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拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
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さて、ちょっと戻って、ようやく永手が干されヾ(^^;)状態から脱却できた後の話。

天平感宝元年(749年)でようやく不遇の状況から脱出できた永手は、その後弟・八束も抜き返して急速に出世していきます。

そして、天平宝字元年(757年)、橘奈良麻呂の変勃発。この時に糾問使として活躍したのが永手でした。
この時の永手と奈良麻呂の問答の内容が興味深いです。
※なお、『続日本紀』では「勅使」としか書いてないのですが、その前の条で使者として名前が挙げられているのが永手しかいないことから、この勅使は永手と考えられます。
永手「今回このような陰謀を考えたのはなぜか?」
奈良麻呂「内相(=藤原仲麻呂)の政治は甚だ無道であるので、奴を成敗しようと思ったのだ!」
永手「…では、“無道”な政治とは何だ?」
奈良麻呂「東大寺(の大仏)を建てたことだ!民衆も朝廷に仕える官僚も苦しんでいる!」
永手「官僚たちとは誰のことを言っているのだ?それと東大寺を造り始めたのはお前の父・橘諸兄が大臣だった時じゃないか、その大臣の子が人民が苦しんでるとか言える道理があるのか?」
奈良麻呂「」
…『続日本紀』は「奈良麻呂は返答に窮し、屈服した」と書いています。

しかし、永手の追求は的確なんですが、辛辣というか。橘諸兄・奈良麻呂親子に対する憎しみさえ感じます。
乱に連坐した式家の人ですら昇進している例があるのに、自分は放置された。と言うか連坐した人にすら並ばれることすらあった。12年間昇進できなかった原因は橘諸兄にあると考えてもおかしくはないでしょう。とりわけ諸兄と永手は伯父甥の関係にあっただけに、その怨みは更に強い物があったと思います。
諸兄にすれば反乱に関わった甥を死刑とかにしなかったことで恩情を掛けたつもりだったのでしょうが、結局それは裏目に出てしまったと言うことですね。


(おしまい)


追記

藤原永手は12年間干されてますが、この期間は23歳から35歳のころに当たります。つまり一番仕事を覚えられる時期に官人としての経験0で過ごさなければいけなかった。
また、「聖武天皇の恩寵が深い」と言われた同母弟・八束は『続日本紀』によれば早くから天皇側近として重要な仕事をこなしていましたので比較されることも多かったのではないかと。
永手は復帰は果たせても、経験がないと言うことで困ったり、弟と比較されることが多かったのではないかなー、つらかっただろうなー、と今回考察してみて感じました。

それもこれも、反乱に関わったという「身から出たさび」が理由ではあるんですが、それは永手の当時の年齢(何しろ20代前半)とか、若くして危機に立たされた藤原氏を背負って立っている!と言う意気込みからきているのもすごくよく分かるので、何とも気の毒だなあ、と。

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