拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
拙ブログ関連ネタ こちら
以前、神戸市立博物館所蔵の「南蛮屏風」と言うのをネタにしたときに、この元所蔵者だった池長孟の名前をちらっと出したことがある。
先日、何かの用事でこの池長氏をネットで調べたのだが、まさしく戦前のお大尽だったようである…
何回か結婚されたようなんだが、その妻の一人にあの淀川長治の姉がいたそうである。そしてその新居として建てたのがこの家だとか。
こちら
ちなみに建てられたのは昭和3年(1928年)。世界大恐慌のまっただ中でこの豪邸建てたと言うんですから、生前の池長氏の富豪ぶりがうかがえます。
で、結婚ほやほやでデレデレ状態だった(はずの)池長氏は、長治姉の要望を聞いてダンスホールを造ったりと凝った設計にしたのです が、長治の姉は中々派手な性格で結婚向きじゃなかった女性のようで(^^;)結局数年で離婚に到ったとか云々…
そしてこの豪邸は戦後、池長のコレクションを維持するために華僑系の医師に売却されます。昭和21年(1946年)のことでした。
しかし、それを持ってしても池長のコレクションにかかってくる財産税はGHQ支配下の日本ではうなぎ登りに高騰、弱みにつけ込んで池長のコレクションを買いたたこうと狙ってくる美術品ブローカーも多かったらしく、コレクション散逸を恐れた池長は、結局昭和27年(1952年)にコレクションを神戸市に丸ごと寄贈します。それらを元にして作られたのが神戸市立博物館というわけです。
…で、医者に売却された豪邸のその後ですが
その後も病院として使われていました。
(続きは「つづきはこちら」をクリック)
以前、神戸市立博物館所蔵の「南蛮屏風」と言うのをネタにしたときに、この元所蔵者だった池長孟の名前をちらっと出したことがある。
先日、何かの用事でこの池長氏をネットで調べたのだが、まさしく戦前のお大尽だったようである…
何回か結婚されたようなんだが、その妻の一人にあの淀川長治の姉がいたそうである。そしてその新居として建てたのがこの家だとか。
こちら
ちなみに建てられたのは昭和3年(1928年)。世界大恐慌のまっただ中でこの豪邸建てたと言うんですから、生前の池長氏の富豪ぶりがうかがえます。
で、結婚ほやほやでデレデレ状態だった(はずの)池長氏は、長治姉の要望を聞いてダンスホールを造ったりと凝った設計にしたのです が、長治の姉は中々派手な性格で結婚向きじゃなかった女性のようで(^^;)結局数年で離婚に到ったとか云々…
そしてこの豪邸は戦後、池長のコレクションを維持するために華僑系の医師に売却されます。昭和21年(1946年)のことでした。
しかし、それを持ってしても池長のコレクションにかかってくる財産税はGHQ支配下の日本ではうなぎ登りに高騰、弱みにつけ込んで池長のコレクションを買いたたこうと狙ってくる美術品ブローカーも多かったらしく、コレクション散逸を恐れた池長は、結局昭和27年(1952年)にコレクションを神戸市に丸ごと寄贈します。それらを元にして作られたのが神戸市立博物館というわけです。
…で、医者に売却された豪邸のその後ですが
その後も病院として使われていました。
(続きは「つづきはこちら」をクリック)
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いや、最近こちらのブログは見てなかったので本当に申し訳ない
義久ゆかりのおかし・ふっかん
義久ゆかりのおかし・ふっかん 追記
義弘ゆかりのお菓子・加治木饅頭は私も知っていたし実は食べたこともあるのだが、義久にはそういうもんは伝わってないんだろうな~と何となく思いこんでいた。だって影薄いし義久ヾ(--;)
今回そういう物が存在するのを知って、何かうれしいです。
…が、内容をよく読むと、地元の人にもほとんど知名度0だったらしい⊂(。Д。⊂⌒`つ
日持ちしないというのが理由らしいですが、それだけなのかなあ。
関連 これまた日持ちしない佐土原島津家縁のくじらまんじゅう(鯨羊羹)
何で宮崎も鹿児島も暑いとこなのに日持ちしない物が名物…
義久ゆかりのおかし・ふっかん
義久ゆかりのおかし・ふっかん 追記
義弘ゆかりのお菓子・加治木饅頭は私も知っていたし実は食べたこともあるのだが、義久にはそういうもんは伝わってないんだろうな~と何となく思いこんでいた。だって影薄いし義久ヾ(--;)
