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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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時々拝見しているこちらのブログを見て驚いたのだが

まさか現代の外交を扱っているところで元寇と朝鮮出兵ネタが出てくるとは思いもよらなかった。

で、ブログ主さんの質問にあったが
秀吉の朝鮮出兵

についての、「軍事戦略」と「大戦略」、それに日本側の「世界観の変化」(とくに当時の政権の視点の変化)や「技術」について論じたものをぜひ教えていただきたと思っております。
<※文章ママ>
しかし、戦後(特にこの2,30年)ぐらいの思想の流れ(特に半島関係を持ち上げる?流れ)が原因と思われますが、朝鮮出兵を軍事戦略から見た学術論文って、管見では無いような気がします。コメントに上がっていた旧日本軍の戦史物ぐらいでしょうかねえ。

あちらのブログ主さんが入手されたという
●戦争の日本史(16) 文禄・慶長の役 中野等
●秀吉の朝鮮侵略 (日本史リブレット) 北島 万次
●文禄・慶長の役―空虚なる御陣  上垣外 憲一
のうち、一番下のは読んだことがあります。こなれた文章で読みやすいのです が 参考文献にあの問題の「武功夜話」を結構使ってられるのがね…。
※ちなみに上垣外氏が上記の本を上梓されたときには、「武功夜話偽書問題」はまだそんなに話題になっていませんでした。
北島氏は朝鮮出兵専門学者ヾ(^^;)といってもいいかたで、上記の本は存じませんでしたが、他のを読んだことがあります。…で
北島さんという人には何か怨念のようなものを感じました(苦笑)
はははは…(以下コメント自粛)

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夫・美務王の出世にいらいらしていた三千代に近づいてきた男がおりました。

今更言う必要もないのでしょうが、申し上げますと、彼の名は 藤原不比等 といいました。

異論もありますが、私は藤原宇合(うまかい)誕生後に不比等最初の妻・蘇我娼子が亡くなったと考えております。持統天皇7年(693年)の事です。
これは、不比等にとって、政治上かなりのダメージだったと私は考えています。

┌─────天武天皇
└天智天皇  ├──────────草壁皇子
├───鵜野讃良皇女(持統天皇)
┌蘇我石川麻呂─遠智娘
  |
└蘇我連子───蘇我娼子(媼子)┌藤原武智麻呂
├―――───┼藤原房前  
藤原不比等   └藤原宇合



藤原不比等は妻方を通じて、持統天皇と親戚だったわけですね。ところが!蘇我娼子が亡くなったことでパイプが切れたわけです。
実は藤原不比等の持統天皇時代の政治力というのがどれほどの物かを示す史料はあまりないのですが、
(1)後の文武天皇時代に不比等の娘(藤原宮子)が唯一の文武天皇「夫人」となって、3人いた文武天皇妃の最高位を占めたこと、
(2)後世正倉院に納められた「国家珍宝帳」に草壁皇子より刀を不比等に賜った記事があること
などから、かなりの物があったと推測されてます。
これは不比等がかなりの政治的才能に恵まれていたことも一因でしょうが、不比等が持統天皇の実家に連なる人間であったことも背景にあるのでは?と私は考えております。

ともかく、不比等は亡き妻に変わる持統天皇とのパイプを探すわけです。
で、「これやこれ!」ヾ(--;)とお目に留まったのが県犬養三千代というわけです。
県犬養三千代は、身分こそ高くありませんが、持統天皇の信頼深い女官というわけで、十分蘇我娼子に変わりうるパイプだったという事です。

一方、三千代にしても、今の夫・美務王にしがみついて(ヲイ)いても、これ以上の上昇は望めそうもないのが見えていました。
で、三千代はどうしたかというと
あっさり夫を捨てて、藤原不比等に乗り換えてしまうのです(○。○)。
美務王は、まだ筑紫の太宰府に単身赴任の状態でした。世間の人々の同情は美務王に集まったようです。『万葉集』に、美務王に同情する長歌が一首残っております。

