拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
先日金正男氏が暗殺されたという話は拙ブログでもネタにしましたが、
早速「マレーシアで死んだ金正男はニセモノ!私こそ本物なんだが、実はお金に困ってて(以下略)」…といういかにもな手でお金をだまし取る寸借詐欺師が登場してるらしい(^^;)
まあ、金正男氏については正真正銘の本物がお亡くなりに為られたのはマレーシアの当局も確認している様なんで確実でしょうが、何しろ金正男氏の父・金正日といえば自分の影武者を何人も抱えていたのは有名な話で、「お父さんが影武者大魔王だったから息子だって」と思われても仕方ない節もありますな。
ここまでは前置き。
世界史でも、当然日本史でも、死んだはずなのに「実は生きている!」と言う話が絶えない人がいます。
この手の話で日本史上で一番有名なのは
源義経
でしょう。義経が自害に追い込まれたのは旧暦の4月(新暦では6月)なのですが、何しろ交通不便の12世紀末、義経の首の運搬には43日もかかった(『吾妻鏡』)とのことで、当時最先端の保存処理(酒に漬けられていたらしい)を施されていたとはいえ、到着時には(※書けないので自粛)という状態に…。首実検も十分にできるわけが無く、その辺から「あの首は替え玉」→「本物の義経は実は生き延びている」という伝承に繋がっていったようです。
また、去年の大河『真田丸』の後半の重要キャラだった豊臣秀頼(+主人公の真田信繁(幸村))も「実は(略)」伝説で有名な一人でしょう。
秀頼の生存伝説には、拙ブログの舞台でもある薩摩が非常に関わっていまして(^^;)、秀頼生存伝説で最も有名なのが
「大坂城の裏手には実は薩摩藩の船がいて、大坂城落城の時に豊臣秀頼や真田幸村を乗せて薩摩まで落ち延びさせた、そして秀頼主従は薩摩の谷山で余生を過ごした」
というもの。
島津家はこの大坂の陣で豊臣家から加勢するよう要請されていますがきっぱり断っていますし、秀吉時代に豊臣政権にかなり痛めつけられてますので、実際は豊臣家によい感情を持ってない家臣が多かったと思われます。なのに、何でこんな話が出て来たのか?それにはいくつかの背景が考えられます。
(1)関ヶ原の合戦時、西軍の宇喜多秀家をかくまっていた
(2)豊臣秀頼は大坂城で自爆するという最後を選んだため、遺体が残らなかった
先述の源義経同様、確認しようにもまともな証拠がないため「生存していたのでは」という憶測を産み、更に島津家には敗軍の将/宇喜多秀家をかくまっていたと言う前例があったため「豊臣秀頼をかくまっているのでは?」という話が広まった物と思われます。
実はこの噂話は大坂の陣直後には登場していたらしく_(。_゜)/、当時の在平戸イギリス商館長のリチャード・コックスが日記に
「秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず」「皇帝(徳川家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際に城を脱出せし輩を捜索せしめたり。因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり。」(元和元年(1615)6月5日の日記)
「秀頼は薩摩か琉球に逃げのびた」(元和元年(1615)7月の日記)
と書いています。
実際の所は、秀頼の幼少の息子(国松)等も捕らえられて処刑されているので、大人の秀頼が逃げ延びるのは非常に困難だったと思われます。現に長宗我部盛親も潜伏した物の捕らえられて死罪になっています。
しかし、
・権力に敵対した若い人物が
・非業の死を遂げ
・しかも死体が見つからない
と言う条件が揃うと、この手の「不死鳥伝説」が発生しやすくなるようです。
あ、正男氏は余り若くはないかも知れないし、「不死鳥」なんて言ってしまうと鳥に対して失礼うわ何をヾ(--;)
ところで、豊臣秀頼をかくまった疑惑がかかった当の島津家にも不死鳥伝説が存在したようなのですよ。
長くなるかと思いますので、項を変えて別の機会に。
<(_ _)>
早速「マレーシアで死んだ金正男はニセモノ!私こそ本物なんだが、実はお金に困ってて(以下略)」…といういかにもな手でお金をだまし取る寸借詐欺師が登場してるらしい(^^;)
まあ、金正男氏については正真正銘の本物がお亡くなりに為られたのはマレーシアの当局も確認している様なんで確実でしょうが、何しろ金正男氏の父・金正日といえば自分の影武者を何人も抱えていたのは有名な話で、「お父さんが影武者大魔王だったから息子だって」と思われても仕方ない節もありますな。
ここまでは前置き。
世界史でも、当然日本史でも、死んだはずなのに「実は生きている!」と言う話が絶えない人がいます。
