わたしは「けんくんじんじゃ」と読んでいた。というか、京都市在住者のほとんどがこう読むと思う(多分)。
だが…
によると、
がーん(○。○)しかし、同書(※角川文庫版『信長公記』)が底本とした陽明文庫本は建勲(たていさお)神社本の写しである上、(p.35)
多分、京都市バスのバス停の名称が「建勲神社前(けんくんじんじゃまえ)」で、それが広く流布したんだろうか。
ちなみにこの神社、織田信長を明治2年に祭ったものです。ご存じの方が多いと思いますが念のため。
※本日は本能寺の変があった日だそうです(wikipediaによる新暦換算)
豊臣秀吉の前に敗北し、初めて上洛させられたときに大坂にて迎えた重陽の節句に際して詠まれた物です。目出度い節句の時に詠んだ物のせいかどうか、余り暗さは感じられないように思われます。あ、それともこの後すぐ帰国することが決まっているからかも。「義久公御譜中」
天正十六年九月八日、早旦招細川兵部大輔藤孝法師幽斉・石田治部少輔三成於大坂茶室、勤苦茗、兵庫頭義弘手前也、
今日登 城、而見 殿下秀吉公矣、
此日従北政所衣服賜二領、息女亦賜二領也、
天正十六年九月、在大坂之際、有重陽之会佳節、詠一首之卑歌、贈祐乗法印云、
「在御文書方」
九重にけふ咲菊のいろよ香よ
やま路の秋はさもあらハあれ 龍伯
茲年重陽之比、訪人於畿内、而臨宅地之籬邊、則有淵明所愛之菊花、素得陰逸之名、而帯露美盛不可勝言、是以徒不得過去、而綴狂歌一首、供一莞云、
「右同」
もるひまのあらはしハしハ我つとに
手折てゆかん花のしら菊 龍伯
(「薩藩旧記雑録」後編2-516)
和歌とは直接関係ない内容ですが、前書きなどについて。
9月8日に細川幽斎と石田三成を招いて茶会をしていますが、この二人はその後島津家と豊臣政権の間の取り次ぎ役として重要な役を果たしていくことになります。個人的に史料を見た印象では、義久は幽斎の方に近くて、三成は嫌いだったような印象を受けるのですが、如何でしょう。なお、実際に茶会を行ったのは弟・義弘だったというのも興味深いです。
同日、大坂城に登城して秀吉と北政所に謁見していますが、「城(大坂城)」の前も1字欠字になっているのが面白いです。この日、義久と一緒にと登城して北政所から着物2着をもらった“息女”は当然亀寿のことでしょう。
「祐乗法印」は”義久君上京日記(仮)8月”に出てきた”祐乗坊”と同一人物でしょうか。
内容は…
だったそうだヾ(--;)薩摩藩に不穏な動きありとの情報を得た吉宗(松平健)は、3人の隠密を現地へ向かわせるが、誰一人として戻ってこなかった。その頃、吉宗は目安箱の近くで 若い娘(栗田陽子)が襲われているのを目撃し、旧知の浪人・結城一真(勝野洋)の助力を得て彼女を助けた。だが、その娘は重い労咳にかかっており、吉宗に 一通の書状を託すと息を引き取ってしまった。その書状によると、娘・奈美は琉球人で、3年前に将軍家への献上品を持った琉球国王族一行に加わり国を出た が、一行は薩摩藩で何者かの襲撃を受け、男は皆殺し、女は江戸・吉原へ売られたという。早速、吉宗はこの件を調べさせるためにお庭番の才三(五代高之)と 梢(高島礼子)を薩摩へ向かわせる。そして数日後、吉宗は、奈美を探しに江戸へやってきた妹の留美(柏原芳恵)と出会うが……。
実はこんな長時間のドラマ見てる暇無かったので最初だけちらっと見て消してしまったのよん。
それにしても、思うに、薩摩藩とか島津家がらみのドラマって
・琉球王国から絞り上げてたのがばれて成敗される
・密貿易がばれて(以下略)
・幕府転覆の陰謀が(以下略)
…のパターンが多いような。
というより、他のパターンの方が珍しいかも知れない。 ※珍しいパターンの物 こちら
