拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
前回のお話はこちら
以上です。
- 梅北国兼:言わずと知れた「梅北の乱」の首謀者。実際その後地元では梅北神社などで国兼は神として祀られ、またあのルイス・フロイスでさえ国兼に同情的なところを見ると単純に”国賊”として分類していいかどうかは疑問なところではある。
- 田尻但馬:伊作の百姓で島津忠良に取り立てられて侍になったという。国兼に同心し、乱終了後殺害されたという。
- 東郷重彰:入来院重時(島津以久次男、入来院家養子)の家臣。国兼に同心し乱の中で戦死。父を初めとする一族もその後誅殺されたという。
- 荒尾嘉兵衛:田尻但馬の叔父、但馬と共に国兼に味方したため川辺にて殺害される。
- 伊集院三河:田尻但馬と共に国兼に味方し、大隅国姶良にて殺害されたという。
- 伊集院忠棟:有名人に付き詳細略
- 伊集院忠真:忠棟長男。有名人に付き詳細略
- 伊集院小伝次:忠棟次男。
- 伊集院三郎五郎:忠棟三男。肝付兼三と同一人物。
- 伊集院千次:忠棟四男。
以下、庄内の乱当時の伊集院家家臣の説明がある。
- 平田増宗:島津義久家老でその後の琉球出兵副将まで勤めた重臣だったが、慶長15年「野心の咎あり」との理由で暗殺される。が、「本藩人物誌」の傍注ですら「野心ノ訳色々説アリ」とあり、すでに単純に”国賊”とは見られていなかった様子がうかがえる。
- 平田宗次:増宗の嫡男だが、父に先立ち慶長7年に先述の伊集院忠真の暗殺に巻き込まれて殺害されている。なので正確に言えば”国賊”ではないのだが父親の関係でここに分類されてしまったと思われる。
- 平田宗親:増宗の弟。島津義久個人に属していた家老だったが、義久死後に切腹させられる。
- 平田宗次、新八郎:宗親の長男と次男、宗親と共に殺される。
- 比志島国隆:島津家家老・比志島国貞の嫡男。国隆も家老となるが寛永4年、突然罷免されて種子島に流刑、そこで切腹させられる。罷免理由などについて「本藩人物誌」は全く触れていない。
- 島津久慶:島津常久の子で、島津歳久の曾孫に当たる。寛永11年~寛永18年まで島津家家老、慶安4年没。これだけでは何で”国賊”にされるか分からないが、次の項目でその理由がはっきりする…。
- 島津久予(久憲):久慶の養子(実は久慶の甥(久慶妹の子))。「本藩人物誌」では「久慶の死後、久予が久慶の数々の悪事を島津光久に言上したため、久慶を日置家の系図から除いた」とする。ちなみにその後久憲は実家の喜入家に戻ったがその後種子島に流刑となりそこで死んだと「本藩人物誌」にはある。
- 陽春坊:加治木の山伏で鎌田政重女の要望により島津光久を呪い殺そうとしたことがばれ、殺害されたという。
以上です。
拙HPでもお世話になっている「本藩人物誌」(『鹿児島県史料集』13)は江戸時代後期に書かれた戦国時代~江戸時代初頭の島津家家臣の人名事典です。人名は苗字を「いろは」の順で並べています。同じ音の苗字の場合は漢字の画数じゃなくてその一族の権勢によって優先度が決まるみたい(^^;)。例えば「い」なら伊集院氏が一番で伊地知氏や伊勢氏は後回しです。
…ですが、このいろは順から外れる人物が存在します。
最も”反逆者”でも後に島津家に帰順した人は先のいろは順の方にも伝記が載っているのでややこしい。
では、江戸時代後期”島津家の反逆者”と見なされた人たちはどういう人たちだったのか…。その名簿をここに公開。
…ですが、このいろは順から外れる人物が存在します。
- 女性
- ぼうさん
- 島津家に反逆した人(○。○)
最も”反逆者”でも後に島津家に帰順した人は先のいろは順の方にも伝記が載っているのでややこしい。
では、江戸時代後期”島津家の反逆者”と見なされた人たちはどういう人たちだったのか…。その名簿をここに公開。
「戦国いい話悪い話」などでも紹介されているので、ご存じの方も多いかと思いますが
寛永7年(1630年)10月、島津亀寿が亡くなったときに島津家久(忠恒)は江戸にいたが、亀寿付きの女中とおぼしき”おいま”という女性に手紙を送った。そこには何故か超不仲であった亀寿への挽歌が書いてあったのだが…その内容はとんでもない物だった。
ところが、「島津家メモ」のこの記事によると、こういう意見があったそうである。つまり、伊地知季安が濁点を写し忘れたのではないか?という物。
実はこういうことは割とある話なのである。
