拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
行政評論家という方の興味深いコラムが載っていたので転載
2024.09.28
兵庫県・斎藤知事の失職では終わらない…パワハラ首長は「今後も増え続ける」と言えるワケ
大原 みはる
https://gendai.media/articles/-/138084?imp=0
2024.09.28
兵庫県・斎藤知事の失職では終わらない…パワハラ首長は「今後も増え続ける」と言えるワケ
大原 みはる
https://gendai.media/articles/-/138084?imp=0
首長によるパワハラが続出2024.09.28
兵庫県の斎藤知事(執筆当時)による、県庁職員へのパワハラ、「おねだり体質」、さらには阪神タイガース優勝パレードをめぐる寄付金問題などを併せて大きな話題になっているのだが、これまで、地方自治体トップ(首長)のパワハラ問題というのはそれなりの頻度で発生している。実は今年だけでも、3月には岐阜県岐南町長が、5月には愛知県東郷町長がそれぞれ辞職しているし、兵庫県ほどに大きなニュースになってはいないものの、秋田県鹿角市でも市長のパワハラ問題が報じられている。
政務三役(大臣・副大臣・大臣政務官)として所属していた省の職員や、地元選挙区の地方自治体から説明に訪れた職員に対するパワハラの問題が報じられている国会議員もいる。
そのような中、本稿では特に地方自治体の首長(知事や市町村長)において、なぜパワハラや不適切事象が続出するのかについて、2回にわたって解明を試みるとともに、問題を解決する方法があるのかを考えてみたい。
なおパワハラとは、厚労省の定義によれば1.優越的な関係を背景とした言動、2.業務上必要かつ相当な範囲を超えた言動、3.労働者の就業環境が害される、の3要素をすべて満たすものとされているが、本稿では、首長から不適切な指示を出し、コンプライアンス上疑義のある行為(不適切事象)を部下に事実上強要することが1や2に含まれ得るという前提で話を進めたい。
知事や市町村長は、現代版「専制君主」ではないのか?
地方自治体の首長(知事や市町村長)といえば、その地域の住民生活に責任を持ち、自治体職員を率い、運営方針を決める代表者である。まさに「一国一城の主」であり、強大な威信と権限を持っている。もちろん、正確にいえば議会と権力を分け合う「大統領制(二元代表制)」だが、行政運営について主導権を持つ首長の権限は、議会とは比べようもないほど大きい。
それゆえ、筆者はつねづね、地方の首長は、ある意味で現代の「専制君主」といえる側面を持っていると考えてきた。
そう書くと、疑問の声を上げる読者もいるだろう。首長は選挙という民主的過程で選出され任期が決まっており、有権者の支持が得られなければ次の選挙で辞めさせられる。予算を通し、条例を作って、政策や事業を進めるにも議会の同意が必要だ。いちいち議会に報告しないような細かいこと(行政処分など)も法治主義や立憲主義という考え方の下、憲法や法律、条例などのルールから逸脱することはできない。だから首長は一人の独断で思うままにふるまうことはできない。専制君主とは違うはずだ、というわけである。
もちろん筆者も、現代の首長の政治権力にそうした制約があることは認める。しかし実際には、そうした制約には抜け道もかなりある。部下である自治体幹部は首長の意向に逆らえず、議会も十分に牽制することなく、まさに専制君主のように首長が独断で思うままに物事を進められてしまう、次のようなケースを想像してみていただきたい。今回の兵庫県庁の事案を引き合いに出さずとも、お役所勤めの人間からすれば「あるある」なのだが、みなさんはどうお感じになるだろうか。