この手の話で日本史上で一番有名なのは
源義経
でしょう。義経が自害に追い込まれたのは旧暦の4月(新暦では6月)なのですが、何しろ交通不便の12世紀末、義経の首の運搬には43日もかかった(『吾妻鏡』)とのことで、当時最先端の保存処理(酒に漬けられていたらしい)を施されていたとはいえ、到着時には(※書けないので自粛)という状態に…。首実検も十分にできるわけが無く、その辺から「あの首は替え玉」→「本物の義経は実は生き延びている」という伝承に繋がっていったようです。
また、去年の大河『真田丸』の後半の重要キャラだった豊臣秀頼(+主人公の真田信繁(幸村))も「実は(略)」伝説で有名な一人でしょう。
秀頼の生存伝説には、拙ブログの舞台でもある薩摩が非常に関わっていまして(^^;)、秀頼生存伝説で最も有名なのが
「大坂城の裏手には実は薩摩藩の船がいて、大坂城落城の時に豊臣秀頼や真田幸村を乗せて薩摩まで落ち延びさせた、そして秀頼主従は薩摩の谷山で余生を過ごした」
というもの。
島津家はこの大坂の陣で豊臣家から加勢するよう要請されていますがきっぱり断っていますし、秀吉時代に豊臣政権にかなり痛めつけられてますので、実際は豊臣家によい感情を持ってない家臣が多かったと思われます。なのに、何でこんな話が出て来たのか?それにはいくつかの背景が考えられます。
(1)関ヶ原の合戦時、西軍の宇喜多秀家をかくまっていた
(2)豊臣秀頼は大坂城で自爆するという最後を選んだため、遺体が残らなかった
先述の源義経同様、確認しようにもまともな証拠がないため「生存していたのでは」という憶測を産み、更に島津家には敗軍の将/宇喜多秀家をかくまっていたと言う前例があったため「豊臣秀頼をかくまっているのでは?」という話が広まった物と思われます。
実はこの噂話は大坂の陣直後には登場していたらしく_(。_゜)/、当時の在平戸イギリス商館長のリチャード・コックスが日記に
「秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず」「皇帝(徳川家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際に城を脱出せし輩を捜索せしめたり。因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり。」(元和元年(1615)6月5日の日記)
「秀頼は薩摩か琉球に逃げのびた」(元和元年(1615)7月の日記)
と書いています。
実際の所は、秀頼の幼少の息子(国松)等も捕らえられて処刑されているので、大人の秀頼が逃げ延びるのは非常に困難だったと思われます。現に長宗我部盛親も潜伏した物の捕らえられて死罪になっています。
しかし、
・権力に敵対した若い人物が
・非業の死を遂げ
・しかも死体が見つからない
と言う条件が揃うと、この手の「不死鳥伝説」が発生しやすくなるようです。
あ、正男氏は余り若くはないかも知れないし、「不死鳥」なんて言ってしまうと鳥に対して失礼うわ何をヾ(--;)
ところで、豊臣秀頼をかくまった疑惑がかかった当の島津家にも不死鳥伝説が存在したようなのですよ。
長くなるかと思いますので、項を変えて別の機会に。
<(_ _)>
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yahoo!の「あなたへのオススメリンク」でこんなのが表示されていた。
この記事自体がupされたのは2015年12月14日のようだ。何で今頃こんな古い記事が「おすすめ」に表示されたのか不思議ではある。
さて、この記事では義久をこんな風に評価している。
戦を弟たちに振っていたのは見ように依れば「部下を適材適所に配置した後は部下に任せて」とも見える訳かヾ(^^;)
しかしこの記事
でも一番がっくりしたのは、リンク元の画像の表記が島津義弘のあの有名な肖像画だったことだが_| ̄|○
関連ネタ こちら
時代の転換期はこうして乗り切れ!薩摩藩、島津義久に学ぶ経営術詳しい内容は、リンク先を見てもらうとして
皆さんは島津義久(しまづよしひさ)という人物をご存知ですか?戦国時代、薩摩(現在の鹿児島県)・大隅(現在の鹿児島県)・日向(現在の宮崎県)の三州の守護職を務めた武将です。
島津義久には戦国最強と謳われる3人の弟(義弘・歳久・家久)がいました。幼少期、いずれも勇猛果敢で優秀な弟に比べ、義久は大人しく目立たない子供でした。
しかし、祖父の忠良から叱咤激励を受けた義久は九州を席巻しやがて鎌倉時代から続く名門島津家の最強にして最高の政治家へと変貌を遂げました。
そんな島津義久は時代が大きく変化した戦国時代をどのように生き抜いたのでしょうか?めまぐるしく時代が変化する現代を生きる経営者の皆様に島津義久の経営術を紹介します。
