拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
3週間前に取り寄せをお願いしていた本が最寄りの図書館に到着。
大阪府立図書館にあった物の、どうも取り寄せを断られたようで
遙か彼方の○○○大学図書館から借りてきたらしい。
びっくーり。
大学図書館って、公共図書館とやりとりもするのか。
但し、郵送料を取られるのが痛い。
往復で1220円。しかも片道分は「¥50切手12枚 ¥10切手1枚」で払え、というかなり細かい指定付き。
今月の23日には返却しないといけないようなので、緊急も要する。明日は図書館行きかな。
天気予報大雨+強風らしいですが_| ̄|○
ということで、某大学図書館をご利用の皆様。
5月24日ぐらいまで『大隅町史』とその関連資料は私が占有してますので閲覧できません( ̄^ ̄)
あしからず
大阪府立図書館にあった物の、どうも取り寄せを断られたようで
遙か彼方の○○○大学図書館から借りてきたらしい。
びっくーり。
大学図書館って、公共図書館とやりとりもするのか。
但し、郵送料を取られるのが痛い。
往復で1220円。しかも片道分は「¥50切手12枚 ¥10切手1枚」で払え、というかなり細かい指定付き。
今月の23日には返却しないといけないようなので、緊急も要する。明日は図書館行きかな。
天気予報大雨+強風らしいですが_| ̄|○
ということで、某大学図書館をご利用の皆様。
5月24日ぐらいまで『大隅町史』とその関連資料は私が占有してますので閲覧できません( ̄^ ̄)
あしからず
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先日図書館から借りた
『歴史読本』2006年11月号
「れきどく」というだけでもちっと恥ずかしい(^^;)のに
更に特集内容が
「宮家特集」
…ははは…
この『歴史読本』には付録が付いていて、
「歴史読本」創刊号復刻版
余り興味はないが、目次だけ見ていると
楠木正成とか
加藤清正とか
天草四郎とか
関ヶ原の合戦とか
…
昔からミーハーネタが大好きな傾向は変わらず!ヾ(^^;)
そんな中でちょっと目に付いた
「秘録・明治天皇の行状」蜷川新
ちらっと読んでみると…
いや、もう最初から最後まで
明治天皇と明治維新の悪口ばっかり
本の著者紹介には
ということで、ネットで調べてみる
世界的な有名人みたいですね。
更に調べてみると…
なるほど、幕末の幕府功臣・小栗上野介忠順の親戚だったわけだ。そりゃ明治維新の悪口しか言わないのも分かる。
でも幕府がつぶれて士族が崩壊したからこそ、赤十字に貢献した蜷川新が誕生したとも言えるわけで。
ところで、上記学士会のメルマガより
とどめに
草葉の陰で、あさっての分野で活躍する曾孫を「苦言ぶつぶつ秀才」の曾祖父はどう思っているのやらヾ(^^;)
『歴史読本』2006年11月号
「れきどく」というだけでもちっと恥ずかしい(^^;)のに
更に特集内容が
「宮家特集」
…ははは…
この『歴史読本』には付録が付いていて、
「歴史読本」創刊号復刻版
余り興味はないが、目次だけ見ていると
楠木正成とか
加藤清正とか
天草四郎とか
関ヶ原の合戦とか
…
昔からミーハーネタが大好きな傾向は変わらず!ヾ(^^;)
そんな中でちょっと目に付いた
「秘録・明治天皇の行状」蜷川新
ちらっと読んでみると…
いや、もう最初から最後まで
明治天皇と明治維新の悪口ばっかり
本の著者紹介には
とある。歴史の専門家ではないが、経歴だけはそんなデンパな人ではないようだがヾ(^^;)法学博士。東京帝国大学法文学部卒、同志社大学、駒沢大学の各大学教授、日本赤十字社顧問、ジュネーブ赤十字連盟理事を歴任(以下略)
ということで、ネットで調べてみる
http://rcehime.parfe.jp/kokusai41.html赤十字国際委員会が、武力紛争犠牲者救援を主活動としているのに対し、国際赤十字・赤新月社連盟は「平時における健康の増進、疾病の予防及び苦痛の軽減にあたる」ことを主目的に、災害救護・公衆衛生・社会福 祉事業・青少年の育成等の活動を行っています。
