拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
天平16年(744年)、ついに光明皇后は、兄・橘諸兄に勝利します。
橘諸兄の本拠地・恭仁京の造営が中止となり、都は難波京に移ったからです。
しかし、こんな物では、光明皇后は満足していなかったようです。
さてこの頃、難波京に移った聖武天皇を追いかけていく高貴な一行がおりました。
ところが、大阪の桜井(現在の枚方市か高槻市と言われるが所在不明)まで来たと
ころで、この一行は主が重体に陥り、恭仁京に引き返します。そして、その主はそのまま死んでしまうのです。
この主が安積親王。聖武天皇と県犬養広刀自の間の皇子で、唯一生存していた聖武の子息でした。享年17歳。
実は、この背後に光明皇后の陰謀があったのではと言う学説があります。
横田健一氏の「安積親王の死の前後」と言われる論文に紹介されております。
横田氏は、この時に恭仁京の留守官に藤原仲麻呂が任命されていることに注目し、光明皇后が仲麻呂を使って、安積親王を毒殺したという見解を示しています。
一方、これに対する「偶然説」(林陸朗氏、木本好信氏)もありますが、”脚の病”と言う極めて奇妙な病気で急逝した安積親王を巡って、宮中は疑心暗鬼に陥ったことは言うまでもありません。
しかし、大事な皇子が死んだというのに、聖武天皇は何の反応も示しません。
阿倍内親王が皇太子にいるから、どうでもいいとでも思っていたのでしょうか?謎であります。
奇妙なことは更に続きます。聖武天皇は突如難波京を出て紫香楽宮(信楽の離宮)に移ってしまいます。この時、光明皇后は聖武天皇についていきましたが、元正太上天皇と橘諸兄は残っております。
私は、この時聖武天皇が、藤原北家の領地が多い「摂津国三島路」を通って紫香楽宮に移ったことから、牟漏女王と光明皇后が共同して聖武を難波京から引っぱり出した物と考えております。
しかも、翌年になると難波京も紫香楽宮も「都」を宣言し、混乱に拍車がかかります。
更に、元正太上天皇は、光明皇后のやり口についに堪忍袋の緒が切れたのでしょうか。難波京周辺への行幸を繰り返し、おん自ら詔を乱発します。
と言うことで、まるで天皇が2人いるかの状態に陥るわけです。
この状態が解消したのは年末のことです。元正太上天皇の行幸の列が、突如東へ向かい、元正太上天皇は紫香楽宮に行ってしまったのです。
何がどうなったのか分かりませんが、ともかく「大仏を造らなければいけない」と言うところで双方の見解が一致して、聖武・光明と元正は仲直りしたようであります。
この裏にいたのが、またしても牟漏女王と思われます。というのも、この年末に牟漏女王の三男・藤原八束が時期はずれの昇進に預かっております。おそらく元正太上天皇を難波京より引っ張ってくる役割を果たしたからと私は考えております。
悲惨なのは橘諸兄でして、最後まで味方していた元正太上天皇にも裏切られてしまうのです。
このころ、紫香楽宮で放火が増えるのですが、中川収氏は「橘諸兄の手先による火付け」と推測しておられます。しかし、これは結局都を元に戻すきっかけを作っただけでした。
天平17年(745年)ついに、都は平城京に戻ってくるのです。
この後、聖武天皇は難波京に行幸しますが、瀕死の重体に陥ります。
その結果、光明皇后が実際の政治に口を出すことが更に増えたと思われます。
とりあえず、この時は聖武は死なずに済みましたが、
「大仏づくりに専念するため、早く位を阿倍内親王に譲りたい」
と思い始めるようになったようです。しかし、元正太上天皇が健在の間は、太上天皇が2人いるという事態を避けるために、我慢して在位するしかありませんでした。
このころの『続日本紀』を見てみると、聖武天皇ご贔屓の藤原八束の名前が減り、藤原仲麻呂の名前が出てくることが多くなってきます。
ここからも、聖武天皇より光明皇后が実際の政治に携わっていることが見て取れるのではないでしょうか。
また、この年までに藤原宮子の元で権勢を振るっていた玄坊は、突如筑紫へ左遷されます。光明皇后のもくろみ通り、大仏建立と共に権威が失墜し、無事?追っ払ったわけです。玄坊は天平19年に筑紫にて「藤原広嗣の祟り」によるという変死を遂げています。
(ちなみに、吉備真備は直前に阿倍内親王の皇太子学士になり、寝返ったため?無事だった)
天平20年(748年)元正太上天皇が69歳で天寿を全うすると、聖武天皇は待ってましたとばかり、位を阿倍内親王に譲り、自分はとっととボーズカットになってしまいます。天平感宝元年(749年)、孝謙天皇の誕生です。
ところが、孝謙即位の後、突如皇后宮の組織改編が行われます。
光明皇太后が直接政治を取るために、皇后の雑用係(^^;)が、突如太政官(中央政府)並の権力を持ったのです。この新・皇后宮は「紫微中台」(しびちゅうだい)と名付けられ、長官には光明皇太后お気に入りの藤原仲麻呂が就任しました。
つづく
橘諸兄の本拠地・恭仁京の造営が中止となり、都は難波京に移ったからです。
しかし、こんな物では、光明皇后は満足していなかったようです。
さてこの頃、難波京に移った聖武天皇を追いかけていく高貴な一行がおりました。
ところが、大阪の桜井(現在の枚方市か高槻市と言われるが所在不明)まで来たと
ころで、この一行は主が重体に陥り、恭仁京に引き返します。そして、その主はそのまま死んでしまうのです。
この主が安積親王。聖武天皇と県犬養広刀自の間の皇子で、唯一生存していた聖武の子息でした。享年17歳。
実は、この背後に光明皇后の陰謀があったのではと言う学説があります。
横田健一氏の「安積親王の死の前後」と言われる論文に紹介されております。
横田氏は、この時に恭仁京の留守官に藤原仲麻呂が任命されていることに注目し、光明皇后が仲麻呂を使って、安積親王を毒殺したという見解を示しています。
一方、これに対する「偶然説」(林陸朗氏、木本好信氏)もありますが、”脚の病”と言う極めて奇妙な病気で急逝した安積親王を巡って、宮中は疑心暗鬼に陥ったことは言うまでもありません。
しかし、大事な皇子が死んだというのに、聖武天皇は何の反応も示しません。
阿倍内親王が皇太子にいるから、どうでもいいとでも思っていたのでしょうか?謎であります。
奇妙なことは更に続きます。聖武天皇は突如難波京を出て紫香楽宮(信楽の離宮)に移ってしまいます。この時、光明皇后は聖武天皇についていきましたが、元正太上天皇と橘諸兄は残っております。
私は、この時聖武天皇が、藤原北家の領地が多い「摂津国三島路」を通って紫香楽宮に移ったことから、牟漏女王と光明皇后が共同して聖武を難波京から引っぱり出した物と考えております。
しかも、翌年になると難波京も紫香楽宮も「都」を宣言し、混乱に拍車がかかります。
更に、元正太上天皇は、光明皇后のやり口についに堪忍袋の緒が切れたのでしょうか。難波京周辺への行幸を繰り返し、おん自ら詔を乱発します。
と言うことで、まるで天皇が2人いるかの状態に陥るわけです。