今回そういう物が存在するのを知って、何かうれしいです。
…が、内容をよく読むと、地元の人にもほとんど知名度0だったらしい⊂(。Д。⊂⌒`つ
日持ちしないというのが理由らしいですが、それだけなのかなあ。
関連 これまた日持ちしない佐土原島津家縁のくじらまんじゅう(鯨羊羹)
何で宮崎も鹿児島も暑いとこなのに日持ちしない物が名物…
第1話はこちら
第2話はこちら
宝永5年(1708年)2月、尾張藩主・徳川吉通の妹の磯姫が綱吉の希望により養女となり、「松姫」と改名します。これは政略結婚のための養子縁組で、同年4月9日には加賀藩世子・前田幸徳(藩主綱紀の子、「幸徳」は林氏の誤字で正しくは「前田吉徳」)と婚約します。その2日後の4月11日には老中・秋元喬知が松姫輿入れの責任者と決定します。
「松尾相匡日記」の4月18日条、秋元喬知より将軍命令として梅津が松姫付き上臈となったことを記しています。秋元は梅津を大奥出仕する頃から知っており推薦した物と思われます。また、梅津も支援者であった右衛門佐が死んだこともあり、大奥に居づらい物があったのかも知れません。
同年11月17日に松姫は江戸の加賀藩邸に輿入れします。この時に梅津も大奥を引き払い加賀藩邸に移ったと思われますが、松尾相匡日記には記載が無く詳細は不明です(林氏の考察では多忙で弟に連絡するひまがなかったんじゃないかと p.217)。前田家世子の「御守殿様」となった松姫、将軍の娘をもらうとともかく金がかかることは大分前に拙ブログの竹姫の話でも書きましたが、この松姫の場合でも
・縁談決定(宝永5年4月)と同時に松姫御殿の工事を始めたが、加賀藩お抱えの大工では足りず、江戸からも大工600人を臨時雇用した
と突貫工事+臨時出費は大変な物だったようです。またその気遣いは松姫だけに限らず、お付き女中にまで及んでいました。参考文献に寄れば、梅津の部屋はその候名にあやかって襖紙から備え付けの家具まですべて梅の意匠でそろえられたそうです。私の感覚から言うとtoo much過ぎるような気がしますが…江戸時代の武家のセンスではそれがいいことだったんでしょうね。
その後しばらくは梅津は松姫付きの上臈として加賀藩屋敷で過ごしていたと思われます。
また年度不明ながら駿河台に休息屋敷を拝領していましたが、相匡日記享保2年(1717年)1月29日条によるとこの屋敷は大火によって焼けてしまったそうです。が、その後下谷長者町(現在の東京都上野3丁目辺り)にあった「下屋敷」に引っ越したと言うことから、大名並に上屋敷と下屋敷を持っていたようです。
しかし晩年の梅津は親しい人に先立たれる不幸に見舞われます。
享保5年(1720年)7月、養女の見保が25歳の若さで産褥で死去。
そのわずか2ヶ月後の9月20日には主人の松姫が22歳で急逝します。26日に松姫の葬儀が行われ、その翌日27日には梅津は出家、以後は「演慈院」と名乗り、加賀藩の屋敷を去って駿河台の拝領屋敷に移ります。
松姫の女中は梅津が京からリクルートしてきた公家関係の娘が多かったようで、そのうち2人は梅津に頼んで大奥女中に転身しますが(林氏によるとそのうちの一人が中園宰相季定女・上臈豊岡らしい)、ほとんどは暇をもらい京都に帰ってしまったようです。梅津のように出家して松姫の菩提を弔ったのは梅津を入れても5人だけでした。
すでに67歳となっていた梅津にとり、年若い養女(実は姪)と主人が連続して早世したことは非常なショックだったようで、翌年には重い病気で倒れてしまいます。相匡日記の享保6年(1721年)10月22日条では梅津の病状が思わしくないことが記述されています。相匡も事態を重く見て、院(たぶん霊元院?)の許しを得て翌年2月21日に京を出発、3月2日の夜中に梅津の駿河台屋敷に到着します。将軍側詰の医師・松庵ともう一人の医師が交代で無休で看護していましたが、回復は望み薄だった様子が相匡日記に綴られているそうです。相匡も3月6日に娘(梅津の養女・務津)の婚家先である永見家を訪問した以外はずっと姉の看病に当たっていましたが、容態は思わしくありませんでした。