(後略)
http://www.tenpo.biz/tentsu/entry/2015/12/14/090000?utm_source=ycd&utm_medium=yahoojp-topics
この記事自体がupされたのは2015年12月14日のようだ。何で今頃こんな古い記事が「おすすめ」に表示されたのか不思議ではある。
さて、この記事では義久をこんな風に評価している。
戦においては部下を適材適所に配置した後は部下のやり方に任せ、自ら動かずして勝利を収めていた義久
兵力を温存しておいたお蔭で、関ヶ原の合戦で疲弊していた徳川軍は島津藩を攻め切る事ができず、最終的に義久は義弘を差し出すことなく守り通し、所領も削減される事はありませんでした。この事により『この人(義久)の為なら何でもやる』という部下が増え島津家の団結をより一層強固なものにしたと言われています。何かえらい肯定的評価だなおい(^^;)
戦を弟たちに振っていたのは見ように依れば「部下を適材適所に配置した後は部下に任せて」とも見える訳かヾ(^^;)
しかしこの記事
島津藩など、余り歴史用語としては使わない表記がちらほら…
でも一番がっくりしたのは、リンク元の画像の表記が島津義弘のあの有名な肖像画だったことだが_| ̄|○
関連ネタ こちら
…毎年の事ながら、3が日の間に挨拶をUP出来ない(-_-;)
本年も拙ブログを宜しく御願い致します<(_ _)>
今年の目標としてはもうちょっと更新頻度を上げたいです。中途半端に書きためている記事が山のように_| ̄|○
個人的には年齢の問題もあり、ぼちぼち「終活」始めたいです。下手すると蔵書を家人にゴミとして処分される可能性が高いので…まあ、大した本はないのですが、絶版書なんかちらほら混じっていたりするので図書館に寄贈したいのが希望ではあります。が、こんなの遺言書に書いたとしても、ちゃんと弁護士が実行してくれるか不安が。
と、細々用事が溜まっているのを少しずつ着実に処理して軽くしていきたいな~と言うのがささやかな目標です。
本年も拙ブログを宜しく御願い致します<(_ _)>
今年の目標としてはもうちょっと更新頻度を上げたいです。中途半端に書きためている記事が山のように_| ̄|○
個人的には年齢の問題もあり、ぼちぼち「終活」始めたいです。下手すると蔵書を家人にゴミとして処分される可能性が高いので…まあ、大した本はないのですが、絶版書なんかちらほら混じっていたりするので図書館に寄贈したいのが希望ではあります。が、こんなの遺言書に書いたとしても、ちゃんと弁護士が実行してくれるか不安が。
と、細々用事が溜まっているのを少しずつ着実に処理して軽くしていきたいな~と言うのがささやかな目標です。
先日『北海道戦国史と松前氏』という本を読了した。
松前氏こと蠣崎氏と言う大名を一般向けに説明した本としては初めての物なのではないだろうか。
アイヌとの微妙な関係とか、松前藩公式史料に載っている創始期の記述はuso800とか(爆)なかなか興味深い内容でした。
ところでこの本の前書きで、著者の新藤透氏は江戸時代の松前の殿様に関する興味深いエピソードを紹介している。
確かに島津重豪は名前の通りの豪傑で、89才で死ぬ直前までぶいぶい言わせてた(^^;)殿様ではあるが、その生きてた時代とかぶっている松前の殿様を挙げていったら何となく該当者は分かるんではなかろうか。
では、重豪の生きてたころにかぶってた松前藩主の名前を列挙してみましょう。
島津重豪:1745年11月29日~1833年3月6日
このうち江戸で暮らしていたのは1754~ 藩主在任は1755~1787
重豪と不幸にしてかぶったと思われるヾ(^^;)松前氏当主
・松前邦広:1705~1743 このうち藩主在任年1721~1743
・松前資広:1726~1765 このうち藩主在任年1743~1765
・松前道広:1752~1832 このうち藩主在任年1765~1792
・松前章広:1775~1833 このうち藩主在任年1792~1833
このうち邦広は重豪の東上より前に死んでるので除外。
残るは3人だが、
資広は重豪より20才近く年上なんで、いくら石高で島津氏が上と言ってもここまで無茶苦茶言えるかなと。
章広は1799年に東蝦夷地を幕府に没収され、1807年には正式に陸奥国に転封されてしまうと言う目に遭っており、いくら冗談でも「蝦夷地の王様」と言える状態ではなくなっていた。
最後の道広だが、(wikipedia情報で悪いのだが)あの一橋治斉や島津氏、伊達氏と派手に交遊していたという。更に一橋治斉は島津重豪の岳父にも当たる。これらからみて道広は島津重豪と親しかったと推定され、重豪に「や~いエゾ大王!」ヾ(^^;)と言われてもおかしくない状況にあったと思われる。
