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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
11月
1日 聖門様(注1)へ昨日のお礼として嘉竺(注2)を使者として使わしたよ。(嘉竺を)御前に召し出して盃を下されたよ
   この日初雪だったので龍山様から歌があったよ
2日 昨日の返歌を東山に差し上げました
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4日 鞍馬にお参り、妙宝坊にてご宴会がありました
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13日 大納言殿(注3)をお見舞いするために大和へ山を越えられたよ
14日 大納言殿(注4)、ご対面はありませんでした
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17日 紹巴(宅)へお出かけ、宴会あり
18日 堀池弥次郎(注5)に御両殿(注6)からお願いし、座敷で能を演じさせました。(演目は)「足羽」「梅かえ」「小蝶」「自然居士」「ちやうりやう」
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20日 昌叱(宅)へお出かけ、宴会有り
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24日 この晩舞、孫三郎(注7)の宿にお願いしたよ
25日 宗固が御両殿からのお願いにより、宴会の最中に、ダンサー(注8)を大勢連れてやってきたよ。深夜までやったよ
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27日 東山に参上、戌刻にご帰宅
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30日 この朝、石田殿(注9)の招待で茶の湯がありました。武庫様もご出席されました。この晩(帰国の)暇をもらったよ


注1:聖護院道澄のこと 
注2:八木正信のこと
注3:豊臣秀長のこと
注4:原文「御指出也」
注5:能楽師、『戦国時代の宮廷生活 』によると、1552年生まれ
注6:島津義久・義弘兄弟のこと
注7:未詳
注8:原文「乱舞衆」
注9:石田三成か

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10月
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2日 武庫様のお宿に太守様がお越しになり終日ご宴会
3日 武庫様がご上洛されました
4日 太守様が御上洛、一之臺(注1)もお供しました。酉刻に京に到着。この晩、宗固の食事の振る舞いがありました
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8日 お宿で武庫様の招待による茶の湯があったよ。宗叱(注2)のお手前だったよ。後三清・宗次郎(注3)・堀弥次郎(注4)がやってきて、
すい茶(注5)を振る舞ったよ、その後唄(注6)あり。
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10日 龍山様がお越しになったよ。この時浄土宗の坊主も同行してお話が盛り上がったよ。それから深夜まで乱舞ショー。武庫様もおいでになったよ。
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24日 この晩、清水でお通夜(注7)、ご宿坊は明朝にやりくりすると申された(注8)
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27日 東山寺(注9)にて連歌会があったよ 龍山様も出席され、夜更けに戻られたよ
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29日 聖護院殿様で法論大会があると言うことで、行ってこられたよ。終日宴会


注1:こちら参照
注2:島井宗室か
注3:北郷三久か
注4:堀池弥次郎(能楽師)の書き間違いか
注5:不明
注6:謡曲か
注7:参籠のことか
注8:原文「御宿坊明朝振廻被申也」
注9:銀閣寺のことか

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9月
1日 申刻に関白様が帰京された この日太守様は草津まで移動
2日 申刻に京に到着。この晩、宗固(注1)が接待してくれたよ
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7日 又一様(注2)が京に帰ってきたよ!お迎えの先発隊が瀬田まで行き、後の人がおいおい追いかけていったよ。この晩、太守様もお宿へ行かれたよ。幸侃(注3)その他御供の衆も何人か付いていったよ
8日 又一様のところで寄合、御供は北郷宗次郎(注4)・幸侃・大野治部大夫(注5)・三清、次の間に宗固・渋谷対馬守(注6)がいる間、東国の御供衆は皆目通りをした(注7)
9日 又一様・喜入式部大輔・北郷讃岐守・幸侃・三清へ旧例のお酒の寄合があり、引き続き伺候衆がお目通りにやってきたよ。幸侃はお酒を進上したよ。
   この日の昼、又七殿(注8)が参上、御樽を進上したよ。
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17日 この日、廣乗(注9)へ、太守様のお招きがあったよ
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20日 又一郎様が大阪に向かわれたよ
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22日 幽斎主催の茶の湯、後藤徳乗もやってきたよ。御前とも3人。お手前担当は徳乗で、かたぬきの口切りでした。内座にて麻吉左(注10)・三清・宗固に食事が振る舞われ、その後、お茶に出られたとのこと
    この日、東山へ行かれて、夜になってからご帰宅。
23日 この日三清が大坂へ使者として向かったよ。この夜に舞がありました
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25日 清水(注11)へお参り。お帰りの時に紹巴(宅)へ立ち寄られたよ。それから宿所に戻りました。
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27日 己辰(注12)に大坂へご出発
28日 お館に武庫様(注13)初めてご対面、やがて会議
29日 ご両殿様(注14)に一臺がご宴会のお酒(を差し上げました)、終日(宴会?)
30日 御前に神四郎(注15)がお食事を差し上げました



