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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
まず、今回の主人公・牟漏女王とはどんな人物なのか?
彼女は、前回までの主人公・県犬養橘三千代と最初の夫・美務王との間に産まれた唯一の娘です。
しかし!彼女を単独で取り上げた論文はほとんど無し!森田俤氏の奈良時代のお経の研究で少し出てくる程度で、ほとんどが母・橘三千代か夫・藤原房前の関わりで名前が出てくる程度なのです。
牟漏女王は、その程度のレベルでしか語れない女性なのでしょうか?
実は、奈良時代の政治に深く関わった女性の一人が彼女であると、私は考えています。

牟漏女王の生年は分かりませんが、前に橘三千代の所で述べたように、牟漏女王の最初の子供の生年(藤原永手・和銅7年(714年)生)から、このように推定できます。
このころの女性は13歳で結婚は許されました(律令の規定による)。
で、14歳で牟漏女王が藤原永手を生んだとすると、牟漏女王の生年は文武天皇4年(700年)となります。
しかし、この最下限の推定には無理があります。
というのは、この翌年には牟漏女王の妹・藤原安宿姫が生まれております。名前を見て頂ければすぐに分かりますが、安宿姫は牟漏女王とは父親が違う異母妹でした。一年違いで父違いの子供を産む…(^^;)物理的に不可能ではないですが、お正月で一歳繰り上がるこの時代の「一年違い」というのは、12月31日と翌年の1月1日生まれで「一歳違い」というのもあり得ますからねえ…。ちと、考えにくい。
ということで、16歳から20歳の間で藤原永手を産んだと仮定して、推定 持統天皇6年(693年)~文武天皇2年(697年)頃生まれとするのが通説となっているようです。

さて、牟漏女王の母・橘三千代については既に述べましたが、
牟漏女王の父・美務(みぬ)王とはどんな人物だったのでしょう?

敏達天皇―難波皇子―大派王―栗隈王―美務王 ┌葛城王(後の橘諸兄)
│  │
├──┼佐為王(後の橘佐為)
│  │
県犬養三千代 └牟漏女王


美務王について語るには、まず美務王の父・栗隈王について語る必要があるでしょう。
栗隈王は、一度も皇位争いに絡まなかった傍流の皇族、難波皇子の孫に当たります。但し、栗隈王の父「大派(おおまた)王」という人物の所在が『日本書紀』では確認できませんし、敏達天皇の皇子「大派皇子」と混同されている可能性もあるので、そうすれば栗隈王は傍流とは言え天皇の孫になるわけですね。
栗隈王の経歴は余り確認できませんが、672年の「壬申の乱」の時点では「筑紫大宰(つくしのおおみこともち)」という、後の「太宰師(ださいのそつ)」に当たる役職におりました。日本と唐と新羅の三角関係で緊張して
いるこの時期、この役職は重職です。ここから考えるに栗隈王はなかなかの軍事才能を持っていたと考えられるでしょう。
さて、「壬申の乱」の際、大友皇子の使者が筑紫にやってきました。大海人皇子と戦うため、自分に加勢するよう督促に来たのです。
ところが!栗隈王は
「今は日本、唐、新羅が緊張している難しい時期だからここから動けない」
と消極的な姿勢を示し、息子の美務王がこの使者を追い返してしまったというのです。
その後、栗隈王は676年に亡くなりますが、「壬申の乱」の際大友皇子に味方しなかったことから、後に「従二位」という高い位を追号されています。
息子の美務王も同様です。美務王はほとんどを父の役職の影響か、筑紫の役人として一生を過ごしました。

既に「橘三千代」の項で述べましたが、このような美務王の立場に注目して結婚したのが、少壮の宮廷女官・県犬養三千代であります。
2人の間の最初の子・葛城王(後の橘諸兄)は天武天皇13年(684年)生まれですから、2人の結婚は天武12年(683年)以前にさかのぼります。
美務王は、壬申の乱の時に既に父親の護衛として活躍しているくらいでしたから、この時30歳半ばは越えていたと考えられます。この時代ではかなり遅い結婚です。