三千代が、夫を捨てて藤原不比等へ走ったのは、2人の間に始めて産まれた娘の誕生年が701年(大宝元年)であることから、文武天皇4年(700年)よりさかのぼることになります。
実はこの娘が藤原安宿媛(あすかべひめ)、後の光明皇后その人であります。

実は、藤原安宿媛が産まれた年というのは、藤原氏繁栄の基礎が築かれた年とも言えます。
まず、藤原不比等が中心となって作成した日本初の律令「大宝律令」が発布されます。
また、先程述べた藤原宮子が文武天皇との間に首皇子(後の聖武天皇)を産んだのもこの年です。
そして、県犬養三千代はこの後の藤原氏の行方に深く関わっていくことになります。

これは岸俊男氏の憶測ではあるのですが、
・三千代のこれまでの宮廷に築いた地位
・光明皇后と聖武天皇の生年が同じ事
・聖武天皇の母・藤原宮子が聖武天皇出産後病気となり子育てが出来ない状態になったこと
から考えて、県犬養三千代が聖武天皇の乳母となり養育に携わった可能性が高いことを示しました。おそらく、その可能性は高いでしょう。
そのため、三千代の宮廷内での権力は、更に絶大な物となったと思われます。

ところが、三千代の仕えた持統天皇の最愛の孫・文武天皇は慶雲4年(707年)わずか25歳で亡くなります。
文武天皇の子供達はまだ小さく、とても天皇にはできません。
更に、天武天皇の皇子達がまだ健在です。

┌穂積皇子(母・蘇我大ぬ娘)
├長皇子(母・大江皇女)
├舎人皇子(母・新田部皇女)
天武天皇─┴新田部皇子(母・藤原五百重娘)

├──草壁皇子 ┌氷高(ひだか)内親王(後の元正天皇)
┌持統天皇  ├───┼<吉備内親王>
└─────元明天皇 └文武天皇───┬首皇子(後の聖武天皇、
│    母・藤原宮子)
├広世皇子(母・石川刀子娘)
└広成皇子(母・石川刀子娘)

注1:蘇我大ぬ娘の「ぬ」は 草かんむりに「廴」に「生」
注2:吉備内親王の母が元明天皇かどうかには異論もある

文武天皇の母・阿閉(あへ)皇女は、文武天皇の子に天皇位を伝えるべく、天皇として即位します。これが元明天皇です。

実は元明天皇が即位するには、いくつかの障害がありました。
今までの女帝は天皇の皇后でしたが、元明天皇の夫・草壁皇子は皇太子ではありましたが、天皇にはなっていません。そこで、文武天皇が重体になると草壁皇子には「日並知皇子尊(ひなみしのみこのみこと)」という尊号が追号されます。
更に、元明天皇が即位するときに、天智天皇が言ったという
「不改常典(かわらぬところのつねのみことのり、と読む)」
なる物を持ち出します。これは、天皇位は親から子へ受け継ぐことが正当である、といった内容の物だったようです。
こうして元明天皇の即位の正当性を強調したのです。

いくら元明天皇の父が天智天皇とはいえ、こんな大昔の忘れ去られた(無かったと言う説すらある)法を持ち出すのは、天智天皇の忠臣・藤原鎌足を父に持つ藤原不比等に違いないでしょう。
また、不比等の妻・県犬養三千代も元明天皇の補佐に懸命であったに違いありません。三千代は持統天皇に仕えることで、今まで出世してきました。ここで持統天皇の系統が途絶えることは、三千代にとってもマイナスになるのです。

…つづく

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県犬養三千代は、美務王と結婚、彼との間に3人の子を産みます。

美務王        ┌葛城王(後の橘諸兄):天武天皇13年(684年)生
│            │
├───────┼佐為王(後の橘佐為)
│             │
県犬養三千代 └牟漏女王:推定 持統6年 ~文武2年 頃生まれ
                   (693年)      (697年)