ところで、北のアヤシイ殿様ヾ(^^;)が松前氏なら南のアヤシイ殿様が島津氏であることに異論のある人はいないだろう。松前氏がアイヌを介した北方貿易で利益を上げていたのに対し、島津氏は琉球を介した中国との密貿易で稼いでいたのであった。
なんで、島津重豪は松前道広のことをこんな風に笑いものにできる立場にないと思うんだが…。
松前氏こと蠣崎氏と言う大名を一般向けに説明した本としては初めての物なのではないだろうか。
アイヌとの微妙な関係とか、松前藩公式史料に載っている創始期の記述はuso800とか(爆)なかなか興味深い内容でした。
ところでこの本の前書きで、著者の新藤透氏は江戸時代の松前の殿様に関する興味深いエピソードを紹介している。
どの藩主か分からないが、薩摩藩主の島津重豪に、先代藩主伊達候の前で「エゾ大王」呼ばわりされ、「恥辱」に思ったというエピソードがある(山田三川『三川雑記』)新藤氏は重豪に公の場で揶揄されてしまったというかわいそうな松前藩主について「どの藩主か分からない」としている。
p.10
確かに島津重豪は名前の通りの豪傑で、89才で死ぬ直前までぶいぶい言わせてた(^^;)殿様ではあるが、その生きてた時代とかぶっている松前の殿様を挙げていったら何となく該当者は分かるんではなかろうか。
では、重豪の生きてたころにかぶってた松前藩主の名前を列挙してみましょう。
島津重豪:1745年11月29日~1833年3月6日
このうち江戸で暮らしていたのは1754~ 藩主在任は1755~1787
重豪と不幸にしてかぶったと思われるヾ(^^;)松前氏当主
・松前邦広:1705~1743 このうち藩主在任年1721~1743
・松前資広:1726~1765 このうち藩主在任年1743~1765
・松前道広:1752~1832 このうち藩主在任年1765~1792
・松前章広:1775~1833 このうち藩主在任年1792~1833
このうち邦広は重豪の東上より前に死んでるので除外。
残るは3人だが、
資広は重豪より20才近く年上なんで、いくら石高で島津氏が上と言ってもここまで無茶苦茶言えるかなと。
章広は1799年に東蝦夷地を幕府に没収され、1807年には正式に陸奥国に転封されてしまうと言う目に遭っており、いくら冗談でも「蝦夷地の王様」と言える状態ではなくなっていた。
最後の道広だが、(wikipedia情報で悪いのだが)あの一橋治斉や島津氏、伊達氏と派手に交遊していたという。更に一橋治斉は島津重豪の岳父にも当たる。これらからみて道広は島津重豪と親しかったと推定され、重豪に「や~いエゾ大王!」ヾ(^^;)と言われてもおかしくない状況にあったと思われる。
ところで、北のアヤシイ殿様ヾ(^^;)が松前氏なら南のアヤシイ殿様が島津氏であることに異論のある人はいないだろう。松前氏がアイヌを介した北方貿易で利益を上げていたのに対し、島津氏は琉球を介した中国との密貿易で稼いでいたのであった。
なんで、島津重豪は松前道広のことをこんな風に笑いものにできる立場にないと思うんだが…。
三笠宮様が昨日お亡くなりになられました。
超高齢(100歳)だったので、いつこの日が来てもおかしくはなかったのですが、改めて「昭和は遠くなりにけり」という感を強くしました。
殿下とは直接会ったことはないのですが、三笠宮家にはちょっと縁があったりした???ので何かしんみりしております。
拙ブログ的には表題にもした「若杉参謀」とあの熱すぎる男?津野田少佐の「東條英機暗殺未遂事件」での絡みでちょっと出てこられました。あの事件に関して三笠宮様の証言はころころ変わっているようなんですが、結局真相は黙ったままあの世に行かれたような気がします。
長寿を全うされたので、兄上の秩父宮殿下ほど人生に悔いはないと思いますが、子どもの殆どに先立たれたのは残念に思っておられたかと察します。
こんな場末のブログで改めて書くのも何ですが、ご冥福を祈りたいと思います。
超高齢(100歳)だったので、いつこの日が来てもおかしくはなかったのですが、改めて「昭和は遠くなりにけり」という感を強くしました。
殿下とは直接会ったことはないのですが、三笠宮家にはちょっと縁があったりした???ので何かしんみりしております。
拙ブログ的には表題にもした「若杉参謀」とあの熱すぎる男?津野田少佐の「東條英機暗殺未遂事件」での絡みでちょっと出てこられました。あの事件に関して三笠宮様の証言はころころ変わっているようなんですが、結局真相は黙ったままあの世に行かれたような気がします。
長寿を全うされたので、兄上の秩父宮殿下ほど人生に悔いはないと思いますが、子どもの殆どに先立たれたのは残念に思っておられたかと察します。
こんな場末のブログで改めて書くのも何ですが、ご冥福を祈りたいと思います。