これは日本赤十字社外字顧問「蜷川新」の発想を基に、1919年アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本の代表からなる「5社委員会」の結成を期に、平時事業を主眼とした各国赤十字社の連合体として誕生しました。
世界的な有名人みたいですね。
更に調べてみると…
http://www.gakushikai.or.jp/mailmag/no004.html蜷川新(あらた)は、上野介の義甥(上野介夫人道子の実妹はつ子の息子)。小栗の処刑地に立てられた慰霊碑には蜷川新による碑文「偉人小栗上野介 罪なくして此処に斬らる」の文字が刻まれている。
なるほど、幕末の幕府功臣・小栗上野介忠順の親戚だったわけだ。そりゃ明治維新の悪口しか言わないのも分かる。
でも幕府がつぶれて士族が崩壊したからこそ、赤十字に貢献した蜷川新が誕生したとも言えるわけで。
ところで、上記学士会のメルマガより
新右衛門さんの子孫なんだ…因みに蜷川新の祖先は、室町時代の政所代を代々務めた蜷川新右衛門で、アニメの「一休さん」に登場するのは新右衛門親当(ちかまさ)。
とどめに
ははは…そういえば、このネタ「トリビアの泉」でやってたっけ。ツイデに現代のK−1ファイター、武蔵選手は蜷川新の曾孫。
草葉の陰で、あさっての分野で活躍する曾孫を「苦言ぶつぶつ秀才」の曾祖父はどう思っているのやらヾ(^^;)
マスコミなどでは「江戸時代は日本と朝鮮は善隣友好の関係を結んでいた」というネタの基にされる(この「善隣友好」という言葉も、調べてみると文字通りにはとれないアヤシイものらしいが)
朝鮮通信使。
だが、実際は江戸幕府と朝鮮王朝(李氏朝鮮)(+対馬藩)の思惑の上に成り立っていた物であり、江戸時代中期以降は両国の政権に与える意義も薄れてしまい、新井白石の朝鮮通信使接待リストラ論などもでて、江戸時代後期には形は残っていた物の江戸まで行かずに対馬でUターンするようになり、実質的には終了していたのが実体です。
それがここまで「過大評価」されるようになったのは、昭和50年代頃から在日の研究家である辛基秀氏が通信使を「日韓(日朝)の正しい交流の形・善隣友好の象徴」として「発掘」し、それをマスコミがヨイショしたり、仲尾宏(京都造形大名誉教授)なる学者が辛氏と共同で通信使の本を大々的に発行したりしたために、最初に書いたようなまちがった認識が固定化してしまったのだが…
ちなみに仲尾宏氏は現在「親朝派」の学者として予定通り活動中
こちら 「イラク戦争と日朝関係」に関する声明に共同発起人として名前を連ねてます。他には小田実やら和田春樹やら、「媚中、媚韓、北朝鮮擁護」のいつものメンバーがずらり。
ところが、ネットではご存じの方が多いと思うが
この朝鮮通信使、日本で鶏泥棒を働き、乱闘になっていたのである。
「enjoykorea」その1
「enjoykorea」その2
この絵、ネット上では『朝鮮人来聘記 付図』(京都大学文学部図書館蔵)として紹介されていることがおおいが、京大の図書館を必死になって検索しても見つからない_| ̄|○
それもそのはず、どうも名前が間違っているようで、正しい名前は『朝鮮聘礼使淀城着来図』らしい こちら。しかも所蔵は図書館ではなく博物館のようである。(複製を京大文学部博物館<現 京都大学総合博物館>で購入した方がいました こちら)
もっと手っ取り早く見たい人は、
にこの絵が掲載されているらしい(上記「enjoykorea」より)。たぶんちょっとした図書館ならおいてあると思います。
この本の出版元の山川出版社は歴史教科書で定評のある、そして親朝鮮、親中国のスタンスを取っている出版社。著者の吉田光男氏は現代日本において近世近代朝鮮史学者としては一番の大御所らしい こちら。
この出版社とこの著者をしてもこの絵は
とあります(爆)
ところが、この原画は一時期京大に預けられて行方不明となり、最近になって元の所有者の子孫に戻ったそうなのですが こちら、この時に京大教授の藤井穣治(ママ)氏は

これのどこが子供と一緒に遊んで鶏追っかけてるように見えるんだよ!ヽ(`Д´)ノ
まわりに日本人らしいちょんまげ結った男がばたばた倒れてますし、第一子供は前髪があってちょんまげじゃないっつうの。