美務王は筑紫の役人・県犬養三千代は宮廷女官と言うことから、美務王は単身赴任が多かったようです。
そして、その間に三千代に近づいた男がおりました。藤原不比等であります。
この時期がいつかはっきりしませんが、持統末年頃から文武初年頃と考えられております。
…あれ?この時期と言えば、今回のヒロイン・牟漏女王が産まれたと考えられる時期ではありませんか!
黛敏道氏などは、はっきりこう書いております。
「牟漏女王などは、父親が藤原不比等である可能性すらある」
要するに、「父の分からない子」という悪評ですね。
実際にはどのような風評が経ったか?という史料は全く残っておりません。
しかし、黛氏のようなことが、牟漏女王が産まれた頃に言われなかったとも否定できないのであります。

ともかく
牟漏女王が物心付く頃には、既に実の父と母は離婚してまして、父の恋敵が義理の父としていたわけですね。しかも、自分のホントの父が誰かという疑惑もある???
家族事情が今とはずいぶん違う1300年前の昔とは言え、このような複雑な環境が牟漏女王を苦しめたことは言うまでもないでしょう。

…つづく

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県犬養橘三千代は、出家し頭は既にボーズカット(汗)でしたが、これで仏道に精進して俗世間から離れる
…どころか、権力への意欲は失っていませんでした。

まず、首皇子が即位するための地ならしです。
養老七年(723年)に、今まで病気のため名前すらほとんど出てこなかった首皇子生母・藤原宮子の名前が突如『続日本紀』に登場します。彼女はこの年に一気に従二位の位を授かるのです。
同じ年の10月に、今度は平城京の左京の住人・紀家(きのいえ)なる者が白い亀を献上します。白い亀は良いことのある前兆とされています。
これらの背後に、県犬養橘三千代はじめ、藤原不比等の息子達の工作があったことは言うまでもないでしょう。ちなみに、この時の平城京の京職大夫は藤原不比等の4男・藤原麻呂ですから、左京の住人・紀家も麻呂の回し者?であったかも知れません。

こうして、神亀元年(724年)待つこと9年で、やっと首皇子は即位します。聖武天皇の誕生です。
が、即位の時に問題は起こりました。

聖武天皇は、母・藤原宮子に「大夫人(おおきさき)」の称号を与えようとします。県犬養橘三千代や、藤原氏の入れ知恵があったという説もありますが、病気故深窓に籠もりっきりの母親に何かしてせねば!と言う聖武の孝行心からでた独自政策ではないかと私は考えています。
が、これにかみついた人がおりました。高市皇子の長男で、吉備内親王の夫であり、左大臣の長屋王です。

┌高市皇子──長屋王
天武天皇─┤       ├───膳夫(かしわでおう)王+その他3人
└草壁皇子─┬吉備内親王
└文武天皇──聖武天皇

※膳夫王らは和銅7年(715年)に「皇孫の例」にあずかる。
また、『本朝皇胤紹運録』から長屋王と吉備内親王の間の子は3人だった
という説もある。

「律令を見たら、”大夫人”という称号はないです。律令に則れば”皇太夫人”というのが正しいです。が、そうすれば天皇の勅令をひっくり返すことになりますが、どうしましょう?」
…問題の「藤原宮子称号事件」と言われる物です。この事件の解釈には
「長屋王が法律を守ろうとする一心から出た物だ」
「いや、長屋王が聖武天皇にいちゃもんを付けようとしたのだ」
と2通りの説があり、実はどっちの説を採るかによって「長屋王」という人物の捉え方が全く変わってしまうのです。
しかしどっちにしろ、こういう言い方をされたら、聖武天皇は「長屋王にいちゃもんつけられた(_ _;)」
と思うでしょう。そして、その心は藤原一門はもちろん、県犬養橘三千代も同じであったようであります。
実は、長屋王は藤原不比等の娘をも妻にもらっており、藤原氏との仲はそんなに悪くはなかったと私は考えていますが、この事件がきっかけで長屋王と藤原氏の中は急速に冷えていってしまったと思われます。

