昔懐かしい古民家のミニチュア模型を趣味で制作している有年横尾の島津義弘さん(72)が、昨年開催した作品展成功のお礼に―と代表作1点をこのほど赤 穂市役所に寄贈した。受け取った豆田正明市長は「何とも言えない素朴さが感じられる力作。市民のみなさんにも見てもらえれば」と近く市庁舎1階ロビーに展 示する予定だ。
今回寄贈したのは母屋と納屋、土蔵がセットになった「播州路民家」。播磨地方の典型的な庄屋を再現した力作だ。
島津さんは会社を定年退職後にぶらりと訪れた岡山・八塔寺の古民家風景に心を奪われた。「まさに自分が生まれ育ったふるさとの景色。何らかの形で残したい」とミニチュア古民家を作り始めた。
外観だけでなく、屋根裏など内部構造も実物同様に制作。解体した古民家の壁材を材料に使うなど素材にもこだわっている。模型の周りには農機具のミニチュア、妻の美穂子さん(71)が作った布人形が置かれ、昭和初期の庶民の暮らしぶりが再現されている。
昨秋に市立民俗資料館で開催した作品展には約50日間の会期中、同館の企画展としては「おそらく過去最多」(同館)の3500人を超える来館者があった。
「作品展では多くの人に見てもらえ、作ってきた甲斐があった」と島津さん。「今後は赤穂にも多くあった農村歌舞伎舞台の模型づくりに取り組んでみたい」と抱負を語っていた。(写真は丹精込めた古民家模型を寄贈する島津さん夫妻)
拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
ちょっと古い地方新聞の記事ですが、偶然検索中に見つけたので
島津義弘さんキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!
立派すぎるお名前!ヾ(^^;)
ちなみに有年というのはこの辺り岡山との県境近いですが。
西播磨は島津氏の分家・越前島津家が領地にしていた場所といわれています。最も戦国末期に赤松氏の内紛に巻き込まれて武士としては滅亡したようですが。
…もしかして、一族か?
拙ブログ関連ネタ 二人の島津義弘
http://minpo.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_1e14.html2008年1月12日 (土)
古民家模型を市に寄贈
島津義弘さんキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!
立派すぎるお名前!ヾ(^^;)
ちなみに有年というのはこの辺り岡山との県境近いですが。
西播磨は島津氏の分家・越前島津家が領地にしていた場所といわれています。最も戦国末期に赤松氏の内紛に巻き込まれて武士としては滅亡したようですが。
…もしかして、一族か?
拙ブログ関連ネタ 二人の島津義弘
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かなり有名な歌みたいなので、ご存じの方が多いと思いますが。
聞かれる場合は周囲に人がいないことを確認の上お願いします(^^;)
ちなみに作詞作曲した山本正之氏は『ヤッターマンの歌
気になるのは曲が始まって1分30秒頃に語りが挿入されているのですが、歴史ファン、というか戦国ファンというか江戸時代ファンというか…そういうひとにはおそらく、その内容が引っかかるのである。
「君は知っているか?
今から約300年前、江戸城の中では名古屋弁が流行っていた事実を!」
…これ、冗談じゃなくて、本当に事実でしょ。たぶん(爆)
というのも
・大名のほとんどが織豊大名、つまり尾張・三河出身。
・初代将軍・徳川家康にして、生まれは三河で、幼いときに織田家に人質に取られて尾張弁の中で成長している。つまり尾張弁・三河弁の
流行っていたと言うより、もしかしたら大半の大名の普段の会話は尾張弁だったかも知れない…。そして三河弁がしゃべられることが譜代大名のステータスだったとかヾ(^^;)
以下想像
↓
三河弁でダベリングする徳川四天王(但し井伊直政は静岡弁でやや浮いてたかも)
腹黒い献策を尾張弁で言上する本多正信「方広寺のきゃねのみゃーぶんは大御所様をのろーとる証拠だがや」
徳川幕府への不満をぼそぼそと名古屋弁でつぶやく福島正則
そんな中に仙台弁で乱入、何故か自分の意志を通している伊達政宗
人の会話に入っていけず「ふん!これだから成り上がりは」といいつつ、心の中でははみ子になって泣いている島津忠恒(家久)
…徳川幕府の初期って…泥臭すぎるヾ(^^;)
『pen』ちう雑誌の今月の特集が「戦国武将」らしい(○。○)
痴地人』便乗企画なんだろうな)や戦国グッズというヲタ企画まで、まんべんなくというか、余り戦国時代の勉強には役にたたないような内容ですね(^^;)
しかし
最後の章の「歴ドル」って何やねんヾ(--;)
ちなみに『pen』という雑誌はこういうコンセプトらしい。
戦国時代の基礎知識から、大河ドラマ(『天もっと知りたい戦国武将。
その時、日本と世界の歴史はこう動いた!
天下取りを目指し、覇権を競った名将たち。 戦国の武人の、知られざる才能に迫る。
●伊達政宗●古田織部●細川忠興●上田宗箇●藤堂高虎●宮本武蔵
奇抜な甲冑は、自己主張のデザインだ。
いまや美術品、猛者が愛用した刀・槍・銃。
歴史を変えた合戦にみる、画期的な戦術。
戦に臨む決意のほどが、旗印にひるがえる。
壮麗なる天守は、権力者たちの夢の名残。
●犬山城(愛知県)●姫路城(兵庫県)●松本城(長野県)●丸岡城(福井県) ほか
信長や秀吉の愛した絵師、狩野派の輝き。
名言から読み取る、戦国武将の真実。
家紋のデザインに、込められた意味とは?
知らなかった! 動乱の世の意外な現実。
大河ドラマがもっと楽しくなる、戦国用語集。
味噌がなくては戦にならぬ、その理由は?