…何に遠慮しているのか、脅されているのか。
藤井譲治教授…「九条の会」にも名前連ねてられるし、駄目教授決定かしら(^^;)
朝鮮通信使。
だが、実際は江戸幕府と朝鮮王朝(李氏朝鮮)(+対馬藩)の思惑の上に成り立っていた物であり、江戸時代中期以降は両国の政権に与える意義も薄れてしまい、新井白石の朝鮮通信使接待リストラ論などもでて、江戸時代後期には形は残っていた物の江戸まで行かずに対馬でUターンするようになり、実質的には終了していたのが実体です。
それがここまで「過大評価」されるようになったのは、昭和50年代頃から在日の研究家である辛基秀氏が通信使を「日韓(日朝)の正しい交流の形・善隣友好の象徴」として「発掘」し、それをマスコミがヨイショしたり、仲尾宏(京都造形大名誉教授)なる学者が辛氏と共同で通信使の本を大々的に発行したりしたために、最初に書いたようなまちがった認識が固定化してしまったのだが…
ちなみに仲尾宏氏は現在「親朝派」の学者として予定通り活動中
こちら 「イラク戦争と日朝関係」に関する声明に共同発起人として名前を連ねてます。他には小田実やら和田春樹やら、「媚中、媚韓、北朝鮮擁護」のいつものメンバーがずらり。
ところが、ネットではご存じの方が多いと思うが
この朝鮮通信使、日本で鶏泥棒を働き、乱闘になっていたのである。
「enjoykorea」その1
「enjoykorea」その2
この絵、ネット上では『朝鮮人来聘記 付図』(京都大学文学部図書館蔵)として紹介されていることがおおいが、京大の図書館を必死になって検索しても見つからない_| ̄|○
それもそのはず、どうも名前が間違っているようで、正しい名前は『朝鮮聘礼使淀城着来図』らしい こちら。しかも所蔵は図書館ではなく博物館のようである。(複製を京大文学部博物館<現 京都大学総合博物館>で購入した方がいました こちら)
もっと手っ取り早く見たい人は、
にこの絵が掲載されているらしい(上記「enjoykorea」より)。たぶんちょっとした図書館ならおいてあると思います。
この本の出版元の山川出版社は歴史教科書で定評のある、そして親朝鮮、親中国のスタンスを取っている出版社。著者の吉田光男氏は現代日本において近世近代朝鮮史学者としては一番の大御所らしい こちら。
この出版社とこの著者をしてもこの絵は
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1800305『船着場から上陸して町の中をうろついていた朝鮮通信使一行が、町人が飼っているニワトリを盗んで逃げようとし、日本人とけんかになっている。』
という説明文がついています。
とあります(爆)
ところが、この原画は一時期京大に預けられて行方不明となり、最近になって元の所有者の子孫に戻ったそうなのですが こちら、この時に京大教授の藤井穣治(ママ)氏は
…なんてコメントしていた模様。日本の子どもと遊んだり、鶏を一緒に追いかける朝鮮人の姿が活き活きと描写され、日本の民衆と交流していた様子がわかる

これのどこが子供と一緒に遊んで鶏追っかけてるように見えるんだよ!ヽ(`Д´)ノ
まわりに日本人らしいちょんまげ結った男がばたばた倒れてますし、第一子供は前髪があってちょんまげじゃないっつうの。
…何に遠慮しているのか、脅されているのか。
藤井譲治教授…「九条の会」にも名前連ねてられるし、駄目教授決定かしら(^^;)
結婚式に如何ですか?甲冑レンタルいたします。
南蛮具足
…南蛮具足の中の人は今話題の時の人に似てますが、気のせいですよね(^^;)
武田信玄
信玄は戦国時代の人間なのに、嫁は江戸後期の文金高島田打掛つう中途半端なコスプレぶりです(;^_^A
独眼竜政宗
…見てるこっちが恥ずかしいから、かっこつけんな!ヾ(^^;)
で、
島津義久の甲冑は説明によると
とか島津豊久が関ヶ原で戦死したときに着ていた鎧とかは随分古風な物なので、義久の鎧もこんな当世具足ではないと思うんだけどな。
それにしても
南蛮具足
…南蛮具足の中の人は今話題の時の人に似てますが、気のせいですよね(^^;)
武田信玄
信玄は戦国時代の人間なのに、嫁は江戸後期の文金高島田打掛つう中途半端なコスプレぶりです(;^_^A
独眼竜政宗