3月8日には将軍御側医師・橘隆庵が使わされ、当時の将軍・徳川吉宗からも見舞いの使者が送られ、15日には養安院法印という医師も加わりますが病状は良くならなかったらしく、その日の夕方には祐天寺から和尚がおそらく祈祷のために招かれていますが、梅津はこの和尚に遺言めいたことを言ったようです。16日には梅津は使用人達に礼と別れを告げ、源空寺の和尚より法号「慈光院天誉華月貞春」を授かります。17日の相匡日記には「昼夜静カニ伏シテ仏名ヲ唱エラレ、一家ニコレヲ示サル」とだけ綴られているそうです。
その翌日の18日未明、演慈院こと梅津死去。享年69歳。41歳になって婚家が断絶、それから大奥奉公という気苦労の多い生涯を選びますが、弟が遠路はるばる京都からやってきて看取られたのは幸運だったと思います。
法名を授けてくれた源空寺に葬られたと言うことですが、相匡の子孫が昭和になってから探したものの、度重なる火災と東京大空襲により墓は不明になっているということです。
いかがでしたでしょうか。
江戸時代中期の高級大奥女中のかなり裕福な生活と同時に貧乏公家のサバイバルヾ(^^;)とか、なかなかいろんな事情をかいま見ることの出来る人物ではないかと。
興味深いのは大名正室であったにもかかわらず、たびたび京の実家に帰省しているらしいこと。通説では「入り鉄砲出女」で大名正室が江戸を出るのは無理だったはずなのですが、この辺は今後の研究が待たれる所です。
うーん、しかし何で知名度低いのかな。
紹介されたのが歴史関係雑誌じゃない『新潮45』だからなんだろうか。学術論文に引用するときにタイトル書くのがはばかられるとかヾ(--;)
参考文献:「京女の見た元禄「大奥物語」」林英夫(『新潮45』昭和62年11月号)
第2話はこちら
宝永5年(1708年)2月、尾張藩主・徳川吉通の妹の磯姫が綱吉の希望により養女となり、「松姫」と改名します。これは政略結婚のための養子縁組で、同年4月9日には加賀藩世子・前田幸徳(藩主綱紀の子、「幸徳」は林氏の誤字で正しくは「前田吉徳」)と婚約します。その2日後の4月11日には老中・秋元喬知が松姫輿入れの責任者と決定します。
「松尾相匡日記」の4月18日条、秋元喬知より将軍命令として梅津が松姫付き上臈となったことを記しています。秋元は梅津を大奥出仕する頃から知っており推薦した物と思われます。また、梅津も支援者であった右衛門佐が死んだこともあり、大奥に居づらい物があったのかも知れません。
同年11月17日に松姫は江戸の加賀藩邸に輿入れします。この時に梅津も大奥を引き払い加賀藩邸に移ったと思われますが、松尾相匡日記には記載が無く詳細は不明です(林氏の考察では多忙で弟に連絡するひまがなかったんじゃないかと p.217)。前田家世子の「御守殿様」となった松姫、将軍の娘をもらうとともかく金がかかることは大分前に拙ブログの竹姫の話でも書きましたが、この松姫の場合でも
・縁談決定(宝永5年4月)と同時に松姫御殿の工事を始めたが、加賀藩お抱えの大工では足りず、江戸からも大工600人を臨時雇用した
と突貫工事+臨時出費は大変な物だったようです。またその気遣いは松姫だけに限らず、お付き女中にまで及んでいました。参考文献に寄れば、梅津の部屋はその候名にあやかって襖紙から備え付けの家具まですべて梅の意匠でそろえられたそうです。私の感覚から言うとtoo much過ぎるような気がしますが…江戸時代の武家のセンスではそれがいいことだったんでしょうね。
その後しばらくは梅津は松姫付きの上臈として加賀藩屋敷で過ごしていたと思われます。
また年度不明ながら駿河台に休息屋敷を拝領していましたが、相匡日記享保2年(1717年)1月29日条によるとこの屋敷は大火によって焼けてしまったそうです。が、その後下谷長者町(現在の東京都上野3丁目辺り)にあった「下屋敷」に引っ越したと言うことから、大名並に上屋敷と下屋敷を持っていたようです。
しかし晩年の梅津は親しい人に先立たれる不幸に見舞われます。
享保5年(1720年)7月、養女の見保が25歳の若さで産褥で死去。
そのわずか2ヶ月後の9月20日には主人の松姫が22歳で急逝します。26日に松姫の葬儀が行われ、その翌日27日には梅津は出家、以後は「演慈院」と名乗り、加賀藩の屋敷を去って駿河台の拝領屋敷に移ります。
松姫の女中は梅津が京からリクルートしてきた公家関係の娘が多かったようで、そのうち2人は梅津に頼んで大奥女中に転身しますが(林氏によるとそのうちの一人が中園宰相季定女・上臈豊岡らしい)、ほとんどは暇をもらい京都に帰ってしまったようです。梅津のように出家して松姫の菩提を弔ったのは梅津を入れても5人だけでした。