この状態が解消したのは年末のことです。元正太上天皇の行幸の列が、突如東へ向かい、元正太上天皇は紫香楽宮に行ってしまったのです。
何がどうなったのか分かりませんが、ともかく「大仏を造らなければいけない」と言うところで双方の見解が一致して、聖武・光明と元正は仲直りしたようであります。
この裏にいたのが、またしても牟漏女王と思われます。というのも、この年末に牟漏女王の三男・藤原八束が時期はずれの昇進に預かっております。おそらく元正太上天皇を難波京より引っ張ってくる役割を果たしたからと私は考えております。
悲惨なのは橘諸兄でして、最後まで味方していた元正太上天皇にも裏切られてしまうのです。
このころ、紫香楽宮で放火が増えるのですが、中川収氏は「橘諸兄の手先による火付け」と推測しておられます。しかし、これは結局都を元に戻すきっかけを作っただけでした。
天平17年(745年)ついに、都は平城京に戻ってくるのです。
この後、聖武天皇は難波京に行幸しますが、瀕死の重体に陥ります。
その結果、光明皇后が実際の政治に口を出すことが更に増えたと思われます。
とりあえず、この時は聖武は死なずに済みましたが、
「大仏づくりに専念するため、早く位を阿倍内親王に譲りたい」
と思い始めるようになったようです。しかし、元正太上天皇が健在の間は、太上天皇が2人いるという事態を避けるために、我慢して在位するしかありませんでした。
このころの『続日本紀』を見てみると、聖武天皇ご贔屓の藤原八束の名前が減り、藤原仲麻呂の名前が出てくることが多くなってきます。
ここからも、聖武天皇より光明皇后が実際の政治に携わっていることが見て取れるのではないでしょうか。
また、この年までに藤原宮子の元で権勢を振るっていた玄坊は、突如筑紫へ左遷されます。光明皇后のもくろみ通り、大仏建立と共に権威が失墜し、無事?追っ払ったわけです。玄坊は天平19年に筑紫にて「藤原広嗣の祟り」によるという変死を遂げています。
(ちなみに、吉備真備は直前に阿倍内親王の皇太子学士になり、寝返ったため?無事だった)
天平20年(748年)元正太上天皇が69歳で天寿を全うすると、聖武天皇は待ってましたとばかり、位を阿倍内親王に譲り、自分はとっととボーズカットになってしまいます。天平感宝元年(749年)、孝謙天皇の誕生です。
ところが、孝謙即位の後、突如皇后宮の組織改編が行われます。
光明皇太后が直接政治を取るために、皇后の雑用係(^^;)が、突如太政官(中央政府)並の権力を持ったのです。この新・皇后宮は「紫微中台」(しびちゅうだい)と名付けられ、長官には光明皇太后お気に入りの藤原仲麻呂が就任しました。
つづく
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天平12年(740年)
「太宰少弐の藤原広嗣、謀反を起こしました。」
この報告に、朝廷は大パニックに陥ります。「藤原広嗣の乱」の始まりです。
実は、藤原広嗣の父・藤原宇合(藤原不比等三男)は大変優れた武将でして、太宰府の行軍式(現存せず・軍の配備の仕方などを示した物と考えられている)をまとめたのは宇合なのです。
しかも、太宰府には藤原宇合が恩顧をかけてやった兵士が大勢残っておりましたから、藤原広嗣を太宰府にやったこと自体
「謀反起こしても、いいともー(^^;)」
と言っているのと変わらない状態だったのです。最も、広嗣は聖武天皇にたてついている気は全然無かったみたいですけどね。
この藤原広嗣の乱を鎮圧したのが、皮肉なことに藤原宇合の元で武者修行し、藤原麻呂(藤原不比等四男)に絶賛された大野東人(おおの・あずまひと)なのです。
東人はあっさり広嗣をやっつけ、その報告を書いているとき、平城京から変な詔がやってきます。
「季節は悪いが(10月)、東国に行幸することにした。不審に思わないでくれ。後は宜しく。(^^)/~~~」
…東人は腰を抜かしたことでしょう。これが、奈良時代最大の謎の一つ「聖武天皇の謎の彷徨5年」と言われる事件の始まりです。これについては、
「橘諸兄が、恭仁京に都を移すのを自然に見せるための陰謀」
「藤原広嗣の乱に腰を抜かした聖武が逃げ出した」
などの説がありますが、瀧波貞子氏の
「天武天皇の”壬申の乱”のコースをたどることで、聖武天皇への結束を強化しようとした」
と言う説が一番説得力があるように思われます。
話がまた飛んだ。
ともかく、この「藤原広嗣の乱」で藤原氏の権威は失墜します。光明皇后は、自分が目をかけた甥の思わぬ反抗にがっかりしたことでしょう。翌天平13年(741年)には、藤原不比等から相続した食封5000戸の返納を願い出ております。
しかし!いいことも一つだけありました。聖武天皇の「東国行幸」に同行したある甥に目が留まったのです。それが、藤原武智麻呂(藤原不比等長男)の次男・藤原仲麻呂であります。
仲麻呂はどちらかというと学者肌で、しかも全然目立たない人物でした。
しかし、彼は妻の藤原袁比良(おひら:藤原房前の娘)を宮仕えさせ、光明皇后にさりげなくアピールした物と思われます。
光明皇后は、藤原氏の権威回復をこの甥にかけることにするのです。
ところが、皮肉なことに、夫の聖武天皇が気に入ったのは、同じ「東国行幸」についてきた藤原房前の三男・藤原八束でした。牟漏女王の息子でもあります。
彼は親の心知らず?藤原豊成や橘諸兄と仲が良く、藤原仲麻呂とは全く!性格が合わなかったため、この後の藤原氏の混乱の原因となります。
ともかく、都は平城京から恭仁京へ移ります。天平12年(740年)の暮れのことでした。恭仁京は、橘諸兄の本拠地です。光明皇后は(今は身内から反乱者も出したところだ。ともかく堪え忍ぶのだ)と、忍耐の毎日を過ごしたことでしょう。
このころ、皇后宮で「維摩会(ゆいまえ)」が行われていますが、藤原不比等に似せた「維摩像」を拝むことで、藤原氏内の結束を促した物ではないか?と上山春平氏は推測されています。
ところが、恭仁京は木津川をまたがって造ったという変形した都だったため、極めて不便を強いられます。聖武天皇は今度は近江国・信楽に離宮を作り出します。
実は、信楽は交通の要所であると共に、近江国は藤原氏の本拠地の一つとも言われているくらいの所でした。おそらく、光明皇后辺りが聖武天皇に離宮を造ることを進めたのでしょう。
一方、この翌年の天平13年(741年)には「国分寺・国分尼寺建立の詔」が出されます。聖武天皇は仏教を広めることで、自分の権威回復をはかったのです。
しかし、この裏にも光明皇后がいました。元々、皇后になったときに仏教的な政策(貧民救済)で庶民の人気を取った光明です。仏教に頼ることを進めたのはおそらく、光明皇后の影響と考えられております。
そして、一番強烈(^^;)な詔が天平15年(743年)の「廬舎那仏建立の詔」です。実は、この「廬舎那仏建立」自体、この時代の日本の状態を無視しまくった無茶苦茶なことを言っております。
まず、廬舎那仏は青銅製で、しかも金箔張りでなければいけません。
ところが、この当時、実は全世界見渡してもそんな巨大な青銅像は前例がない!
