拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
ネットで一時期よく見かけたのだが、要は表題のような話。
…いや、もっと脚色?されていて
「石田三成が薩摩の農民にいろいろ技術指導して、石田三成は農民達から感謝されていた」
というのもあったような。
…しかし、同時代史料はおろか、後世の説話などの類でもそういう物を見たことがないのだ、今のところ。
司馬遼太郎は、何を元にこういう話を考えたのだろうか…史料フェチだったそうだから、元ネタはあったと思うのだが。
それどころか、「石田三成は鹿児島の文化財破壊に噛んでるんですが?!」という史料を見付けてしまったりした。
※史料については『鹿児島県立短期大学研究年報』「島津家連歌・『島津家久公御連歌・斉宣公御詠歌』」を参照させて頂きました。ちなみにCINIIで無料で読めます(但し何故かページの並びが逆なので読みにくい)
おまけ
実は表題の司馬遼太郎のお話がどの本に出てくるのかも、ちょっと検索したが全く分かりませんでした。初出はどの本なのでしょうか。それともそもそもこういう話をほんとに書かれたのかな?情報お待ちしてます<(_ _)>
…いや、もっと脚色?されていて
「石田三成が薩摩の農民にいろいろ技術指導して、石田三成は農民達から感謝されていた」
というのもあったような。
…しかし、同時代史料はおろか、後世の説話などの類でもそういう物を見たことがないのだ、今のところ。
司馬遼太郎は、何を元にこういう話を考えたのだろうか…史料フェチだったそうだから、元ネタはあったと思うのだが。
それどころか、「石田三成は鹿児島の文化財破壊に噛んでるんですが?!」という史料を見付けてしまったりした。
高野山え石田治部少輔三成より寄付金に今有之候大蔵経は往古朝鮮王より琉球王え差贈、琉球王から 忠昌公え進上いたし自其御代々福昌寺之輪蔵え為被納置珎敷古本ニ御座候処、天正廿年毀破勘落之砌石田手先之者共奪取右次第ニ候成行彼此旧記等ニ散見いたし考合たゝ可来歴明白ニ候間大略左に書記置
※史料については『鹿児島県立短期大学研究年報』「島津家連歌・『島津家久公御連歌・斉宣公御詠歌』」を参照させて頂きました。ちなみにCINIIで無料で読めます(但し何故かページの並びが逆なので読みにくい)
おまけ
実は表題の司馬遼太郎のお話がどの本に出てくるのかも、ちょっと検索したが全く分かりませんでした。初出はどの本なのでしょうか。それともそもそもこういう話をほんとに書かれたのかな?情報お待ちしてます<(_ _)>
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…といえば、有名なのは鶴嶺神社だが、他にもあるらしい。
竪神社
確かに亀寿は「御上様」と呼ばれていた。
しかし、実は「おかみさま」という神様はいるのである。
つまり「おかみさま」とは神奈川県の大山阿夫利神社などに祭られている「たかおかみのかみ」と同一。
※「おかみ」の字は雨かんむりの下に口を3つつけて更にその下に「龍」をかき、雨乞いの神とされます。
この神社自体、社伝がどうも怪しくなっているように思われるので何とも言えないが、本来の竪神社の「於加美姫命」は、このあめふらしの神様で、単に「於加美命」だったんじゃないだろうか。そこになんで「姫」が付いてきたかは
…
続くかも_(。_゜)/
竪神社
従来霧島神宮の末社である。明治四年四月管轄庁より持松の村社と定めら れた。創建は詳らかでないが、天文二十一年九月二十七日当時の地頭某により寄進造営された棟札があったといい、また一説には、天正四年八月彼岸、島津義久 公、義弘公が、三原遠江殿を御使として、当神社に豊後の大友氏退治の御立願をされ、願成就し勝利を得られたため一社を造立し寄進したともいう。
尚、相殿神の於加美姫命は島津義久公の息女という(昭和十年発行の神社誌)。
しかし、実は「おかみさま」という神様はいるのである。
この「おかみ」を「雨や雪を降らせる神様ではないか?」と考察したのが、確か横田健一氏の「中臣氏と卜部」だったっけな(うろ覚え)わが岡の おかみに言ひて ふらしめし 雪のくだけし そこに散りけむ
(「万葉集」巻2-104 大原大刀自(藤原五百重娘とされる))
つまり「おかみさま」とは神奈川県の大山阿夫利神社などに祭られている「たかおかみのかみ」と同一。
※「おかみ」の字は雨かんむりの下に口を3つつけて更にその下に「龍」をかき、雨乞いの神とされます。
この神社自体、社伝がどうも怪しくなっているように思われるので何とも言えないが、本来の竪神社の「於加美姫命」は、このあめふらしの神様で、単に「於加美命」だったんじゃないだろうか。そこになんで「姫」が付いてきたかは
…
続くかも_(。_゜)/
今年の大河、本日終了しました。
感想ですが
予想通りしょうもなかったなあ(^^;)
何しろ「篤姫」のあの脚本家でしたからね…
今年ほど年末の「坂の上の雲」が待ち遠しかったこともない…1月から楽しみにしてたし(ヲイ)
某掲示板で
「あれほど波瀾万丈の人生を送った人物をあそこまでつまんない話にするのもある意味才能かも」
なんていわれてましたな>あの脚本家
感想ですが
予想通りしょうもなかったなあ(^^;)
何しろ「篤姫」のあの脚本家でしたからね…
今年ほど年末の「坂の上の雲」が待ち遠しかったこともない…1月から楽しみにしてたし(ヲイ)
某掲示板で
「あれほど波瀾万丈の人生を送った人物をあそこまでつまんない話にするのもある意味才能かも」
なんていわれてましたな>あの脚本家
『島津義弘の賭け』などでもこの説だったと思うのだが、
「豊臣政権は文禄元年の太閤検地で義久の蔵入り地を大隅に、義弘の蔵入り地を薩摩に設定した
一般的に薩摩>大隅と思われており、この施策は義久を隠居させ、豊臣政権は義弘を島津家の当主とする意向を示した物だった」
…とされているが
上記の説の場合、以下の史料はどう考えればよいのだろう?(゜_。)?(。_゜)?
もっとも、後の史料では出家後の義久について「三位法印龍伯」と書いてある物が見受けられるので、ある時点で従三位(たぶん正三位ではないと思う)になったのではと思われるが…。
「豊臣政権は文禄元年の太閤検地で義久の蔵入り地を大隅に、義弘の蔵入り地を薩摩に設定した
一般的に薩摩>大隅と思われており、この施策は義久を隠居させ、豊臣政権は義弘を島津家の当主とする意向を示した物だった」
…とされているが
上記の説の場合、以下の史料はどう考えればよいのだろう?(゜_。)?(。_゜)?
ちなみに、兄・義久は 天正9年(1581年)に従四位下になってからは昇進してないので、この時点では義弘と同列に並ばれたことになる。「義弘公御譜中」
天正十六年七月、 秀吉公賜称姓氏於義弘、仍称羽柴薩摩侍従豊臣義弘也、
同月廿六日、賜昇進之口、 宣、記左、
(「薩藩旧記雑録」後編2-487)
「正文在手鏡」
上卿 久我大納言
天正十六年七月廿六日 宣旨
従五位下豊臣義弘
宜叙従四位下、
蔵人左中弁藤原頼宣奉
(「薩藩旧記雑録」後編2-488)
もっとも、後の史料では出家後の義久について「三位法印龍伯」と書いてある物が見受けられるので、ある時点で従三位(たぶん正三位ではないと思う)になったのではと思われるが…。

