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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前回のお知らせはこちら



正式タイトルと放送日が確定したのでお知らせします。
BS歴史館 大名家の生き残り策(1)「突破700年 島津家 退くことを知らず」
南九州に君臨すること700年!戦国・幕末には圧倒的な存在感を示した島津家。知略的ながら無謀!武力と外交術を駆使し、苦難を突破し続けた殿様たちの強さの秘密とは?

関ヶ原の戦い。敗北武将たちが後ろに逃げる中、猛然と突撃し活路を開いた、伝説の敵中突破!…島津義弘。徳川家康の強大な外圧に一歩もひかず、外交戦で国を守りきった島津義久。江戸中期、外様の弱い立場を大逆転!幕府中枢に迫る権力を握り、経済危機を黒字転換させた“最強のご隠居”島津重豪。幕末、維新の原動力となった知略と実行力の斉彬・久光兄弟。家族対立をも恐れぬ超実力主義で強さを磨いた、島津家の気風に迫る!

渡辺真理,原口泉,山本博文,榎木孝明,【語り】佐々木蔵之介

http://www4.nhk.or.jp/rekishikan/x/2013-05-16/10/10653/


…タイトルが扇情的になっとるヾ(--;)
あとゲスト…榎木さんは良いのですが…後の2人…なんか放送前からもう内容が見えて…いやもう何も言うまい(^^;)

番組と関係のないおまけ


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石原莞爾は昭和16年(1941年)、予備役編入(彼の場合は事実上のクビ)にされて、その後、当時の立命館総長だった中川小十郎の要請により、表題の立命館大学国防学研究所の所長となります。
…が、憲兵のいろいろな妨害がすごくて、1年ほどで退職に追い込まれたのも有名な話。そこまでの嫌がらせって東条英機って…

さて本題。
周りにいろんな人が寄ってきた梁山泊体質の莞爾でしたが、流石に中川小十郎は超大物です。何しろ最後の元老・西園寺公望の側近だったのですから。どんな御縁があったのでしょ。
これに触れているサイトはなかったのですが、もう消えてしまったyahooの掲示板にこう言うのがありました。コピペしといてよかったー
立命館大学との関係 2009/ 9/ 1 11:06 [ No.95 / 484 ]
予備役編入後の石原は、ごく短期間ながら、立命館大学にて国防学研究所の所長をつとめることになります。
立命館大学との結び付きは、舞鶴要塞司令官であった時期、日満高等工科学校設立の協力要請を受けたことに始まり、昭和15年(1940)には『世界最終戦争論』を立命館出版部から刊行しています。
あるいは、第16師団長という寄り道(?)が無ければ、もっと早い段階で立命館大学の講師に転身していたのではないか、とも考えられます。

おまけに、ここの教授に迎えられたもう一人の予備役組に「酒井鎬次」と言う人がいます。この人もネットで検索するとさっぱり情報がなかったのですが、やはりyahoo掲示板にありました。
酒井鎬次とチャハル作戦 2009/ 8/25 0:22 [ No.94 / 484 ]
東条英機の軍歴において、チャハル作戦は重要な意味を持ったと思われますが、東条とはまた別の意味でチャハル作戦が転機となった人物もいます。
日本初の機械化部隊とされる独立混成第一旅団を指揮した酒井鎬次です。

チャハル作戦において、酒井の部隊は東条兵団に編入されていたのですが、東条・酒井の意見対立などから、十分な戦果を挙げられず、これがシコリとなったのか、東条の陸相時代に予備役編入と相成りました。

なお、酒井鎬次は戦史研究にも造詣が深く、失脚後は立命館大学にて、石原莞爾とともに国防学講座の講師をつとめたこともありました。
うーむ、東条嫌い仲間だったのか…

おまけ
立命館にとって、やはりこの国防学研究所って黒歴史なんだろうか(^^;)
だって公式HP検索してもほとんど情報ないし…

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最初から余談
石原莞爾を調べていて、何か良さそうな本があったな、そういえばこれ書いた人、先日の「BS歴史館」の2.26事件の回に出ていた人だったっけ
と思い立ってGoogleで検索してみると、下の方にずらずら出る検索キーワードに「セクハラ」という信じられない文字が…そういえばこの人k大教授だったのに「BS歴史館」出ていたときには別の大学の肩書きだった。そうかそういうことだったのか

100万年の恋も一瞬に冷めるとはこのことですかな(違)