しかも、この当時の日本には金が採掘されていない!
…もう、何を聖武天皇考えているのでしょうか。しかし、この不安漂う日本を救うために、大仏を造らねば!…という悟りを、聖武天皇は開いたようなのです(なんのこっちゃ)。
実は、この背景にも光明皇后がおりました。
光明皇后養育の地・河内国に智識寺(ちしきでら)と言うお寺がありました。
このお寺は今は残っていないそうですが、実は日本で一番最初に大仏を造ったお寺であります。…但し、塑像(土が材料)なのですが。
このお寺が大仏を造るときに取った方式が「智識」なのであります。つまり、信者のお布施とボランティアに頼る方式ですね。この「智識」の大ボス(^^;)が 行基 なのです。…ここまで書いてピン!ときた方はすごい。
つまり、
光明皇后は大仏づくりに行基をかり出すことによって、庶民の関心を聖武天皇にひいて夫の権威を高めようとし、
一方で
行基の権威を高めることで、姉・藤原宮子の元で権勢を振るっている玄坊を追い出してやろう!
…という作戦だったのです。おそるべし、光明皇后。
その一方で、光明皇后もう一つ重要な画策を行っております。
皇太子・阿倍内親王を元正太上天皇が認めてなかったらしいことを前に述べましたが、無理矢理に認めさせる機会を作ったのです。
天平15年(743年)常なら貴族から選ばれた女性で踊られる「五節の舞」のメンバーに、何と阿倍内親王が混じっておりました。
「この、天武天皇が考案した舞を、阿倍内親王が舞うことで、改めて”君臣は親子の交わり”(=皇位は親から子へ代々伝える物だ)と言う理を示したいと思います。」
この良くできた奏上、しかも元正太上天皇にとっては神に等しい祖父「天武天皇」の名前を出されては”ぐー”の字も出ません。結局、元正太上天皇は「聖武天皇の後は阿倍内親王が嗣ぐことを認める」ことになるのです。
そうそう、反対しそうな兄・橘諸兄には、既に「従一位・左大臣」という、藤原不比等も、長屋王ももらってない高い位を先にあげておりました。
橘諸兄、常に妹の光明皇后に先手先手を打たれていたわけですね。
つづく
「太宰少弐の藤原広嗣、謀反を起こしました。」
この報告に、朝廷は大パニックに陥ります。「藤原広嗣の乱」の始まりです。
実は、藤原広嗣の父・藤原宇合(藤原不比等三男)は大変優れた武将でして、太宰府の行軍式(現存せず・軍の配備の仕方などを示した物と考えられている)をまとめたのは宇合なのです。
しかも、太宰府には藤原宇合が恩顧をかけてやった兵士が大勢残っておりましたから、藤原広嗣を太宰府にやったこと自体
「謀反起こしても、いいともー(^^;)」
と言っているのと変わらない状態だったのです。最も、広嗣は聖武天皇にたてついている気は全然無かったみたいですけどね。
この藤原広嗣の乱を鎮圧したのが、皮肉なことに藤原宇合の元で武者修行し、藤原麻呂(藤原不比等四男)に絶賛された大野東人(おおの・あずまひと)なのです。
東人はあっさり広嗣をやっつけ、その報告を書いているとき、平城京から変な詔がやってきます。
「季節は悪いが(10月)、東国に行幸することにした。不審に思わないでくれ。後は宜しく。(^^)/~~~」
…東人は腰を抜かしたことでしょう。これが、奈良時代最大の謎の一つ「聖武天皇の謎の彷徨5年」と言われる事件の始まりです。これについては、
「橘諸兄が、恭仁京に都を移すのを自然に見せるための陰謀」
「藤原広嗣の乱に腰を抜かした聖武が逃げ出した」
などの説がありますが、瀧波貞子氏の
「天武天皇の”壬申の乱”のコースをたどることで、聖武天皇への結束を強化しようとした」
と言う説が一番説得力があるように思われます。
話がまた飛んだ。
ともかく、この「藤原広嗣の乱」で藤原氏の権威は失墜します。光明皇后は、自分が目をかけた甥の思わぬ反抗にがっかりしたことでしょう。翌天平13年(741年)には、藤原不比等から相続した食封5000戸の返納を願い出ております。
しかし!いいことも一つだけありました。聖武天皇の「東国行幸」に同行したある甥に目が留まったのです。それが、藤原武智麻呂(藤原不比等長男)の次男・藤原仲麻呂であります。
仲麻呂はどちらかというと学者肌で、しかも全然目立たない人物でした。
しかし、彼は妻の藤原袁比良(おひら:藤原房前の娘)を宮仕えさせ、光明皇后にさりげなくアピールした物と思われます。
光明皇后は、藤原氏の権威回復をこの甥にかけることにするのです。
ところが、皮肉なことに、夫の聖武天皇が気に入ったのは、同じ「東国行幸」についてきた藤原房前の三男・藤原八束でした。牟漏女王の息子でもあります。
彼は親の心知らず?藤原豊成や橘諸兄と仲が良く、藤原仲麻呂とは全く!性格が合わなかったため、この後の藤原氏の混乱の原因となります。
ともかく、都は平城京から恭仁京へ移ります。天平12年(740年)の暮れのことでした。恭仁京は、橘諸兄の本拠地です。光明皇后は(今は身内から反乱者も出したところだ。ともかく堪え忍ぶのだ)と、忍耐の毎日を過ごしたことでしょう。
