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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
長い間、私は肥知岡氏女(島津中務大輔家久の母、島津貴久側室)の戒名について
・縁室如従大姉
・花室清忻大姉
の2つを書いておりました。
このうち縁室如従大姉については佐土原城に存在する島津家久、豊久、家久妻(樺山義久女)等と並んだ家久母の墓に彫られている戒名であることから出所がはっきりしていたのですが、花室清忻大姉については、実はネットで見た情報だけで、これを裏付ける史料もない状態でした(お恥ずかしい次第で面目ない…)。

これについてある方(事情により「H氏」とします)とのやりとりで、「伊集院由緒記」(『鹿児島県史料拾遺』ⅩⅤ所収)を紹介されました。内容は以下の通りです。
下谷口村之内麓 曹洞宗川辺宝福寺末寺
 一 久木山 破鞋庵
    但院号無御座候、
    苗代川 御仮屋より卯辰之方道法凡一里廿四町
(中略)
 一 花室清忻大姉御牌 一本
     右
   大中様前之御前様二而御座候由申伝候、御位牌後ニ朱書二而于時天文十八年己酉七月十四日御逝去為年忌記置之御所領二町寄進也、住寺全隆代と書記有之候
   右石塔御座候、前代者七月盆ニ御物より御燈炉掛来候之由申伝候、伊集院家御息女之由申伝何某息女儀相知不申候
  かくけしてありつ
 一 御石塔 一基
   右花室清忻大姉御石塔二而前代ハ七月盆ニ御燈炉御物より相掛り候由申伝候
(後略)
確かに破鞋庵という寺院はかつて存在し、そこに花室清忻大姉と言う人物の墓があったのは事実のようです。
また、私がかつて見た情報では花室清忻大姉は「大中様(=島津貴久)後室」となっていたのですが、こちらに依れば「前之御前様(=先室)」とあります。島津貴久にはご存じの通り3人の妻がいたのですが、最後の肥知岡氏女は正室ではなく側室でした。また、2番目の妻である入来院重聡女は数々の史料で「雪窓妙安大姉」が戒名であることは確定しております。なので、「花室清忻大姉」は1番目の妻である肝付兼興女の戒名であることは確実でしょう

といいたいのですが

上記の史料を更に読むと、いくつか大きな謎が残っています。
一つは花室清忻大姉の没年。上記では「天文十八年己酉七月十四日」(1549年8月17日)とありますが、これ、後妻・入来院重聡女より後になるのですよ(ちなみに入来院重聡女は天文13年8月15日没)。これはあり得ないだろう、と思うんですが。
また、消し線で削除されているものの、気になることが書いてあります。
花室清忻大姉には石塔があり、それは以前は7月盆に藩から灯明代を寄進されていたと伝えられてきた…ように書かれているのですが、どうもそれは伊集院家の姫である(誰の娘かは不明)とも伝えられていたようです。
…まあ、消し線で消されているところを見ると、後から誤伝か記入ミスであることが判ったのではとも推測できますが…うーむ。



なお末尾ながら、今回の史料を御教示+ご提供下さったH氏に改めて御礼申し上げます<(_ _)>

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…なるものを、別件で検索していたときに偶然見つけたでござる。
≪書目データ≫
【書目ID】 00190940
【史料種別】 特殊蒐書
【請求記号】 島津家本-さⅡ-7-68
【書名】 島津豊久墓所関係文書
【著者名】
【出版事項】
【形態】 袋綴冊子,1冊
東京大学史料編纂所データベース 所蔵史料目録データベース より(※直リンできませんでした)

もしかしてこれは拙HPでも一度ネタにした
 上石津にある謎だらけの伝・島津豊久の墓に関する資料なんだろうか。
史料編纂所HPでは目録だけで中身書いてないんだよな~あ゛~イライラする!ヾ(^^;)

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国分遠寿寺届書
(前半略)
一御一之臺様御持高五拾石之内、弐拾石御仏餉高として北条主水殿より永〃被付置、
(以下略)
(「種子島家譜」75-8(『鹿児島県史料』家分け9所収))


系図では1000石の所領を持っていたとあるが、50石と大幅に減っている。これはどういうことだろうか。


関連ネタ こちら

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「本藩人物誌」より

一新納式部大輔忠朝初源八郎紀伊守ハ本家三代忠臣之三男四郎三郎忠匡長禄三年七月三日三俣戦死其子七郎左衛門忠辰其子安芸守忠興其子四郎三郎久民「イ武」於薩州永吉戦死其子紀伊守久景之養子忠朝也実ハ新納式部大輔忠衝嫡子ナリ永禄九年生母ハ新納氏慶長十六年辛亥 竜伯公御逝去二月廿日御荼毘之節於福昌寺注1門前殉死四十六歳「蘭室宗馨居士」福昌寺御廟前地蔵石塔一番目也十九歳之時分御後世之御供御約束申上ル国分ヨリ御遺骸御供ニテ鹿児島ヘ罷越御本御内へ宿被仰付也「御途中ノ御棺ヲ賜ヒテ其葬礼ニ用ケルトソ」

