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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
ふー、やっと光明皇后だ(^^;)。

光明皇后については、今までのお二人とは違い、必ず日本史の教科書にも出てくるのでご存じの方が多いと思います。
また、永井路子氏らの小説にも取り上げられているので有名な方ですが、戦前は「皇后の鏡」(^^;)イメージが強かったのに、これらの小説のため?か、現在は「悪役」イメージがきついのではないでしょうか。

今回私が書くのは、「皇后の鏡」でもない、そして「悪役」でもない光明皇后です。悲劇的な運命に負けず、強く生きた「悲運の」女性・光明皇后。
その実体にどこまで迫れるか。


今まで何回も書いてきましたが、光明皇后は、藤原不比等と、県犬養三千代の間に大宝元年(701年)生まれました。
最も、生まれたときから「光明」「光明子」といわれていたわけではなくて、そもそもは「安宿媛(あすかべひめ)」と呼ばれていたようです。

大阪に今はない地名ですが「安宿郡」というところがありました。現在は、通称「近つ飛鳥」と呼ばれている辺りです。この地というのは、藤原氏に縁深いところでして、安宿媛の父・藤原不比等はこの地の豪族・田辺史(たなべふひと)氏に養育されていました。
おそらく、藤原不比等は娘の養育をまたこの田辺史氏に任せた物と考えられております。だから、乳母の出身地名を取って「安宿媛」というわけですね。

この「近つ飛鳥」には安宿媛にまつわる不思議な伝説を伝えていまして、”安宿郡で大変美貌で鳴り響いた織姫が、聖武天皇に見初められて皇后になった。それが光明皇后である。”…という物です。安宿姫は藤原不比等の娘なのですから、機織りしていたとは思われませんが(^^;)、この伝説は、上記の推定を裏付ける物でしょう。

実は、安宿媛と同じ年にある人物が生まれております。
もうお分かりでしょうが、文武天皇と藤原宮子の間に生まれた首皇子(おびとのおうじ)-後の聖武天皇-です。
既に橘三千代の所でも話しましたが、藤原宮子は首皇子出産後、病気に陥り子供の養育どころではなくなってしまいました。そのため、安宿媛の母・県犬養三千代が首皇子の乳母となって養育をしたと考えられています。

まあ、血縁関係では安宿姫は首皇子の「叔母」(^^;)ですが、年齢で行けば同い年、しかも2人とも県犬養三千代の元で成長したというわけでして、


県犬養三千代 
├───────────藤原安宿媛(光明子)
│      文武天皇
藤原 不比等   ├───聖武天皇
├──────藤原宮子
賀茂比売

いわば「兄弟」みたいな物だったと考えられます。

同い年の2人を「一緒にさせよう」というのは自然に出てきた考えのようで、首皇子が成人した霊亀元年(716年)、藤原安宿媛は、首皇子皇太子の妃となるのです。年は16歳でした。
ところが!これも橘三千代の話をしたときに既に書いたことですが、同じ時期にもう一人首皇子の妃になった者がおりました。
安宿媛の母・橘三千代の親戚筋の県犬養広刀自(あがたのいぬかい・ひろとじ)です。
安宿媛は、自分のライバルをわざわざ作るという母のやり口を恨めしく思ったと思いますが、何せまだ16歳だったために反対できなかったと思われます。

後に、安宿媛は橘諸兄と兄弟でありながら対立します。
これは今まで
「橘諸兄は皇族というプライドがあり、一方で、光明皇后(=安宿媛)は藤原氏というプライドがあって、相容れなかったのだ。」
という解説がされていますが、橘諸兄は皇族とはいっても6代後の傍系です。しかも臣籍降下までしている彼が、どれだけ「皇族」意識があったか疑問です。

どちらかというと、橘諸兄は、母を父から奪った藤原氏になじめずに、母の実家・県犬養氏に寄る傾向があり、
一方で、安宿媛は、自分のライバル・県犬養広刀自の実家の県犬養氏に近づく兄を許せなかったのではないでしょうか。

どっちみち、後の争いの原因を、橘三千代がまいたことには違いありません。


つづく

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天平9年(737年)牟漏女王はまだ40代の若さで4人の子を抱えて未亡人になってしまいます。
しかし、牟漏女王こんな事で負けてはいなかった。女は弱し。されど母は強し(なんのこっちゃ?)。

