拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前の話はこちら 1、2、3、4
このネタも今回で最終回(のはず)。
今回俎上に挙げるのは不比等の四男・麻呂の京家の皆様です。
『尊卑分脈』見て大喜び。むっちゃ人数少ない!ヾ(--;)これはさくさく最終回にできそうですヾ(^^;)
ではご興味のある方は「つづきはこちら」ボタンをクリックプリーズ。
このネタも今回で最終回(のはず)。
今回俎上に挙げるのは不比等の四男・麻呂の京家の皆様です。
『尊卑分脈』見て大喜び。むっちゃ人数少ない!ヾ(--;)これはさくさく最終回にできそうですヾ(^^;)
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まず一番最初は初代の麻呂から。
※主に『尊卑分脈』参照このうち『尊卑分脈』では長男扱いされている「従四位参議・藤原綱執」ですが、木本好信氏らが指摘するようにこれは藤原仲麻呂の息子の真先(旧名「執弓」)か執棹の誤記入の可能性が高いです。「麻呂」と「仲麻呂」というので混同したのだろうな。勝人はわかんない(^^;)
妻:当麻氏
女子:藤原百能(720-782) ※藤原豊成室、尚侍
妻:稲葉気豆の女(因幡国八上郡采女)
長男:藤原浜成(724-790)
生母不明の子女
男子:藤原綱執
男子:藤原勝人
ということで、同時代史料にも出て来て確実な麻呂の子供は藤原豊成室の百能と浜成の2人だけです。
麻呂の閨閥関係ですが、百能の母の当麻氏も有力貴族とは言えず、浜成の母に至っては地方豪族出身の女官(采女)で、木本氏が指摘するように藤原不比等の息子にしてはかなり貧弱としか言えないです。これどこかで見たような…ああ、この人と似てるわ藤原八束(真楯)。麻呂は『尊卑分脈』に依れば「上には聖主有りて、下には賢臣有り僕のごときは何を為さんや。なお琴酒を事とするのみ」(上には素晴らしい君主がいて、下には賢い家臣がいるから、自分なんか何もすることない。だから音楽と酒に生きるんだな(ばんない意訳))と語っていた、という自虐傾向があった人のようなんですが、上に兄がいるので自分なんぞはどうでもいいわ、「私の代わりは他にもいるもの」ヾ(--;)と思っていた可能性はありそうです>麻呂、八束(真楯) この辺が婚姻関係の構築に不熱心な原因のように思えます。
では次はその麻呂の唯一の?息子・浜成。
妻:多治比縣守の娘唯一判明している妻が継彦の母で、多治比縣守という人の娘です。縣守は正三位中納言にまで登った人で、左大臣・多治比嶋の息子と言うことですから、名門の出身という事になりますね。この辺、浜成が父・麻呂を反面教師にしたように思われます。
三男:藤原継彦(749-828)
生母不明:
男子:藤原永谷
男子:藤原臣継
男子:藤原大継(?-810)
男子:藤原承之
男子:藤原豊彦
女子:藤原法壱 ※氷上川継室
残りの子女に関しては母の記載がないのですが、木本氏は
妻:多治比縣守の娘
継彦、豊彦
妻A
永谷、承之
妻B
臣継、大継
…と推測してられたような(うろ覚えで済みません)。
しかし、藤原京家はその起源からして新田部親王家と非常につながりの強い一家でした。新田部親王は古代史に詳しい方じゃないとご存じの方が少ないと思われますが、天武天皇の皇子の一人(恐らく末っ子(青木和夫説))で、奈良時代初頭には母が藤原氏出身(藤原鎌足の娘・五百重娘)と言うこともあってか重用され「大将軍」「大惣官」に任じられます。実は京家初代・藤原麻呂は新田部親王と異父兄弟だったので、藤原氏の中でもとりわけ京家は新田部親王に近かったと考えられます。
浜成も娘の一人・法壱を氷上川継(新田部親王の孫)の妻にしていましたが、これが災いし、氷上川継の変で連坐・失脚。藤原京家は藤原不比等の子孫の中で一番最初に没落した一家となったのでした…
以上で奈良時代の藤原氏の皆様の結婚についての検討終了。
総合的に見ると
(1)藤原京家の孤立傾向が…元から子供の数が少ないので仕方ないんですが。
(2)式家の熱心さが目立つ(^^;)
(3)南家は超然としてる感じ 黙っててもあちこちから結婚話が来てるような
(4)北家は南家と仲良くしようとしたいのか、式家に頼られてるのかよく分からないヾ(--;)
と言う所でしょうか。
そんな中で、一番婚姻政策から離れて孤高の八束(真楯)の系統が、結局後に摂関家を建てることになるんですよねえ、不思議。まあ、それは八束の息子の内麻呂が壮絶な結婚政策をしたり、息子をいろんな勢力に付けるという真田昌幸もビックリなことをしたからなんですが、これも淡泊な父を反面教師にした、と言う事なんでしょうか。
<おわり>
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