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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
この人物を知っている人はちょっと島津ヲタかも。
逆に単なる戦国マニアの方が知っているかも知れない。

というのも、この人は主君の島津忠恒とタッグを組んで伊集院忠棟を茶室で暗殺した張本人なのである(○。○)
しかし、この人のその後を知っている人は少ないだろう…ネットで検索しても情報は0のようだ。

で、いつもの通り「本藩人物誌」を元ネタにしてご紹介。
なお、結構な長文のため、適当な(^^;)口語訳しております。


仁礼蔵人頼景 初め景親または頼尊、信濃守、小吉舎人あわせて孫寄合仁礼小吉である。別府隼人頼延(別府伝の部に載っている)の子である。頼延は、天正15年日向国根白坂の合戦で討ち死にした。祖父は民部左衛門頼昌という。曾祖父は土佐守頼堅といい、高祖父は佐渡守頼長(主殿助頼房の子、頼平の子孫)、その先祖は新羅源氏である。代々加世田の別府村を領地にしていたのでそれを苗字にしていた。

頼景は天正8年生まれ(「加治木古老物語」によると小吉の父が根白坂で戦死したので、叔父の家で成長したという)、若い頃から島津忠恒に召し抱えられた。文禄2年に京都より直接朝鮮出兵にお供して渡海した。
 虎狩りの屏風絵には丸の中に扇の紋が入った陣羽織と振り袖の着物を着た少年が騎馬にて手やりを持って、忠恒の後からお供している人がいるが、これが頼景である。また狩り場にて忠恒が床几に腰掛けている時に右横にいる少年が忠恒の陣笠を持ってお仕えしているが(※これが頼景である ばんない補記

慶長3年、泗川の戦いでは紺糸威の鎧を着て戦った。その年の冬に帰国すると、直ちに忠恒の上洛の御供をして在京した。同4年3月、伏見の茶亭に於いて伊集院幸侃を忠恒がお手討ちにしたとき、走り寄ってとどめを刺すご奉公をし、その働きに感動した忠恒から脇差(関製で長さ1尺3寸、今仁礼正膳の家にある)を拝領した。同年忠恒の帰国の御供をし、同5年11月、ご加増があり100石をもらった。また、義久から2尺6寸の御腰物(蛇の太刀という)を拝領しその後家久(忠恒)から9字切物鉄砲と奥州の鹿毛の馬、2尺6寸の御腰物(九州産)、御弓仏胴鎧を拝領した。

その後、串木野・高山・高隈(高隈は初め外城であった際に地頭を命じられた)の御使役を務め、市来地頭になった。
慶長19年大坂の陣の時、忠恒にお供し、直に江戸への使者を務めた。元和元年4月に帰国、この年また大坂へ出陣した。

元和6年、犬追物興行の際、「仁礼氏」に苗字を変えたいと願い出て、願い通り改めるよう仰せつけられた。この時、宮原左近と論争になった。その理由は、蔵人(頼景)より仁礼は小名なので仁礼を名乗りたいと言ったが、宮原左近は「別府は宮原の分家なので、苗字を勝手に変えるなんてもってのほかである」といった。そのため、家久(忠恒)に裁定してもらった結果、蔵人は別府の仁礼、左近は宮原の仁礼である、とおのおの別であると決められ、両人ともに仁礼を名乗るようになった。元和7年12月4日、犬追物の射手となり3匹討ち取り、翌日また3匹討ち取った。寛永8年琉球在番となり、翌年夏に帰国。正保3年正月13日江戸で亡くなった。67歳。戒名は「如実要心居士」。二本榎広岳院に葬られた。福昌寺にも石塔があり、得水軒にも塔がある。子供の主計頼充は御用人、地頭を勤めた。その子の民部左衛門頼宣は明暦元年に与頭を仰せつかり江戸へも御礼使を務め、日光へも綱久の御名代としていった。あちこちの地頭も勤めた。その子は仲右衛門。