さて、神亀4年(727年)藤原安宿媛は、待望の皇子を出産します。
藤原氏、県犬養橘三千代はもちろんの事、聖武天皇の喜びようも大変な物で、何と、産まれて間もないこの皇子が皇太子に立てられます。これは前代未聞のことでした。
県犬養橘三千代は、ここぞとばかりに
「実家・県犬養家でまだ「宿禰(すくね)」の姓を与えられてない者に「宿禰」の姓を与えて欲しい」
とお願いし、あっさりと許可されております。「皇太子の祖母」の特権をふるったわけです。

が、常と変わったことをすると良くないことがある!の例え通り、この皇子は翌年に亡くなります。
そして、明けて神亀6年(729年)「長屋王の変」が発覚します。そして、長屋王はじめ、吉備内親王・二人の間の子供はすべて自殺しました。
この政変の意味については
「長屋王及びその子供に皇位を取られるのを恐れたための陰謀」
「藤原安宿媛を皇后にするために、何でも法律を楯にする長屋王がじゃまなために陰謀にはめた」
と2説があり、どっちが主目的だったかは未だに論争の的です。
しかし、おもしろいことに、どっちの目的であっても、一番得するのは県犬養橘三千代なのであります。

まず、もし「長屋王及びその子供が皇位を取る」とすれば、藤原氏はもちろんですが県犬養橘三千代には不利であります。
実はこの年、後に問題となる安積親王という皇子が産まれています。父は聖武天皇、母は県犬養広刀自です。
もし、万が一藤原安宿姫に皇子が今後産まれなければ、この安積親王が即位する可能性が高くなります。
しかし、不比等の4人の息子という強力な勢力を持っている安宿媛に対し、県犬養広刀自は頼りとする実家の勢力は小さい物です。そうなった場合に長屋王とその息子が皇位継承者として対抗してくれば…安積親王は血筋の上でかなり不利になります。これを防ぐためにも、長屋王一族はやっつけておかないと…と三千代が思ってもおかしくはない。
また、「藤原安宿姫を皇后にする」とすれば、県犬養橘三千代は「皇后の母」という栄誉を手にすることが出来ます。しかし、先述の「藤原宮子称号事件」から考えても法律に詳しい長屋王が
「皇后は皇族からしかだせんのじゃあ!」
とすぐ気が付くのは目に見えております。…自分の栄光の地位をじゃまする長屋王。…やっぱし消すしかない。

-ということで、どの説を採るにしても黒幕に県犬養橘三千代を想定するのが正しいでしょう。
その証拠に、橘三千代と美務王の間の子・葛城王は、同年3月の人事で従四位下から二階級進んで正四位下になっております。母親の命で「長屋王の変」の陰謀に加わったのは間違いないでしょう。

そして、翌年三千代の娘・藤原安宿媛は「皇后」となり、「光明皇后」と呼ばれるようになります。。
その前年に、またもや「天王貴平」の文字がある不思議な亀が献上されました。この事が安宿姫を皇后とするきっかけになります。しかし、この亀を献上したのは河内国古市郡の人であり、古市郡は県犬養氏の本拠地でした。この裏にも三千代の手が回っていたと考えられております。

天平5年(733年)、県犬養橘三千代は正三位で亡くなりました。が、葬式は一位の役人の形式で行われました。
そして、同年に「従一位」の位が送られ、さらに天平宝字七年(760年)には「正一位」と更に一階昇進の上、長屋王のクレームで問題になった「大夫人」の称号さえ賜ったのです…天皇の母でもないのに。

皇族出身ではなく、更に名門貴族の出身でもないのにここまで高位を極めたのは県犬養橘三千代ぐらいでしょう。
しかし、一族・子供を出世させたいためとはいえ、そこに至るまでの節操のない行動は、余り好きにはなれないですね。皆さんは如何でしょう?

