拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
今までの話はこちら 1,2,3
まだまだ続く九州御動座(九州征伐)の続きです
どうも教科書とかドラマのイメージでは瞬殺されたはずの島津氏ですが、『黒田家文書』を見ていると結構秀吉側ももたもたしてるようです…
ではまいる。
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どうも教科書とかドラマのイメージでは瞬殺されたはずの島津氏ですが、『黒田家文書』を見ていると結構秀吉側ももたもたしてるようです…
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急度染筆候。肥前国(注1)毛利右馬頭:前回も出て来たが毛利輝元
一揆等端々蜂起せしむるの由
聞こし召され候。定めて差したる儀
ある間敷く候。其許見計らい
落ち度無きよう、申し付くべき事
専一に候。毛利右馬頭(注1)自身
罷り立ち候間、其の面様子
聞こし召さるべけんがため、小西摂津守(注2)
差し遣わされ候。各相談し具に
申し上ぐべく候。其れに従い御人数
儀、和州大納言(注3)・江州
中納言(注4)・備前宰相(注5)、其の他
四国の者共(注5)を初め、出陣の
儀仰せ付けらるべく候。九州事は
五畿内同然に思し召し候条、
何れの道にも御人数遣わされ、
堅く仰せつけらるべく候間、其の
意を成し、丈夫に申し付くべく候。猶
追々申すべく候なり。
十月十四日 (朱印)
黒田勘解由とのへ
<67 豊臣秀吉朱印状(5巻9号)>
(注2)小西摂津守:小西行長
(注3)和州大納言:豊臣秀長
(注4)江州中納言:豊臣秀次
(注5)備前宰相:宇喜多秀家
(注6)四国の者共:長宗我部元親/信親親子、十河存保など 前回参照
天正15年10月14日付の豊臣秀吉発黒田官兵衛宛の朱印状です。
「肥前国一揆」という気になる文言がありますが、これは同年起こった肥後国人一揆…とは別の物で、龍造寺家晴(龍造寺隆信の親族、後の諫早家初代)に秀吉が勝手に諫早(当時「伊佐早」)を領地安堵したのに対し、本来の伊佐早領主である西郷信尚が反発し、兵を挙げたという物です。…もっともこの文書では秀吉「差したる儀あるまじく候(ま、たいしたことないだろうけど)」と鼻にも掛けてないようですが。
しかしこの文書を何より有名にしたのが
「九州事は五畿内同然に思し召し候」
と言う最後の一文。同日に書かれた「小早川家文書」513号(天正15年10月14日付)にも「唐南蛮国までも仰せ付けらるべく思し召し候条、九州事は五畿内同然に仰せ付け候叶わず儀候」とあり(『黒田家文書』p.161解説)、つまり「九州は畿内のように何れ秀吉に治められるべきであり、明やポルトガル/スペインも同様である」…と秀吉は考えていたようです。
(注1)宇留津城:現福岡県築上町にあった国人/賀来氏の居城。九州攻め当時は宇都宮(城井)氏の配下にあった。
豊前宇留津城(注1)去んぬる七日
に責め崩し、千余頸を刎ねられ、
其の他男女残らずはた物(注2)に
相かけられ候儀、心地よき
次第に候。手柄の段、申す計り無く候。
殊に敵方味方中の覚えと云い、
御祝着の儀、筆紙を尽くしがたく
思し召され候。(後略)
十一月二十日 (花押)
小早川左衛門佐(注3)とのへ
安国寺
黒田勘解由とのへ
<71 豊臣秀吉書状(5巻13号)>
(注2)はた物:当時は張り付け柱に機織り機を使ったことから張り付けのことをこうも言ったとか(『黒田家文書』p.169解説)ガクブル
(注3)小早川左衛門佐:小早川隆景
天正14年11月20日発の手紙です。これも島津とは直接関係ないのですが、以前こちらで宇留津城攻めに関する疑問を書いたことがあったので取り上げました。この史料で宇留津城が落城した日時は確定できました。天正14年11月7日ということですね。徳川家康が大坂城で秀吉に拝謁したのは同年10月27日なので、家康臣従後、東側に脅威が無くなった状態で九州攻めを本格化させたと見てよいのかな?
それにしても「男女残らずはた物に相かけられ候儀、心地よき次第に候((籠城していた)男女を残らず張り付けしたと言う事だが、大変気持ちよく思っておるぞ)」というのはただ事ではありません。いくら流血沙汰が日常茶飯事の戦国時代でも、ここまであからさまに書いてある文書は珍しいのでは?
