拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今頃になって、京都府立資料館が京都学・歴彩館という別物の組織になっていたことを知る。
学生時代から長きにわたって資料館にはいろいろお世話になっていたので、感慨深い物があるなあ。
では本題に戻って
前の話はこちら 1、2、3
このネタも遂に3回目。
今回俎上に挙げるのは不比等の三男・宇合の式家の皆様です。
前回北家をネタにしたときに、意外や意外式家関係の女性が多く妻になっていたことにビックリしたのですが、ではその式家の皆様はどこから嫁を迎えていたのでしょうか。
今まで南家や北家を見た時には式家に嫁に行った女性をお見かけしなかったような気がするのだが。
ではご興味のある方は「つづきはこちら」ボタンをクリックプリーズ。
学生時代から長きにわたって資料館にはいろいろお世話になっていたので、感慨深い物があるなあ。
では本題に戻って
前の話はこちら 1、2、3
このネタも遂に3回目。
今回俎上に挙げるのは不比等の三男・宇合の式家の皆様です。
前回北家をネタにしたときに、意外や意外式家関係の女性が多く妻になっていたことにビックリしたのですが、ではその式家の皆様はどこから嫁を迎えていたのでしょうか。
今まで南家や北家を見た時には式家に嫁に行った女性をお見かけしなかったような気がするのだが。
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タイトルの記事はこちらです。
記事本文を書いたのは松本治人という方ですが、検索してもどういう人か不明。
元になったインタビューに答えたのは『失敗の本質』の共著者として著名な戸部良一氏、そして国際政治が専門の北岡伸一氏。
戸部氏には『日本陸軍と中国』(新刊本はこちら)という、満州事変の背景にもなった日本及び日本陸軍の中国感の変遷に関する名著があります。
記事の日付は9/18なので、満州事変勃発の日に合わせて書かれた物であることは間違いないでしょう。
さて。
タイトルのように、石原完爾は「悲劇の将軍」だったのか?「天才」だったのか?というのは評価が分かれるところでしょう。
私個人としては、当人は「革命家」を自認していたように考えます。やり方が組織のルールからぶっ飛んでいたのも「革命家」を自認していればこそだろうかと(レーニンなども、自分の信念・正義のためにはルールとか常識とか無視してひどいことをしても全く平気な人でした)。…ただ、その後の時代の流れが自分が予想していたのと違う方向に進んだのは誤算だったでしょう。日中戦争が拡大したのは当時の世論の後押しがあったのが一因ですが、石原自身はそこまでになるとは予想してなかった節があります。その辺が「天才」という凡人・庶民の考えが読めない(理解できない?)人の弱さだったかと。
この記事に関するネットのご感想はこちら(YAHOO!)
記事本文を書いたのは松本治人という方ですが、検索してもどういう人か不明。
元になったインタビューに答えたのは『失敗の本質』の共著者として著名な戸部良一氏、そして国際政治が専門の北岡伸一氏。
戸部氏には『日本陸軍と中国』(新刊本はこちら)という、満州事変の背景にもなった日本及び日本陸軍の中国感の変遷に関する名著があります。
記事の日付は9/18なので、満州事変勃発の日に合わせて書かれた物であることは間違いないでしょう。
さて。
タイトルのように、石原完爾は「悲劇の将軍」だったのか?「天才」だったのか?というのは評価が分かれるところでしょう。
私個人としては、当人は「革命家」を自認していたように考えます。やり方が組織のルールからぶっ飛んでいたのも「革命家」を自認していればこそだろうかと(レーニンなども、自分の信念・正義のためにはルールとか常識とか無視してひどいことをしても全く平気な人でした)。…ただ、その後の時代の流れが自分が予想していたのと違う方向に進んだのは誤算だったでしょう。日中戦争が拡大したのは当時の世論の後押しがあったのが一因ですが、石原自身はそこまでになるとは予想してなかった節があります。その辺が「天才」という凡人・庶民の考えが読めない(理解できない?)人の弱さだったかと。
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