では、三千代の残した和歌を一首(というか、これ一首しか残してない)。

天雲を ほろに踏みあたし 鳴神も 今日にも益(まさ)りて 恐(かしこ)けめやも
(『万葉集』巻19 4235)


次回「牟漏女王編」につづく

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そして、遂に巻頭で述べたあの日がやってまいります(←松平定知風)。
県犬養三千代は今までの功績が認められ、和銅元年(708年)、元明天皇より直々に杯を賜り、しかも「橘」の苗字すら与えられるのです。
これは前例のない、空前の栄誉といえました。
しかし、県犬養三千代…改め県犬養三千代は、こんな物では満足していなかったのです。
-ちなみにこの年、三千代の前の夫・美務王は従四位下という中級貴族の位で一生を終えています。

前回申し上げたとおり、文武天皇の皇子は藤原宮子出生の首皇子だけではありませんでした。他に、石川刀子娘(いしかわのとねのいらつめ)の産んだ、広成皇子+広世皇子という2人の皇子がいたと推測されています(角田文衛氏説、広成皇子=広世皇子の同一人物という説もあり)
しかし、藤原不比等は何とか自分の孫への皇位継承を確かな物にしようとしていたのは自明の理でした。そのためには、孫・首皇子のライバルとして広成・広世両皇子がじゃまになってきます。

和銅6年(714年)文武天皇の嬪(ひん・「夫人」より下の位の天皇妃を指す)石川刀子娘と紀竃門娘(きのかまどのいらつめ)は、突如「文武天皇嬪」の称号を剥奪されるのです。これはぶっちゃけていうと「文武天皇の未亡人を名乗っちゃだめよ」という意味合いがありました。つまり刀子娘と竈門娘は宮中から追放されてしまったのです。
どうしてこんな処罰が突如、しかも二人同時に下されたのか疑問でありますが、こういう後宮の裏工作には県犬養橘三千代が携わっていたことには間違いないと考えられています。
ともかく、この事件で広成・広世両皇子も宮中を追われ、中級貴族として一生を終えたようです。『万葉集』等に出てくる「石川広成」がこの皇子の後の姿と言われているのです。

話を戻して、藤原不比等・県犬養橘三千代両人の期待のかかる首皇子は、和銅7年(715年)に15歳になり元服します。文武天皇も15歳で即位しておりますから、首皇子が即位すると誰もが思っていたでしょう。

ところが、首皇子は同年に「皇太子」に任ぜられただけで、実際に天皇になったのは首皇子の伯母で元明天皇の娘であった氷高内親王=元正天皇でした。
私は、
・元正即位の前後に「吉備内親王の息女(長屋王の子)を皇孫の例に入れる」という勅令があったこと
・知太政官事の穂積親王の死後、次の知太政官事が任命されなかったこと
などから、首皇子が元明天皇退位直後に天皇になることに対して、何らかの政治圧力がかかったように考えています。

ともかく、藤原不比等と県犬養橘三千代の落胆ぶりは目に余る物があったと思われます。
しかーし!こんな所でこの2人くじけなかった。ともかく、首皇子は皇太子にはなったのですから、死ににでもしない限りは次の天皇にはなれる予定であることには変わりないのです(極端?!)。
不比等と三千代は、首皇子に自分たちの娘・安宿媛を入内させます。霊亀元年(716年)のことです。