1.自治体が以前からずっと継続してきた役所の具体的な事業で、たとえ順調にいっているものであっても、首長自身が気に入らないことを理由に、(表向きには別の理由をつけて)来年からやめさせてしまうこと。継続する場合でも、自分の好みの形に変更させること(一番わかりやすい例は、前の首長の目玉事業潰し)
2.首長自身がやりたいと思っている具体的な事業(選挙公約、記者会見などで打ち出したことなど)を、事務方に実現可能性を深く検討・検証させることなくGOサインを出して始めさせること
3.自分の支持団体などに有利になるように(あるいは本来無理筋と思われるような目玉公約を実現するための)補助事業の採択、許認可の発出、一般には公開されない情報提供などを行うこと(当然、露骨な差別や優遇はできないのだが、無理やりにでも説明がつけば、真の動機が政治的に後ろ暗いものであっても表面上はセーフだったりする。)
4.仕事の進め方(部下による資料準備や説明の仕方、会議の運営方法、視察先選びなど。細かいことを言えばお茶の出し方などまで)について、自分が好む過度な水準や特殊なこだわりを部下に要求すること
「専制君主的」であることのすべてが悪いわけではないが…
ここで注意しなければならないのは、当然のことながら首長から発せられる意向や指示のすべてが理不尽というわけではないことだ。有権者に直接選ばれた政治家ならではの決断やリーダーシップが、なれ合い議会や事務方の停滞感を打破し、行政を良い方向に動かすことだってある。
歴史上・制度上の専制君主の中にも善政を敷いた名君がいたように、現代の「制限付きの専制君主」も、立場をわきまえた節度あるふるまいが行われれば問題ないのだ。
ただ、首長もしょせんは人間である。選挙に勝ってひとたび着任すれば、場合によっては自分より年上の役所の幹部がレクチャーにやってくる日々。ある事業を始めるように指示を出せば、すぐさま複数人のプロジェクトチームが組まれて検討が始まる。当然、外出時はカバン持ち(秘書)や運転手がつく。総じて、部下たちは自分の些細な一言までも気にし、何か指示(指摘)すれば自分の代わりにテキパキと動いて対処してくれる。こんな環境に置かれては、たとえ法治主義・立憲主義に基づく権限の制約はあっても、首長はどうしても「全能感」を持ちやすい。
そこに元々の性格があいまって道を踏み外し、「ガチ」で専制君主的なふるまいを始めてしまう人が出ても全く不思議ではない。たとえ人格に問題ない人でも、独自色を出したいという欲が出たりして、1~3のような動きをしてしまうこともある。
だから、繰り返しになるが、首長から発せられる意向や指示のすべてが理不尽というわけではないのだ。パワハラに当たるかどうかを含め、その線引きは紙一重。それが事態を複雑にしている。事務方としては、明らかに違法といえるような指示でない限り従うことになるのだ。
もちろん、中には気骨ある幹部もいて、(特に、コンプライアンス上、疑義があったり、政策の連続性の観点から説明がつかないような話については)勇気を振り絞って翻意を促してみたりする者もいる。しかし、首長の意思が固ければ、結局「それでも何とかする方法を考えろ」と「圧」を掛けられるだけである。
ゆえに出世を考えるなら、つべこべ言わずに従って、首長の意向に沿った結果を出すように努めるべき、という一択になる。しかし、その結果、筋の悪い仕事を進めることで板挟みの立場となり、辛い状況に追い込まれることも少なくない。
特に、首長の意向を受けて部下たちが取り組んでいる過程において法的・政治的な問題が生じ、そのことが後々議会や報道で取りざたされた場合は、さらに後味の悪い結果が生じかねない。首長は、問題を生じるような具体的な指示をしていないことから、意向を実現するためにグレーな方法をひねり出した部下のせいにしてしまうことも不可能ではないのだ。
パワハラ首長の出現を選挙で回避する方法はない