例えば、島津歳久の末裔家の旧蔵文書であった「日置島津家文書」でも、「薩藩旧記雑録」に所収された物は文章として意味が通らなかったのだが、その後、尚古集成館が買い取った文書に「薩藩旧記雑録」と所収されている文書の原書があり、よくよく見るとシミのように見えていたのが濁点だった、それで読み直すと意味が通ったという物が1点あるそうである(「尚古集成館所蔵の日置島津家文書について」『尚古集成館紀要』4)。
そうなると、「島津家メモ」で紹介されているような、まあ平凡というか無難な内容の和歌になる。
しかし、気になるのは最初書いたとおり、超不仲の元正室の死に際して何で挽歌を送ったのか?ということ。挽歌を送るくらいなら、3回忌の法要ちゃんとしろ厨恒!と言う所だがヾ(^^;)
もしかしたら挽歌を送るついでに、”おいま”に何かの探りを入れていたのではないかという気がするが…残念ながらこの挽歌に対してのおいまの返信などが残っていないので、家久(忠恒)が何を企んでいたのかはなんとも分からないのだが…。
この後、亀寿が父・島津義久から相続した島津家の宝物を家久(忠恒)の家老・山田有栄に引き渡したときの担当が”おいま”であるところからみて、”おいま”は宝物の管理を担当していた重要な女中なのではないかと思われる。この宝物は元和8年(1622年)に家久の次男である虎寿丸(後の島津光久)に相続されることに決定していた物の、寛永7年当時はまだ亀寿が保管していた。宝物の状況は島津家当主であった家久(忠恒)には非常に気になるところであっただろう。
敢えて強引に推測すると、実は亀寿への挽歌は建前であって、本当の用件は「島津家宝物のこと」だったのでは無かろうか。亀寿の死後半年でそれらの宝物は島津家久(忠恒)の家老が回収した-つまり亀寿の遺志に反して島津家の宝物は光久ではなく家久(忠恒)の所有に帰してしまったことからそう考えてみたが、いかがであろうか。
寛永7年(1630年)10月、島津亀寿が亡くなったときに島津家久(忠恒)は江戸にいたが、亀寿付きの女中とおぼしき”おいま”という女性に手紙を送った。そこには何故か超不仲であった亀寿への挽歌が書いてあったのだが…その内容はとんでもない物だった。
この和歌については家久(忠恒)ホンネストレートに出しすぎだろという内容なのでヾ(--;)、桐野作人氏のブログのこの記事でもやりとりしたことがある。が、結論は出なかった。あたし世の 雲かくれ行 神無月 しくるる袖のいつはりもかな
(この10月に亀寿は亡くなってしまった、涙で袖は絞れるほどである…というのは嘘!)
ところが、「島津家メモ」のこの記事によると、こういう意見があったそうである。つまり、伊地知季安が濁点を写し忘れたのではないか?という物。
実はこういうことは割とある話なのである。
例えば、島津歳久の末裔家の旧蔵文書であった「日置島津家文書」でも、「薩藩旧記雑録」に所収された物は文章として意味が通らなかったのだが、その後、尚古集成館が買い取った文書に「薩藩旧記雑録」と所収されている文書の原書があり、よくよく見るとシミのように見えていたのが濁点だった、それで読み直すと意味が通ったという物が1点あるそうである(「尚古集成館所蔵の日置島津家文書について」『尚古集成館紀要』4)。
そうなると、「島津家メモ」で紹介されているような、まあ平凡というか無難な内容の和歌になる。
しかし、気になるのは最初書いたとおり、超不仲の元正室の死に際して何で挽歌を送ったのか?ということ。挽歌を送るくらいなら、3回忌の法要ちゃんとしろ厨恒!と言う所だがヾ(^^;)
もしかしたら挽歌を送るついでに、”おいま”に何かの探りを入れていたのではないかという気がするが…残念ながらこの挽歌に対してのおいまの返信などが残っていないので、家久(忠恒)が何を企んでいたのかはなんとも分からないのだが…。
この後、亀寿が父・島津義久から相続した島津家の宝物を家久(忠恒)の家老・山田有栄に引き渡したときの担当が”おいま”であるところからみて、”おいま”は宝物の管理を担当していた重要な女中なのではないかと思われる。この宝物は元和8年(1622年)に家久の次男である虎寿丸(後の島津光久)に相続されることに決定していた物の、寛永7年当時はまだ亀寿が保管していた。宝物の状況は島津家当主であった家久(忠恒)には非常に気になるところであっただろう。
敢えて強引に推測すると、実は亀寿への挽歌は建前であって、本当の用件は「島津家宝物のこと」だったのでは無かろうか。亀寿の死後半年でそれらの宝物は島津家久(忠恒)の家老が回収した-つまり亀寿の遺志に反して島津家の宝物は光久ではなく家久(忠恒)の所有に帰してしまったことからそう考えてみたが、いかがであろうか。