このころ、皇后宮で「維摩会(ゆいまえ)」が行われていますが、藤原不比等に似せた「維摩像」を拝むことで、藤原氏内の結束を促した物ではないか?と上山春平氏は推測されています。
ところが、恭仁京は木津川をまたがって造ったという変形した都だったため、極めて不便を強いられます。聖武天皇は今度は近江国・信楽に離宮を作り出します。
実は、信楽は交通の要所であると共に、近江国は藤原氏の本拠地の一つとも言われているくらいの所でした。おそらく、光明皇后辺りが聖武天皇に離宮を造ることを進めたのでしょう。
一方、この翌年の天平13年(741年)には「国分寺・国分尼寺建立の詔」が出されます。聖武天皇は仏教を広めることで、自分の権威回復をはかったのです。
しかし、この裏にも光明皇后がいました。元々、皇后になったときに仏教的な政策(貧民救済)で庶民の人気を取った光明です。仏教に頼ることを進めたのはおそらく、光明皇后の影響と考えられております。
そして、一番強烈(^^;)な詔が天平15年(743年)の「廬舎那仏建立の詔」です。実は、この「廬舎那仏建立」自体、この時代の日本の状態を無視しまくった無茶苦茶なことを言っております。
まず、廬舎那仏は青銅製で、しかも金箔張りでなければいけません。
ところが、この当時、実は全世界見渡してもそんな巨大な青銅像は前例がない!
しかも、この当時の日本には金が採掘されていない!
…もう、何を聖武天皇考えているのでしょうか。しかし、この不安漂う日本を救うために、大仏を造らねば!…という悟りを、聖武天皇は開いたようなのです(なんのこっちゃ)。
実は、この背景にも光明皇后がおりました。
光明皇后養育の地・河内国に智識寺(ちしきでら)と言うお寺がありました。
このお寺は今は残っていないそうですが、実は日本で一番最初に大仏を造ったお寺であります。…但し、塑像(土が材料)なのですが。
このお寺が大仏を造るときに取った方式が「智識」なのであります。つまり、信者のお布施とボランティアに頼る方式ですね。この「智識」の大ボス(^^;)が 行基 なのです。…ここまで書いてピン!ときた方はすごい。
つまり、
光明皇后は大仏づくりに行基をかり出すことによって、庶民の関心を聖武天皇にひいて夫の権威を高めようとし、
一方で
行基の権威を高めることで、姉・藤原宮子の元で権勢を振るっている玄坊を追い出してやろう!
…という作戦だったのです。おそるべし、光明皇后。
その一方で、光明皇后もう一つ重要な画策を行っております。
皇太子・阿倍内親王を元正太上天皇が認めてなかったらしいことを前に述べましたが、無理矢理に認めさせる機会を作ったのです。
天平15年(743年)常なら貴族から選ばれた女性で踊られる「五節の舞」のメンバーに、何と阿倍内親王が混じっておりました。
「この、天武天皇が考案した舞を、阿倍内親王が舞うことで、改めて”君臣は親子の交わり”(=皇位は親から子へ代々伝える物だ)と言う理を示したいと思います。」
この良くできた奏上、しかも元正太上天皇にとっては神に等しい祖父「天武天皇」の名前を出されては”ぐー”の字も出ません。結局、元正太上天皇は「聖武天皇の後は阿倍内親王が嗣ぐことを認める」ことになるのです。
そうそう、反対しそうな兄・橘諸兄には、既に「従一位・左大臣」という、藤原不比等も、長屋王ももらってない高い位を先にあげておりました。
橘諸兄、常に妹の光明皇后に先手先手を打たれていたわけですね。
つづく
天平9年(737年)、藤原不比等の4人の息子が全員亡くなり、藤原氏の勢力は大幅に衰えてしまいます。
衰えたのは藤原氏ばかりではありません。何しろ、今まで政府を支えていた官人の多くが亡くなってしまっております。
おそらく、その間隙を抜いて病気の藤原宮子(聖武天皇の母)に取り入ったのが、地方豪族出身の吉備真備(きびのまきび)と僧の玄坊(げんぼう※玄坊の「坊」の字は、本当は「日」へんに「方」)であります。
特に、玄坊は後の「密教」の源流になるような祈祷が一番のお得意でして、まあ、強い薬品でも使ったのでしょうか(^^;)、宮子の病気はたちまちにして「直り」、聖武天皇は、この事でこの2人を重用するようになります。
また、兄の橘諸兄も・息子の橘奈良麻呂をいきなり無位から従五位下に任命するような職権乱用を行います。光明皇后の実家の藤原氏でも、この時点までは、そんな反則はしていません。
(律令では、父親が従五位下以上であれば、子供は従六位下から父親が、従三位以上であれば、子供は正六位下からスタートだった?その他、嫡子か庶子かでも区別がありややこしい。)
と言うことで、光明皇后は反撃に出るのです。
光明皇后は男兄弟が亡くなったことから、女兄弟を頼ろうとしたと思われます。…しかし!現実は厳しかった。
藤原不比等長女:藤原宮子 →吉備真備、玄坊に骨抜きにされている。頼りに出来ない。
同 次女:藤原長娥子→長屋王の未亡人・敵の可能性大。(最も、この頃まで生きてないかも知れない?)