<教訓>ネット社会ではごまかしはきかないぞ 日頃から身の振り方には気をつけましょう



戦後史の謎?の一つ。
「満州事変の首謀者だったこの人が、どうして東京裁判の被告にならなかったのか?」
ネットでは
・東条英機と仲悪くて、太平洋戦争勃発以前に退職(予備役)させられていた
・昭和20年(1945年)の時点で、既にガンに冒されており死ぬのも時間の問題と思われた
と言うのが2大理由に挙げられていることが多いですが・・・

偶然ネット上に良い回答を見つけた。
ただもう閉鎖して消えたのでコピペをしておきます。
板垣征四郎の訴因 2011/ 7/29 21:59 [ No.343 / 484 ]
板垣が有罪と認定された訴因は8項目ですね。

訴因1  侵略戦争の全般的共同謀議
訴因27 対中戦争遂行
訴因29 対米戦争遂行
訴因31 対英戦争遂行
訴因32 対蘭戦争遂行
訴因35 張鼓峰事件遂行
訴因36 ノモンハン事件遂行
訴因54 交戦法違反

たしかに板垣は、満洲事変(訴因1・27)でも有罪判決を受けていますが、近代社会にあっては、A級容疑で死刑にできるほど、人間の生命は軽くありません。
東京裁判で死刑になった被告たちは、訴因54「交戦法違反」または訴因55「交戦法違反防止義務不履行」が命取りになっています。


石原の場合、訴因1・27には該当するでしょうが、訴因54・55については、起訴すら困難かもしれません。
起訴1・27のみの有罪認定者は、荒木貞夫・橋本欣五郎・南次郎の3人であって、いずれも終身禁固刑です。加えて、石原の健康状態では、長期の裁判には堪えられないでしょうから、無理して裁くほどの価値を認められなかったとも考えられます。

石原起訴の可能性 2011/ 8/ 6 11:43 [ No.345 / 484 ]
昭和21年(1946)4月に東京裁判執行委員会が選定した29人の中には、石原の名前も入っているものの、参与検事会議にて、石原と真崎甚三郎・田村浩が外されています。但し、田村は俘虜情報局長としての責任(BC級)から丸の内裁判で起訴されることになります。
しかも、中国外交部が初期に作成したリストでは、石原は指名すらされておらず、どうもあまり重視されていなかった模様です。

すでに拘束されていた木戸幸一などが、尋問で「満洲事変の中心人物」として石原の名前を出したようで、とりあえずリストに入れたものの、当時は満洲事変の実情も解明されておらず、さらに満洲事変以外には裁きようがないため、リストから外されたと考えることもできます。

Re: 石原起訴の可能性 2011/ 8/13 17:24 [ No.346 / 484 ]
極東軍事裁判関係書については、最近全く目を通すことがなく、失礼しました。
以後、幾つかの文献を読み漁ってみました。
訴因54と55が基本的には死刑判決の要因とはなっていますが、実質的には対米開戦の軍政要職者が死刑という結果となっています。
マッカーサーがGHQ司令官として、日本を統治するに当たり、天皇を退位、訴追することなく、逆に天皇を利用しての統治に当っています。天皇を訴追しない以上は、統帥権最高責任者の天皇の下にあった軍令関係者を死刑対象者から外しています。従って、軍政関係要職者(広田弘毅を除いて)が死刑対象者となっています。特に陸軍の軍政関係者です。
石原は、木戸幸一の満州事変の首謀者との指摘があり、石原も極東軍事裁判酒田臨時出張尋問で、自ら満州事変の首謀者で起訴されるべきであり、極東軍事裁判の最高戦犯はトルーマンであると滔々と述べたという有名な尋問内容は、臨時出張尋問書に全く記載がなく、他に明らかな証拠もないことから、石原弁論内容の真否さえも賛否両論です。
石原の弁舌に、東京裁判での法廷混乱を恐れたGHQ側が隠匿した可能性はありますが、確かに満州事変のみでは死刑の対象外で、対米英戦時は東条により予備役に編入されていたことからも起訴を免れていたでしょう。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=5&board=1835208&tid=c0p864pbca4a4bda4nbfma4ha4ja4j&sid=1835208&mid=343#under-deli
なんと、当該国の中華民国からの訴追リストにも載っていなかったとは、そりゃ起訴される可能性は低いだろうな。