すでに67歳となっていた梅津にとり、年若い養女(実は姪)と主人が連続して早世したことは非常なショックだったようで、翌年には重い病気で倒れてしまいます。相匡日記の享保6年(1721年)10月22日条では梅津の病状が思わしくないことが記述されています。相匡も事態を重く見て、院(たぶん霊元院?)の許しを得て翌年2月21日に京を出発、3月2日の夜中に梅津の駿河台屋敷に到着します。将軍側詰の医師・松庵ともう一人の医師が交代で無休で看護していましたが、回復は望み薄だった様子が相匡日記に綴られているそうです。相匡も3月6日に娘(梅津の養女・務津)の婚家先である永見家を訪問した以外はずっと姉の看病に当たっていましたが、容態は思わしくありませんでした。
3月8日には将軍御側医師・橘隆庵が使わされ、当時の将軍・徳川吉宗からも見舞いの使者が送られ、15日には養安院法印という医師も加わりますが病状は良くならなかったらしく、その日の夕方には祐天寺から和尚がおそらく祈祷のために招かれていますが、梅津はこの和尚に遺言めいたことを言ったようです。16日には梅津は使用人達に礼と別れを告げ、源空寺の和尚より法号「慈光院天誉華月貞春」を授かります。17日の相匡日記には「昼夜静カニ伏シテ仏名ヲ唱エラレ、一家ニコレヲ示サル」とだけ綴られているそうです。
その翌日の18日未明、演慈院こと梅津死去。享年69歳。41歳になって婚家が断絶、それから大奥奉公という気苦労の多い生涯を選びますが、弟が遠路はるばる京都からやってきて看取られたのは幸運だったと思います。
法名を授けてくれた源空寺に葬られたと言うことですが、相匡の子孫が昭和になってから探したものの、度重なる火災と東京大空襲により墓は不明になっているということです。
いかがでしたでしょうか。
江戸時代中期の高級大奥女中のかなり裕福な生活と同時に貧乏公家のサバイバルヾ(^^;)とか、なかなかいろんな事情をかいま見ることの出来る人物ではないかと。
興味深いのは大名正室であったにもかかわらず、たびたび京の実家に帰省しているらしいこと。通説では「入り鉄砲出女」で大名正室が江戸を出るのは無理だったはずなのですが、この辺は今後の研究が待たれる所です。
うーん、しかし何で知名度低いのかな。
紹介されたのが歴史関係雑誌じゃない『新潮45』だからなんだろうか。学術論文に引用するときにタイトル書くのがはばかられるとかヾ(--;)
参考文献:「京女の見た元禄「大奥物語」」林英夫(『新潮45』昭和62年11月号)
5月22日の『真田丸』では徳川家康が小松姫(本多忠勝の娘)を真田信幸に押しつけたため、それまでいた病弱の正室が側室に追われてしまうという哀しいシーンがありました。
この話、今回紹介されるまで私は知らなかったです(信幸は小松姫が初婚かと思っていたんだよ ごめんよ草葉の陰のいろんな人たちヾ(^^;))
さて、大名の正室といえば安泰
…
と思われがちですが、全然そうではなく、信幸の先室のように御家の事情でその地位から追われてしまうことがわりとあったようです。
管見で見た限りで例示してみる。
思いだした順なので時系列は無茶苦茶ですヾ(^^;)
・黒田長政 先室:蜂須賀小六の娘(糸) 後室:徳川家康養女(栄) 先室は離婚、実家に返される
これは2年前の大河『軍師官兵衛』でしっかりやっていたからご記憶の方も多いかと 拙ブログではこの辺
・池田輝政 先室:中川清秀の娘(糸) 後室:徳川家康の娘(督) 先室は離婚、実家へ返される
城は有名な池田輝政ですが、内輪ではこんな悲惨な家族事情があったんです…マニアには有名な話かと
・津軽信牧 先室:石田三成の娘(辰) 後室:徳川家康養女(満天) 先室は側室に降格
三成マニアには有名な話かもですね
・浅野長晟 先室:詳細未詳(ごめんなさい) 後室:徳川家康の娘(振) 先室は側室に降格
長晟は兄・幸長の急逝で急に跡継いだのが原因で、家康の娘を押しつけられこうなったのでした。
大名ではないですが、島津家中の有名分家でもこういう例がある。
・島津久元 先室:新納忠増の娘 後室:島津義弘の娘(御下) 先室は離婚、その後の消息は未詳
4例とも、自分より上意の者の命令で政略結婚を押しつけられ、御家安泰を考えて先室を追い出す…という形になったと考えられます。が!!!黒田長政の場合はちょっと違うかもしれないがヾ(--;)
