拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
光明皇后で、予想通り時間食い過ぎた~_| ̄|○。
…気を取り直して
さっそく光明皇后の同母妹・藤原吉日(ふじわらのきちひ)のお話です。
光明皇后の所で出した系図で気づいた方も多いでしょうが、光明皇后が当初「安宿媛」と名乗っていたように、藤原吉日も別の名前を名乗っておりました。「多比能(たひの)」と言います。
藤原不比等
│ ┌藤原安宿媛(光明皇后)
├───┼藤原多比能(吉日)
│ └<藤原殿刀自>
県犬養橘三千代
光明皇后の「安宿媛」というのは、乳母の出身地・河内国安宿郡(あすかべぐん)からきているのでは?と推測できることを既に述べましたが、藤原吉日の「多比能」というのは、地名でもなく、かといって縁起を担いだ訳でもないようで、ちょっと意味が分かりにくいですね。
やや後の時代の人ですが、藤原麻呂(藤原不比等四男)の娘に「藤原百能」(ふじわら・ももよし)という方がいらっしゃいまして、これは「百の才能に優れる」ととれますから、「多比能」も本当は「たひよし」と読んで「多く比べる能わず(他の多くの人に比べることが出来ない<くらいすごい>)」と言う意味かも知れませんが。…漢文の読み方としてはあっていませんが。
しかし、その想定があっているとすれば、多比能は姉・安宿媛に勝るとも劣らない美人だった可能性もあります。
橘三千代は20歳ぐらいで橘諸兄(葛城王)を生んでいると推測されますから、多比能の姉・安宿媛(光明皇后)を生んだときには既に38歳ぐらいになっておりました。その当時ではかなりの超高齢出産であります。
ですから、妹の多比能はそれから余り間が経たない間に生まれたと思われます。もしかしたら、年子だったかも知れないです。
さて、
異父姉・牟漏女王が藤原房前(藤原不比等次男)
同母姉・藤原安宿媛(光明皇后)が聖武天皇
と政略結婚が決まっていたように、藤原多比能も、母・橘三千代が既に結婚相手を決めていた物と思われます。
その相手の名はは葛城王(後の橘諸兄)。橘三千代が、先夫・美務王との間にもうけた長男でした。父・藤原不比等も
(葛城王は、もしかすると母を父から奪った、この藤原氏を憎んでいるかも知れぬ。反逆を防ぐためにも、我が娘を妻にやった方が良いであろう)
と、1も2もなくこの縁談に賛成したことと考えられます。
藤原多比能が異父兄の葛城王に嫁いだのは、長男・橘奈良麻呂の没年齢から推定して、養老元年(717年)頃と推測できます。律令で結婚がぎりぎり許される13歳から15歳ぐらいの幼妻(!)でした。
ところが、この時葛城王はかなりの年でした。34歳です。はっきり言います。平成の現在ならともかく、奈良時代では「売れ残り」です!
これは、母・橘三千代にきつく言い含めれて独身でいざるを得なかったのではないでしょうか?
「我が娘・多比能が嫁げる年齢になるまでは結婚しないで頂戴!」
…この推測通りとすれば、橘三千代、既に何回も言ってきましたが、自分の権勢欲のために息子の適齢期までコントロールするとんでもない女性であります(^^;)。
藤原多比能は養老4年(720年)、葛城王との間に奈良麻呂を生みます。
この年の夏に父・藤原不比等が亡くなっていますから、多比能は父に孫の顔を見せることが出来て、ほっとしたことでしょう。
が、多比能が生んだのはどうもこの奈良麻呂だけであったようです。
つづく
…気を取り直して
さっそく光明皇后の同母妹・藤原吉日(ふじわらのきちひ)のお話です。
光明皇后の所で出した系図で気づいた方も多いでしょうが、光明皇后が当初「安宿媛」と名乗っていたように、藤原吉日も別の名前を名乗っておりました。「多比能(たひの)」と言います。
藤原不比等
│ ┌藤原安宿媛(光明皇后)
├───┼藤原多比能(吉日)
│ └<藤原殿刀自>
県犬養橘三千代
光明皇后の「安宿媛」というのは、乳母の出身地・河内国安宿郡(あすかべぐん)からきているのでは?と推測できることを既に述べましたが、藤原吉日の「多比能」というのは、地名でもなく、かといって縁起を担いだ訳でもないようで、ちょっと意味が分かりにくいですね。
やや後の時代の人ですが、藤原麻呂(藤原不比等四男)の娘に「藤原百能」(ふじわら・ももよし)という方がいらっしゃいまして、これは「百の才能に優れる」ととれますから、「多比能」も本当は「たひよし」と読んで「多く比べる能わず(他の多くの人に比べることが出来ない<くらいすごい>)」と言う意味かも知れませんが。…漢文の読み方としてはあっていませんが。
しかし、その想定があっているとすれば、多比能は姉・安宿媛に勝るとも劣らない美人だった可能性もあります。
橘三千代は20歳ぐらいで橘諸兄(葛城王)を生んでいると推測されますから、多比能の姉・安宿媛(光明皇后)を生んだときには既に38歳ぐらいになっておりました。その当時ではかなりの超高齢出産であります。
ですから、妹の多比能はそれから余り間が経たない間に生まれたと思われます。もしかしたら、年子だったかも知れないです。
さて、
異父姉・牟漏女王が藤原房前(藤原不比等次男)
同母姉・藤原安宿媛(光明皇后)が聖武天皇
と政略結婚が決まっていたように、藤原多比能も、母・橘三千代が既に結婚相手を決めていた物と思われます。
その相手の名はは葛城王(後の橘諸兄)。橘三千代が、先夫・美務王との間にもうけた長男でした。父・藤原不比等も
(葛城王は、もしかすると母を父から奪った、この藤原氏を憎んでいるかも知れぬ。反逆を防ぐためにも、我が娘を妻にやった方が良いであろう)
と、1も2もなくこの縁談に賛成したことと考えられます。
藤原多比能が異父兄の葛城王に嫁いだのは、長男・橘奈良麻呂の没年齢から推定して、養老元年(717年)頃と推測できます。律令で結婚がぎりぎり許される13歳から15歳ぐらいの幼妻(!)でした。
ところが、この時葛城王はかなりの年でした。34歳です。はっきり言います。平成の現在ならともかく、奈良時代では「売れ残り」です!
これは、母・橘三千代にきつく言い含めれて独身でいざるを得なかったのではないでしょうか?
「我が娘・多比能が嫁げる年齢になるまでは結婚しないで頂戴!」
…この推測通りとすれば、橘三千代、既に何回も言ってきましたが、自分の権勢欲のために息子の適齢期までコントロールするとんでもない女性であります(^^;)。
藤原多比能は養老4年(720年)、葛城王との間に奈良麻呂を生みます。
この年の夏に父・藤原不比等が亡くなっていますから、多比能は父に孫の顔を見せることが出来て、ほっとしたことでしょう。
が、多比能が生んだのはどうもこの奈良麻呂だけであったようです。
つづく
PR
Comment
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。