考察は以下にて

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前の話はこちら


私の漢文読み込み能力はアヤシイのでぼんやりとしか分からないのだが、どうも豊臣秀長サイドはこの時の義久の見舞いを迷惑だと思っていたように思われる。

「義弘公御譜中」
「正文在加治木衆図子平兵衛」

先程竜伯様より預御使者候、名乗迄御出之由候条、以書状申候つる、明日 上様此地へ 御成候、其前ニ御進物を上候様ニと申事ニ候、御城へ者何も無御越候間、拙者宿迄早天ニ御出候て、朝食 参御帰尤候、其通 竜伯様へも申入候、必ゝ無御由断、拂曉ニ御越待申候、将亦此間御上洛も不存候而、以書状さへ不申入候、如在之様ニ罷成、令迷惑候、旁以面顔可申述候、恐惶謹言
「朱カキ」
「天正十八年」
        桑修大
    十一月十三日       重晴(花押)
羽兵侍従様
     御報
(「薩藩旧記雑録 後編」2-705)
 

「桑修大重晴」はこの当時の秀長の重臣・桑山重晴のこと
「羽兵侍従」は島津義弘のこと

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天正18年と云えば、すでに島津氏は豊臣秀吉の前に降伏し、秀吉からこれでもかと命令される貢ぎ物の強奪賦役や軍役に四苦八苦しており
…まあ前置きが長くなりましたが、要は落ち目だったわけですが(涙)
そんな島津さんになんと「あなたの偏諱を下さいな」といってきた変人がいたらしい。

「義久公御譜中」
(前略)
同月(※天正18年12月)十三日、平戸松浦肥前守依所望許諱字、称其謝礼得宝刀於我、我亦進所帯之刀於肥州者也、
(後略)
(「薩藩旧記雑録」後編2-709)

天正拾八年 自三月至十二月
御日記
(前略)                                           (本マゝ)
(天正十八年十二月)十三日、此日、平戸肥州御字被申請刀、   一十四日 進上、自 御前も御腰物被給、
(後略)
(「薩藩旧記雑録」後編2-715)

島津義久の偏諱をもらった、この平戸肥前守とは、ずばり松浦久信だろう。
しかし、何でこんな時期に落ち目の大名から偏諱もらおうとしたのか…松浦さんの考えていることはわからん…


拙ブログ関連ネタ こちら

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12月
1日 北郷讃岐守(注1)と早朝に話し合い
2日 申刻に清水へお参り、戌刻にご帰宅。大雪だったので道中の難儀は言うに及ばず…
3日 早朝にご出発され(注2)、北野(注3)へお参り、この日も終日雪だった
4日 ひび野(注4)へお参り、この晩幽斎にお願い、武庫様もご出席、石田殿もやってきて、薩・隅辺りの領地処分について。
   この日、青蓮院様においとまごいをしに行ったが留守とのことだった。途中で出会うのも道理かと(注5)、
   雑事など嘉竺(注6)へ申しつけられ、駕籠で帰られた。
5日 石田殿(注7)、御家門様(注8)へお暇乞いのために出られた。この日、幽斎その他おいとまごいをする人が多数やってきた
6日 辰刻に京を出発、東寺の茶屋の人がお酒をプレゼントしてくれた。鳥羽から船で大坂へ、大坂には戌刻到着
7日 <空欄>
8日 住吉(大社)へお参り、この日龍山様から馬をプレゼントしてもらう
9日 <空欄>
10日 <空欄>
11日 <空欄>
12日 武庫様のお宿へ用があると、終日
13日 この日、平戸肥州(注9)が御字を申請する刀
14日 御前からも、腰刀をプレゼントした
15日 舟本(注10)までおいでになったよ、すぐに武庫様のお宿でご対面、宴会はなし
16日 武庫様が上洛されました。急なこと。その理由は東国の方で一揆が起きたことらしい。中納言殿(注11)、石田殿、真下殿(注12)が出発されるとの話を聞かれてご出発されたとか。この日、大雪だった。


注1:北郷忠虎か?
注2:原文「早朝為御門出」
注3:北野天満宮
注4:該当場所不明
注5:原文「中途迄出合申理」
注6:八木正信 詳細は拙ブログのこの記事参照
注7:ご存じ石田三成
注8:近衛信尹
注9:松浦久信か?
注10:該当場所不詳
注11:不明、小早川隆景? ※豊臣秀次らしい
注12:不明 ※増田長盛らしい