この中で特殊なのが津軽信牧。先室は離婚せず、側室に降格された上、津軽家の飛び地に住まわされるという待遇になります。これは、先室の実父があの石田三成であり、もはや戻る実家もなく、かといって追放するにも忍びなくこういう扱いになったようです。
真田信幸の先室も、実家はすでになかったと考えられ(実家は信幸の伯父の家だが、長篠の戦いで父が戦死し、家督は信幸の父・昌幸が継いでいた)、離婚するよりは側室扱いのほうがまだマシかも、という事情があったと考えられます。
正室の座を追われ、側室に転落…というのは本当に悲惨ですが、出戻り出来る実家もないからという事情が背景にあるので、本当に当事者には過酷なものだったでしょう。まさしく「耐えがたきを耐え」。
この話、今回紹介されるまで私は知らなかったです(信幸は小松姫が初婚かと思っていたんだよ ごめんよ草葉の陰のいろんな人たちヾ(^^;))
さて、大名の正室といえば安泰
…
と思われがちですが、全然そうではなく、信幸の先室のように御家の事情でその地位から追われてしまうことがわりとあったようです。
管見で見た限りで例示してみる。
思いだした順なので時系列は無茶苦茶ですヾ(^^;)
・黒田長政 先室:蜂須賀小六の娘(糸) 後室:徳川家康養女(栄) 先室は離婚、実家に返される
これは2年前の大河『軍師官兵衛』でしっかりやっていたからご記憶の方も多いかと 拙ブログではこの辺
・池田輝政 先室:中川清秀の娘(糸) 後室:徳川家康の娘(督) 先室は離婚、実家へ返される
城は有名な池田輝政ですが、内輪ではこんな悲惨な家族事情があったんです…マニアには有名な話かと
・津軽信牧 先室:石田三成の娘(辰) 後室:徳川家康養女(満天) 先室は側室に降格
三成マニアには有名な話かもですね
・浅野長晟 先室:詳細未詳(ごめんなさい) 後室:徳川家康の娘(振) 先室は側室に降格
長晟は兄・幸長の急逝で急に跡継いだのが原因で、家康の娘を押しつけられこうなったのでした。
大名ではないですが、島津家中の有名分家でもこういう例がある。
・島津久元 先室:新納忠増の娘 後室:島津義弘の娘(御下) 先室は離婚、その後の消息は未詳
4例とも、自分より上意の者の命令で政略結婚を押しつけられ、御家安泰を考えて先室を追い出す…という形になったと考えられます。が!!!黒田長政の場合はちょっと違うかもしれないがヾ(--;)
この中で特殊なのが津軽信牧。先室は離婚せず、側室に降格された上、津軽家の飛び地に住まわされるという待遇になります。これは、先室の実父があの石田三成であり、もはや戻る実家もなく、かといって追放するにも忍びなくこういう扱いになったようです。
真田信幸の先室も、実家はすでになかったと考えられ(実家は信幸の伯父の家だが、長篠の戦いで父が戦死し、家督は信幸の父・昌幸が継いでいた)、離婚するよりは側室扱いのほうがまだマシかも、という事情があったと考えられます。
正室の座を追われ、側室に転落…というのは本当に悲惨ですが、出戻り出来る実家もないからという事情が背景にあるので、本当に当事者には過酷なものだったでしょう。まさしく「耐えがたきを耐え」。
前の話はこちら
下級公家・松尾相氏の娘であったシゲは備中松山藩5万石の殿であった水谷勝宗の後妻に迎えられ、子供はいなかった物の、婚家には優遇される安泰の人生をつかんだかと思われました。
が、元禄初期に夫、義理の息子、その末期養子が次々と死んでしまったことで水谷家は断絶、シゲも実家に帰される身の上となります
…
ところが、そのころ江戸城大奥で起こっていた権力争いによって、シゲは再び江戸に戻ることとなるのです。
延宝8年(1680年)、4代将軍徳川家綱が子供無く死去したことにより、弟の綱吉が5代目の将軍となります。
綱吉には五摂家の鷹司家から迎えた信子という正室がいましたが二人の間には子供が無く、下級武士出身の側室・お伝の方との間に男子1人+女子1人の子供がおり、また綱吉の生母・桂昌院がお伝の方を支持したために、正室vs側室のバトルが勃発したことは数多くの大奥ドラマのネタにされていて非常に有名です。
子供が無く形勢不利の鷹司信子は、姉の新上西門院・鷹司房子に加勢を依頼、房子の推薦で大奥に送り込まれたのが公家・水無瀬家の姫で房子の女房を勤めていた”常盤井”-後の”右衛門佐”です。
