拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
2月9日は義久の誕生日です 旧暦換算だけどな
おめでとうございます!
今、義久が生きていたら478歳になります!…何か無理ありすぎる導入である…
気を取り直して
文禄五年(慶長元年)春頃に詠まれた物と推測される和歌3首+連歌1首(?)です。
前々回、前回の更新分と関連があります。
この続きにおそらく前回UP分の和歌と同じ物が書かれた物と思われます。
おめでとうございます!
今、義久が生きていたら478歳になります!…何か無理ありすぎる導入である…
気を取り直して
文禄五年(慶長元年)春頃に詠まれた物と推測される和歌3首+連歌1首(?)です。
前々回、前回の更新分と関連があります。
「義久公御譜中」
「此本在御文書方」
近衛殿薩州鹿児嶋の御旅宿にての御会に、
梅交松芳
松か枝にかハせる梅のにほひこそ
千里の春のかさしなりけり
「同」
当座藤埋松
色かへぬ松のみとりもかくろひて
空に浪たつ藤の花かな
「同」
又御庭のさくらに歌あり、
春とてもつもりなからに消やらぬ
雪はちりしく花の庭哉
「同」
とミのくまわたましの連歌に、
松かけのすまひ涼しき岩井かな 龍伯
近衛信輔公薩摩へさせんたりといへとも、京儀とゝのをり、御帰洛之折節、大隅冨隈にて和歌の御会有、御懐紙末に記するものなり、
「正文有之」
詠松陰新凉倭歌
「此題之和歌、左に載せ置故略」
(『薩藩旧記雑録 後編』3-82)
この続きにおそらく前回UP分の和歌と同じ物が書かれた物と思われます。
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1998年にNHKで放送された大河ドラマです
が、この年は多忙でほとんど見られず。最終回は何とか見て投げやりなラストに「( ゚ Д゚)ポカーン」とした記憶はありますがヾ(--;)
全話マスターテープが残っているのが確実であるにもかかわらず、なぜかビデオ化もDVD化もされず、NHKアーカイブスでも見られないらしい…
が!2010年の暮れからCS「時代劇専門チャンネル」で全話再放送決定!
ということで拝見させて頂きました。
本放送時にはかなり低視聴率(それでも平均視聴率は21%あったらしい)が話題になっていた記憶がありますが、実際に見た感想は
が、この年は多忙でほとんど見られず。最終回は何とか見て投げやりなラストに「( ゚ Д゚)ポカーン」とした記憶はありますがヾ(--;)
全話マスターテープが残っているのが確実であるにもかかわらず、なぜかビデオ化もDVD化もされず、NHKアーカイブスでも見られないらしい…
が!2010年の暮れからCS「時代劇専門チャンネル」で全話再放送決定!
ということで拝見させて頂きました。
本放送時にはかなり低視聴率(それでも平均視聴率は21%あったらしい)が話題になっていた記憶がありますが、実際に見た感想は
たまに拝見させて頂く某掲示板より
※一部を当方判断により伏せ字にしております 余り意味ないけど(;¬_¬)
※下腺は当方による補足
梅原猛氏がかつて阿武山古墳を中臣(藤原)鎌足の墓と断定したのは、確か九条家に伝承されていた話が根拠の一つだったと記憶しているが(出典は『藤原鎌足
』だったかな)、もしかしたらこのことと関係あるのかも。
参考ブログ:歴史と地理な日々「坂上田村麻呂の墓が特定できた件」
鎌足桜 投稿者:□□ 投稿日:2011年 1月30日(日)00時29分2秒
○○さん
黒田智氏『藤原鎌足、時空をかけるー変身と再生の日本史』に、京都上善寺所蔵「宇賀弁才天十五童子像」に触れて、次のような記述があります(同書27頁~)。
「宇賀弁才天十五童子像」。弁才天は、七福神のひとりとしておなじみ、池畔に棲む白蛇を使いとする神さまである。インド・中国をへて日本にわたってきたと きは、福徳・延寿・財宝をつかさどる女神であった。中世の日本では、琵琶をもつ楽神妙音天としてつとに知られるようになるが、もうひとつきわめて特異な弁 才天信仰が展開していた。滋賀県竹生島と奈良県天河社を中心とする宇賀弁才天である。