この天平9年の暮れ、亡き夫・藤原房前に「左大臣」の位が贈られます。これは非常に大事なことでして、単に房前の名誉が回復できたばかりでなく、左大臣に与えられる職封が遺族年金(^^;)としてもらえるわけです。
これは実は大変な額でして、四国4カ国を全部もらったのと同じ計算になるという話をどこかの論文で見たことがあります。ともかく、牟漏女王はじめ、房前の遺児はこれで喰うには困らない?状態になるのです。
こんなとんでもない特権を与えたのが誰か?ということですが、私は牟漏女王の異父妹+藤原房前の異母妹である光明皇后を考えています。実家を支えるのに、もはやなりふりは構ってられない。
(実は、死の直前に房前の兄・藤原武智麻呂も左大臣に上がっております。それに、藤原不比等に与えられた5000戸の食封ももらったままでしたから藤原氏は、この当時の日本の4分の1を握っていたのと同じ計算になるらしい。)

そして、天平11年(739年)牟漏女王は従三位の位を授かります。
”遺族年金”に加えて、従三位の位封ももらうわけですから、藤原房前の遺族は大変な大金持ちになったわけです。
ちなみに、『続日本紀』に牟漏女王の名前が見えるのは、実はここが初めてなのです。

ここで疑問が生じます。出世させる夫もなく、喰うに困らない牟漏女王が何故宮廷に出仕しているのか?ということです。
私はこう考えているのです。同母兄・橘諸兄(元の葛城王)に対抗するためではないかと…。

藤原房前が亡くなる前年、こんな事を申した者がありました。
「和銅元年、私どもの母は氏を元明天皇よりもらいました。そのありがたい名前は、母が亡くなった今絶えようとしております。もし許されるならば子供の私どもがその氏を嗣ごうと思います。」
このお願いは許されました。
あれ?この話を前に書いたことがありますね。
そう、この話は橘三千代が「橘」の氏をもらったときの話で、氏を嗣いだのが葛城王・佐為王の2人の息子であります。
この事は「葛城王・佐為王が皇族の位にしがみついているよりは、従一位・橘三千代の苗字を名乗った方が出世に有利と判断したからであろう」と、考えられております。

ところが、おもしろいことに同母妹の牟漏女王はこの動きに同調しておりません。おそらく牟漏女王、こんな事を思いながら兄たちを見ていたのではないでしょうか。
(皇族の名前をあっさり捨てるなんで、なんて恥知らずな兄たち。父上<=美務王>のことを何と考えておられるのか)

特に、天平9年の天然痘の大流行から逃れた葛城王は、棚ぼた式に「右大臣」まで登り、名前も「諸々の者の兄」という意味の「諸兄」と改名します。おそらく、藤原氏の妻となった同母妹の牟漏女王や、藤原氏びいきの異父妹の光明皇后に対する当てつけでしょう。

さて、天平10年当時の聖武天皇の妻妾関係は以下の様になっておりました。

県犬養広刀自(県犬養唐の娘)
│┌井上内親王
├┼不破内親王
│└安積親王  橘古奈可智(こなかち・橘佐為の娘)
│         │ 
聖    武    天    皇
│           │    │
│           │ 北殿(正式名不明・藤原房前と牟漏女王の娘)
│           │
│┌阿倍内親王  南殿(正式名不明・藤原武智麻呂の娘)
├┤(後の孝謙天皇)
│└基親王(皇太子:神亀5年死去)

藤原光明子(光明皇后・藤原不比等の娘)

上側に県犬養氏+橘氏、下側に藤原氏を書いたから一目瞭然ですが
藤原氏側には神亀5年以後は皇子がおらずピンチ!なのがお分かり頂けるでしょうか。光明皇后はこの時38歳ですから、子供が期待できない年齢に成りつつありました。ということで、恋敵(^^;)ではありますが、一族の南殿・北殿の奮起を期待したと思います。
その北殿の母親が牟漏女王なのです。もし北殿に皇子出生の暁には、皇太子への有力候補となります。しかも、異父妹で皇后の光明皇后の応援付きです。
…ということで、この異父姉妹は兄・橘諸兄に対抗すべくスクラムを組んだと考えられるのです。