一般論として、パワハラ的な側面だけでなく、非常識な人や行政運営能力のない人を首長に選ばないよう、有権者は候補者をしっかり見極めるべきだ、という意見がある。今回も、知事を選んだ兵庫県民に自戒を促す声もないではない。しかしそれは酷に過ぎると筆者は考える。選挙活動ではどの候補者も有権者に愛想を振りまき、猫をかぶるのが普通だから、候補者の本当の人格を見抜いて投票することなど、はじめから不可能だ。当選者が組織のボスとなったときにどんなふるまいをするかは、選挙中の行動では判断できず、その人に直接仕えたことがある元部下にしかわからないのが現実だ。
それどころか、そもそも兵庫県知事に至っては、知事就任前後で性格が一変したという指摘すらある。これでは、暴走するパワハラ首長を選挙で選ばないようにあらかじめ有権者が判断することなんて、お手上げと言わざるを得ないだろう。
ここまで、地方の首長がパワハラ体質になりがちな原因と、選挙による解決は難しいことを説明してきたが、後編【斎藤知事で終わりではない「パワハラ首長」…ここまで注目されているのに解決が難しい「意外な理由」】では、首長のパワハラや不適切事象について、人命が失われる事態になる前に解決につなげる方法はあるのかについて、マスメディアや議会を含めた根深い問題について考えてみたい
斎藤知事で終わりではない「パワハラ首長」…ここまで注目されているのに解決が難しい「意外な理由」
大原 みはる
https://gendai.media/articles/-/138089
前回記事【兵庫県・斎藤知事の失職では終わらない…パワハラ首長は「今後も増え続ける」と言えるワケ】では、地方自治体の首長によるパワハラや不適切事象が続発する背景について、その強大な威信と権限ゆえ、首長がいわば「現代の専制君主」であるという視点から分析を試みた。前後編のコラムで、後編はより今回の事件に沿ったような内容になっている。
後編となる本稿では、人命が失われる事態になる前にこうした事態を解決につなげる方法はあるのかについて、マスメディアや議会を含めた根深い問題にも触れながら考えてみたい。
解決につながる方法がない
地方自治体職員が、首長によるパワハラや不適切事象(地位を濫用した要求行為など)に直面し、見過ごせないと思ったとき、いったいどのようなことができるのか。
結論から言えば、役所の内部での「自浄作用」を期待し、根本的な改善・解決に向けた行動をとるのは極めて困難だと考えられる。以下、その理由を説明しよう。
まず、首長には上司がいないから、指導的立場から是正してくれる人はいない。強いて言えば、首長を選んだ有権者が、上司に代わる立場となるが、今回の兵庫県のように大々的に報道されるまで状況を知る手段を持たないので、仮に首長の言動に問題があったとしても、被害が大きくなるまで防ぎようがない。
一方、首長と直接話をする立場にある「取り巻き」の幹部職員は諫言せずに事なかれ主義に立つことが多く、いやそれどころか首長の機嫌を損ねないよう、その意向に忠実に従い、部下たちに無理筋の指示や要求をしてくることさえある。
では、自治体が職員向けに公益通報制度を設けていればよいかというと、これも疑わしい。兵庫県の例で言えば、通報対象の範囲を「県又は公社等の事業又は職員等の行為について、法令違反や職務上の義務違反又はこれらに至るおそれがあるもの、上記に準ずるものとして、県政を推進するにあたり県民の信頼を損なうおそれがあるもの」としており、首長の不適切事象に対する内部告発も、形式的には該当し得るかたちになっている。
しかしながら、通報された事案がこの要件に該当するかの判断を含め、この制度を所管する部署は県庁の中にあり、知事の息がかかる体制になっていた。
一般論として、パワハラや不適切事象を行ったと指摘された者からすれば、自覚の有無に関わらず、自分の非を認めたくないものなので、その指摘は誹謗中傷(根拠のない内容を言いふらし他人の名誉を傷つけるもの)と主張するのは当然である。
