拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
天平16年(744年)、ついに光明皇后は、兄・橘諸兄に勝利します。
橘諸兄の本拠地・恭仁京の造営が中止となり、都は難波京に移ったからです。
しかし、こんな物では、光明皇后は満足していなかったようです。
さてこの頃、難波京に移った聖武天皇を追いかけていく高貴な一行がおりました。
ところが、大阪の桜井(現在の枚方市か高槻市と言われるが所在不明)まで来たと
ころで、この一行は主が重体に陥り、恭仁京に引き返します。そして、その主はそのまま死んでしまうのです。
この主が安積親王。聖武天皇と県犬養広刀自の間の皇子で、唯一生存していた聖武の子息でした。享年17歳。
実は、この背後に光明皇后の陰謀があったのではと言う学説があります。
横田健一氏の「安積親王の死の前後」と言われる論文に紹介されております。
横田氏は、この時に恭仁京の留守官に藤原仲麻呂が任命されていることに注目し、光明皇后が仲麻呂を使って、安積親王を毒殺したという見解を示しています。
一方、これに対する「偶然説」(林陸朗氏、木本好信氏)もありますが、”脚の病”と言う極めて奇妙な病気で急逝した安積親王を巡って、宮中は疑心暗鬼に陥ったことは言うまでもありません。
しかし、大事な皇子が死んだというのに、聖武天皇は何の反応も示しません。
阿倍内親王が皇太子にいるから、どうでもいいとでも思っていたのでしょうか?謎であります。
奇妙なことは更に続きます。聖武天皇は突如難波京を出て紫香楽宮(信楽の離宮)に移ってしまいます。この時、光明皇后は聖武天皇についていきましたが、元正太上天皇と橘諸兄は残っております。
私は、この時聖武天皇が、藤原北家の領地が多い「摂津国三島路」を通って紫香楽宮に移ったことから、牟漏女王と光明皇后が共同して聖武を難波京から引っぱり出した物と考えております。
しかも、翌年になると難波京も紫香楽宮も「都」を宣言し、混乱に拍車がかかります。
更に、元正太上天皇は、光明皇后のやり口についに堪忍袋の緒が切れたのでしょうか。難波京周辺への行幸を繰り返し、おん自ら詔を乱発します。
と言うことで、まるで天皇が2人いるかの状態に陥るわけです。
この状態が解消したのは年末のことです。元正太上天皇の行幸の列が、突如東へ向かい、元正太上天皇は紫香楽宮に行ってしまったのです。
何がどうなったのか分かりませんが、ともかく「大仏を造らなければいけない」と言うところで双方の見解が一致して、聖武・光明と元正は仲直りしたようであります。
この裏にいたのが、またしても牟漏女王と思われます。というのも、この年末に牟漏女王の三男・藤原八束が時期はずれの昇進に預かっております。おそらく元正太上天皇を難波京より引っ張ってくる役割を果たしたからと私は考えております。
悲惨なのは橘諸兄でして、最後まで味方していた元正太上天皇にも裏切られてしまうのです。
このころ、紫香楽宮で放火が増えるのですが、中川収氏は「橘諸兄の手先による火付け」と推測しておられます。しかし、これは結局都を元に戻すきっかけを作っただけでした。
天平17年(745年)ついに、都は平城京に戻ってくるのです。
この後、聖武天皇は難波京に行幸しますが、瀕死の重体に陥ります。
その結果、光明皇后が実際の政治に口を出すことが更に増えたと思われます。
とりあえず、この時は聖武は死なずに済みましたが、
「大仏づくりに専念するため、早く位を阿倍内親王に譲りたい」
と思い始めるようになったようです。しかし、元正太上天皇が健在の間は、太上天皇が2人いるという事態を避けるために、我慢して在位するしかありませんでした。
このころの『続日本紀』を見てみると、聖武天皇ご贔屓の藤原八束の名前が減り、藤原仲麻呂の名前が出てくることが多くなってきます。
ここからも、聖武天皇より光明皇后が実際の政治に携わっていることが見て取れるのではないでしょうか。
また、この年までに藤原宮子の元で権勢を振るっていた玄坊は、突如筑紫へ左遷されます。光明皇后のもくろみ通り、大仏建立と共に権威が失墜し、無事?追っ払ったわけです。玄坊は天平19年に筑紫にて「藤原広嗣の祟り」によるという変死を遂げています。
(ちなみに、吉備真備は直前に阿倍内親王の皇太子学士になり、寝返ったため?無事だった)
天平20年(748年)元正太上天皇が69歳で天寿を全うすると、聖武天皇は待ってましたとばかり、位を阿倍内親王に譲り、自分はとっととボーズカットになってしまいます。天平感宝元年(749年)、孝謙天皇の誕生です。
ところが、孝謙即位の後、突如皇后宮の組織改編が行われます。
光明皇太后が直接政治を取るために、皇后の雑用係(^^;)が、突如太政官(中央政府)並の権力を持ったのです。この新・皇后宮は「紫微中台」(しびちゅうだい)と名付けられ、長官には光明皇太后お気に入りの藤原仲麻呂が就任しました。
