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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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前回の続きです。
タイトルが更に軽薄になったような気がしますが、これも勢いという物ですので余り気にしないで下さいヾ(--;)

ではまいる。
(下の「続きはこちら」をクリック)

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やっぱり軽薄なタイトルでごめんなさい…
前回のお話はこちら



結局買ってしまいましたf(^_^;)いやamazonでみたら思ったより安かったんで…
『秘録東条英機暗殺計画』※再版された物のようです



一気に読みました。
無茶苦茶面白かった。この時代に興味ある人は一読お奨めします。
とくに今田フェチな私ヾ(--;)にはものすごく興味深かったかな
今田と津野田と並んだ写真(後掲)とか、
今田+津野田+牛島辰熊+浅原健三in上海(p.79)→ という余りにも濃すぎる写真とか(しかしなんで「濃い」かという理由は石原莞爾の伝記を何冊か読まないと分からないかも) ※ちなみに左から今田→牛島→浅原→津野田 一番右端の白いコートの男性は不明)
その他「あ!」という情報が多かったです。
今田さんの写真と言えばこれとかあれしか知らなかった私にとっては、やはり幹部クラス軍人としての今田さんの見せる表情は全然違うなあ、と言うのが感想です。特に鈴江夫妻と撮った写真なんて柔和そのものなのに対し、この本に載ってる写真の今田さんの視線(津野田さんもそうだが)はそれだけで相手を蹴落とせますな。

以下気になる描写

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今田の甥に当たる方のHPによると、今田は仙台陸軍幼年学校の出身らしい。

…ということで、こんな貴重書?を入手してみました
山紫に水清き―仙台陸軍幼年学校史 (1973年)
いや偶然にネットで見つけたんで…そうじゃなければ国立国会図書館でコピーしようかと思っていたのですが、どうも買った方がコピー代より安くなりそうだったので

さて、中味を見た結果


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表題の稲田正純とは、一時期今田新太郎と同僚だった(参謀本部作戦指導課(後作戦指導班に格下げ))人物です。
作戦指導課には今田の外に
・河辺虎四郎(終戦時参謀次長だった切れ者な人)
・高島辰彦(今田とは士官学校、陸軍大学校と同窓で、軍関係では多分一番の親友)
・堀場一雄(あの服部卓四郎、西浦進と同期で「陸軍三羽烏」といわれる)
・秩父宮雍仁親王(昭和天皇の弟、昭和13年からの途中加入)
がいました。
「…え、それだけ?」
と思ったあなたは正しい。実は作戦指導課なる物自体が石原莞爾の肝いりというか独断で出来た部署でして、ここのメンバーは石原莞爾が選んだ精鋭で構成されていたのです。
そこに途中加入したのが稲田正純でした。
…ともかくメンバーを見て貰えば分かるように、かなり個性的な集団の中での仕事はとても印象に残ったらしく、戦後、稲田はここの思い出を『稲田正純氏談話速記録』や『昭和陸軍秘話』などで語っています。
私が出たあとは堀場が中心にるってやっておったのですが、堀場のほかには高島という気狂いみたいなのがおりましたが、堀場,高島、それから今田新太郎という支那ゴロがおりましたが、そこらがやっておったですね。
『稲田正純氏談話速記録』p.184
http://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=fdAWAAAAIAAJ&dq=%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E4%B8%80%E6%B0%8F%E8%AB%87%E8%A9%B1%E9%80%9F%E8%A8%98%E9%8C%B2&q=%E4%BB%8A%E7%94%B0%E6%96%B0%E5%A4%AA%E9%83%8E#search_anchor
をい待て
今田を捕まえて「支那ゴロ」とは何ですか品のない せめて「支那フェチ」とか「支那ヲタ」と言いなされヾ(^^;)
あと、高嶋さんやっぱり変でしたか…「不思議ちゃん」とは思ってましたが でも悪い人じゃないと思うよ!…たぶん…

今田と稲田の悪縁は続く。
今田が配属された第36師団ごと西ニューギニアのサルミに放り込まれてえらい目にあったのは今まで散々話したが、それに油を注いだのがどうも稲田らしい。
米軍が上陸した5日後の1944年4月26日に、飛行場などは連合軍の制圧下に入り、以後、連合軍は6月6日まで掃討戦を続けた。同日、現地での先任指揮官であった第6飛行師団長心得稲田正純少将は、日本軍の残存兵力を西部ニューギニアのサルミ方面へ撤退させることを決断した。しかし、サルミまでの400kmの道は非常に険しく、途中には100以上の川を越えなければならなかった。渡河の際、体力の低下が激しかった将兵たちは、豪雨の影響もあり激流に流され、そのまま死亡する者も多かった。さらに、食料が著しく不足していた上にマラリアの感染者も多く、発熱して道に倒れたまま死んでいく者も多かった。そのためホーランジアとサルミ間の道は白骨化した死体が続く惨状となった。ホーランジアにあった第18軍関係部隊の人員6600人の内、1-2ヶ月後にサルミに到着した者はわずかに約500人に過ぎなかった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E3.82.B5.E3.83.AB.E3.83.9F.E3.81.B8.E3.81.AE.E6.92.A4.E9.80.80
ちなみにサルミというのが今田の所属していた第36師団の本部のあった場所。
更にこの稲田の決断が第36師団に更なる苦難をもたらすことに。以前、第36師団旗下の松山部隊が無茶な援護作戦を命じられてえらい目にあったことは書いたことがあるが、実はこの稲田が放棄したホーランジアを奪回すべく命じられた作戦だったのである。

その後、稲田は様々に所属を変えつつも最後は本土にて終戦。今田は補給も止められ連絡もない状態のままニューギニアにて終戦。最も稲田は戦後戦犯に問われて刑務所に入っていたようですが、それも昭和26年(1951年)には出所してその後昭和61年(1986年)に89歳の生涯を全うしてるのですから…どう見ても今田(昭和24年(1949年)に54歳で死去)に比べりゃ勝ち組ですよね…

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今回紹介させて頂く史料は『鈴木貞一氏日記』です。全部が翻刻されているわけではなくて、一部が『史学雑誌』(87(4)467-492 史学会)に紹介されています。
この昭和9年分に1箇所だけ今田新太郎が登場します。これが中々味わい深い。なお原文は漢字カタカナ交じり文ですが、変換が面倒なので漢字ひらがな交じり文にて紹介致します。

では。

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