また、役所幹部としても、首長の問題行動が白日の下にさらされ、事実だとなった場合、謝罪・反省で済めばよいが、兵庫県知事のように退任を迫られるレベルになると、行政の継続性や幹部たち自身の地位の確保の面においても影響が大きい。だから首長への忠誠を尽くす体で、大騒ぎになるネタは早めに火消ししておこうという心理が働く。
その意味で、知事と周囲の幹部は利害が一致し、制度の趣旨に反する通報者捜しが県庁内で行われ、結果は読者の皆さんもご存じのとおりである。こんな運用では、公益通報制度は形骸化してしまい役に立たないことを今回の悲劇は証明してしまったのだ。
「パワハラ首長憎し」で片づけられない複雑さ
ただ、この問題には、単に「パワハラ首長憎し」とか「『専制君主』的な首長はダメだ」という論調一辺倒で片づけられない複雑な事情があることは指摘しておきたい。
前回記事でもふれた通り、首長から発せられる指示や意向が理不尽かどうかの線引きは微妙だ。その意味で一見、パワハラや不適切事象に該当しそうに感じられても、本当に世に訴えて問題視すべきレベルのものか、理不尽でも部下が我慢してやりすごすレベルかは、どこまでいっても程度の問題ではないだろうか。言い換えれば、それが公益通報に値する内容なのか、ということに尽きる。
一例を挙げよう。首長の性格がいわゆる「瞬間湯沸かし器」、つまり気に入らないことがあるとすぐ怒り、相手を強烈に罵倒する人だったとしよう。気に入らないこととは、部下からの説明がぎこちなかったり、首長にとって好ましからざる情報を耳に入れたり、(事情があったとしても)オーダーどおりの飲食物などを用意できなかった場合など様々である。また、部下が何をしたかに関わらず、(部下と接したタイミングにおける)首長自身の機嫌が部下への態度にあからさまに出る人もいる。
こうした場合、状況(首長から投げかけられた人格否定の言葉や、説明資料を投げ捨てる、破り捨てるといった行為)によってはパワハラに十分該当し得るし、そんな態度であれば部下が委縮し、怒られたくないからと大事な情報が上がらなくなったり、極端なケースでは、首長が喜びそうな「盛った」情報ばかり入るようになり、行政運営上は有害ですらある。
ただ、そういうパワハラ上司は、地方自治体の首長に限らず、あらゆる規模の民間企業も含めた日本中の組織の中間管理職レベルにもゴマンといる。もちろんそういったモンスター上司にはさっさと絶滅してほしいものの、どこかに訴え出たところで相手が改心したり誰かと入れ替わってくれるわけではないのだから、「こんなパワハラを受けています」とどこかに通報するだけ無駄で、むしろ怒られないように上手くやりすごすしかないと考える人のほうが多いだろう。
またこの話は上司の側にとっても悩ましいところで、ちょっと強めに指導したらパワハラと訴えられてしまうので、部下をまともに注意できなくなって困っている、というボヤキは近年よく聞く。それこそ、ある部下が上司からされたことをパワハラだと主張している場合でも、客観的に見ると、まず部下の側に至らぬ点があり、そこを上司に指摘されたのにもかかわらず、自己愛の強い部下は逆切れし、腹いせに上司の足を引っ張るべくパワハラだと大騒ぎしている可能性もあるくらいだ。
このように、上司の言動に問題があるからといって、何でもかんでも内部告発して上司の態度を改めさせる(極端な話、上司にご退場願う)というのもまた現実的ではないという面もあることにも目配りしながら、公益通報制度の運用をどのように「適正化」するかが問題なのである。
特に、首長という上司のクビを獲るということは、例えば兵庫県の場合、再選挙の事務負担を県下の全市町村の職員に、投票へ行く負担を有権者にかけることになる。それに見合う、それをしなければならないほどの不祥事の公益通報なのか?ということも考えなければならない。言うほど簡単ではないのだ。
それこそ、公益通報制度を今よりずっと使いやすくしたら、職場のモラル次第では、部下に対してちょっとでも厳しく当たる上司(首長に限らない)に対し、部下たちから「あの幹部は○○をしている」という「火のないところに煙を立たせる」内部告発が続発するようになるかもしれない。まさに「制度化された怪文書」だ。