右衛門佐の学才はたちまちにして綱吉の目に留まり、林英夫氏によると元禄3年(1690年)に京都から北村季吟・湖春親子が幕府歌学方に、その後住吉具慶が幕府御用絵師に、また能役者中山喜兵衛・狂言師脇本作左衛門が幕府召し抱えになったのも右衛門佐の推挙によるものだそうです。ちなみに北村季吟は右衛門佐の師匠だったとか。
このようにして綱吉の歓心を得ることに成功した右衛門佐が、大奥を自分の腹心で固めようとしたことは容易に想像できます。この時に候補に挙がったのが、元禄7年に京の実家に戻されてしまった松尾シゲでした。
水無瀬家はシゲの大叔父・松尾相行(松尾大社神主)の正室の実家であること、天和3年(1683)の中宮立后に於いて右衛門佐(当時”常盤井”)が上臈、シゲの妹・”越前局”が下臈として勤侍したことなどから水無瀬家と松尾家は親しい関係だったのではないかと林氏は推測しています(p.215)。
シゲが公家社会ばかりでなく、元大名正室として武家社会にも詳しいと思われることが決め手になったと考えられます。
元禄7年(1694年)10月25日の松尾相匡日記には「江戸御本丸女中右衛門佐殿ヨリ書状到来、関東下向アルベシ、里亭ニ御在留ノ後、御城勤仕ノ沙汰アル由、示シ来ル」とあり、ここからシゲが実家に戻されてすぐに右衛門佐からのリクルートは始まっていたと思われます。それに対するシゲの反応は参考文献に記載無く不明ですが、京の実家で平穏に余生を過ごすか、多額の金品と引き替えに噂には漏れ聞いていたであろう修羅場の大奥に行くか、非常に迷ったことと推測されます。
しかし、翌年元禄8年2月15日の松尾相匡日記では「鷹司殿ノ御使高橋土佐守ガ、関東下向ニツキ、コノサイニ梅津ニ同道シテ江戸ニ来テホシイ旨」と書かれていることから、結局、シゲは右衛門佐の熱心な勧誘に負けたものと思われます。
翌日の2月16日には母の栄正院、妹・越前局、弟・相匡と召使い2人を連れて祇園舎(現在の八坂神社)、下鴨本明院(詳細未詳)、清水寺を参詣し、2月19日には槙尾山心王院(現在の西明寺か)で夫・水谷勝宗7回忌法要を行っています。林氏の考察の通り、シゲの江戸下向が決まって、最後の家族旅行を行った物と思われます。大奥の高級女中になると簡単に江戸城から出ることが出来なくなるのは皆様ご存じの通りで、松尾一家は今生の別れを覚悟したことでしょう。
そして2月23日の午前6時、夜明けと同時にシゲは故郷の京を出発します。大津(現在の滋賀県大津市)までは弟・相匡が見送りに付いてきてくれました。松尾家所蔵の同年3月中頃の右衛門佐→栄正院の書状でシゲの江戸到着を知らせていることから、京から江戸まで1ヶ月弱かかったことがわかります。
4月30日、シゲは江戸城本丸大奥の右衛門佐の局に入り、仮の名”ラク”を与えられます。
5月2日には御広敷に伺候し、右衛門佐の案内で若年寄・秋元喬知に伺候、「上臈品(じょうろうほん)」の地位につけられます。松尾相匡日記では「(上臈品とは)当地公卿、殿上ノ息女、或ハ大名等ノ息女ナリ、眉目ノ躰ナリ」と書かれているそうです。本来「上臈品」は御客会釈(おきゃくあしらい)を勤めた後に就く職でしたが、ラク(元”シゲ”)はいきなり上臈品になります。林氏はラクが元大名の正室であったことからすぐに任じられたのではと考察しています。異例の事と思われ、相匡日記にあるように「眉目ノ躰(=大変な誉れ)」であったことは間違いないでしょう。
5月4日には御広敷で柳沢吉保、秋元喬知、右衛門佐の立ち会いの元、候名”梅津”を名乗るよう命じられます。但し、先述の元禄8年2月15日松尾相匡日記の記述からみると、正式に出仕する前から”梅津”を名乗ることは決まっていたかも知れません。ところで、参考文献では考察されていませんが、松尾大社の近くには現在も梅津の地名があり、その関連による名付けかと思われます。最も梅津は松尾大社じゃなくて梅宮大社の本拠地なんですが(^^;)
5月11日には初出仕を迎え、綱吉正室・鷹司信子から「懇詞」を賜り、「御服」一重を拝領したと梅津の手紙に書かれていたと相匡日記は綴っています。
その後10年近く、梅津は信子付きの上臈御年寄となっていたと思われます。
元禄14年(1701年)、弟・相匡の娘である務津(むつ、当時9歳)を養女とし、江戸に下向させて、3500石の旗本・永見心之丞に嫁がせています。