同 四女:藤原吉日 →橘諸兄妻・問題外(^^;)。
同 五女:藤原殿刀自(?)→大伴古慈斐妻・大伴氏は藤原氏に対し、敵対的。
このような状況で、光明皇后が味方と頼んだのが藤原房前の未亡人で、異父姉の牟漏女王と思われることは既述しました。
まず、藤原氏の有力者が全員亡くなったという状態を良いことに、兄の橘諸兄が
「我が一族につながる、安積親王を皇太子にしては如何でしょう?」
なんていいだすのを阻止せねば成りません。
二人は聖武天皇を必死に説得したと考えられます。
「現在、皇太子が決まっておりませぬ。もし、この時点で陛下に何かあればどういたしましょうか。どうか、皇后様の娘・阿倍内親王を皇太子に任命して下さい。」(←当方推測)
…女性が天皇になったことはありますが、女性の皇太子なんて前代未聞であります。全く無茶な!と思われますが、何と、翌天平10年(738年)に阿倍内親王は女性初の皇太子となります。
安積親王がいる中で、さすがにこの事は批判が多かったようで、皇太子任命には祝賀行事が伴う物ですが、彼女にはそれがありませんでした。
しかし!光明皇后は反対派最右翼の橘諸兄を右大臣に同時に任命し、反撃の根を押さえてしまいます。
また、元正太上天皇もこの事については不満を持っていたと思われますが、彼女自体が、独身で天皇の皇后でなく・その上皇太子(首皇子)がいたのに即位したのですから、文句の言いようがなかったと思われます。
このタイミングはGOOD(^^;)でした。
というのは、天平11年(739年)に牟漏女王を従三位にしたところで、光明皇后は疲れからでしょうか、またまた重病に陥るからです。
このころ、光明皇后の兄の子(つまり光明皇后からすれば甥)達は、まだ若く、年齢の一番高い藤原武智麻呂(不比等長男)の長男・藤原豊成(とよなり)を参議にできただけでした。
しかし、豊成はおうような性格で、人を出し抜くことが出来ない人物でした。
これは、藤原氏の巻き返しをはかる光明皇后にとっては歯がゆいことだったと思います。
では、このころ光明皇后は誰に期待をかけていたのか?
私は、藤原宇合(不比等三男)の長男・藤原広嗣だと思います。というのは彼は不比等三男の長男、しかも藤原豊成など自分より年上の従兄弟が大勢いる中で、いきなり大和守(いわゆる「奈良県知事」。大和国は平城京のある所なので、他国より格が高い)兼式部少輔(人事を司る式部省の次官)に任命されているからです。
ところが、同じ天平11年、広嗣は突然太宰少弐(太宰府の次官)に左遷されます。「身内の悪口を言った」と言うことが原因でした。性格の激しい広嗣が、吉備真備や玄坊を押さえられない他の従兄弟を非難したのではないか?と言われていますが、実際の所、誰にどんな悪口を言ったのかは謎であります。
ともかく、「親戚の悪口言ってる暇あるなら、頭冷やしてきなさい!」と言うところで、まあ「丁稚奉公」(^^;)に出されたわけです。
しかし、当時の太宰府は太宰師(太宰府長官)も、太宰大弐(太宰府の次官)も、平城京に滞在して留守でありました。お目付役のいない広嗣はとんでもないことをしでかすのです。
天平12年(740年)ここ数年多かった飢饉もなく、のほほん状態の政府に、その報告は突如やってきました。
「太宰少弐の藤原広嗣、謀反を起こしました。」
聖武天皇も、皇后の実家から謀反が起こるとは思ってなかったのでしょう。
朝廷は大パニックに陥ります。
これが世に名高い「藤原広嗣の乱」です。
つづく
衰えたのは藤原氏ばかりではありません。何しろ、今まで政府を支えていた官人の多くが亡くなってしまっております。
おそらく、その間隙を抜いて病気の藤原宮子(聖武天皇の母)に取り入ったのが、地方豪族出身の吉備真備(きびのまきび)と僧の玄坊(げんぼう※玄坊の「坊」の字は、本当は「日」へんに「方」)であります。
特に、玄坊は後の「密教」の源流になるような祈祷が一番のお得意でして、まあ、強い薬品でも使ったのでしょうか(^^;)、宮子の病気はたちまちにして「直り」、聖武天皇は、この事でこの2人を重用するようになります。
また、兄の橘諸兄も・息子の橘奈良麻呂をいきなり無位から従五位下に任命するような職権乱用を行います。光明皇后の実家の藤原氏でも、この時点までは、そんな反則はしていません。
(律令では、父親が従五位下以上であれば、子供は従六位下から父親が、従三位以上であれば、子供は正六位下からスタートだった?その他、嫡子か庶子かでも区別がありややこしい。)
と言うことで、光明皇后は反撃に出るのです。
光明皇后は男兄弟が亡くなったことから、女兄弟を頼ろうとしたと思われます。…しかし!現実は厳しかった。
藤原不比等長女:藤原宮子 →吉備真備、玄坊に骨抜きにされている。頼りに出来ない。
同 次女:藤原長娥子→長屋王の未亡人・敵の可能性大。(最も、この頃まで生きてないかも知れない?)
同 四女:藤原吉日 →橘諸兄妻・問題外(^^;)。
同 五女:藤原殿刀自(?)→大伴古慈斐妻・大伴氏は藤原氏に対し、敵対的。
このような状況で、光明皇后が味方と頼んだのが藤原房前の未亡人で、異父姉の牟漏女王と思われることは既述しました。
まず、藤原氏の有力者が全員亡くなったという状態を良いことに、兄の橘諸兄が
「我が一族につながる、安積親王を皇太子にしては如何でしょう?」
なんていいだすのを阻止せねば成りません。
二人は聖武天皇を必死に説得したと考えられます。
「現在、皇太子が決まっておりませぬ。もし、この時点で陛下に何かあればどういたしましょうか。どうか、皇后様の娘・阿倍内親王を皇太子に任命して下さい。」(←当方推測)
…女性が天皇になったことはありますが、女性の皇太子なんて前代未聞であります。全く無茶な!と思われますが、何と、翌天平10年(738年)に阿倍内親王は女性初の皇太子となります。
安積親王がいる中で、さすがにこの事は批判が多かったようで、皇太子任命には祝賀行事が伴う物ですが、彼女にはそれがありませんでした。
しかし!光明皇后は反対派最右翼の橘諸兄を右大臣に同時に任命し、反撃の根を押さえてしまいます。
また、元正太上天皇もこの事については不満を持っていたと思われますが、彼女自体が、独身で天皇の皇后でなく・その上皇太子(首皇子)がいたのに即位したのですから、文句の言いようがなかったと思われます。
このタイミングはGOOD(^^;)でした。
というのは、天平11年(739年)に牟漏女王を従三位にしたところで、光明皇后は疲れからでしょうか、またまた重病に陥るからです。
このころ、光明皇后の兄の子(つまり光明皇后からすれば甥)達は、まだ若く、年齢の一番高い藤原武智麻呂(不比等長男)の長男・藤原豊成(とよなり)を参議にできただけでした。
しかし、豊成はおうような性格で、人を出し抜くことが出来ない人物でした。
これは、藤原氏の巻き返しをはかる光明皇后にとっては歯がゆいことだったと思います。
では、このころ光明皇后は誰に期待をかけていたのか?