葛城王は『公卿補任』などに年齢の記録が残ってますから(天平宝字元年(757年)74歳没)、美務王と三千代の結婚は682年から前にさかのぼることがわかります。
また、三千代は天武天皇の頃から宮仕えしていたよう(『続日本紀』によるですから、このころ二十歳前後だったと推測できます。
※参考 後の律令の規定によると、官人の出仕は20歳から。但しこれが女官に当てはまるかどうかは不明です
後の二人についてはいつ産まれたのか?という事を示す史料は残っておりま
せん。ただ、牟漏女王が最初の子供を産んだのが和銅6年(713年)なので、そこから持統天皇末年頃の生まれであろうと推測できるばかりです。

また、三千代が葛城王を産んだのは684年なので、この前後は大きなお腹でしんどい+育児(^^;)で、宮仕えどころじゃないと考えられる。
ということで、産休明けの(^^;)天武天皇14年頃から宮仕えしたと思われますが、この年は問題の年であります。

三千代が葛城王を産んだ前年に大津皇子が朝政を許されます。これをどう評価するか歴史家の間で評価が分かれていますが、ともかく、大津皇子が政界にも正式デビューしたことは事実であります。
これを一番腹立ててみていた人がおりました。そう!鵜野讃良(うののささら)(※実際は「鵜」の字は”廬”に”鳥”)皇女こと、後の持統天皇であります。
息子・草壁皇子の地位を揺るがすライバルの成長に持統天皇、心穏やかならぬ物があったでしょう。
その動揺していた宮廷に県犬養三千代はやってきたのです。この時の三千代がどういう働きをしたのか?それを示す史料は何もありません。
おそらく推測できるのは、この時に三千代は持統天皇の味方となり十二分の働きを果たしたらしいことです。

大津皇子は天武天皇の死後、謀反の疑いで自殺に追い込まれます。(朱鳥元年(686年))
しかし、持統天皇が期待をかけた草壁皇子もまた持統称制3年(689年)に28歳の若さで亡くなり、持統天皇は孫・軽皇子(後の文武天皇)の即位を実現させるために、正式に天皇となります。そして、夫・天武天皇が出来なかった”中国風の都”の実現を行うのです。これが「藤原京」と言われています。
この藤原京より、不思議な木簡が出土しています。
「三千代賜煮(以下欠損)」(三千代に煮物を賜る)
という物です。三千代という名前はこの時代そうそうある名前ではなく、この「三千代」とは「県犬養三千代」と同一人物であると推測されております。
つまり、三千代は、天皇より食べ物を下賜されるほど高い地位を藤原京時代には得ていたようなのであります。
ここまで高い地位を保った背景には、三千代が持統天皇に絶大なる信任を得ていたことが考えられるでしょう。

三千代はこのようにして、持統天皇の腹心としての地位を固めていきますが、
その一方で不満に思っていたことがあったようです。
夫・美務王が思ったより出世しなかったことであります。
それどころか美務王の父・栗隈王が筑紫太宰だったことが逆に影響し、美務王は筑紫の役人から離れられませんでした。
これでは、自分の権力と言ってもせいぜい後宮で根回しが出来るという程度で、自分の子供や県犬養一族の出世にすらつながらないではありませんか!

こういう不満を抱えていたらしい三千代に近づいた男がおりました。彼の名は…

…つづく_(。_゜)/

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地上波はほとんど見ないので、今頃になってこんな番組があることを知る…
戦国鍋TV

あの織田信長が何故かスナックのママだったりとか(○。○)
賤ヶ岳の七本槍がまるでジャニタレみたいになっていたりとか(^^;)
今流行の歴女ブームに便乗した戦国時代モチーフのギャグマンガといった内容のようです。
ただ、個人的にはキャラクターデザインは好き好みが分かれるかなーと感じました。

ちなみに独立系UHFチャンネルでの放映なので、日本国内でもかなりの人が見られないかも知れないという…
テレビ神奈川テレビ埼玉千葉テレビサンテレビの電波が入る地域にお住まいの方はお試しを。
独立系UHFチャンネルでもKBS京都びわこ放送では放送してないようだ…。

