拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
うーむ、このカテゴリーのネタ、久し振り~(^^;)
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近衞「太郎」のことを調べているときに『玄与日記』なる物の存在を知る。今頃になってかなり恥ずかしいのだが(^^;)
ちなみに『玄与日記』というのは、阿蘇惟賢(法名「玄与」)が書いた物。ただ長期間にわたって綴られた物ではないらしく、近衛信尹が流刑先の薩摩国坊津から京へ帰還するまでの数ヶ月分しか残ってないらしい。
現在残存している分は『群書類従』日記部/紀行部に所収されている(近代デジタルライブラリーでも見ることが可能)。
ここに島津義久が書いた和歌が何首か所収されていた。
見てみると、今まで紹介してなかった物なので、今頃になって改めてご紹介。
ではご興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ
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近衞「太郎」のことを調べているときに『玄与日記』なる物の存在を知る。今頃になってかなり恥ずかしいのだが(^^;)
ちなみに『玄与日記』というのは、阿蘇惟賢(法名「玄与」)が書いた物。ただ長期間にわたって綴られた物ではないらしく、近衛信尹が流刑先の薩摩国坊津から京へ帰還するまでの数ヶ月分しか残ってないらしい。
現在残存している分は『群書類従』日記部/紀行部に所収されている(近代デジタルライブラリーでも見ることが可能)。
ここに島津義久が書いた和歌が何首か所収されていた。
見てみると、今まで紹介してなかった物なので、今頃になって改めてご紹介。
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まずは文禄5年7月11日、近衛信尹(当時「信輔」)が帰洛途上、義久が住んでいた浜の市(現鹿児島県霧島市)に到着した際に龍伯館(恐らく富隈城)にて開かれた歌会での3首。他に参会者の和歌がありますが、入力が面倒なので(ヲイ)省略してます。気になる方は実際に『玄与日記』を読んでね。
兼題松蔭新凉『玄与日記』によれば、この歌会の参会者は15人ほどいたと言うことですが、歌が採録されたのは
(一首略)
龍伯
暑き日の影も忘れて馴れなるゝ松の下枝に秋風ぞ吹く
(三首略)
薄露 龍伯
行く袖を結びもとめよ絲薄末はの露は玉と散るとも
(五首略)
寄鏡神祇 龍伯
神垣のうちゆたかにもうつし置く心やよゝの鏡なるらむ
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879776/348
・近衛信尹(“杉”)
・島津義久(”龍伯”)
・進藤長治(近衞家諸大夫)
・阿蘇玄与
・伊集院忠棟(”幸侃”)
・高城珠長(連歌師)
の5人のみ。
ここで注目されるのがあの伊集院忠棟が同席していること。翌12日には座敷で能の興行もされたようなのですが、拙HPで紹介した「赤い小袖事件」が起きたのはこれが原因ではないかと考えられます。
あと、歌会には参加してないのだが、わざわざ日向国?から秋月種実(”入道宗闇”)がお越しになっているのが興味深いです。13日にやってきて、しかも能興行を9番もこなしたらしい。この後「くしまの浦ちのの湊」(現宮崎県串間市か)までついてきて信尹の世話をしていたようですが、その後は不明。翌月20日に「あがたの高橋九郎」こと高橋元種(種実の息子)が信尹一行を世話しているので、そこまで同行したのかも知れないです。
その後、義久は庄内(現宮崎県都城市)まで信尹と同行したらしい。
庄内でも7月19日に歌会が行われたようです。
(一首略)歌が採録されたのは
龍伯
花々を分けにし野辺の帰るさや手折りもてきて瓶にさすらむ
(後2首略)
・近衛信尹(”御家門様”)
・島津義久(”龍伯”)
・伊集院忠棟(“幸侃”)
・阿蘇玄与
なお、この歌会は宿所、つまり伊集院忠棟の屋敷で行われました。庄内は文禄検地後豊臣秀吉から直接伊集院忠棟にあてがわれた8万石の中心地だったので、おそらくは都城内にあった屋敷ではないかと。『玄与日記』によれば「折節草花屋敷」とあるところから見て、庭が花畑のようになっている結構なところだったと考えられます。豪勢な暮らしぶりだったのだろうか、忠棟。
なお、ここにも秋月種実は同行していたようですが、なぜか和歌は詠まずに、能ばっかり(「二十一日打ち続き秋月入道興行なり」)。歌よりダンスの秋月?ヾ(^^;)
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