往時を彷彿させる、現代の戦祭りを楽しむ。
気分はサムライ、戦国グッズでいざ出陣!
歴ドルが推薦する、「私の好きな戦国マンガ」
しかし
最後の章の「歴ドル」って何やねんヾ(--;)
ちなみに『pen』という雑誌はこういうコンセプトらしい。
クオリティ…新しい視点と美意識で、男たちのデザイン生活を刺激するクオリティマガジン
http://pen.hankyu-com.co.jp/
本能寺、を知らない人は少ないだろう。
なぜなら、天正10年(1582年)、織田信長が明智光秀に突如攻められあっけなく自害に追い込まれたときに宿所としていたのが本能寺だからである。
元々あった場所から、豊臣秀吉の京都大改造計画により現在の寺町御池下るに移転したのも有名な話と思う。
ところが、ここに何故か島津家の縁者のお墓があるとなると、知っている人はかなりマニアなのではないかと思う。
詳しくはこちらのブログ(膏肓記)で。
ブログの方でも紹介されているが、本能寺は幾度も火災にあったためか史料の残存状況が良くないようである。
近年、『本能寺史料 中世篇』
という本能寺所蔵の史料集が刊行されたが、それも日蓮の関連資料が大半で(当たり前だな開祖なんだから)特に織豊時代は本能寺に深く関わった先述の織田信長の書状が数通、その後の再建関係で織田家遺臣の書状が数通などが目立つところ。後は檀家関係の寄贈に関する資料が多い。…いわゆる大商人っぽい人が多いようで、それはそれで興味深いが。
しかし、その中に1点のみ気になる史料を見つけた。
本能寺史料中世編214「妙法蓮華経(版本)奥書」
ちなみに「膏肓記」元記事(南日本新聞、もうちょっとしたら消されるかも)にも紹介されているように、義久後室・種子島時堯女の戒名は「円信院殿妙蓮大姉」あるいは「円信院殿実渓妙蓮大姉」(「御家譜」参照)で、「妙蓮」は種子島時尭女を指す可能性がある。
しかし、法華宗(日蓮宗)信者の女性で「妙蓮」なる戒名を持っている人は、実は非常に多い。法華宗の経典「妙法蓮華経」にかぶるので雅字と思われたのであろう。現に、この本能寺史料にも「妙蓮」という女性は何度も出てくるのである。中世編214と同じ頃の史料では204「本能寺本堂勧進帳」(天正17年頃)の寄進者名簿にも金子3枚を寄付した「一四屋隆正後室妙蓮」、この後も本能寺にたびたび寄付をした(本能寺史料中世編二〇五)建部家の夫人「妙蓮」が登場する。
それでも、私が二一四番文書に出てくる「妙蓮」=種子島時尭女ではないかと疑っているのは、この本能寺に経典を寄付した施主が「藤女」と書かれているからである。島津氏が公式に「源氏末裔」を吹聴し始めるのは一九代当主・光久になってからで、それ以前は「藤原氏」を称していた。具体的例を挙げると「高野山朝鮮役敵味方戦没者供養碑」など。この「施主藤女」は当時京に人質に取られていた島津亀寿本人ではないだろうか。
なぜなら、天正10年(1582年)、織田信長が明智光秀に突如攻められあっけなく自害に追い込まれたときに宿所としていたのが本能寺だからである。
元々あった場所から、豊臣秀吉の京都大改造計画により現在の寺町御池下るに移転したのも有名な話と思う。
ところが、ここに何故か島津家の縁者のお墓があるとなると、知っている人はかなりマニアなのではないかと思う。
詳しくはこちらのブログ(膏肓記)で。
ブログの方でも紹介されているが、本能寺は幾度も火災にあったためか史料の残存状況が良くないようである。
近年、『本能寺史料 中世篇』
しかし、その中に1点のみ気になる史料を見つけた。
本能寺史料中世編214「妙法蓮華経(版本)奥書」
補注によると「折本二〇八帖ノ内、年次ノ明ラカナ第四巻奥書を翻刻シタ。」とあります。奉寄進御経三十部
為悲母妙蓮レイ(「ヨ」条の文字の下に「火」、unicode7075)魂
文禄四暦己未五月十二日
施主藤女敬白
ちなみに「膏肓記」元記事(南日本新聞、もうちょっとしたら消されるかも)にも紹介されているように、義久後室・種子島時堯女の戒名は「円信院殿妙蓮大姉」あるいは「円信院殿実渓妙蓮大姉」(「御家譜」参照)で、「妙蓮」は種子島時尭女を指す可能性がある。
しかし、法華宗(日蓮宗)信者の女性で「妙蓮」なる戒名を持っている人は、実は非常に多い。法華宗の経典「妙法蓮華経」にかぶるので雅字と思われたのであろう。現に、この本能寺史料にも「妙蓮」という女性は何度も出てくるのである。中世編214と同じ頃の史料では204「本能寺本堂勧進帳」(天正17年頃)の寄進者名簿にも金子3枚を寄付した「一四屋隆正後室妙蓮」、この後も本能寺にたびたび寄付をした(本能寺史料中世編二〇五)建部家の夫人「妙蓮」が登場する。
それでも、私が二一四番文書に出てくる「妙蓮」=種子島時尭女ではないかと疑っているのは、この本能寺に経典を寄付した施主が「藤女」と書かれているからである。島津氏が公式に「源氏末裔」を吹聴し始めるのは一九代当主・光久になってからで、それ以前は「藤原氏」を称していた。具体的例を挙げると「高野山朝鮮役敵味方戦没者供養碑」など。この「施主藤女」は当時京に人質に取られていた島津亀寿本人ではないだろうか。