上善寺所蔵「宇賀弁才天十五童子像」は、十四世紀ころの制作になる。画幅の中央には、ひときわ大きな宇賀弁才天が蓮華座に座す。弁才天は、宝剣や輪宝、 弓、宝珠などをとる八臂の女神姿である。その頭上には、宇賀神という小さな神像がいる。宇賀神は、とぐろを巻いた白い蛇体の上に白髪の老翁姿の頭部をもつ 一風変わった姿をしている。(中略)
永正七年(一五一〇)九月、多武峰に安置されていた鎌足木像に破損が発見された。いわゆる破裂である。この一連の騒動のなかで、九条尚経は、鎌足の墓の上 とともにあらわれた白蛇の奇瑞にふれて、鎌足とダキニ天・宇賀弁才天とが同体であるとする独自の説を開陳している。鎌足が築いた宇賀塚の地に建てられた九 条邸の鎮守がダキニ天であり、弁才天でもあるという。どうやら、こおころ九条家では、近衛家との正嫡争いのなかで、鎌足をめぐるあらたな説話がつくり出さ れていたようである。
宇賀神は穀物神で、稲荷信仰ともかかわりが深く、大地の精霊であるダキニ天ともむすびついている。中世の弁才天は、宇賀神と習合することでダキニ天とむす びついていた。先に述べたように、ダキニ天は、「摂?の縁起」によって鎌足と深い関係をもっていた。上善寺所蔵「宇賀弁才天十五童子像」に鎌足像が描き加 えられたのは、あるいはこうした九条家の言説を背景とするものなのではあるまいか。
※一部を当方判断により伏せ字にしております 余り意味ないけど(;¬_¬)
※下腺は当方による補足
梅原猛氏がかつて阿武山古墳を中臣(藤原)鎌足の墓と断定したのは、確か九条家に伝承されていた話が根拠の一つだったと記憶しているが(出典は『藤原鎌足
参考ブログ:歴史と地理な日々「坂上田村麻呂の墓が特定できた件」
文禄5年(慶長元年)7月頃の歌会で詠まれた物です。
前回分と関係があります。
なお、義久以外の列席者の物もかなりの量ありますが、掲載します。
「沙弥慰畋」は川上久隅、「沙弥玄与」は阿蘇惟賢、「沙弥紹剣」は樺山忠助、「沙弥為舟」は新納忠元、「沙弥元巣」は伊集院久信、「大炊助久正」は喜入久正、「左衛門尉増宗」は平田増宗、「雅楽助経宣」は村田経宣、「兵衛尉宗親」は平田宗親(平田増宗の弟)、「右衛門尉豊信」は八木豊信と思われます。「沙弥宗察」「沙弥与進」は人物特定できませんが義久の歌会関連では常連のメンバーで頻出しているのでちょっと記憶にある方も多いかと。「大蔵少輔長治」「左衛門尉長家」「沙弥珠長」「沙弥宗運」「沙弥宗哲」…は誰か分かりません_(。_゜)/しかし、長治、長家は信輔(近衛信尹)、義久の次に歌を詠んでいるところから見て信輔の近臣ではないかと思われます。
この歌会の一番の注目人物は何と言っても8番目に歌を詠んだ「沙弥幸侃」こと伊集院忠棟でしょう。列席者の大半が義久に近い人物ばかりであることからみて、この頃はまだ義久の信頼を置かれていた近臣として列席していたとも考えられます。が、この歌会の開催場所が文禄4年の太閤検地の後に伊集院忠棟領となった都城であるところからみて、”接待場所の当主”として参加した物とも見られます。
どちらにしろ、この和歌はもしかしたら現在に残る唯一の忠棟作の和歌かも知れませんね。
前回分と関係があります。
なお、義久以外の列席者の物もかなりの量ありますが、掲載します。
既に何回もご登場されている方もいらっしゃいますが、「在本田助之丞蔵文書中」
於庄内都城 近衛殿様御興行之和歌
詠松蔭新凉倭歌 信輔
立帰る名残こそあれ松かけはすゝしき秋のやとりとおもへハ
詠松蔭新凉倭歌 竜伯
あつき日の影も忘て馴なるゝ松のしつえに秋風そふく
秋日同詠松蔭新凉和歌 大蔵少輔長治
とひよるもかわらぬ友と松陰にかたろふ秋の袖のすゝしさ
秋日同詠松蔭新凉倭歌 左衛門尉長家
秋風をたもとにふれてあかなきハなミ木の松の下すゝミかな
詠松蔭新凉和歌 沙弥慰畋
見舞
ときわなる松とやハ見ん秋きてのかけハありしにかわるすゝしさ
秋日同詠松蔭新凉和歌 沙弥玄与
枝しけき松の下露落添て衣手すゝし秋の初風
詠松蔭新凉和歌 沙弥紹剣
きゝて猶すゝしき宿の松陰に吹もたゆむな秋の初風
詠松蔭新凉和歌 沙弥幸侃
わするなよとひよる松の下すゝミ千とせの秋ハよしやふるとも
詠松蔭新凉和歌 沙弥珠長
すゝしさをまねきし御代の名にしおハヽ玉松かえの庭の秋かせ
詠松蔭新凉和歌 沙弥為舟
すミよしや西に秋風松吹ハ涼しさよするおきつ白波
詠松蔭新凉和歌 沙弥宗運