それと前後して、三千代はもう一つ身内の結婚をまとめたと思われます。
何と、一族の県犬養唐(もろこし)の娘・県犬養広刀自(ひろとじ)をも首皇子に入内させたのです。
県犬養氏は第1回で述べたように中級の貴族ですので、本来なら将来の天皇候補に后なんてとんでもない!という家柄なのです。それが、広刀自は入内しているのですから、これはもう宮廷で力を持つ県犬養橘三千代の推薦に違いありません。
もし、我が娘・藤原安宿媛が子供を産まなくても、県犬養広刀自が子供を産めば、三千代の実家は安泰で万々歳…ということになります。
こんな母の酷い仕打ちをどう思ったのか?藤原安宿媛の心情を知る史料は残っておりません。
※これについて、この書き込みをした後に、瀧波貞子氏らによって「安宿媛は皇太子を産むための妃、広刀自は伊勢斎宮を産むための妃」という役割分担説が唱えられ、学会で一定の支持も得ているようですが、結果から見た論と私は考えており賛同していません。

そして、養老元年(717年)。県犬養橘三千代はついに従四位上から一気に2階昇進して従三位となり、正式に「貴族」の仲間入りを果たします。
ついでにこの年、藤原安宿媛は首皇子との間に子供を産みますが、それは皇子ではなく、皇女でした。後の阿倍内親王=孝謙・称徳天皇です。

首皇子の即位こそ遅れましたが、県犬養橘三千代の人生は順調そのものでありました。
しかし、養老4年(720年)。夫・藤原不比等が首皇子の即位を見ぬまま63歳(62歳とも言われる)で亡くなります。
更に三千代にショックを与えたのは、長く仕えてきた元明天皇(当時は退位していたので「元明太上天皇」と言った)が翌年養老5年(721年)に亡くなったことです(61歳)。彼女は元明天皇の菩提を弔うために出家します(食封などの給料も辞退したが、これは許されず、給料はその後も支給された)。
…が!彼女は政治の世界から引退したわけではありませんでした_(。_゜)/。
不比等の次男で自分の婿に当たる藤原房前を「内臣」に任命させることに成功した三千代は、夫・藤原不比等が出来なかった首皇子の即位に向けて動き出します。考えようによっては、尼さんになったのも、婿の藤原房前を「内臣」にするための取引材料だったかも知れないのです!

…つづく

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夫・美務王の出世にいらいらしていた三千代に近づいてきた男がおりました。

今更言う必要もないのでしょうが、申し上げますと、彼の名は 藤原不比等 といいました。

異論もありますが、私は藤原宇合(うまかい)誕生後に不比等最初の妻・蘇我娼子が亡くなったと考えております。持統天皇7年(693年)の事です。
これは、不比等にとって、政治上かなりのダメージだったと私は考えています。

┌─────天武天皇
└天智天皇  ├──────────草壁皇子
├───鵜野讃良皇女(持統天皇)
┌蘇我石川麻呂─遠智娘
  |
└蘇我連子───蘇我娼子(媼子)┌藤原武智麻呂
├―――───┼藤原房前  
藤原不比等   └藤原宇合



藤原不比等は妻方を通じて、持統天皇と親戚だったわけですね。ところが!蘇我娼子が亡くなったことでパイプが切れたわけです。
実は藤原不比等の持統天皇時代の政治力というのがどれほどの物かを示す史料はあまりないのですが、
(1)後の文武天皇時代に不比等の娘(藤原宮子)が唯一の文武天皇「夫人」となって、3人いた文武天皇妃の最高位を占めたこと、
(2)後世正倉院に納められた「国家珍宝帳」に草壁皇子より刀を不比等に賜った記事があること
などから、かなりの物があったと推測されてます。
これは不比等がかなりの政治的才能に恵まれていたことも一因でしょうが、不比等が持統天皇の実家に連なる人間であったことも背景にあるのでは?と私は考えております。

ともかく、不比等は亡き妻に変わる持統天皇とのパイプを探すわけです。
で、「これやこれ!」ヾ(--;)とお目に留まったのが県犬養三千代というわけです。
県犬養三千代は、身分こそ高くありませんが、持統天皇の信頼深い女官というわけで、十分蘇我娼子に変わりうるパイプだったという事です。