なお後半は「早く出馬したいんだけど黒田とか安国寺とか毛利家臣の渡辺長とかが止めるから、やっぱ来年の春にしとく」(意訳)と言うことが書いてあります。
(注1)龍造寺:龍造寺政家 実際に龍造寺家を豊臣秀吉に内通させたのはその家老の鍋島直茂の功績ですが…
(前略)
一、龍造寺(注1)色立ち候上者、嶋津方
豊後に打ち入り候者とも、敗軍と為るべく
思し召され候事。
一、嶋津豊後国へ打ち入り儀、誠
天の与るところにて候間、退かず様に懸かり
留め、豊後の内にて嶋津一類
の奴原首を刎ねさせられとど
思し召し候条、人質以下召し置き、
秋月(注2)をもゆるし、豊後へ
一手に之有るに於いては、嶋津敗軍
案の内に思し召され候事。
一、淡路・阿波者(注3)共一万余り仰せつけられ候て
豊後へ遣わされ候間、隆景・元春・
黒田勘解由に相付け候人数、合わせて
一万五千斗も豊後府内へ
移られ候わば、嶋津敗北の段、案の
内たるべく候事
一、その方人数一万五千ほど、両三人召し連れ候らわば、豊後衆(注4)ならびに
仙石権兵衛尉(注5)・長宗我部(注6)・阿波・淡路者かけて都合三万余りも
之有るべく候間、此の人数にて敵合
戦をも仕懸かれず所に陣取り、相
堅く之有るに於いては、敗軍の段、案の
内にて候、さ候らわば、太刀も刀も手を入れず
つかまえたるべく候事。
一、右の人数にても軍敗れずは、
関白殿御馬を一騎がけに
出られ、彼の嶋津の首刎ねられるべき事。
(後略)
<72 豊臣秀吉書状(5巻14号)>
(注2)秋月:秋月種実 この当時は島津側の有力武将
(注3)淡路・阿波者:脇坂安治、蜂須賀家政配下の軍勢
(注4)豊後衆:大友家配下の軍勢・国人
(注5)仙石権兵衛尉:あの仙石秀久
(注6)長宗我部:長宗我部元親/信親親子
実はこの文書は後半のコピーを取るのを忘れてまして(滝汗)これの読み下しは拙訳によるものです。本当に申し訳ない。
後半のコピーがないんで正確な日時が分からないんですが(涙)内容から見て恐らく戸次川の戦い(天正14年12月12日(1587年1月20日))の直後ぐらいに書かれた物と推定されます。
相変わらず「案の内にて候」と強気なことを書きつつ、その後に「関白殿御馬を一騎掛けに出られ彼の嶋津の首刎ねられるべき」と書いていたりするところ、実は焦っているのでは?とも思わせます。
(注1)小西弥九郎:小西行長 前回記事参照
両三度の書状並びに小西
弥九郎(注1)同日到来、
披見候。
一、秋月(注2)面取り詰め候事、
無用に候。御馬を出され候わば、
悉く首を刎ねらるべく候。野上
表へ中納言着陣
次第、小早川(注3)と相談し、
中国衆・備前衆何れも
取り出し、山取り仕り、少しも
落ち度無きように堅く申し付け、
薩摩奴原引き
退かざる様に掛け留むべく候。
三月朔日御動座候間、
彼の逆徒など手取りに
仰せつけらるべく候。城取りを仕り候いては
聊かも率爾の儀これ無き
よう、取り出すべく候。昼夜
油断無く申し付くべき事、
専一に候。
(中略)
二月二十二日 (朱印)
黒田官兵衛尉とのへ
<80豊臣秀吉朱印状(6巻1号)>
(注2)秋月:秋月種長 72号文書では「許す」って言ってたのに忘れたのか?ヾ(^^;)
(注3)小早川:小早川隆景
天正15年2月22日付の秀吉→黒田官兵衛宛の書状です。今までの書状では「黒田勘解由とのへ」宛書きでしたが、これはなぜか字「官兵衛」なのが興味深いです。
今まで「行く行く」詐欺状態だったんですが(^^;)この書状では遂に3月1日に秀吉御自らの出馬が決まったことが分かります。
島津に対しては「薩摩奴原」とか「彼の逆徒」とか相変わらず貶める表現が目立ちます。
長文になったので今回はこれにて。
次回もまだまだ九州御動座編続く。
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