一方、牟漏女王はもう一つの布石を打っております。三男の藤原八束を、この年皇太子となった阿倍内親王に仕えさせております。実は、この八束の子が、平安初期の高級官僚・藤原内麻呂なのです。内麻呂という人物は自分の息子と次々と皇太子に仕えさせることで一族の発展を狙ったのですが、そのはしりは実は牟漏女王だったのです。

牟漏女王はその後天平18年(746年)まで生き、正三位で亡くなりました。この時、彼女の気がかりは、娘の北殿に懐妊の兆しすらないこと、そして八束の兄・永手が何故か従五位下から10年以上も放って置かれたことだと思われます。これは実は大きな謎でして、宮廷に大きな力を持つ牟漏女王でもどうにも出来なかったことより推測すると、おそらく藤原永手は何らかの事件に巻き込まれた物、と私は考えております。

そして、牟漏女王は晩年には仏にすがる道を見いだしたようです。
元々、夫・藤原房前を追善する写経は頻繁に行っていたようですが、仏堂は建てておりませんでした。
この時、藤原氏の氏寺・興福寺の工事が中断しており、講堂がまだ無いという状態でした。彼女は藤原北家の財力を尽くして講堂を造ることを決意します。
が、仏像が出来た時点で牟漏女王は亡くなりました。あとに残った北殿をはじめとする遺児が残りの工事を完成させた…『興福寺縁起』はそう伝えております。

この時の講堂はもう残っておらず、南円堂にある不空絹索観音の蓮弁一枚が牟漏女王の発願仏の物ではないか?と推測されるばかりです。


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さて、牟漏女王の夫・藤原房前が根回しの限りを尽くして?首皇子を即位させます(聖武天皇)。
その後、長屋王が聖武天皇の勅令に難癖を付けた?「藤原宮子称号事件」異父妹・藤原安宿媛の皇太子出産とその死、そして神亀6年の「長屋王の変」と大きな事件が起きております。

この「長屋王の変」において、近年学者が指摘している奇妙なことがあります。何と、『続日本紀』では藤原房前の名前がこの前後に全然出てこないのです。この学者達はこう言います。
「実は、藤原房前は長屋王とたいそう仲が良くて、他の藤原3兄弟にはみ子(^^;)にされていたのだ。」
と。                  

しかし、このころ既に藤原房前は「中衛大将」という役職も兼任しておりました。中衛府とは天皇の親衛隊であります。しかも、この中衛府は安宿媛の産んだ皇太子が重体になったと同時に強力化された軍隊なのです。
この中衛府ですが、「長屋王の変」では長屋王の屋敷を取り囲んでおります。
指揮している人は藤原房前ではなく弟の宇合でありますが、中衛大将の指示無く宇合の一存で中衛府を動かせるとは考えられませんから、藤原房前もこの「長屋王の変」の陰謀に加わっていたと見るべきでしょう。

そして、翌年天平元年(729年)藤原房前はやっと令制の役職に就くのです。役職は「中務卿」。天皇の命令を取り扱う重職です。
この抜擢には、藤原房前の働きももちろんですが、姑・橘三千代と妻・牟漏女王の聖武天皇への根回しが効いていたことが考えられます。聖武天皇も皇后・藤原光明子(安宿媛改め)の母と姉の言うことですから素直にはいはいと聞いたことでしょう。

ところが、天平5年(733年)に橘三千代が亡くなると、状況が変わってきます。
藤原房前は中務卿の役を追われて、格下の民部卿に落とされてしまいます。
この事については、私はこう考えております。
藤原房前は、元々兄弟の順に関わらず実力のある物はそれ相応に評価されるべきだ!という考えの人だったように思われます。房前の子供の名前を見ても、それは伺えます。