一方、三千代にしても、今の夫・美務王にしがみついて(ヲイ)いても、これ以上の上昇は望めそうもないのが見えていました。
で、三千代はどうしたかというと
あっさり夫を捨てて、藤原不比等に乗り換えてしまうのです(○。○)。
美務王は、まだ筑紫の太宰府に単身赴任の状態でした。世間の人々の同情は美務王に集まったようです。『万葉集』に、美務王に同情する長歌が一首残っております。

三千代が、夫を捨てて藤原不比等へ走ったのは、2人の間に始めて産まれた娘の誕生年が701年(大宝元年)であることから、文武天皇4年(700年)よりさかのぼることになります。
実はこの娘が藤原安宿媛(あすかべひめ)、後の光明皇后その人であります。

実は、藤原安宿媛が産まれた年というのは、藤原氏繁栄の基礎が築かれた年とも言えます。
まず、藤原不比等が中心となって作成した日本初の律令「大宝律令」が発布されます。
また、先程述べた藤原宮子が文武天皇との間に首皇子(後の聖武天皇)を産んだのもこの年です。
そして、県犬養三千代はこの後の藤原氏の行方に深く関わっていくことになります。

これは岸俊男氏の憶測ではあるのですが、
・三千代のこれまでの宮廷に築いた地位
・光明皇后と聖武天皇の生年が同じ事
・聖武天皇の母・藤原宮子が聖武天皇出産後病気となり子育てが出来ない状態になったこと
から考えて、県犬養三千代が聖武天皇の乳母となり養育に携わった可能性が高いことを示しました。おそらく、その可能性は高いでしょう。
そのため、三千代の宮廷内での権力は、更に絶大な物となったと思われます。

ところが、三千代の仕えた持統天皇の最愛の孫・文武天皇は慶雲4年(707年)わずか25歳で亡くなります。
文武天皇の子供達はまだ小さく、とても天皇にはできません。
更に、天武天皇の皇子達がまだ健在です。

┌穂積皇子(母・蘇我大ぬ娘)
├長皇子(母・大江皇女)
├舎人皇子(母・新田部皇女)
天武天皇─┴新田部皇子(母・藤原五百重娘)

├──草壁皇子 ┌氷高(ひだか)内親王(後の元正天皇)
┌持統天皇  ├───┼<吉備内親王>
└─────元明天皇 └文武天皇───┬首皇子(後の聖武天皇、
│    母・藤原宮子)
├広世皇子(母・石川刀子娘)
└広成皇子(母・石川刀子娘)

注1:蘇我大ぬ娘の「ぬ」は 草かんむりに「廴」に「生」
注2:吉備内親王の母が元明天皇かどうかには異論もある

文武天皇の母・阿閉(あへ)皇女は、文武天皇の子に天皇位を伝えるべく、天皇として即位します。これが元明天皇です。

実は元明天皇が即位するには、いくつかの障害がありました。
今までの女帝は天皇の皇后でしたが、元明天皇の夫・草壁皇子は皇太子ではありましたが、天皇にはなっていません。そこで、文武天皇が重体になると草壁皇子には「日並知皇子尊(ひなみしのみこのみこと)」という尊号が追号されます。
更に、元明天皇が即位するときに、天智天皇が言ったという
「不改常典(かわらぬところのつねのみことのり、と読む)」
なる物を持ち出します。これは、天皇位は親から子へ受け継ぐことが正当である、といった内容の物だったようです。
こうして元明天皇の即位の正当性を強調したのです。

いくら元明天皇の父が天智天皇とはいえ、こんな大昔の忘れ去られた(無かったと言う説すらある)法を持ち出すのは、天智天皇の忠臣・藤原鎌足を父に持つ藤原不比等に違いないでしょう。
また、不比等の妻・県犬養三千代も元明天皇の補佐に懸命であったに違いありません。三千代は持統天皇に仕えることで、今まで出世してきました。ここで持統天皇の系統が途絶えることは、三千代にとってもマイナスになるのです。