私は、藤原宇合(不比等三男)の長男・藤原広嗣だと思います。というのは彼は不比等三男の長男、しかも藤原豊成など自分より年上の従兄弟が大勢いる中で、いきなり大和守(いわゆる「奈良県知事」。大和国は平城京のある所なので、他国より格が高い)兼式部少輔(人事を司る式部省の次官)に任命されているからです。
ところが、同じ天平11年、広嗣は突然太宰少弐(太宰府の次官)に左遷されます。「身内の悪口を言った」と言うことが原因でした。性格の激しい広嗣が、吉備真備や玄坊を押さえられない他の従兄弟を非難したのではないか?と言われていますが、実際の所、誰にどんな悪口を言ったのかは謎であります。
ともかく、「親戚の悪口言ってる暇あるなら、頭冷やしてきなさい!」と言うところで、まあ「丁稚奉公」(^^;)に出されたわけです。
しかし、当時の太宰府は太宰師(太宰府長官)も、太宰大弐(太宰府の次官)も、平城京に滞在して留守でありました。お目付役のいない広嗣はとんでもないことをしでかすのです。
天平12年(740年)ここ数年多かった飢饉もなく、のほほん状態の政府に、その報告は突如やってきました。
「太宰少弐の藤原広嗣、謀反を起こしました。」
聖武天皇も、皇后の実家から謀反が起こるとは思ってなかったのでしょう。
朝廷は大パニックに陥ります。
これが世に名高い「藤原広嗣の乱」です。
つづく
神亀6年(729年)の正月、時の左大臣・長屋王は「皇太子をのろい殺した」という無実の罪で自殺、何故か正妻・吉備内親王(元正太上天皇・文武天皇の妹)と、その間に産まれた子供も後追い自殺しております。
この事件については、橘三千代の項で既述なので詳述は避けますが、ともかく!時の左大臣ともあろう者が、誰の弁護もなく自殺しなければいけなかったところに、この時代の深い闇を感じます。
この後に、聖武天皇の詔が出ていますが、その詔の中で聖武天皇は「伯母の元正太上天皇のおかげを持って滞り無く政治が流れている」(「どこが滞り無いんじゃ~!」とつっこみたくなるが)と言っておりますから、元正太上天皇も、この「長屋王の変」については黙認していた可能性が大!であると私はにらんでおります。
さて、実は長屋王は藤原不比等の娘をも妻にしていました。
名前は「藤原長娥子(ふじわら・ながこ)」。藤原安宿媛の異母姉にあたり、名前から藤原宮子の同母妹ではないか?と推定されています。
賀茂比売
│ ┌藤原宮子─―――──聖武天皇
├───┤ │
│ └藤原長娥子 │┌阿倍内親王
│ ├―――安宿王ら4人 ├┤
│ 長屋王 │└基親王(皇太子)
藤原不比等 │
│ ┌藤原安宿媛(光明子)
├────────―――─┤
│ └藤原 吉日(多比能)
│ ├──橘奈良麻呂
県犬養橘三千代─────―――葛城王(橘諸兄)
長娥子と、彼女と長屋王の間に生まれた4人の子供は連座を逃れますが、彼らは、おそらく藤原安宿媛に対して非常な恨みを持ったと思われます。なぜなら、この後安宿媛に対して「皇后」の地位が送られ、「長屋王の変」で結局一番得したのは彼女だったからです。
順番が逆になりましたが、この年の暮れに亀が発見されたことから(橘三千代の項で既述)年号が「神亀」から「天平」に変わります。実は、これも安宿媛を皇后にする”前振り”でした。
その後、藤原安宿媛を皇后とする詔が正式に出されるのです。臣下の娘から正式に皇后となったのは彼女が初めてでした。藤原安宿媛29歳。その美貌から「光明皇后」と言われるようになります。
光明皇后が一番最初にした仕事は、何と「貧民救済」でした。
父・藤原不比等はその功績から5000戸の食封をもらい、それはまだ給付されたままでした。このあり余る遺産を利用して、平城京にあふれる浮浪者の救済を行ったのです。
まず、皇后宮職(皇后の身の回りのことをする役所)に、薬を無料で配給する”施薬院(せやくいん)”が、次に藤原氏の氏寺の興福寺に、浮浪者に炊き出しを行う”悲田院(ひでんいん)”が作られます。
実は、今まで浮浪者問題が発生しても、その対策は場当たり的な物でして、まして皇族が自らその対策に乗り出すことはなかったのです。
おそらく、この発想は光明皇后の養育の土地・安宿郡などを中心に活躍していた行基の救済活動からヒントを得た物と思われますが、しかし…この活動は庶民の光明皇后人気に火を付けた物と思われます。
「光明皇后がおん自ら世話をした病人が観音に変化した」
などの伝説は有名ですが、これらの伝説は、光明皇后が庶民に支持を得ていたことの反映と思われます。
光明皇后の皇后擁立に不満があった人たちも、この状況では「ぐー」の字も出なかったでしょう。
これだけでも、光明皇后がただ者ではないことがお分かり頂けますでしょうか?
しかし、このような意欲的な行動とは裏腹に、光明皇后の私生活は寂しい物でした。
まず、光明皇后は亡くなった皇太子を最後に、2度と身ごもることはありませんでした。
しかも、母・橘三千代が天平5年(733年)に亡くなると、ショックからでしょうか。光明皇后は重病に陥ります。
更に追い打ちをかけたのは、天平9年(737年)に、聖武天皇が新たに3人の妃を迎えたことです(これについては牟漏女王の所で既述)。
しかも、実家の藤原氏がギクシャクしだしたのも、光明皇后には頭の痛い話でした。
が、そんななやみどころではない大事態が起こります。
この天平9年の春頃から天然痘が大流行し、光明皇后を支えていた実家の4人の兄(藤原武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が全員亡くなります。
棚ぼた式に政府の筆頭に座ったのは、橘諸兄。光明皇后の父違いの兄であります。ところが!諸兄と光明皇后の中は、前に言ったように余り良い物ではありませんでした。
蘇我娼子<媼子>┌藤原武智麻呂(長男)
├─────┼藤原宇合(三男)
| └藤原房前(次男)
藤原不比等―藤原麻呂 |
| (四男) | ┌藤原安宿媛(=光明皇后)
├─―――――――――┤
| | └藤原吉日(多比能)
橘 三千代 │ │
│ ┌牟漏女王 │
├─────┤ │
│ └─────葛城王(橘諸兄)
美 務 王
実は、光明皇后が政治に積極的に口を出すようになったのはこのころからなのです。
兄たちの死が、彼女を歴史に残すことになったと言えば皮肉でしょうか?