今まで制作された薩摩藩がらみ時代劇のうち、上記のパターンに当てはまる物どれくらいあるんだろう。
調査したら面白そうだけど…「メディアで作られる歴史イメージの一環」とかなんちゃって。
さるところから、新島八重の特集を組んでいる小冊子を入手した。
専門的な歴史雑誌などではないが、八重にそれなりに縁のあるところが出したものであり、信頼性は高い。
この特集の内、興味深いのが生前の八重を知っている現存人物の回想録。
…とは言っても、八重は昭和6年(1931年)死去なんで、八重を知ってる人も当時は子供、そして平成も22年の今ではかなりの高年齢…
でも晩年の八重に関する記録は余り残ってないので貴重なお話である。
では早速ご拝聴。
実は前置きとか後書きとかがすごく長いのだが、これがまた重要なので、頑張って入力します_| ̄|○
ちなみに「薩藩旧記雑録」によく引用されている『長谷場越前自記』の著者・長谷場宗純さんだが、実は意外なことに「本藩人物誌」には記載がない(○。○) こういう本が鹿児島大学に残っているので、慶長時代には生きていて、つまりこの事件があったときの同時代人であることは確実と思われる。あとこの人は子孫の一人かも知れない?…まあ私の力では全く手も足も出なかったので、誰か情報お待ちしてます(ヲイ)『長谷場越前自記』
一かくて月日を経る程ニ、 関白様の上意ニハ、永在京之御事也、先ハ法印 竜伯を一人帰国有へき事、堅く被仰出之由、石田治部少輔前より被申理、然ハ御姫君様一人在京ハ誠ニわりなく被思召ける故ニ、御詠歌をつらね給ひて、細川兵部太輔入道様迄やるとて、
二世とハ契ぬものを親と子の別れん袖の哀をも知れ
と云送セ給へは、返し、
馴\/し身をバはなたし玉手箱ふたよと懸ぬ中ニハ有り共
との玉いて、流石都之人なれハ、深き情之理りを折節ニて、 関白様へ右之御歌を被捧ける間、御上覧まし\/て、尤武威之御気色も歌ニハ納受給ひて、無程御暇給ひて御同心被成宛、天正十六年戊子十月吉日ニ、大坂之川口を御出船ニて、日州の細島ニ御下着をわします折節、奉待て薩隅日之侍其外之僧衆以下ニ至る迄御供致て、喜悦申計也、夫より次第ニ鹿児島近くをわします、国中の諸大名の簾中衆ニ至るまて御迎ニ被参、御姫君様へ御祝言を被申上、然而鹿児島御光着ましませバ、近国遠国同心ニ御慶を被申入人〃の出入者、門前ニ市を成すことくなり、如此成立者、国家太平之御代ニ令守護玉ふ処也、
(「薩藩旧記雑録」後編2-540)
肝心の本題だが、有名な話すぎるが改めて筋を言うと
「島津義久が娘・亀寿と共に上洛させられたが、豊臣秀吉は義久一人に帰国を命じた。娘一人を京都に残すのがつらかった義久はその心情を歌にして細川幽斎に送った。幽斎がその歌を秀吉に見せると、あ~らビックリ、秀吉がその歌に感動して亀寿も一緒に帰国できることになったのでした」
…という、こんなのありかよ!というできすぎたお話である。でもホントに事実なんだから仕方ない。秀吉ガード甘すぎるな。人質簡単に解放するとはね。もっとも、この後調子のってやり過ぎたと思ったのか何度も「亀寿よこせよ~」と命令してますが。
私的には「日州の細島ニ御下着をわします~国家太平之御代ニ令守護玉ふ処也、」という後半も興味深い。義久と亀寿が一緒に帰ってきたのを国中の侍や坊主、果ては有力武将の妻達(長谷場は大仰に「諸大名の簾中」と書いてますが)まで迎えにでて、最後には「御姫君様へ御祝言を被申上、(中略)、門前ニ市を成すことくなり」(亀寿様に御祝いを申し上げる人々で鹿児島城の門前は市場がある程の大混雑となった)とか、ともかく亀寿が帰国できたことが大変な大事件だったことは伺えます。つまり、亀寿というのがこの時点で既に非常に重要な人物であったのは確かなんでしょうね。