植そへし真砂の庭の松かけに千とせの秋もこもるすゝしさ
詠松蔭新凉倭歌 沙弥宗哲
世を遠くみそのゝ松の枝も葉もならさてすゝし秋の夕風
詠松蔭新凉和歌 沙弥元巣
あふくてふ君か千とせの松かけのすゝしさならす宿の秋風
詠松蔭新凉倭歌 沙弥宗察
松の葉のかわらぬかけの梢より吹きてすゝし秋の初かせ
詠松蔭新凉倭歌 沙弥与進
すゝしさそきのふにもにぬ松の色ハ秋を見せたる木かけならねと
秋日同詠松蔭新凉和歌 大炊助久正
いさ清きみきりの松の声立てすゝしき秋やさそひきぬらん
秋日同詠松蔭新凉倭歌 左衛門尉増宗
松陰のすゝしさもやゝ音かへて荻の上葉にかよふ秋かせ
秋日同詠松蔭新凉倭歌 雅楽助経宣
立寄てけにとことハの松陰も秋の夕ハなをそすゝしき
秋日同詠松蔭新凉和歌 左衛門督道武
風の音涼しさそへて色かへぬ松の木かけも秋をこそしれ
秋日同詠松蔭新凉倭歌 兵衛尉宗親
ゆふへ
秋来ぬと音にしらする松風をふるゝ夕卩の袖そすゝしき
秋日同詠松蔭新凉倭歌 右衛門尉豊信
秋来ぬと音吹かへてすゝしさハ今一しほの松のかけかな
(『薩藩旧記雑録 後編』3-83)
「沙弥慰畋」は川上久隅、「沙弥玄与」は阿蘇惟賢、「沙弥紹剣」は樺山忠助、「沙弥為舟」は新納忠元、「沙弥元巣」は伊集院久信、「大炊助久正」は喜入久正、「左衛門尉増宗」は平田増宗、「雅楽助経宣」は村田経宣、「兵衛尉宗親」は平田宗親(平田増宗の弟)、「右衛門尉豊信」は八木豊信と思われます。「沙弥宗察」「沙弥与進」は人物特定できませんが義久の歌会関連では常連のメンバーで頻出しているのでちょっと記憶にある方も多いかと。「大蔵少輔長治」「左衛門尉長家」「沙弥珠長」「沙弥宗運」「沙弥宗哲」…は誰か分かりません_(。_゜)/しかし、長治、長家は信輔(近衛信尹)、義久の次に歌を詠んでいるところから見て信輔の近臣ではないかと思われます。
この歌会の一番の注目人物は何と言っても8番目に歌を詠んだ「沙弥幸侃」こと伊集院忠棟でしょう。列席者の大半が義久に近い人物ばかりであることからみて、この頃はまだ義久の信頼を置かれていた近臣として列席していたとも考えられます。が、この歌会の開催場所が文禄4年の太閤検地の後に伊集院忠棟領となった都城であるところからみて、”接待場所の当主”として参加した物とも見られます。
どちらにしろ、この和歌はもしかしたら現在に残る唯一の忠棟作の和歌かも知れませんね。
本日は
島津義久公400回忌 但し旧暦カウントなんで実際はズレが(;¬_¬)
です。
諸般の事情で鹿児島の墓前に行けないのが、本当に残念です…
…
本当に残念なんだからな!ヾ(^^;)
…何か説得力が無くなってきたところでお歌の紹介
順番の都合上、1月21日前後に詠まれた物にならなかったのがちょっと残念ですが
伝統ある腐れ縁昔から縁の深い関係でしたので、信輔も手厚いもてなしを受けて悠々自適の生活だったようです。
おそらくこの信輔が帰京する際の冨隈の宴会で起きたのが拙本宅HPで紹介したこの事件かと思われます。
島津義久公400回忌 但し旧暦カウントなんで実際はズレが(;¬_¬)
です。
諸般の事情で鹿児島の墓前に行けないのが、本当に残念です…
…
本当に残念なんだからな!ヾ(^^;)
…何か説得力が無くなってきたところでお歌の紹介
順番の都合上、1月21日前後に詠まれた物にならなかったのがちょっと残念ですが
「近衛殿」=「近衛信輔」とは近衛信尹のこと。文禄3年から3年間薩摩国坊津に流罪となっていました。…最も「流刑」といっても近衛家と島津家は「義久公御譜中」
近衛殿西国になかされ給へとも、京儀とゝのをり、御帰洛の折ふし、大隅冨隈にて和歌の会あり、懐紙は別紙にあり、
「此本在御文書方」
当座薄露
ゆく袖をむすひもとめよいとすゝき
すゑ葉の露は玉とちるとも
「同」
寄鏡神祇
神かきのうちゆたかにもうつしをく
こゝや代々のかゝみなるらん
「同」
慶長元年七月六日、 近衛信輔公御帰京の首途なり、其路次にて、かめにさす花に御口号あり、其座にて、
花\/をわけにし野辺の帰るさや
たをりもて来てかめにさすらん
近衛信輔公解纜於日州志布志、而帰京也、
(『薩藩旧記雑録 後編』3-84)
おそらくこの信輔が帰京する際の冨隈の宴会で起きたのが拙本宅HPで紹介したこの事件かと思われます。

