衛に嫁がせたのも、同業者の縁だったのでしょう。

ところがこの婿が、平田増宗暗殺、という事件をしでかします。
この事件は桐野作人さんのブログで詳細に説明されていますが    
島津義久派の家老を暴力的な手段で排斥したことには間違いがありません。が、上記に書いてあるように浜田経重は島津義久によって取り立てられた人物でした。この事件にショックを受けたことは容易に推察できます。

経重が出来る最大のお詫びが、事件翌年義久が死んだときに跡を追って殉死する、それしかなかったのではないでしょうか。
島津家の知られざる「御家騒動」が生んだ、知られざる悲劇の一つでしょう。
 

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「本藩人物誌」より、興味深い人物のご紹介。

吉田刑部左衛門清縄 日野小三次 喜兵衛改吉田 子孫 吉田四郎兵衛
天正十二年生同十五年九州入ノ時日野大納言殿之孫日野小三次母子五人仕大友家干時吉田美作守生捕来り「小三次ハ」 義久公被「改テ喜兵衛ト称ス」姉ハ美作守室トナリ「故ニ美作守請テ喜兵衛ヲ吉田氏ニ改シム則刑部左衛門清縄ナリ」

大友氏に日野家が仕えていたという話は、検索した限りでは裏が取れず不明。しかし、大友氏と少なからぬ関係のあった大内氏の元には大勢の公家が疎開していたという話は有名であり、大内氏滅亡後、庇護を求めて大友氏に落ち延びた公家が居たことは推察できよう。

ちなみに捕獲した(ついでに娘を嫁にしてしまった)吉田美作守とは吉田清孝のこと。後に、亀寿付きとなり、関ヶ原の合戦後亀寿の大阪脱出に尽力する人物である。なお、「本藩人物誌」によると吉田清孝の跡は養子が嗣いだとあり、日野氏の娘との間には子供に恵まれなかったようである。


拙ブログ関連ネタ こちら

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(※ばんない補足 天正13年3月)十五日、衆中各被来候、見参申候、従野尻、佐土原井蔵八町之事、一両年糸原名之打替として市作(注1)拵之由、かこしまより承候、然共一向為ニ罷成事無之候、其故者、于今方〃より懸持共候、左様之処然〃不知候間、検地させられ候て可然之通、かこしまにて承被成候、従此方も検地衆相添候へと承候間、岩崎刑部少輔・江田源七兵衛尉遣候、野尻よりハ長名字之方也、
(「薩藩旧記雑録」後編2-18「上井日記」)※下線はばんない補足

注1:市来家守

一般的にどんぶり勘定と言われる文禄検地以前の島津家ですが、一応検地はやってたみたいです。
…どれくらいのレベルかわかんないけど。

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「上井覚兼日記」の天正13年卯月25日条に、タイトルに書いたとおり島津久保と忠恒の元服の様子が記録されている



といっても、覚兼は元服式には同席せず、又聞きのようだが_(。_゜)/
にしても、久保と忠恒の元服の様子を知る、かなり早い史料であることは間違いありません。

一廿五日、 早旦天神へ別而読経等申候、従夫出仕申候、御月次御連歌也、 太守様(注1)者御虫気とて御出座なく候、然者、隙入事候ハす候侭、軈而罷帰候、町田羽州(注2)礼ニ御座候、閑談共也、先日 武庫様(注3)へ一ヶ条御承之使麟台(注4)・町羽(注5)・伊伯(注6)被成候、 武庫様も人してきこしめされ候、其使、喜入摂州(注7)・有川雅楽助(注8)・上井次郎左衛門尉(注9)にて候つる由物語候、又 武庫様御息(注10)御元服之様子、理髪之役中書公(注11)被成之由也、御名又一郎殿と申由也、御次男(注12)御元服者、 武庫様御仮屋へ 太守様御光儀之時と聞得候、理髪者町羽被成候由也、御名又八郎殿と申由也、又一郎殿御進上式之御引物、御酌之時刀御進上之由也、 太守様より御腰物御給被成由也、又八郎殿鎧甲進上被成、是も 御腰物御賜之由也、御進物酒肴等之事ハ不及書戴候、大方物語如此候、此日も、当初衆各被来閑談共也、御酒なと参会候、
(「薩藩旧記雑録」後編2-18)