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『続日本紀』によると
和銅元年(708年)、元明天皇主催の宴会で天皇自らより杯を賜り、その杯の中に入っていた高級果物「橘」にちなんだ姓を賜った人物がいました。
天皇自ら杯を賜るだけでも大変な栄誉なのに、更に苗字すら賜ったというのだから、この人物がいかに破格の待遇を受け、また元明天皇の信頼厚かったことが伺えます。
が、この人物は驚く無かれ「女性」でありました。
彼女の名を 県犬養三千代(あがたのいぬかい・みちよ)といいます。

彼女がいつ産まれたかは不明であります。
彼女の父は県犬養東人(あずまひと)といい、同族の県犬養大伴(おおとも)が「壬申の乱」に参加して勲功を建てたようであります。が、過ぎること天平宝字元年(757年)に「壬申の乱」の兵士が再評価されましたが、その時に大伴の名前はないところから考えると、とりあえず「参加した」と言うだけで、大した軍功は挙げられなかったと思われます。
しかし、それまでの記録に全く「県犬養」氏は登場しなかったのに対し、このことで中級官人としての地位をつかんだようです。天武・持統期になると『日本書紀』にたまにではありますが「県犬養」の字が見えるようになります。

そもそも「○犬養」氏とつく氏族は多く、彼らの多くは「門号氏族」といって、宮殿の各門を守るのが仕事でした。
その役目故に”武力”として頼まれることもあり、例えば「乙巳の変」(645年・一般的に「大化改新」というとこの事件だけを思いつく人も多い)で、蘇我入鹿切り込み隊に加わっていた一人に海犬養氏出身者がいました。
海犬養氏は県犬養氏とは同族といわれています。
話が脱線しましたが、県犬養氏も例外ではなく、現在京都御所で「安嘉門(あんかもん)」といわれている門は、元々は県犬養氏の一族で死守していた門でありました(「安嘉」という門の名前も「県犬養(あがたいぬかい)」がなまった物と思われます)。
要するに県犬養氏は余り有力でない、むしろ中下級の豪族だったのです。

中級豪族・県犬養東人の娘として生まれた三千代は、成人してから宮中に仕え始めたようです。

天武天皇死後、女帝・持統天皇の時代になると、見てくれの良さではなくて、実際に女帝の手となり足となり働く実務派の女官が大量に必要となってきました。
例えば
天武天皇など男性天皇の場合、後宮女官=お妾さん候補?!でもある(最ものべつまくなしに手を付けたわけでなく、地方豪族からやってくる女官-采女(うねめ)-にお手が付くことが多かったようです)そのため、女官にも美貌が要求されたと考えられます。
一方
女帝は女性(当たり前の話だけど)。政務を行う上で特定の男性を近づけることで、変な噂が広まったりすることを恐れたためであろう、女官を通じて命令のやりとりを行ったのです。
そして、県犬養三千代はそれら実務派女官の末端として働き始めたと考えられます。

また、県犬養三千代は、このころ美務王(みぬおう)という皇族と結婚しています。
但し、皇族といってもこの頃には非主流になっていた系統の出身でした。

<参考系図>
敏達天皇―難波皇子―大派王―栗隈王―美務王

県犬養三千代

しかし、美務王の父・栗隈王(くるくまおう)は、「壬申の乱」の時、筑紫大宰(つくしのおおみこともち)といい、後の太宰師(だざいのそつ・太宰府の№1)の役人を務めていたこともある人物です。
またその時には近江朝(大友皇子側)に味方しなかったことから、天武天皇の覚えもめでたいものがあるだろう…。
そういった考えの上で、県犬養三千代は美務王の妻となったと推測されます。

これだけでも、県犬養三千代が、単なる「中級貴族の娘で女官」というだけではなく、既にこの時点で大変権勢欲が強い女性だったことが伺えましょう。

…つづく

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