※注11,注12に関してはコメントも併せて参照下さい

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拙ブログ関連ネタ こちら


先日桐野氏から紹介された物です。
読んでみると中々に興味深い内容なので、拙ブログで全文紹介

結構長い_| ̄|○ 頑張って入力します…

昨日薩摩の国より肥後の国まで退き申し候間、御心やすく候べく候。六月五日頃に筑前の国博多まで参り申すべく候。これは、はや/\半分退き申し候。大坂へは半分道にて候。博多にて普請申しつけ、六月中にて門司、七月は十日頃に大阪へ帰り申すべく候。御心安く候べく候。壱岐・対馬の国まで人質を出だし、出仕申す事。又、高麗の方まで日本の内裏へ出仕申すべきよし、早船を仕立て申しつかはせ候。出仕申さず候はゞ来年成敗申すべき由、早船をしたて申しつかはせ候。唐国まで手に入れ、我ら一期のうちに申しつくべく候。さげすみをいたし候へば、一段骨折れ申し候。今度の陣に、白毛多くでき申し候て、抜き申す事もなり申さず候。御目にかゝり候はんこと、はもじに、そもじへばかりは、苦しからずと存じ候へども、迷惑に候、
 五月廿九日
五月十日の文、今月廿八日、肥後の国佐敷にて拝見候。明日は八代まで越し申すべく候。島津走り入り候、其の済ましやうの事。
一、島津義久人質、十五ばかりの娘ひとり子。
一、義久在京の事。
一、宿老ども人質、十人ばかりの事。
一、島津兵庫頭人質、十五になり候惣領の子大坂に詰めさせ、又、八になり候子を人質に出し候事。
一、島津中書女子を連れ、在大阪致し候間、薩摩の国・大隅両国取らせ、ゆるし、ことごとく、いへ
(ママ)
んいさせ

前回の拙記事でだいたいの解説は済んでいるが、前回では分からなかった部分など追記

又、高麗の方まで日本の内裏へ出仕申すべきよし、早船を仕立て申しつかはせ候。出仕申さず候はゞ来年成敗申すべき由、早船をしたて申しつかはせ候。
(また、朝鮮の方にも日本の御所へ仕えるようにと早舟を使って連絡させた。もし仕えないといった場合は、来年攻撃するぞと、早舟を使って連絡した ※以上拙訳)

桑田忠親氏も後の解説で触れているが、天正15年時点ですでに秀吉の頭の中には朝鮮出兵の意思があった事が伺える文章である。しかし、対馬・壱岐(=宗氏)と高麗(=朝鮮王国)が同列というのが…秀吉の世界観が見えて興味深いです。

そして、桐野氏も指摘していた、この問題の記事。
                                                               (ママ)

島津中書女子を連れ、在大阪致し候間、薩摩の国・大隅両国取らせ、ゆるし、ことごとく、いへんいさせ

拙訳すると
「島津家久が妻子を(人質として)連れ、大坂にいる間に、薩摩・大隅両国を与え、(反抗の)罪を許し、(以下翻訳保留)」
つまり、義久・義弘の弟である家久に、島津家の本領である薩摩/大隅を与えてしまおうという事である(○。○)。

しかし、それならば何故義久を上洛させ、更にはその娘(亀寿)をわざわざ人質に取ったのか、又義弘の息子(島津久保、喜入萬千代丸)は2人も人質に抑えたのか、合点がいかないところがある。
秀吉は、家久に島津家の本拠を与える代わりに義久・義弘は別の土地に飛ばす計画でももっていたのだろうか?それとも、家久に島津家の本拠を与えるという事は家久を島津家の当主に定めるとも取れるから、家久の配下に義久・義弘を置こうとしたのだろうか?

実は良く意味が取れなくて翻訳保留にした「ことごとく、いへんいさせ」と言う所に謎を解決する糸口があるのかも知れないが…ご意見お待ちしています<(_ _)>


ところで。
この本、古い(初版は昭和30年代)ためだろう、いろいろつっこみ所があるのだか、特に上の文章の解説のこれ。

義久の女とあるのは娘の菊若のこと、
(p.125)

…「菊若」って…だれ?ヾ(^^;)

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