…見てるこっちが恥ずかしいから、かっこつけんな!ヾ(^^;)
で、
島津義久の甲冑は説明によると
当社 武将シリーズと肩を並べても引けを…想像で作った物らしい(^^;)。ただ、義久の父・島津貴久が奉納した鎧
取らない、地元の時代祭り総大将 島津義久
に相応しい甲冑に仕上げたつもりです。
とか島津豊久が関ヶ原で戦死したときに着ていた鎧とかは随分古風な物なので、義久の鎧もこんな当世具足ではないと思うんだけどな。
それにしても
…って、信長とそれ とか 秀吉とそれ の関係に比べると
全然盛り上がってなかったのは周知の事実かも知れないが。ヾ(^^;)
公称77万石実際の数値は半掛け以下らしい(参考 こちら 保護中ページなのがいまいちだが)の大名の割に、その宝物を管理している尚古集成館にはろくな茶道具がないし(暴言)
※もっとも、昭和初期に連帯責任をとってかなりの財産を処分したという話もあるので、その時に散逸した可能性もあるが。
島津義久の家老の一人が書いた『上井覚兼日記』を見ると「茶の湯」の記事は散見されるので、全くやってなかったわけでもなさそうだが、『鹿児島県史料』所収の「旧記雑録」には茶会記がほとんどないところから見ても、茶道に不熱心だった方の戦国大名であることは間違いない。
最も、戦国大名との結びつきで興隆したように思われがちな茶道ではあるが、実際お茶熱心だった戦国大名といえば松永久秀とか織田信長とか、やはり畿内との結びつきが強かった武将が多く、武田信玄とか上杉謙信とかが茶道楽だったという話は知らない。そういう話をご存じの方がいらっしゃいましたら具体的に史料付きで教えて下さいませ
戦国大名・島津氏が茶道に不熱心だったのは、「中興の祖」として有名な島津忠良のご託宣のせいもあるだろう。
「魔のしょゐか 天けんおかみ 法華教 一向宗に すきの小座敷」
→「天眼拝み」(=キリスト教)、法華宗、一向宗、「数寄の小座敷」(=茶道)に熱中するのは、魔が差した者のすることである、といった意味
ところが。この忠良を尊敬してやまなかった孫の島津義弘は何故かどっぷりと茶道にはまってしまい、関ヶ原の敗戦後、豊臣秀吉の人質となっていた妻・宰相殿が自分の道具は何も持たず、秀吉から拝領した茶入(銘「平野肩衡」)だけを持って大坂から逃亡してきたのを「さすが武士の妻たるもの良き心がけ」と激賞しているくらいである。
しかし、その義弘の息子である島津家久(旧名 忠恒)になると、家老・伊集院忠棟を茶会にかこつけて呼び寄せぶっ殺した所から見て、茶道に関してそれなりの素養はあったようだが、後に徳川家光を江戸の屋敷に招いたときには「式正御成」(室町幕府流儀の接待方法のこと)で準備を整えたところ、最後になって幕府側から「式正とは堅苦しい、お気楽に数寄(=茶道風味)の接待にしてくれ」とクレームを入れられたと言うことがある。※もちろん、支度を1からやり直させられることになったので、島津氏側から見るとちっとも「お気楽」じゃなくて、むしろ嫌がらせですらある。
実は、今日借りてきた、島津氏とは全く関係のない本に、島津氏と茶道の距離感の理由を解決できるヒントがあった。
島津義久が茶の湯に関心がないように見え、義弘が茶の湯熱心なのには政治的な背景があるのではないかという指摘は『尚古集成館研究』「鹿児島ニ召置御書物並富隈ヘ召上御書物覚帳」(松尾千歳)などでも既に為されているが、『島津義弘の賭け』(山本博文)
で指摘されている「秀吉政権に距離を取る島津義久と、秀吉政権に近づこうとする島津義弘」の構図は茶の湯においてはしっかり証明されていると言うことが言えよう。
しかし、その息子の家久の茶の湯に対する態度は父に比べると複雑である。いちおう一般教養としては茶道をたしなんでいるという雰囲気で、父ほどの熱意は感じられない。
徳川幕府には室町幕府風の接待を見せつけることで「島津氏は徳川氏より実は格上ざます」という演出をしようとしたのかも知れないし、幕府側もそれを見抜いて土壇場で一端キャンセルをするという嫌がらせをした可能性がある、と私は考えている。
全然盛り上がってなかったのは周知の事実かも知れないが。ヾ(^^;)
公称77万石実際の数値は半掛け以下らしい(参考 こちら 保護中ページなのがいまいちだが)の大名の割に、その宝物を管理している尚古集成館にはろくな茶道具がないし(暴言)