藤原房前──┬鳥飼
├永手(母・牟漏女王)
├八束(母・牟漏女王)
├清河(母・葛城女王?)
├魚名(母・葛城女王?)
├千尋(母・牟漏女王)
└楓麻呂

房前は、兄弟の順に関わらないような名前を子供達に付けているのですね。
ところが、これが武智麻呂や宇合になると違ってきます。

藤原武智麻呂─┬豊成(母・安倍貞媛)
├仲麻呂(母・安倍貞媛)
├乙麻呂<弟麻呂>
├○
└巨勢麻呂


一目瞭然ですが、長男重視の姿勢を持っていますね。宇合も、武智麻呂ほどひどくはありませんが(^^;)、長男:広嗣、次男:宿奈麻呂<少麻呂>…と、長男重視の傾向があります。
そして、房前は姑や妻を使って根回しの末に出世した様子ですから、そこも疎まれる原因だったでしょう。
結局、藤原氏ににらみを利かせていた姑・橘三千代が亡くなると、我慢してきた?他の兄弟は、一斉に房前にそっぽを向けてしまったようなのです。

また、天平9年(737年)に、新たに聖武天皇が3人の夫人(天皇妃)を向かえますが、この時藤原武智麻呂の娘も入っているにも関わらず、まるで対抗するかのように藤原房前と牟漏女王の間の娘も入っているのも、武智麻呂のひんしゅくを買ったでしょう。
残った妻・牟漏女王は何とかしようとしたでしょうが、彼女の力だけではどうしようもありませんでした。

天平9年(737年)、藤原房前は亡くなります。58歳でした。おそらく、その頃はやっていた天然痘にやられた物と思われます。
この時前例のない話ですが、藤原房前に「大臣としての葬儀を行う」よう詔がありました。藤原房前は実際はまだまだ大臣並に見られていたのですね。
しかし!『続日本紀』によれば、房前の遺族はこのありがたい詔を断ったというのです。
このころ、房前の他の兄弟はまだ健在です。おそらく牟漏女王は、他の兄弟の心情をはばかって遠慮した物と思われます。

しかし、この年は大変な年になっていくのです。
夏になると共に、天然痘は収まるどころかますます猛威を振るいます。
まず、藤原麻呂が亡くなり、次に武智麻呂、そして宇合も亡くなります。
牟漏女王にとって悲しいことはそればかりではありません。
同母兄の橘佐為(佐為王)も亡くなってしまったのです。
また、先妻の子ではありましたが、房前の長男・藤原鳥飼もこの時期を境に『続日本紀』から姿を消しております。おそらく、天然痘にかかって亡くなったのでしょう。鳥飼は、この時期房前の息子の中で唯一従五位以上の役人になっていた人物でした。
そして、年が明けて見れば、平城京の役人はほとんど残っておりませんでした。

つづく

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さて、牟漏女王と藤原房前が結婚して3年経った養老元年(716年)、藤原房前は前代未聞の地位につきます。「朝政への参議」を許されたのです。
別に、「朝政への参議」自体はそれまでも何人かが許されております。
が!許されるのにはまず条件があって
1)地方出身の豪族で、有能でありながら令制に定められた役職に就けにくい人
2)中央出身の豪族で、令制の適当な役職が無くて、かつ、朝政に参議している同族がいないこと
に当てはまる必要があったと考えられております。
ところが、藤原房前は「地方の豪族」でもないし、しかも父・藤原不比等が右大臣として健在なのですから、既に「朝政に参議している同族がいる」という状態なのです。つまり…掟破り(^^;)。

まず、新興貴族・藤原氏(この時点で藤原氏の勢力は、実は不比等とその息子の合わせて5人だけであった)の勢力を高めようとする藤原不比等の意志がありました。
しかし、自分が生きている間は、自分の息子達を有力な役職に就けられない…。
そこで、律令に規定が無く、しかも政治に参画できる「朝政参議」という仕事に目を付けたわけです。

が、では何故に不比等は長男の藤原武智麻呂でなく、次男の藤原房前を「朝政参議」にしたのでありましょう?
瀧波貞子氏などはこう言っております。
「橘三千代が婿かわいさに、元明太上天皇にお願いして房前をごり押ししたのだ!」
…じゃあ、どうして実子の葛城王(後の橘諸兄)を「朝政参議」に推薦しなかったのでしょうねえ?!という疑問がわいてきます。

これは、やはり上記の条件2)をカバーするためでしょう。
この後、藤原房前の子孫は「北家」を名乗るようになりますが、おそらく、房前が「朝政参議」を拝命したときに、他の貴族達から不満が出た場合、
「なーにおっしゃってられるんですか。私は分家して「北家」になったから条件的には問題ないんですよー(^_^)」
…と、言い訳のネタに使った所からきたのではないでしょうか?