○新納式部少輔久治源八郎忠朝子「天正十五年二月三日」生「母春山「熊谷」越中直定女」元和五年七月廿一日 惟新公御逝去八月廿三日於大乗院注2川原殉死三十三歳也「竹翁元林居士墓福昌寺ニアリ後寛永九年殉死者ノ為ニ石塔ヲ伊集院妙円寺注3ニ立ツ第二番地蔵塔即久治ノ塔ナリ」
  惟新公ヘ殉死セシ時伊勢貞豊注4ヘ遺サレシ消息ノ末ニ
 浅カラス契ナラスヤ君ニシモ後ノ世カケテ仕エヌル身ハ
 澄トオル月ノ跡ヲシシタヒ行心ハ西ノ空トコソナレ
    此二首子息亀三郎ヘ与候遺書ニ載
久治殉死ノ節 中納言様注5ヨリ伊勢貞豊御使ニテ殉死之儀後世之御供ニテ無比類被思召候得共於戦場抽忠節御奉公仕候ハヽ可為御祝着之由被召留候得共御約諾申上置候一筋難黙止不奉応御意殉死仕候

○新納宅右衛門久永ハ初久晴亀三郎四郎三郎久治子也「元和元年五月七日生母大炊掃部兵衛女」五歳「之時父殉死命ニ違フノ故ヲ以」知行被召揚寺入被仰付置候故家内難渋ニ罷成「其後」父子殉死之御奉公無比類被思召由ニテ 光久公ヨリ右宅右衛門江御切米拾五石拝領被仰付候先祖代〃戦死殉死ニテ右之通御切米永代拝領ナリ「或記寛永元年十月四日久永ニ田禄ヲ賜フ」幼少ニテ父ニ離レ諸事無案内ニ有之伊勢兵部殿貞昌注6ナリ江得差図御目見之願申上兵部殿世話ニテ御太刀進上 中納言様ヘ御目見御普請奉行ニテ江戸ヘ被召列身上逼迫之段被聞召白銀百枚拝領万治三年屋久島奉行ニテ渡海「四年四月」彼地ニテ「卒年四十七法号一覚了心居士」

○新納久右衛門久有亀三郎四郎三郎久永子「母柳本壱岐女寛永十年二月七日生」幼少ヨリ 中納言様御側ヘ被召仕 綱久公注7ヘ奉仕殉死御約束申上置候処天下一統殉死御太禁注8ニ付 綱久公御逝去後弟宅右衛門忠丘ヘ家督ヲ譲リ夫ヨリ御奉公不仕候テ病死此子孫新納宅右衛門ナリ

注記
1:福昌寺 鹿児島市にあった島津家の菩提寺、現在は廃仏毀釈の煽りで廃寺となり、島津家の墓地だけ残っている
2:大乗院 鹿児島市にあった真言宗の祈祷所、島津家と縁が深い ここも廃仏毀釈の煽りで一時廃寺となっている
3:妙円寺 日置市伊集院にある島津義弘・宰相殿の菩提寺 ここも廃仏毀釈の煽りで一時廃寺になっている
4:伊勢貞豊:天正18年~寛永元年4月20日 伊勢貞昌の一人息子。男子なく早世したため、伊勢家の跡は島津家久(忠恒)の息子(貞昭)が嗣いでいる。ちなみにこの人の娘が島津光久の最初の正室。
5:中納言様:島津家久(忠恒)
6:伊勢兵部貞昌:伊勢貞昌、上記家久の小姓から島津家筆頭家老になり、次の藩主外戚にまで登った男。
7:綱久公:島津綱久 寛永9年4月1日~延宝元年2月19日 島津光久の息子、母は上記伊勢貞豊の一人娘。
8:天下一統殉死御太禁 寛文3年、武家諸法度の公布の際に口頭訓辞ではあるが徳川幕府から禁止命令が下った。




4代の内3代までが殉死(或いは殉死希望)というすさまじい家系です。 もしかしたら、この人たちの話 に出ていたかも知れない。
この人達(4代目の久有除く)の特徴は、「そんなに恩恵受けてない人のために殉死した」事。
後、もう一つ気になる点を挙げると島津家久(忠恒)には殉死しようとしなかったこと。もし殉死するとしたら年代的には3代目の久永かな。後に堪忍料をもらうも、当初は家久(忠恒)に領地を取り上げられ逼迫していたことから、心の底では恨んでいたのかも知れませんな。

しかし、こんなに殉死したがるとは…しかも一度は領地取り上げの目にも逢っていることから、褒賞目当てでの殉死でもないような。4代目・久有あたりは「うちの家系は周囲から殉死を期待されてるから」と考えての殉死希望だったかも知れない。…悲惨だ。