このように、そもそも内部告発の動機はさまざまで、正義感によるものもあるが、個人的な恨み(裏切られた、評価されなかった等)や、自分が成り上るためにライバルを蹴落とそうとする陰謀めいたものも考えられる。選挙で選ばれ、政治権力とともに業界団体と利権が引っ付いている首長の地位がらみとなれば、不純な動機により、「フェイク」で盛られた内部告発があっても決して不思議ではないのだ。
その一方で、残念ながら現在の公益通報制度では「ファクトチェック」機能が極めて脆弱といわざるを得ず、下手に使われると誤った結論を導く恐れもあるように思われる。
結局、外部に情報を漏らして「世に問う」しかないのか
このように、現状を見る限り、役所の中での自浄作用は期待できないことはお分かりいただけると思うが、そうなると、首長の行動を牽制できる可能性があるとすれば、議会や報道機関へ、あるいはインターネット上で情報をリークして話題にすることくらいしかなさそうである。
しかし、こうした外部へのリークの最大の問題は、空振りに終わる可能性があることだ。マスメディアが取り上げてくれるかは、ニュースバリューの大きさ(誰が、何をしたか、それがどれほど確からしいか)で変わる。議会に対する情報提供についても、議員たちがどの程度関心を持つかによる。首長と議会が協調関係にあれば、よほどの内容でない限り相手にされない可能性が高い(兵庫県の場合、この点について複雑な事情があるようだ)。
スクープで有名な週刊誌が特ダネを報じても、業界タブーのネタだったために他のマスメディアが一切反応しないまま、盛り上がることなく時とともに話題から消え去っていくという話があるが、無名のリークでは、週刊誌の特ダネにすらたどりつけないことがほとんどである。
また、そもそも外部へのリークは、形式的に言えば業務上知り得た秘密を漏らすことになるので、告発者の身分がバレたら守秘義務違反に問われ得る(懲戒処分となるだけでなく、犯罪として逮捕・起訴につながる可能性もある)。このように、まさに捨て身の勝負でリークした者からすれば、マスメディアを含む社会から黙殺されることは断じて耐えがたいことであろう。
知事が辞めて終わりではない
ここまで、救いのない話ばかりでウンザリさせてしまったかもしれない。
本稿の最後に、今回の兵庫県庁職員の尊い犠牲から、我々は何を学ばなければいけないのかを考えてみたい。
まず、今回の兵庫県のケースをあまり特別扱いすべきでないということだ。確かに、「パワハラ」「おねだり」などは、首長としての品位を疑われるほどに酷過ぎたし、犯人捜しも酷く、犠牲者も出た。この3つのインパクトがあまりにも強く、知事がクビになっても仕方がないレベル感を出しているので、日本中が特別のケースだと思いこんでいるかもしれない。
しかし筆者は、兵庫県知事の一件であぶりだされた首長の個性による問題は氷山の一角に過ぎず、全国を見渡せば、庁内の事務方や地域の関係者が、「専制君主」たる首長の傍若無人ぶりによって苦しめられている事例は、程度の差こそあれ、山のようにあると思っている。
それゆえ、全国各地の首長各位には、今回の兵庫県知事の例を他山の石として、襟を正していただきたいものだ。
ただ、それだけに期待するのは心もとない。加えて、今回の事案を機に、官公庁における公益通報の仕組みと、公務員の服務上の義務の考え方を変えなければいけない。
現在の官公庁の公益通報制度は、各現場の職員が法令の執行や契約手続き等において、適正でないことを行っていると内部・外部の人が認知した場合を想定して作られている。確かにそれならば自庁内の監察部門に情報が集まっても問題はないのだろう。しかし、一定レベル以上の幹部や選挙で選ばれた人の不正の情報を自庁に入れても、もみ消されるか犯人捜しをされるだけであって、意味がないのではないか。