つづく
この事件については、橘三千代の項で既述なので詳述は避けますが、ともかく!時の左大臣ともあろう者が、誰の弁護もなく自殺しなければいけなかったところに、この時代の深い闇を感じます。
この後に、聖武天皇の詔が出ていますが、その詔の中で聖武天皇は「伯母の元正太上天皇のおかげを持って滞り無く政治が流れている」(「どこが滞り無いんじゃ~!」とつっこみたくなるが)と言っておりますから、元正太上天皇も、この「長屋王の変」については黙認していた可能性が大!であると私はにらんでおります。
さて、実は長屋王は藤原不比等の娘をも妻にしていました。
名前は「藤原長娥子(ふじわら・ながこ)」。藤原安宿媛の異母姉にあたり、名前から藤原宮子の同母妹ではないか?と推定されています。
賀茂比売
│ ┌藤原宮子─―――──聖武天皇
├───┤ │
│ └藤原長娥子 │┌阿倍内親王
│ ├―――安宿王ら4人 ├┤
│ 長屋王 │└基親王(皇太子)
藤原不比等 │
│ ┌藤原安宿媛(光明子)
├────────―――─┤
│ └藤原 吉日(多比能)
│ ├──橘奈良麻呂
県犬養橘三千代─────―――葛城王(橘諸兄)
長娥子と、彼女と長屋王の間に生まれた4人の子供は連座を逃れますが、彼らは、おそらく藤原安宿媛に対して非常な恨みを持ったと思われます。なぜなら、この後安宿媛に対して「皇后」の地位が送られ、「長屋王の変」で結局一番得したのは彼女だったからです。
順番が逆になりましたが、この年の暮れに亀が発見されたことから(橘三千代の項で既述)年号が「神亀」から「天平」に変わります。実は、これも安宿媛を皇后にする”前振り”でした。
その後、藤原安宿媛を皇后とする詔が正式に出されるのです。臣下の娘から正式に皇后となったのは彼女が初めてでした。藤原安宿媛29歳。その美貌から「光明皇后」と言われるようになります。
光明皇后が一番最初にした仕事は、何と「貧民救済」でした。
父・藤原不比等はその功績から5000戸の食封をもらい、それはまだ給付されたままでした。このあり余る遺産を利用して、平城京にあふれる浮浪者の救済を行ったのです。
まず、皇后宮職(皇后の身の回りのことをする役所)に、薬を無料で配給する”施薬院(せやくいん)”が、次に藤原氏の氏寺の興福寺に、浮浪者に炊き出しを行う”悲田院(ひでんいん)”が作られます。
実は、今まで浮浪者問題が発生しても、その対策は場当たり的な物でして、まして皇族が自らその対策に乗り出すことはなかったのです。
おそらく、この発想は光明皇后の養育の土地・安宿郡などを中心に活躍していた行基の救済活動からヒントを得た物と思われますが、しかし…この活動は庶民の光明皇后人気に火を付けた物と思われます。
「光明皇后がおん自ら世話をした病人が観音に変化した」
などの伝説は有名ですが、これらの伝説は、光明皇后が庶民に支持を得ていたことの反映と思われます。
光明皇后の皇后擁立に不満があった人たちも、この状況では「ぐー」の字も出なかったでしょう。
これだけでも、光明皇后がただ者ではないことがお分かり頂けますでしょうか?
しかし、このような意欲的な行動とは裏腹に、光明皇后の私生活は寂しい物でした。
まず、光明皇后は亡くなった皇太子を最後に、2度と身ごもることはありませんでした。
しかも、母・橘三千代が天平5年(733年)に亡くなると、ショックからでしょうか。光明皇后は重病に陥ります。
更に追い打ちをかけたのは、天平9年(737年)に、聖武天皇が新たに3人の妃を迎えたことです(これについては牟漏女王の所で既述)。
しかも、実家の藤原氏がギクシャクしだしたのも、光明皇后には頭の痛い話でした。
が、そんななやみどころではない大事態が起こります。
この天平9年の春頃から天然痘が大流行し、光明皇后を支えていた実家の4人の兄(藤原武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が全員亡くなります。
棚ぼた式に政府の筆頭に座ったのは、橘諸兄。光明皇后の父違いの兄であります。ところが!諸兄と光明皇后の中は、前に言ったように余り良い物ではありませんでした。
蘇我娼子<媼子>┌藤原武智麻呂(長男)
├─────┼藤原宇合(三男)
| └藤原房前(次男)
藤原不比等―藤原麻呂 |
| (四男) | ┌藤原安宿媛(=光明皇后)
├─―――――――――┤
| | └藤原吉日(多比能)
橘 三千代 │ │
│ ┌牟漏女王 │
├─────┤ │
│ └─────葛城王(橘諸兄)
美 務 王
実は、光明皇后が政治に積極的に口を出すようになったのはこのころからなのです。
兄たちの死が、彼女を歴史に残すことになったと言えば皮肉でしょうか?