注1:島津義久
注2:町田久倍
注3:ご存じ島津義弘
注4:島津忠長 官名の「図書頭」の所属”図書寮”を中国風に読むとこうなる
注5:町田久倍
注6:?
注7:喜入季久
注8:有川雅真 伊勢貞昌のお父さん
注9:上井秀秋
注10:後の文章読めばわかるのだが、島津久保のことである
注11:島津中務大輔家久 「中書」は官名“中務大輔”の中国風読み
注12:島津家久(忠恒)

私の感想など



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ある掲示板で「亀寿は幽閉されていた」という人がいて、私が調べた限りでは、それを明示するような史料にぶち当たらず「?」だったのだが
もしかして、この記述が元になっているのだろうか?

「本藩人物誌」より

長崎仙右衛門通泰 常通子前文通り常通切腹被仰付知行高被召上候ニ付通泰一往旧井名字相名乗候元和四年六月廿八日先年被下置候知行御侘申上為返地本城舟木水流門知行高六十石被下候其後於国分●役相勤候慶長十七年従 家久公通泰并河野郷兵衛鹿児島江被召呼於諏訪社神水為御呑被仰付候ハ当時垂水ノ相模殿御家御家督御望ノ由致風聞御家中ヨリモ帰服イタシ候時分若御謀計トモ可有之哉別テ御念遣被思召候ニ付国分城中堅固相守可申旨御意ニテ御帷子拝領被仰付候テ新城へ罷移候大手口御門ノ内ニ被召置候郷兵衛儀ハ御門外ニ被召移両人ニテ御門ノ差引相勤候
※「口愛」(あつかい)


ちょっと後半の文が意味が取りにくいのだが、再掲

慶長十七年従 家久公通泰并河野郷兵衛鹿児島江被召呼於諏訪社神水為御呑被仰付候ハ当時垂水ノ相模殿御家御家督御望ノ由致風聞御家中ヨリモ帰服イタシ候時 分若御謀計トモ可有之哉別テ御念遣被思召候ニ付国分城中堅固相守可申旨御意ニテ御帷子拝領被仰付候テ新城へ罷移候大手口御門ノ内ニ被召置候郷兵衛儀ハ御門 外ニ被召移両人ニテ御門ノ差引相勤候

(ばんない意訳→慶長17年、家久(忠恒)公より通泰と河野郷兵衛を鹿児島ヘ召し寄せられ、諏訪神社の御神水を呑むために(持ってくるよう※ばんない補足)仰せつけられた、というのも、当時は垂水の島津信久(忠仍)が島津家の家督を狙っているという噂があり、家中でも信久を支持しようという動きがあり、もし陰謀があるかもと特別に念を遣うように思し召されたことにより、国分城中を堅固に守るようにと(家久の)御意図により帷子を頂戴し仰せつかい、新城へ移った。大手口御門の内に通泰が召し置かれ、郷兵衛は御門の外に召し置かれ、二人で門の開け閉めを勤めた。)
※諏訪社→鹿児島県内には多くの諏訪神社が存在するようだが(参考こちら)、この文に出てくるのはこちらか。

家久の家臣が門番したのは国分城だったのか、それとも姉・新城の居る城の方だったのだろうか。
ちなみに慶長17年(1612年)とはご存じの方が多いと思いますが、島津義久が死んだ翌年です。

なお、上記の長崎通泰伝にも書いてあるように、通泰の父・六郎左衛門通常(常通)は切腹に追い込まれ、その結果領地も取り上げられてしまい、通泰も浪々の生活をしていたようである。通常(常通)切腹の理由は、「本藩人物誌」長崎通常の項目を読んでいてもかなり複雑で分かりにくいのだが、泗川の戦いの時の舟の手配で不手際があったことに依る物らしい。
なお、長崎通常は島津義久が隠居した際に市来から富隈に移ったとあり、義久の家臣であったと見て間違いないだろう。

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