拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
京唄子さんが4/6に89歳で亡くなられていたそうですが。
この10年ぐらいはすっかり地元関西でも露出しなくなってました。
多くの方にとっては『渡る世間は鬼ばかり』で有名な方だったでしょうが、私的には『おもろい夫婦』という番組で馴染みのある人でした。この番組実は嫌いだったな~ヾ(^^;)日曜日の夜10時半という放映時間もあり(明日から学校か~)という気分で暗いのを後押しするような、雰囲気暗い番組でした。しかもこれの前の番組があの伝説的番組『パンチdeデート』で、落差ありすぎ。
ちなみに私にとって「おおとりけいすけ」とはこの京唄子の元夫・通称“ぽてちん”でしたヾ(--;)
同名異字の有名人が幕末にいたことはかなり後になってから知る(ヲイ)
…年齢ばれてきたところで、気を取り直してヾ(^^;)
では本日の本題。
前回の話はこちらです。
別件で取り寄せた本に載っていた史料より
1:宗ゑき→千利休
2:まいす→売僧 つまり僧侶であることを隠れ蓑として金儲けに血道を上げている悪徳坊主を指す
3:せきた→雪駄
4:しゅらく大橋→”聚楽大橋” 一条戻橋のこと(但し現在の戻橋とは場所が異なる)
5:はた物→「機織り機に掛けて見せ物にする」=張り付け獄門のことガクブル 詳しくは拙ブログのこちらもどうぞ
6:大納言殿こうしつ→“大納言殿”こと豊臣秀長の正室・智雲院か。なお秀長は天正19年1月22日に死去。
7:玄以法印→前田玄以
8:山呂玄羽→山口玄蕃頭正弘の誤字か。山口正弘(宗永)は後に小早川秀秋の筆頭家老となるが、更に独立大名となる。関ヶ原の合戦で西軍につき前田利長に攻められ戦死。
「北野社家記録」は”北野”こと北野天満宮の社家であった松梅院の日記で、いわゆる同時代史料と言って良いと思います。
その日記で「首を切り、(大徳寺にあった)利休の木像と共に一条戻り橋に張り付けされた」とあるのですから、やっぱり千利休が助かった可能性は低いんではないかと考えます。
ただ、巷説では「千利休は切腹で死んだ」(上掲書『史料による~』でも江戸時代初頭に成立した「利休由緒書」で「利休は切腹」という話が出ている)とされていますが、「北野社家記録」では「御清はい」(御成敗)とありますので、実際は斬首だったのかも。
ところで。
今回参照にした『史料による茶の湯の歴史』は、その問題の中村修也氏も編集に関わってるようなんですが(^^;)、「北野社家記録」をまさかうっかり見過ごしたわけではないと思うんだが…。
この10年ぐらいはすっかり地元関西でも露出しなくなってました。
多くの方にとっては『渡る世間は鬼ばかり』で有名な方だったでしょうが、私的には『おもろい夫婦』という番組で馴染みのある人でした。この番組実は嫌いだったな~ヾ(^^;)日曜日の夜10時半という放映時間もあり(明日から学校か~)という気分で暗いのを後押しするような、雰囲気暗い番組でした。しかもこれの前の番組があの伝説的番組『パンチdeデート』で、落差ありすぎ。
ちなみに私にとって「おおとりけいすけ」とはこの京唄子の元夫・通称“ぽてちん”でしたヾ(--;)
同名異字の有名人が幕末にいたことはかなり後になってから知る(ヲイ)
…年齢ばれてきたところで、気を取り直してヾ(^^;)
では本日の本題。
前回の話はこちらです。
別件で取り寄せた本に載っていた史料より
(天正19年2月)二十九日、宗ゑき(注1)と申者、天下一之茶之湯者ニて候つれ共、色々まいす(注2)仕候故御清はい有之也、大徳寺山門之こうりう仕、末代迄名を残と存木像を我すかたニ作、せきた(注3)をはき、つゑをつき□(申カ)有之、いわれ関白様ヘ申上候へハ、猶いよいよさいふかく成申候間、くひをきり、木像ともにしゅらく大橋(注4)にかけ置候也、大徳寺之長老衆も両三人はた物(注5)に御あけ候ハんと儀候つれ共、大政所様、大納言殿こうしつ(注6)、各上様へ御侘言により長老衆御たすけ分也、玄以法印(注7)・山呂玄羽(注8)、御はな分也、木さうは一日○(=25日)よりかゝり申候。今日千本ねん仏へ参、(注記)
(「北野社家記録」)
『史料による茶の湯の歴史』(上)主婦の友社 p.432
1:宗ゑき→千利休
2:まいす→売僧 つまり僧侶であることを隠れ蓑として金儲けに血道を上げている悪徳坊主を指す
3:せきた→雪駄
4:しゅらく大橋→”聚楽大橋” 一条戻橋のこと(但し現在の戻橋とは場所が異なる)
5:はた物→「機織り機に掛けて見せ物にする」=張り付け獄門のことガクブル 詳しくは拙ブログのこちらもどうぞ
6:大納言殿こうしつ→“大納言殿”こと豊臣秀長の正室・智雲院か。なお秀長は天正19年1月22日に死去。
7:玄以法印→前田玄以
8:山呂玄羽→山口玄蕃頭正弘の誤字か。山口正弘(宗永)は後に小早川秀秋の筆頭家老となるが、更に独立大名となる。関ヶ原の合戦で西軍につき前田利長に攻められ戦死。
「北野社家記録」は”北野”こと北野天満宮の社家であった松梅院の日記で、いわゆる同時代史料と言って良いと思います。
その日記で「首を切り、(大徳寺にあった)利休の木像と共に一条戻り橋に張り付けされた」とあるのですから、やっぱり千利休が助かった可能性は低いんではないかと考えます。
ただ、巷説では「千利休は切腹で死んだ」(上掲書『史料による~』でも江戸時代初頭に成立した「利休由緒書」で「利休は切腹」という話が出ている)とされていますが、「北野社家記録」では「御清はい」(御成敗)とありますので、実際は斬首だったのかも。
ところで。
今回参照にした『史料による茶の湯の歴史』は、その問題の中村修也氏も編集に関わってるようなんですが(^^;)、「北野社家記録」をまさかうっかり見過ごしたわけではないと思うんだが…。
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