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「本藩人物誌」より

川上因幡守久国入道商山
(中略)
○内室ハ渋谷次郎左衛門重治女也嫁スル時川上家ノ役人礼服ノ上二セヲヒ木トイフモノヲ負ヒ白帷子被シテ来ルトイフ是ハムカシ御当地ニハヤリシ物ノ由笈ノ様ナルモノニテレンシヤクアリカタニカケ足ヲ踏トムル軸アリテ人ヲノスルモノナリトソ扨其夜重治ヨリ裏ノ付タル筵二枚ヲ送ラル新婦ノ寝間ニ敷ヘシト也家来共ヲ初集会ノ面々是ヲナデテ見テ和ラカナヨロシキ物ト称美セシト也是当時ノ畳也是久国朝鮮帰陣以後也其比久国所領三千石余ナカラ宅中皆カヤムシロナリトソ

川上久国(天正9年5月5日~寛文3年4月17日)は、川上忠克のひ孫、川上久朗の孫に当たります。川上家の傍流だった上に、曾祖父忠克は甑島に流刑という日陰の家系…だったはずなのですが、祖父の久朗がまだ17歳の時に才能を認められ島津義久の老中に抜擢されるという大出世を遂げ、以後、実質的な川上家嫡流になっていった系統になります。

あ、そうそう。上記で述べた経緯に加え、若くして戦死した後菩提寺も建ててもらったことなどから、久朗は島津義久の愛人説もありますね(爆)
それと、島津家の発給文書の末尾にある老中署名では、久朗はあの伊集院忠棟より順番が早かったりします。

…いかん脱線した。
で、今回のネタの久国さんもなかなかの才能の持ち主だったらしく、さすがに祖父の久朗みたいに若年ではありませんでしたが50歳の時に島津家久(忠恒)家老となり、その後家久の息子・光久の代まで家老を務めます。

そんな久国さんの相手は渋谷重治(天文20年~?)の娘。 渋谷さんの当初の名前は「白浜重治」、白浜氏は東郷氏の分家。重治さんは島津貴久正室・雪窓妙安大姉の従兄弟で、島津義久の御使衆を勤めていました。家格的には川上家の方が上だったように見えます。

さて、そんな2人の結婚は…

川上家ノ役人礼服ノ上二セヲヒ木トイフモノヲ負ヒ白帷子被シテ来ルトイフ是ハムカシ御当地ニハヤリシ物ノ由笈ノ様ナルモノニテレンシヤクアリカタニカケ足ヲ踏トムル軸アリテ人ヲノスルモノナリトソ

「婿側の川上家の家臣が、礼服を着た上に「背負い木」(笈(山伏が背負っている四角いリュックみたいな物)に似ており、肩に掛け、足をのせる軸があり、人を乗せる)を背負って、白帷子をかぶせてやってきた。これは昔この辺りで流行だった物だ」
だいたい意訳するとこんな所でしょうか。「レンシヤクアリ」というのがよく分からなかったのですが。
…で、この「背負い木」って花嫁乗せる物ですよね?多分。婿の久国乗せてるというなら…何か不気味だヾ(^^;)

扨其夜重治ヨリ裏ノ付タル筵二枚ヲ送ラル新婦ノ寝間ニ敷ヘシト也家来共ヲ初集会ノ面々是ヲナデテ見テ和ラカナヨロシキ物ト称美セシト也是当時ノ畳也

「その夜、舅の渋谷重治から裏地の付いた筵を2枚送ってきた。これは新婦の部屋に敷く物である。(川上家の)家来達
を始め披露の席にいた面々は、この筵をなでてみて「やわらくていい物だよね~」と誉めていた(ちなみに裏付きの筵は当時の畳である)」
とだいたい意訳しましたが、大丈夫かな。
しかし、婚礼家具をぺたぺた触るって、いや~んヾ(^^;)しかも新婚初夜に使う物だぞみんないやらしいヾ(--;) ところがこれに似た習慣が20年ほど前の京都ではしっかり残ってまして(○。○)。結婚する前に花嫁道具を近所のみなさんに披露するという…今はこの習慣無くなってると思うのですが、多分。

久国所領三千石余ナカラ宅中皆カヤムシロナリトソ

「久国の領地は3000石余りあったけど、家の床はみんな萱筵だったんだって」
内容はこんな所でしょうか。
なんか「3000石も領地あったのに、こんな貧乏くさい感じだったみたいよ」といわんばかりの文章のように感じたのは私だけかな。もっとも、この「本藩人物誌」が書かれたと推測される江戸時代後期、鹿児島藩を訪れた頼山陽は
「こんな底辺な所があるとは」
…とか言ってたらしいよ。久国のこと「家老クラスなのに貧乏くさいやーいやーい」と言える立場なのかしらん?>「本藩人物誌」の著者。

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