12年後の正徳三年(1713年)、務津の妹である見保(みほ)も養女として江戸に迎え、同年8月6日に旗本大番頭・高木九助の息子・酒之丞正栄に嫁がせています。
これは梅津が実家を救済するために縁組みをまとめたようで、相匡日記正徳4年(1714年)6月29日条には「予、些少トイエドモ姉梅津殿介抱ノ故也」と娘の縁談をまとめた梅津に感謝の文が綴られているそうです。江戸時代の中下級公家が貧乏だったのは拙ブログでも以前言及したことがありますが、社家の分家という立場の松尾家も似たような状況であったことは推測されます。梅津が右衛門佐の求めに応じて気苦労の多い大奥勤めを選んだのもそういう背景があったからと考えられます。また、当時の上流階級は一度親族関係を結ぶと贈答のやりとりがかなり盛んで、先述の梅津の姪(養女)たちも婚家先から実家にせっせと贈答の品を送っているのですが、これらが松尾家の家計の手助けになったことは言うまでもありません。
相匡日記によると、梅津は宝永3年(1706年)1月には将軍綱吉から御賞賜として「判金」を賜ります。この時に梅津は表御殿に出ることなく、老中・秋元喬知、若年寄・加藤明英が大奥の梅津の部屋に使わされて判金を受け取っています。これはとても名誉なことだったらしく、相匡日記には「部屋ニ於テ賜ルノ事、眉目タリ」と記されているそうです。
ところがその2ヶ月後の3月11日、梅津の支援者であった右衛門佐が小日向(現東京都文京区)の拝領屋敷で44歳で死去します。このことが梅津のその後に影響を与えたと思われます。
まだちょっと長くなりそうなので、ここでいったん切ります。
下級公家・松尾相氏の娘であったシゲは備中松山藩5万石の殿であった水谷勝宗の後妻に迎えられ、子供はいなかった物の、婚家には優遇される安泰の人生をつかんだかと思われました。
が、元禄初期に夫、義理の息子、その末期養子が次々と死んでしまったことで水谷家は断絶、シゲも実家に帰される身の上となります
…
ところが、そのころ江戸城大奥で起こっていた権力争いによって、シゲは再び江戸に戻ることとなるのです。
延宝8年(1680年)、4代将軍徳川家綱が子供無く死去したことにより、弟の綱吉が5代目の将軍となります。
綱吉には五摂家の鷹司家から迎えた信子という正室がいましたが二人の間には子供が無く、下級武士出身の側室・お伝の方との間に男子1人+女子1人の子供がおり、また綱吉の生母・桂昌院がお伝の方を支持したために、正室vs側室のバトルが勃発したことは数多くの大奥ドラマのネタにされていて非常に有名です。
子供が無く形勢不利の鷹司信子は、姉の新上西門院・鷹司房子に加勢を依頼、房子の推薦で大奥に送り込まれたのが公家・水無瀬家の姫で房子の女房を勤めていた”常盤井”-後の”右衛門佐”です。
右衛門佐の学才はたちまちにして綱吉の目に留まり、林英夫氏によると元禄3年(1690年)に京都から北村季吟・湖春親子が幕府歌学方に、その後住吉具慶が幕府御用絵師に、また能役者中山喜兵衛・狂言師脇本作左衛門が幕府召し抱えになったのも右衛門佐の推挙によるものだそうです。ちなみに北村季吟は右衛門佐の師匠だったとか。
このようにして綱吉の歓心を得ることに成功した右衛門佐が、大奥を自分の腹心で固めようとしたことは容易に想像できます。この時に候補に挙がったのが、元禄7年に京の実家に戻されてしまった松尾シゲでした。
水無瀬家はシゲの大叔父・松尾相行(松尾大社神主)の正室の実家であること、天和3年(1683)の中宮立后に於いて右衛門佐(当時”常盤井”)が上臈、シゲの妹・”越前局”が下臈として勤侍したことなどから水無瀬家と松尾家は親しい関係だったのではないかと林氏は推測しています(p.215)。
シゲが公家社会ばかりでなく、元大名正室として武家社会にも詳しいと思われることが決め手になったと考えられます。
元禄7年(1694年)10月25日の松尾相匡日記には「江戸御本丸女中右衛門佐殿ヨリ書状到来、関東下向アルベシ、里亭ニ御在留ノ後、御城勤仕ノ沙汰アル由、示シ来ル」とあり、ここからシゲが実家に戻されてすぐに右衛門佐からのリクルートは始まっていたと思われます。それに対するシゲの反応は参考文献に記載無く不明ですが、京の実家で平穏に余生を過ごすか、多額の金品と引き替えに噂には漏れ聞いていたであろう修羅場の大奥に行くか、非常に迷ったことと推測されます。