※もっとも、昭和初期に連帯責任をとってかなりの財産を処分したという話もあるので、その時に散逸した可能性もあるが。
島津義久の家老の一人が書いた『上井覚兼日記』を見ると「茶の湯」の記事は散見されるので、全くやってなかったわけでもなさそうだが、『鹿児島県史料』所収の「旧記雑録」には茶会記がほとんどないところから見ても、茶道に不熱心だった方の戦国大名であることは間違いない。
最も、戦国大名との結びつきで興隆したように思われがちな茶道ではあるが、実際お茶熱心だった戦国大名といえば松永久秀とか織田信長とか、やはり畿内との結びつきが強かった武将が多く、武田信玄とか上杉謙信とかが茶道楽だったという話は知らない。そういう話をご存じの方がいらっしゃいましたら具体的に史料付きで教えて下さいませ
戦国大名・島津氏が茶道に不熱心だったのは、「中興の祖」として有名な島津忠良のご託宣のせいもあるだろう。
「魔のしょゐか 天けんおかみ 法華教 一向宗に すきの小座敷」
→「天眼拝み」(=キリスト教)、法華宗、一向宗、「数寄の小座敷」(=茶道)に熱中するのは、魔が差した者のすることである、といった意味
ところが。この忠良を尊敬してやまなかった孫の島津義弘は何故かどっぷりと茶道にはまってしまい、関ヶ原の敗戦後、豊臣秀吉の人質となっていた妻・宰相殿が自分の道具は何も持たず、秀吉から拝領した茶入(銘「平野肩衡」)だけを持って大坂から逃亡してきたのを「さすが武士の妻たるもの良き心がけ」と激賞しているくらいである。
しかし、その義弘の息子である島津家久(旧名 忠恒)になると、家老・伊集院忠棟を茶会にかこつけて呼び寄せぶっ殺した所から見て、茶道に関してそれなりの素養はあったようだが、後に徳川家光を江戸の屋敷に招いたときには「式正御成」(室町幕府流儀の接待方法のこと)で準備を整えたところ、最後になって幕府側から「式正とは堅苦しい、お気楽に数寄(=茶道風味)の接待にしてくれ」とクレームを入れられたと言うことがある。※もちろん、支度を1からやり直させられることになったので、島津氏側から見るとちっとも「お気楽」じゃなくて、むしろ嫌がらせですらある。
実は、今日借りてきた、島津氏とは全く関係のない本に、島津氏と茶道の距離感の理由を解決できるヒントがあった。
P.12より ※太字は当方補足茶碗に限らず、茶道具の中で唐物と高麗物は大きな役割を果たしている。まず唐物は茶の湯以前から禅宗文化及び東山文化に大きく貢献しており、コレがそのま ま茶の湯の世界にも継承されている。(略)ところが茶碗においては室町時代末から桃山時代に掛けてこの唐物を押しのけて高麗茶碗が登場してくる。(略)遂 に桃山期にいたっては唐物茶碗を凌駕することになる。これには茶の湯界における大きな変動が影響していると言えよう。
それは侘び茶の進展と、武士社会における茶の湯の流行とが重なって起きた現象と言えるであろう。
なぜ武将達が茶の湯にのめり込んだのかは、各大名が外来文化に憧れを持ったからだけではなく、その文物を政策の対象にまで持ち上げたからでもある。織田信長や豊臣秀吉が茶の湯政道を掲げた裏には、唐物や高麗者を戦利品とし、また褒賞の対象としたからであった。
(略)かくして諸大名は時の為政者と親交するためにも茶の湯に励むことになる。(後略)
島津義久が茶の湯に関心がないように見え、義弘が茶の湯熱心なのには政治的な背景があるのではないかという指摘は『尚古集成館研究』「鹿児島ニ召置御書物並富隈ヘ召上御書物覚帳」(松尾千歳)などでも既に為されているが、『島津義弘の賭け』(山本博文)
しかし、その息子の家久の茶の湯に対する態度は父に比べると複雑である。いちおう一般教養としては茶道をたしなんでいるという雰囲気で、父ほどの熱意は感じられない。
徳川幕府には室町幕府風の接待を見せつけることで「島津氏は徳川氏より実は格上ざます」という演出をしようとしたのかも知れないし、幕府側もそれを見抜いて土壇場で一端キャンセルをするという嫌がらせをした可能性がある、と私は考えている。
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