つづく
藤原安宿媛は、首皇子に入内後すぐに、子供を出産します。養老元年(717年)のことです。但し、その子は皇子ではなく皇女でした。乳母・阿倍石井(あべのいわい)の苗字から「阿倍内親王」と呼ばれるようになります。
のちの孝謙(称徳)天皇であります。
一方、時期がはっきりしないのですが、安宿媛のライバル・県犬養広刀自も井上内親王、不破内親王と続けざまに生んでおります。
…まあ、橘三千代は作戦が上手く言って「ひひひひ」状態だったでしょうがヾ(^^;)、当事者の安宿媛と広刀自の心境やいかに。
それにしても、女の子ばかりで、男の子がいないのが気がかりであります。
そして、焦る安宿媛に追い打ちをかけるように、養老4年(720年)に父・藤原不比等が63歳(62歳説もある)で亡くなります。まあ、安宿媛自体が年取ってからの子供でして(不比等40歳の子)覚悟は出来ていたでしょうが、おそらくかなり悲しんだ物と考えられます。
また、夫・首皇子が20歳を過ぎたのに、今だ天皇になる気配がないのも彼女にとっては気がかりだったでしょう。
彼女の気がかりの一つは、それから4年後に解決します。母や兄たちの根回しが奏功し?神亀元年(724年)に首皇子はやっと即位します。後に「聖武天皇」と呼ばれる天皇の誕生です。
もう一つの気がかりは、その後神亀4年(727年)に解決します。
安宿媛は皇子を出産します。安宿媛としては10年ぶりの子供、聖武天皇にとっても男の子は初めてであります。
県犬養橘三千代と、藤原氏の喜びぶりは既に書いたのでここでは述べませんが、聖武天皇も非常に喜んだことと思われます。何とこの皇子が生まれて半年後に皇太子になるのです。
これを前の例と比べてみると
聖武天皇の祖父・草壁皇子が皇太子になったのは20歳代、
聖武天皇の父・文武天皇が皇太子になったのは15歳、
聖武天皇も15歳
ですから、この安宿媛が産んだ皇子がいかに異例の待遇を受けているか分かるでしょう。
ところが!この皇子は産まれて1年後には病気になり、亡くなります。
聖武天皇も、安宿媛も体が丈夫な方ではなかったようなので、親の体質をしっかり受け継いでしまった物と見られます。
聖武天皇は平城京内の寺院ではすべて祈祷し、鷹狩りまで中止しますが、全く効果はありませんでした。聖武天皇は、ショックのあまりに政務を見るのを中止してしまいます。
聖武天皇でこれですから、母親の安宿媛の嘆きぶりはかなりひどい物だったと想定されます。
ところで、この年に安宿媛のライバル・県犬養広刀自が皇子を生んでいます。
後に「安積親王(あさかしんのう)」と呼ばれる皇子です。
ところが!安宿媛が産んだ皇子については大変な騒ぎぶりだったのに対し、この皇子については何のお祝いのイベントもなかったようです。
それどころか!広刀自を推薦したはずの県犬養橘三千代も何のアクションも起こしておりません。さすがに娘・安宿媛の手前遠慮したのでしょうか?謎であります。
この安積親王の出生と共に、安宿媛に絡んでくる陰謀が動き始めていたようです。
まず、聖武天皇の護衛隊であった「授刀舎人寮」が「中衛府」と改変されます。この軍隊は、それまで律令に定められたどの軍隊よりも強力でして、しかもその長官(中衛大将)には安宿媛の兄・藤原房前が就任します。
また、この年初めて「外五位の制」が行われ、中央貴族でも傍流の者は、「外従五位下」に任命されてしまったのですが、これに不満を持った者に藤原氏は声をかけていたようであります。
時の左大臣・長屋王が「亡き皇太子を呪詛していた」という密告があったのは、皇太子が亡くなった翌年の正月早々のことでした。
つづく
のちの孝謙(称徳)天皇であります。
一方、時期がはっきりしないのですが、安宿媛のライバル・県犬養広刀自も井上内親王、不破内親王と続けざまに生んでおります。
…まあ、橘三千代は作戦が上手く言って「ひひひひ」状態だったでしょうがヾ(^^;)、当事者の安宿媛と広刀自の心境やいかに。
それにしても、女の子ばかりで、男の子がいないのが気がかりであります。
そして、焦る安宿媛に追い打ちをかけるように、養老4年(720年)に父・藤原不比等が63歳(62歳説もある)で亡くなります。まあ、安宿媛自体が年取ってからの子供でして(不比等40歳の子)覚悟は出来ていたでしょうが、おそらくかなり悲しんだ物と考えられます。
また、夫・首皇子が20歳を過ぎたのに、今だ天皇になる気配がないのも彼女にとっては気がかりだったでしょう。
彼女の気がかりの一つは、それから4年後に解決します。母や兄たちの根回しが奏功し?神亀元年(724年)に首皇子はやっと即位します。後に「聖武天皇」と呼ばれる天皇の誕生です。
もう一つの気がかりは、その後神亀4年(727年)に解決します。
安宿媛は皇子を出産します。安宿媛としては10年ぶりの子供、聖武天皇にとっても男の子は初めてであります。
県犬養橘三千代と、藤原氏の喜びぶりは既に書いたのでここでは述べませんが、聖武天皇も非常に喜んだことと思われます。何とこの皇子が生まれて半年後に皇太子になるのです。
これを前の例と比べてみると
聖武天皇の祖父・草壁皇子が皇太子になったのは20歳代、
聖武天皇の父・文武天皇が皇太子になったのは15歳、
聖武天皇も15歳
ですから、この安宿媛が産んだ皇子がいかに異例の待遇を受けているか分かるでしょう。
ところが!この皇子は産まれて1年後には病気になり、亡くなります。
聖武天皇も、安宿媛も体が丈夫な方ではなかったようなので、親の体質をしっかり受け継いでしまった物と見られます。
聖武天皇は平城京内の寺院ではすべて祈祷し、鷹狩りまで中止しますが、全く効果はありませんでした。聖武天皇は、ショックのあまりに政務を見るのを中止してしまいます。
聖武天皇でこれですから、母親の安宿媛の嘆きぶりはかなりひどい物だったと想定されます。
ところで、この年に安宿媛のライバル・県犬養広刀自が皇子を生んでいます。
後に「安積親王(あさかしんのう)」と呼ばれる皇子です。
ところが!安宿媛が産んだ皇子については大変な騒ぎぶりだったのに対し、この皇子については何のお祝いのイベントもなかったようです。
それどころか!広刀自を推薦したはずの県犬養橘三千代も何のアクションも起こしておりません。さすがに娘・安宿媛の手前遠慮したのでしょうか?謎であります。
この安積親王の出生と共に、安宿媛に絡んでくる陰謀が動き始めていたようです。
まず、聖武天皇の護衛隊であった「授刀舎人寮」が「中衛府」と改変されます。この軍隊は、それまで律令に定められたどの軍隊よりも強力でして、しかもその長官(中衛大将)には安宿媛の兄・藤原房前が就任します。
また、この年初めて「外五位の制」が行われ、中央貴族でも傍流の者は、「外従五位下」に任命されてしまったのですが、これに不満を持った者に藤原氏は声をかけていたようであります。
時の左大臣・長屋王が「亡き皇太子を呪詛していた」という密告があったのは、皇太子が亡くなった翌年の正月早々のことでした。
つづく