しかし、翌年元禄8年2月15日の松尾相匡日記では「鷹司殿ノ御使高橋土佐守ガ、関東下向ニツキ、コノサイニ梅津ニ同道シテ江戸ニ来テホシイ旨」と書かれていることから、結局、シゲは右衛門佐の熱心な勧誘に負けたものと思われます。
翌日の2月16日には母の栄正院、妹・越前局、弟・相匡と召使い2人を連れて祇園舎(現在の八坂神社)、下鴨本明院(詳細未詳)、清水寺を参詣し、2月19日には槙尾山心王院(現在の西明寺か)で夫・水谷勝宗7回忌法要を行っています。林氏の考察の通り、シゲの江戸下向が決まって、最後の家族旅行を行った物と思われます。大奥の高級女中になると簡単に江戸城から出ることが出来なくなるのは皆様ご存じの通りで、松尾一家は今生の別れを覚悟したことでしょう。
そして2月23日の午前6時、夜明けと同時にシゲは故郷の京を出発します。大津(現在の滋賀県大津市)までは弟・相匡が見送りに付いてきてくれました。松尾家所蔵の同年3月中頃の右衛門佐→栄正院の書状でシゲの江戸到着を知らせていることから、京から江戸まで1ヶ月弱かかったことがわかります。
4月30日、シゲは江戸城本丸大奥の右衛門佐の局に入り、仮の名”ラク”を与えられます。
5月2日には御広敷に伺候し、右衛門佐の案内で若年寄・秋元喬知に伺候、「上臈品(じょうろうほん)」の地位につけられます。松尾相匡日記では「(上臈品とは)当地公卿、殿上ノ息女、或ハ大名等ノ息女ナリ、眉目ノ躰ナリ」と書かれているそうです。本来「上臈品」は御客会釈(おきゃくあしらい)を勤めた後に就く職でしたが、ラク(元”シゲ”)はいきなり上臈品になります。林氏はラクが元大名の正室であったことからすぐに任じられたのではと考察しています。異例の事と思われ、相匡日記にあるように「眉目ノ躰(=大変な誉れ)」であったことは間違いないでしょう。
5月4日には御広敷で柳沢吉保、秋元喬知、右衛門佐の立ち会いの元、候名”梅津”を名乗るよう命じられます。但し、先述の元禄8年2月15日松尾相匡日記の記述からみると、正式に出仕する前から”梅津”を名乗ることは決まっていたかも知れません。ところで、参考文献では考察されていませんが、松尾大社の近くには現在も梅津の地名があり、その関連による名付けかと思われます。最も梅津は松尾大社じゃなくて梅宮大社の本拠地なんですが(^^;)
5月11日には初出仕を迎え、綱吉正室・鷹司信子から「懇詞」を賜り、「御服」一重を拝領したと梅津の手紙に書かれていたと相匡日記は綴っています。
その後10年近く、梅津は信子付きの上臈御年寄となっていたと思われます。
元禄14年(1701年)、弟・相匡の娘である務津(むつ、当時9歳)を養女とし、江戸に下向させて、3500石の旗本・永見心之丞に嫁がせています。
12年後の正徳三年(1713年)、務津の妹である見保(みほ)も養女として江戸に迎え、同年8月6日に旗本大番頭・高木九助の息子・酒之丞正栄に嫁がせています。
これは梅津が実家を救済するために縁組みをまとめたようで、相匡日記正徳4年(1714年)6月29日条には「予、些少トイエドモ姉梅津殿介抱ノ故也」と娘の縁談をまとめた梅津に感謝の文が綴られているそうです。江戸時代の中下級公家が貧乏だったのは拙ブログでも以前言及したことがありますが、社家の分家という立場の松尾家も似たような状況であったことは推測されます。梅津が右衛門佐の求めに応じて気苦労の多い大奥勤めを選んだのもそういう背景があったからと考えられます。また、当時の上流階級は一度親族関係を結ぶと贈答のやりとりがかなり盛んで、先述の梅津の姪(養女)たちも婚家先から実家にせっせと贈答の品を送っているのですが、これらが松尾家の家計の手助けになったことは言うまでもありません。
相匡日記によると、梅津は宝永3年(1706年)1月には将軍綱吉から御賞賜として「判金」を賜ります。この時に梅津は表御殿に出ることなく、老中・秋元喬知、若年寄・加藤明英が大奥の梅津の部屋に使わされて判金を受け取っています。これはとても名誉なことだったらしく、相匡日記には「部屋ニ於テ賜ルノ事、眉目タリ」と記されているそうです。
ところがその2ヶ月後の3月11日、梅津の支援者であった右衛門佐が小日向(現東京都文京区)の拝領屋敷で44歳で死去します。このことが梅津のその後に影響を与えたと思われます。
まだちょっと長くなりそうなので、ここでいったん切ります。