注1:上田宗箇か 但し年齢の問題とこの時の状況の問題(宗箇は小田原に従軍中)で疑問がある
※(2012/03/11追記) 道正庵宗固のことらしい 参考:桐野作人氏ブログ「膏肓記」 御教示ありがとうございました<(_ _)>
注2:島津久保のこと
注3:伊集院忠棟のこと
注4:北郷三久か
注5:不明、後の樺山久高か
注6:不詳
注7:原文「皆御とをりニ被参」
注8:島津豊久のこと
注9:後藤廣乗のこと
注10:不詳
注11:清水寺のことか
注12:十干十二支で当てはまる時刻がなく、不明
注13:島津義弘のこと
注14:島津義久・義弘のこと
注15:不詳

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8月
1日 恒例の御祝儀で、喜入殿(注1)・樺山殿(注2)・北郷殿(注3)・三清(注4)が御太刀を進上、諸地頭がそれぞれ中紙を進上、国衆少々が御樽を進上したよ。祐乗坊(注5)もこの日紹巴・昌叱始め余多の人がおいでに参られたよ。
2日 民部卿法印(注6)まで八朔のお礼をしたよ、太刀・馬をもらったよ
   この日、幽斎老が御飯を食べにきたよ。ご宴会もあったよ。
3日 八朔のお礼として、紹巴・昌叱へ御使いを送り、杉原十帖(注7)ずつ送ったよ
   この日、龍山様がおいでになったよ 吉兆大膳房之儀相鬮(注8)
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8日 昌叱の家へ(連歌の)興行があると申し請われて、御発句をされたよ
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11日 民部卿法印(邸)で興行があり、たってのお願いがあったとのことでご出席されたよ。門跡様や公家衆が多く出席されたとか。紹巴・昌叱も
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24日 愛宕山へお参りされたよ。その日の内にご帰宅されたよ。長床坊(注9)にてご宴会。また途中で龍安寺に立ち寄られ、西ちん小四郎(注10)が坂で迎えてくれたよ
25日 北野(注11)へお参り
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27日 関白様を迎えに近江へご出発、この日の晩は大津で宿泊。
28日 大津を出発、八幡山(注12)へ到着
29日 八幡山にご滞在
30日 あつかり表(注13)までおいでになったよ。お目見えがあったよ。御仕合能もあったよ この日も八幡でお泊まり



注1:喜入久道か
注2:樺山規久か
注3:北郷忠虎か
注4:本田親貞のこと
注5:「信長公記」永禄12年条に出てくる僧侶と同一人物か
注6:前田玄以のこと
注7:この当時の一般的な贈答品か。具体的な品名不詳(情報お待ちしてます)
注8:「大膳房(該当人物不明)のことの吉兆をくじ引きした」か?保留
注9:愛宕山(現京都市右京区)にあった宿坊の一つ 現在愛宕山には愛宕神社が鎮座しているが、この当時は神仏習合の神域であった
注10:不詳
注11:北野天満宮のこと
注12:現近江八幡市の八幡山城のことか ちなみにこの時の城主は豊臣秀次
注13:不詳

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7月
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9日 この日まで京都に逗留しました
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13日 この日、水お祭り(※1)のため、天王寺へお参りされました。田鍋屋が途中でお酒をプレゼントしてくれました
14日 この日、天満へ燭爐(※2)を御見物に出かけられ、帰宅途中に田鍋屋をご訪問されました
(15日 は項目自体がありません)
16日 大風
17日 巳刻に京都へご出発、夜半頃に京都に到着。
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22日 高麗人が紫野の辺りを通ったので、途中でご見物されました(※3)
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25日 この朝、紹巴とご対面、ご宴会したところで、建築中の内裏を見物されました。
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28日 高麗人を見物するために紫野においでになられました。広済寺(※4)でご宴会がありました
29日 毛利殿(※5)からご招待。一緒に行ったのは意斎(※6)、栖松(※7)、輝元の側近で福原という苗字の人か?、後藤廣乗。ダンサー10人ほどやってきた。
30日 八朔のお礼として幽斎(※8)、前田玄以の所へ行き、また大納言様(※9)へも門までお礼を言いにいく。各へ太刀・馬を献上。

※1:不明
※2:不明、灯籠か?
※3:原文「高麗人紫野のことく罷通候、中途ニて御見物」
※4:不明
※5:毛利輝元
※6:不明
※7:不明
※8:細川幽斎
※9:豊臣秀長か?

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