そもそも公務員は民間企業の従業員と異なり、職員の守秘義務が法律上明記されているという特徴がある。その点に関して、内部告発の動機や目的が正当であり(正義や公正を追求するものであり、また個人的な動機ではないなどの条件はつける)、かつ内容が虚偽でない限り、懲戒処分や刑事責任からは免責されるというルールを法律で明文化するとともに、その判定を行うのは裁判所など、告発の対象となった組織以外の第三者が行う仕組みを明確に構築することを真剣に検討すべき時期にきているのではないだろうか。そうしない限り、役所に自浄作用がないと宣言しているようなものだからだ。
役所の公益通報というのは、特殊な部門の話であるだけに難しく(公務員は守秘義務とかもあるし)だからいまだに「あれは公益情報!」「いやタダの怪文書!」と初歩でもめるんだろうな…
なおこの方のコラム、もう一つある
2024.10.26
選挙は民主主義の「バグ」…!斉藤元彦・元兵庫県知事が“再当選”する可能性も…そのヤバい構造
大原 みはる 行政評論家
https://gendai.media/articles/-/140094
…今回の百条委員会の話、知事選に関係するから非公開
民主主義は完全ではない
「バグ」という言葉がある。もともとは虫を意味する英語だが、のちに機械の異常停止や誤動作を生むコンピュータプログラムの誤りのことを意味するようになった。さらに最近では、入社2年目より1年目の新入社員の月給が高いことをもって「初任給がバグ」だと言われるなど、ある仕組みに矛盾や誤りがある状態のことも指すようになっている。
そんな「バグ」が、私たちの社会生活の基盤であるはずの民主主義(選挙)に生じ得るとしたら、みなさんはどう思うだろうか。
たとえば、今年9月に県議会議員全員が賛成して不信任を決議され、失職した斎藤前兵庫県知事の出直し選挙が11月に行われる。仮に斎藤氏が勝った場合、有権者から託された県議会議員による民意と、有権者の投票による民意に齟齬が生じることになる。これをどう考えればよいのか。
もちろん、「知事の再選が最新の有権者の意思であり、民意は上書きされたのだ」とか、「禊は済んだ」で片づけることはできる。ただ、時に「絶対的正義」のように言われがちな「民意」自体、そもそも本当に真正かつ盤石なものかというと、実は怪しく、危ういものなのではないかと筆者は考えている。
分かりやすい、選挙制度の「バグ」
選挙(投票により政治権力を持つ人を選び出す仕組み)は、有権者の意思(投票内容)を適正に反映するものでなければならない。これは議会制民主主義制度の大前提である。ところが、選挙制度の設計によっては、有権者の投票内容が必ずしも政治家の選出結果に反映されないことが起こりうる。
その最も分かりやすいケースが、より多くの票を得た候補者が落選し、相対的に少ない得票の候補者が当選してしまうことである。
世界で最も有名な例はアメリカの大統領選挙だろう。米国民一人ひとりからの総得票数で上回った候補が大統領になれない事態が過去に何度も起きている。間接選挙の形式をとっているため、有権者からの得票数と、大統領を決める投票に参加する「選挙人」の獲得人数にズレが生じることがあるからだ。
また、わが国の衆議院議員選挙においても、ある小選挙区で3位以下の得票だった候補者が比例代表で復活当選する一方、同じ小選挙区で次点だった候補者が落選するという逆転現象が起きうることから、制度上の歪みが指摘されることがある。
とはいえ、一見理不尽に見えるこれらの話も、そういうことも起こりうると一度は想定されて制度設計されたものである。こうした制度に絶対的な正解はないので、問題があるというなら議論を続けて、よりよいものに見直しを続けていくしかないといえる。
民意形成における「バグ」
一方、選挙のバグについては、こうした制度上のもの以外にも存在する。
それは、有権者自身の投票行動の不確かさに起因するものだ。