ともかく、律令に定められた役職を持たないのに、実権のある「黒幕の男」?藤原房前の誕生であります。
おっと、今回のヒロインを忘れておりました(^^ゞ。このころより牟漏女王は女官として宮仕えを始めたと考えられております。
母親を見習ったのでしょうが、実はこの事は重要であります。

藤原武智麻呂(長男)-正妻・安倍貞媛(大納言・安倍御主人の姪)
藤原房前(長男)  -正妻・牟漏女王(義母・橘三千代の娘)
藤原宇合(三男)  -正妻・石上国盛大刀自(左大臣・石上麻呂の娘)  
藤原麻呂(四男)  -正妻・不明(当麻氏OR大伴坂上郎女か?)

藤原不比等の4人の息子達の中で、正妻が宮仕えしたのは藤原房前の妻・牟漏女王ただ一人であります。
このため、藤原房前は4兄弟の中でも抜きんでて大きなパイプを宮中に持つことになります。

この効果はすぐに現れます。
養老5年(721年)元明太上天皇が亡くなります。天皇位を娘・元正天皇に譲ったとはいえ、元明太上天皇の力にはまだまだ大きな物がありました。
自分が亡くなれば、おそらく何かの騒動が起こるのではないか?元明太上天皇はかなり心配していたようです。
そこで、元明太上天皇は2人の男を呼び寄せます。
一人は長屋王。元明太上天皇の婿(?)ですし、当時の右大臣で最高権力者ですから、妥当な線でしょう。
ところがもう一人は、藤原房前でありました。房前は一介の参議でありまして、まだ令制の役職には就いておりません。それが、兄・藤原武智麻呂(当時・中納言)はもちろんの事、他にも大勢いる役人を差し置いてのこの「えこ贔屓(^^;)」。

どうしてこんな事になったかと言えば、
藤原房前が藤原氏であり、首皇子皇太子の伯父になるからですが、それだけなら、呼び寄せるのは藤原武智麻呂でも良いわけです。
で、もう一つの原因と考えられるのが姑・橘三千代+妻・牟漏女王の根回しであります。
「どーか、私の夫に目をかけて下さいまし<(_ _)><(_ _)><(_ _)>(; ;)ホロホロ」
というところでしょうか。で、死に及んで気も弱っていた元明太上天皇は、おそらく押しの強さに負けちゃったんでしょうね。
そればかりか、「大化改新」(645年)に藤原(中臣)鎌足が付いて以来、空席だった”内臣”を復活させて、藤原房前を遺言で任命しております。
「宮廷の内のことを司らせよ」
つまり、今後の皇位継承については藤原房前に一任せよ!というところでしょうか。

早速、元明太上天皇が亡くなった翌年には「穂積老と多治比三宅麻呂の侮告事件」といわれる事件が起こります。この事件の詳細は不明でありますが、2人とも本来ならば死刑になるところが、首皇子の取りなしで流刑に大幅減刑されております。この取りなしを演出し、首皇子即位への気運を盛り上げたのが藤原房前ではないか?と推測されています。
で、藤原房前は根回しを重ねて、わずか3年後の養老7年(723年)には首皇子を即位させるのです。
元明太上天皇の一任した役職を無事勤め上げたわけですね。
(但し、元明太上天皇がこういう展開を望んでいたかどうか分からないが)

つづく

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さて、話を変えて牟漏女王の名前について話しましょう。

古代に於いては、その養育を担当した氏族の苗字や、乳部<みぶ>(養育料に相当する領地)の地名が、
皇族の名前に付けられることが多かったようです。
牟漏女王もおそらくそういったところから命名されたのでしょう。
で、「牟漏」という苗字・或いは地名を探すと
和歌山県東牟婁郡・西牟婁郡
などが当てはまります。
一方、牟漏女王の母・橘三千代が仕えた元明天皇の子供についても、現在の和歌山県の地名を名前に持つ子供が2人もいるのです。