つづく
橘諸兄の本拠地・恭仁京の造営が中止となり、都は難波京に移ったからです。
しかし、こんな物では、光明皇后は満足していなかったようです。
さてこの頃、難波京に移った聖武天皇を追いかけていく高貴な一行がおりました。
ところが、大阪の桜井(現在の枚方市か高槻市と言われるが所在不明)まで来たと
ころで、この一行は主が重体に陥り、恭仁京に引き返します。そして、その主はそのまま死んでしまうのです。
この主が安積親王。聖武天皇と県犬養広刀自の間の皇子で、唯一生存していた聖武の子息でした。享年17歳。
実は、この背後に光明皇后の陰謀があったのではと言う学説があります。
横田健一氏の「安積親王の死の前後」と言われる論文に紹介されております。
横田氏は、この時に恭仁京の留守官に藤原仲麻呂が任命されていることに注目し、光明皇后が仲麻呂を使って、安積親王を毒殺したという見解を示しています。
一方、これに対する「偶然説」(林陸朗氏、木本好信氏)もありますが、”脚の病”と言う極めて奇妙な病気で急逝した安積親王を巡って、宮中は疑心暗鬼に陥ったことは言うまでもありません。
しかし、大事な皇子が死んだというのに、聖武天皇は何の反応も示しません。
阿倍内親王が皇太子にいるから、どうでもいいとでも思っていたのでしょうか?謎であります。
奇妙なことは更に続きます。聖武天皇は突如難波京を出て紫香楽宮(信楽の離宮)に移ってしまいます。この時、光明皇后は聖武天皇についていきましたが、元正太上天皇と橘諸兄は残っております。
私は、この時聖武天皇が、藤原北家の領地が多い「摂津国三島路」を通って紫香楽宮に移ったことから、牟漏女王と光明皇后が共同して聖武を難波京から引っぱり出した物と考えております。
しかも、翌年になると難波京も紫香楽宮も「都」を宣言し、混乱に拍車がかかります。
更に、元正太上天皇は、光明皇后のやり口についに堪忍袋の緒が切れたのでしょうか。難波京周辺への行幸を繰り返し、おん自ら詔を乱発します。
と言うことで、まるで天皇が2人いるかの状態に陥るわけです。
この状態が解消したのは年末のことです。元正太上天皇の行幸の列が、突如東へ向かい、元正太上天皇は紫香楽宮に行ってしまったのです。
何がどうなったのか分かりませんが、ともかく「大仏を造らなければいけない」と言うところで双方の見解が一致して、聖武・光明と元正は仲直りしたようであります。
この裏にいたのが、またしても牟漏女王と思われます。というのも、この年末に牟漏女王の三男・藤原八束が時期はずれの昇進に預かっております。おそらく元正太上天皇を難波京より引っ張ってくる役割を果たしたからと私は考えております。
悲惨なのは橘諸兄でして、最後まで味方していた元正太上天皇にも裏切られてしまうのです。
このころ、紫香楽宮で放火が増えるのですが、中川収氏は「橘諸兄の手先による火付け」と推測しておられます。しかし、これは結局都を元に戻すきっかけを作っただけでした。
天平17年(745年)ついに、都は平城京に戻ってくるのです。
この後、聖武天皇は難波京に行幸しますが、瀕死の重体に陥ります。
その結果、光明皇后が実際の政治に口を出すことが更に増えたと思われます。
とりあえず、この時は聖武は死なずに済みましたが、
「大仏づくりに専念するため、早く位を阿倍内親王に譲りたい」
と思い始めるようになったようです。しかし、元正太上天皇が健在の間は、太上天皇が2人いるという事態を避けるために、我慢して在位するしかありませんでした。
このころの『続日本紀』を見てみると、聖武天皇ご贔屓の藤原八束の名前が減り、藤原仲麻呂の名前が出てくることが多くなってきます。
ここからも、聖武天皇より光明皇后が実際の政治に携わっていることが見て取れるのではないでしょうか。
また、この年までに藤原宮子の元で権勢を振るっていた玄坊は、突如筑紫へ左遷されます。光明皇后のもくろみ通り、大仏建立と共に権威が失墜し、無事?追っ払ったわけです。玄坊は天平19年に筑紫にて「藤原広嗣の祟り」によるという変死を遂げています。
(ちなみに、吉備真備は直前に阿倍内親王の皇太子学士になり、寝返ったため?無事だった)
天平20年(748年)元正太上天皇が69歳で天寿を全うすると、聖武天皇は待ってましたとばかり、位を阿倍内親王に譲り、自分はとっととボーズカットになってしまいます。天平感宝元年(749年)、孝謙天皇の誕生です。
ところが、孝謙即位の後、突如皇后宮の組織改編が行われます。
光明皇太后が直接政治を取るために、皇后の雑用係(^^;)が、突如太政官(中央政府)並の権力を持ったのです。この新・皇后宮は「紫微中台」(しびちゅうだい)と名付けられ、長官には光明皇太后お気に入りの藤原仲麻呂が就任しました。
つづく
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