冷静に考えてみてほしい。読者のみなさんは、選挙の際にどの候補や政党に投票するかを、毎回どのような基準で決めているだろうか。特定の候補者と個別のつながりや利害関係を持っていたり、確固たる信念や支持政党がある人を除き、毎回自由に投票先を決める無党派層の多くは、選挙期間中のマスメディアの報道などから作られる雰囲気や、選挙に吹く「風」を無意識に受け入れて、「何となく」決めているのではないだろうか。
あるいは、選挙公示前から駅前で街頭遊説していて名前を憶えている候補者に、少しだけ親近感を覚えて投票してしまうことはないだろうか。
また、かつて、スキャンダルや失政があった政党や政治家でも、1回選挙を経れば、「禊は済んだ」とばかりに、過去のことは考慮せずに(忘れて)投票の判断をしている人もいる(ただし、「民主党には二度と政権は任せたくない」だけは例外的に相当数の日本人の頭に焼き付いているかもしれないが…)。
それこそ、これから有権者の審判を受けることになる斎藤前兵庫県知事についても、状況は変わりつつある。県議会の百条委員会の頃は針のむしろ状態だったのに、失職後に出直し選挙への出馬の動きが出るや、斎藤氏は国政・県政における政党間のいざこざの被害者である(パワハラやおねだり疑惑も「盛られた」ものだ)という見方をはじめ、四面楚歌の状態だった彼を擁護する意見や報道も出てきている。出直し選挙の当落は、対立候補の動向にもよるので何とも言えないが、今後の報道の取り上げ方やネット上での盛り上がり方一つで有権者の投票行動が変化し、斎藤氏が勝利する可能性はないではない。
一本の記事が、大阪都構想を否決した?
このように、選挙というものが、不安定な有権者の投票行動によって決する以上、どんなに優勢だと事前に報じられていても、投票箱が閉じられるまで何があるかわからない。2017年の衆議院総選挙に「希望の党」を引っ提げて参戦した小池百合子東京都知事が、民進党議員の合流を「排除」すると発言したことがきっかけで失速したことはみなさんもご記憶だろう。
また、選挙期間中に、ある勢力にとって都合の悪い情報がマスメディアやネット上に流されたとき、それをじっくり検証すれば明らかなフェイクであったり、あるいは多少「盛った(誇張された)」ものだったとしても、慌ただしい選挙期間中においては十分検証されることなくセンセーショナルに報道され、SNSで広まってしまうことがある。その結果、有権者の投票行動に影響を与え、勝敗がひっくり返ってしまうこともありえる。
実際、政治家を選ぶ選挙ではないが、地方自治体の行く末を決める住民投票の実施直前に、不用意に放たれた情報によって、投票結果に影響を与えた疑いがもたれている事例は存在する。
首都圏では大きく報道されなかったので記憶にない方も多いかもしれないが、2020年11月1日に行われた、いわゆる大阪都構想(大阪市を廃止して東京都のような特別区制度を導入すること)の是非を問う2度目の住民投票の際にそれは起きた。
投票の1週間ほど前に、大阪都に移行することの財政的なデメリットを匂わす情報(大阪市を4自治体に分割すれば218億円のコスト増になるという試算)を大阪市の幹部が報道機関に伝え、それが新聞各紙などで次々と報道されたのである。
今でも残るネット記事の見出しを引用すると、こんな感じだ。
「大阪市4分割ならコスト218億円増 都構想実現で特別区の収支悪化も 市試算」(毎日新聞2020/10/26)
「「年218億円増」試算 大阪市、単純に4分割なら」(朝日新聞2020/10/26)
このうち朝日新聞は、当初「大阪都構想で大阪市を廃止して特別区に再編した場合」と記事に書いてしまい、後に「大阪市を単純に四つの市に分割した場合」に訂正している。記者が誤解したくらいなのだから、一般読者がこの記事を読んで受けた印象はどうだったか、想像はつくだろう。