草壁皇子 ┌氷高(ひだか)内親王<後の元正天皇>:和歌山県日高郡
├──┼※吉備内親王            :和歌山県吉備郡
元明天皇 └軽皇子<後の文武天皇>

※前にも言ったが、吉備内親王の母が元明天皇かどうかには異説がある。

ここから考えるに、橘三千代が牟漏女王を産む頃には、おそらく元明天皇から養育料を分けてもらうほどに信用されていたのかも知れないですね。

話を本筋に戻します。
複雑な家庭環境の元で育った牟漏女王ですが、年頃になると縁談の話も持ち上がってきます。何しろ、宮廷の実力者・橘三千代の娘ですから引く手あまただったと思いますが、彼女の結婚相手は義理の兄・藤原房前でありました。

蘇我娼子<媼子>┌藤原武智麻呂(長男)
├────────┼藤原宇合(三男)
藤原不比等    └藤原房前(次男)
|            | ┌藤原安宿媛(=光明皇后)
├─―――――――――┤  
|            | └藤原吉日
橘 三千代         │    │
│      ┌牟漏女王     │
├─────┤           │
│      └─────葛 城 王
美 務 王

この時代、異母兄弟の結婚すら許されていたのですから、連れ子どおしの結婚にも当然!問題はありません。
しかし、牟漏女王の立場からすればどうでしょうか?
「父親は美務王でなく、藤原不比等かも知れない」
という噂すら立てられたかも知れない牟漏女王です。相手は、自分の父から母を奪った男の息子なのです。…余りいい気はしませんね。

しかし、この結婚には母・橘三千代の意向が働いていたようです。
橘三千代は、藤原氏と、自分の子供達を結婚させることで氏族の結束を固めようとしていたようです。
橘三千代と藤原不比等の間に産まれた娘(光明皇后の同母妹)を三千代の連れ子の葛城王が妻にしておりますが、これも橘三千代の策略でしょう。
さらに、和銅元年(708年)に父・美務王は既に亡くなっております。
頼るべき肉親が母・橘三千代しかいないことで、いやでも牟漏女王は母の意向に従うしかなかったのではないでしょうか。

牟漏女王が、藤原房前の妻となったのは和銅6年(713年)頃かと推測されています。夫・藤原房前はこの時28歳。この当時としては早くない結婚です。それもそのはず、房前には既に妻も子供もいたのです(○。○)。この女性がいつまで生きていたのかは分かりませんし、一夫多妻のこの時代では当たり前の事態ですが、まだまだ若い牟漏女王にはつらいことが多かったでしょう。

最も、牟漏女王は房前に気にいられていたようで、4人の子供を房前との間に産んでおります。

藤原房前 ┌藤原永手        :次男・和銅7年(714年)生
│    ├藤原八束(真楯):三男・霊亀元年(715年)生
├───┤
│    ├藤原千尋(御楯):六男・推定養老7年(723年)頃生
牟漏女王 └女性(聖武天皇夫人・北殿)



ここで、またまた脱線しますが、牟漏女王の父の家系をおさらいしましょう。
えー、牟漏女王の父方の祖父・栗隈王は敏達天皇の「曾孫」ですが、系図が間違いで「孫」の可能性もあるという話は前回申し上げました。
実はこれが重要でして、
・栗隈王が敏達天皇曾孫:牟漏女王は6代後の皇族→律令では非皇族
・栗隈王が敏達天皇 孫:牟漏女王は5代後の皇族→律令では皇族の一員
となります。一代違いで、牟漏女王の立場がぜんぜんかわってくる事を分かっていただいたと思います。
しかし、この当時は「皇族の一員である場合は皇族としか結婚できない」となっておりました。が、牟漏女王は皇族ではない藤原房前と結婚しております。
となると、
・あの系図が正しいのか?
それとも、
・橘三千代が策略を巡らして義理の息子・藤原房前と娘・牟漏女王の結婚を
無理矢理認めさせたか?
…となりますが???『続日本紀』には、この2人の結婚について何も書いておりませんから、やはり「系図が正しい」になるのでしょうか?うーむ。

…つづく。

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