しかし、「石原は犯罪者~」と言い出したのが諸外国ではなく木戸幸一からだったって…後世他の戦犯から木戸がボロクソ言われる理由が何となく分かるような分からないような。

おまけの疑問

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憲法記念日にふさわしいネタ!(ヲイ)



満州事変が関東軍の自作自演とばれたのは昭和32年(1957年)に『知性』と言う雑誌に載った花谷正手記(実は秦正彦氏の聞き取り)
…と思っている人が多いようだが と言うか私もそう思っていたのだが

今回調べてみてビックリ。
満州事変が関東軍の自作自演という話自体は早々とばれていたのである!
(1)昭和13年(昭和13年)に建国大学教授として赴任した中山優が、石原莞爾に
 「柳条湖事件って、関東軍の自作自演でしょ?」
 と問いただしたところ
 莞爾はあっさり認めてしまった。呆れた中山が
 「良心はとがめなかったのですか?」
 と聞いたら、
 「ただ天皇の威厳を損なわないように気を配った」
 と答えたという。
 -この話は莞爾の死んだ翌年、それも莞爾の追悼本『石原莞爾研究』(昭和25年(1950年)発行)で暴露されている。

…っていうか、昭和天皇はこの件ではずいぶんとご心襟を悩ませたつまっておられるようだぞ。ホントに、莞爾め…ヾ(--;)

(2)陸軍の広報課とも言える「新聞課」の職員が、記者達に「今回の事件(=柳条湖事件)は関東軍の陰謀だから」としゃべっていたらしい。しゃべったのは事件のあった昭和6年(1931年)である。
参考 
柳条湖事件早々の頃、記者クラブで話していた若い記者クラブ員達の前で、新聞部員の谷萩那華雄大尉が「実はあれは関東軍がやったんだよ」とこっそり耳打ちした
満州事変勃発当初の軍部の新聞対策と論調に対する認識(「日本大学大学院総合社会情報研究科紀要」№6 347-358 2005年)p.353

お前らまとめて死ねよ

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まだまだ続くマイブーム莞爾。
こんなのブームにしてる奇人、私だけでしょうか…やっぱわたしだけですよね_| ̄|○

気を取り直して
石原莞爾という人物を構成する重大要素としてやっぱり「日蓮宗」は外せない。正確に言えば日蓮宗系の新興宗教の国柱会ですが。逆に言えば日蓮宗にこだわりすぎたのが彼の欠点というか。戦略本に堂々と日蓮様の予言なんて書いちゃいけませんて(^^;)

ところが、莞爾はこの日蓮宗のネットワークのおかげでいろんな恩恵を受けたようだ。
戦後、莞爾が郷里に開拓した西山農場(山形県鶴岡市、現存せず)、ここに何故か当時石川島播磨工業の社長になったばかりの土光敏夫が「役に立てて下さい」とぽんと製塩機を寄付している。残念ながら1年後に壊れてしまったようですが(参照こちら)。私にとっての土光敏夫と言えば「行政改革の神様」「めざしの土光」だったので、デムパ(ごめん)の莞爾と土光敏夫がどうしてもつながらなかった。
が、別件で検索してビックリ。何と日蓮宗仲間だった。
母の登美は日蓮宗に深く帰依した女性で女子教育の必要性を感じ、1941年(昭和16年)にほとんど独力で横浜市鶴見区に橘学苑を開校した程の女傑であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%85%89%E6%95%8F%E5%A4%AB
土光敏夫は母の建てた橘学苑にずっと寄付を続けていたという。敏夫自身の信仰はどんな物だったか分かりませんが。

あともうひとつ興味深かったのが、リベラリズムの代表人物のように言われる石橋湛山との関係。湛山も日蓮宗徒だったのですな。
日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男・省三(せいぞう)[1]として生まれる。 実父の湛誓は、当時東京大教院(現・立正大学の前身)の助教補(助手→助教)を務めていた。母・きんは、江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋石橋藤左衛門の次女である。石橋家は日蓮宗承教寺の有力な檀家で、同寺院内に所在した東京大教院に在学中の湛誓と親しくしていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E6%B9%9B%E5%B1%B1
ただし
帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張する等(小日本主義)、
(引用元同上)
…宗派と主義主張とは違ったようで(^^;)

本日のおまけ
石原莞爾の生前インタビュー

え、これが後々も語られる「人々を黙らせる威力のある」声だったって・・・(呆然)

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