…つづく

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県犬養三千代は、美務王と結婚、彼との間に3人の子を産みます。

美務王        ┌葛城王(後の橘諸兄):天武天皇13年(684年)生
│            │
├───────┼佐為王(後の橘佐為)
│             │
県犬養三千代 └牟漏女王:推定 持統6年 ~文武2年 頃生まれ
                   (693年)      (697年)

葛城王は『公卿補任』などに年齢の記録が残ってますから(天平宝字元年(757年)74歳没)、美務王と三千代の結婚は682年から前にさかのぼることがわかります。
また、三千代は天武天皇の頃から宮仕えしていたよう(『続日本紀』によるですから、このころ二十歳前後だったと推測できます。
※参考 後の律令の規定によると、官人の出仕は20歳から。但しこれが女官に当てはまるかどうかは不明です
後の二人についてはいつ産まれたのか?という事を示す史料は残っておりま
せん。ただ、牟漏女王が最初の子供を産んだのが和銅6年(713年)なので、そこから持統天皇末年頃の生まれであろうと推測できるばかりです。

また、三千代が葛城王を産んだのは684年なので、この前後は大きなお腹でしんどい+育児(^^;)で、宮仕えどころじゃないと考えられる。
ということで、産休明けの(^^;)天武天皇14年頃から宮仕えしたと思われますが、この年は問題の年であります。

三千代が葛城王を産んだ前年に大津皇子が朝政を許されます。これをどう評価するか歴史家の間で評価が分かれていますが、ともかく、大津皇子が政界にも正式デビューしたことは事実であります。
これを一番腹立ててみていた人がおりました。そう!鵜野讃良(うののささら)(※実際は「鵜」の字は”廬”に”鳥”)皇女こと、後の持統天皇であります。
息子・草壁皇子の地位を揺るがすライバルの成長に持統天皇、心穏やかならぬ物があったでしょう。
その動揺していた宮廷に県犬養三千代はやってきたのです。この時の三千代がどういう働きをしたのか?それを示す史料は何もありません。
おそらく推測できるのは、この時に三千代は持統天皇の味方となり十二分の働きを果たしたらしいことです。

大津皇子は天武天皇の死後、謀反の疑いで自殺に追い込まれます。(朱鳥元年(686年))
しかし、持統天皇が期待をかけた草壁皇子もまた持統称制3年(689年)に28歳の若さで亡くなり、持統天皇は孫・軽皇子(後の文武天皇)の即位を実現させるために、正式に天皇となります。そして、夫・天武天皇が出来なかった”中国風の都”の実現を行うのです。これが「藤原京」と言われています。
この藤原京より、不思議な木簡が出土しています。
「三千代賜煮(以下欠損)」(三千代に煮物を賜る)
という物です。三千代という名前はこの時代そうそうある名前ではなく、この「三千代」とは「県犬養三千代」と同一人物であると推測されております。
つまり、三千代は、天皇より食べ物を下賜されるほど高い地位を藤原京時代には得ていたようなのであります。
ここまで高い地位を保った背景には、三千代が持統天皇に絶大なる信任を得ていたことが考えられるでしょう。

三千代はこのようにして、持統天皇の腹心としての地位を固めていきますが、
その一方で不満に思っていたことがあったようです。
夫・美務王が思ったより出世しなかったことであります。
それどころか美務王の父・栗隈王が筑紫太宰だったことが逆に影響し、美務王は筑紫の役人から離れられませんでした。
これでは、自分の権力と言ってもせいぜい後宮で根回しが出来るという程度で、自分の子供や県犬養一族の出世にすらつながらないではありませんか!

こういう不満を抱えていたらしい三千代に近づいた男がおりました。彼の名は…

…つづく_(。_゜)/

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