拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
いや、先日行った病院の待合室にあった雑誌『日経大人のOFF』に書いてあったのですが
このコラムを書いたのは中村修也という方。雑誌の略歴では専攻は「日本茶道史」となっていましたが、検索で見ると古代史の方が本来のご専門のようです。
で、うろ覚えで書くヾ(^^;)中村氏による「千利休は生き延びた」説の根拠というのは
(1)晒し首にされたのが大徳寺山門にあった木像である 本当に切腹していたなら本物の首を曝すはず
(2)豊臣秀吉が文禄年間(この時利休は定説では死んでるはず)に母・なか(正確にはなかの侍女)宛てに送った手紙で「利休が点ててくれたお茶がうまかったんだよ~」(意訳)と言うことを書いている 現在の通説では「秀吉はここまでぼけていた」説の根拠にされているが…
…他にも書いてられたかも知れませんが、要点はこんな所だったかと。
また、中村氏説によると、その後の利休を養っていたのは細川忠興らしいです。
私個人の意見では、もし利休が生き延びていたら、その後日談を示すような記録も残っていてもおかしくないわけで(まして記録魔の忠興がかくまったことになってるんですからね~)中村説には同意しがたいのですが、学会ではどう受け止められてるのでしょうか。はてさて。
このコラムを書いたのは中村修也という方。雑誌の略歴では専攻は「日本茶道史」となっていましたが、検索で見ると古代史の方が本来のご専門のようです。
で、うろ覚えで書くヾ(^^;)中村氏による「千利休は生き延びた」説の根拠というのは
(1)晒し首にされたのが大徳寺山門にあった木像である 本当に切腹していたなら本物の首を曝すはず
(2)豊臣秀吉が文禄年間(この時利休は定説では死んでるはず)に母・なか(正確にはなかの侍女)宛てに送った手紙で「利休が点ててくれたお茶がうまかったんだよ~」(意訳)と言うことを書いている 現在の通説では「秀吉はここまでぼけていた」説の根拠にされているが…
…他にも書いてられたかも知れませんが、要点はこんな所だったかと。
また、中村氏説によると、その後の利休を養っていたのは細川忠興らしいです。
私個人の意見では、もし利休が生き延びていたら、その後日談を示すような記録も残っていてもおかしくないわけで(まして記録魔の忠興がかくまったことになってるんですからね~)中村説には同意しがたいのですが、学会ではどう受け止められてるのでしょうか。はてさて。
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