この報道を受け、当時の松井大阪市長は、残り僅かな投票日までの時間を使い、報道内容は誤解を招くものだとして火消しに走ったが、焼け石に水だった。人間は、ひとたびインパクトのある情報が頭に刻み込まれると、短期間でその印象を変えるのは容易ではない。しかも、本件は内容が難しい地方財政制度に関わる話だった。
結局、この報道がきっかけとなり、もともと賛成意見が優勢とも言われていた住民投票は、土壇場で反対に回る有権者が続出し、僅差で否決されてしまったという見方もある。
こんな時期に、そんな誤解を招く情報を報道機関に提供した幹部は後に謝罪会見を行い、処分も受けている。彼らがこれを大阪都構想阻止のために意図的に行ったのかは当人たちにしかわからないが、客観的に言えることは、選挙や住民投票で、有権者が投票行動を決めつつある時期に、その判断に影響を与える効果的な情報を世の中(報道機関やインターネット上)に放てば、投票結果に一定方向の影響を与えることは十分可能であるという事実だ。
右向きに吹いていた風が、ある情報が投下されたことをきっかけに、突然左向きに変わり、風見鶏も反対を向いてしまった。しかし、選挙や投票というものは、パソコンの「CTRL」+「Z」キーを押すかのように、「間違った情報で投票が行われたから、やり直します」というわけにはいかない。
そういったことをすべて承知の上で、確信的な悪意を持って、有権者の誤解を引き起こして選挙結果をひっくり返すことを意図するような情報を、絶妙なタイミングで投げ込む人がいるとしたら、ただただ、末恐ろしくなるばかりである。これを民意の「バグ」で済ませて良いのだろうか。
不安定な民意を、どこまで重視し、尊重するのか
民主主義社会において、住民投票や直接選挙で示される有権者の意思は、有権者が選んだ議員によって物事が決められる意思より重い(強い)、という意見は、たしかにもっともである。しかし、有権者の示す意思が、実はマスメディアの意識・又は無意識的な報道などによって、容易に振り回されてしまうものだとしたら、そればかりを尊重しすぎると、かえって社会は混乱するのではないだろうか。
そうした「民主主義のバグ」を克服するためには、マスメディアの報道のレベルを上げ、有権者がメディアリテラシーを高めていくことが必要だ。しかし、それだけでは限界があり、問題は解決しないだろう。
ここで大切なことは、選挙で選ばれた議員が、有権者に代わって国や地方自治体の在り方を議論し、決定していく間接民主制がなぜ導入されているかという原点に立ち帰ることである。筆者は、有権者が集まってすべてのことを決めていく直接民主制は、議論や投票に大変手間がかかるから間接民主制になっていると中学校で習った記憶があるが、デジタル化の劇的な進展により大人数・双方向のコミュニケーションが可能になった現代では、扱うテーマを絞りさえすれば、直接民主制の実現へのハードルは下がっていると言えなくもない。
それでもなお間接民主制を採る理由は、有権者自身による意思表示の不安定さ(容易にブレたり、明確な意思表示をしたがらないなど)を補完するために必要だからだと筆者は考えている。
有権者に代わってじっくり考えてくれる人を選挙で選び、託した以上、当選後に多少の不満は生じても、「選んだ責任」が生じる。だから、ある程度は信じてついていくことも必要だという視点を、私たちは今一度思い返してみるべきではないだろうか。
のはずだったが、結構内容漏れ漏れの件w
しかも公益情報に関する証言で元彦に同情的な風が吹いていた状態にいきなり冷水ぶっかけ状態w
これって上記コラムで言うところの「タイミングの良い“バグ”」なのかなあ
そういえば「大阪都構想」
この時元彦はまだ大阪府財政課長だった
この構想にどれくらい関与していたのだろうか?
上記のコラムにも書かれていたが、大阪市のほうの財務課長と財務部長と財政局長は書類送検されたとのこと
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