拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
ニュースになっていて、てっきり新作の焼酎の銘柄かと思った(ヲイ)
本来天皇家が持ってたはずなのに、どういう経緯で近衞家が貰ったのかも気になるところです。
京都国立博物館の新館オープンを記念して展示されるようなので見てこようかな。実は先日京都の高島屋に私的にかなり高価な傘を忘れて取りに行かなければそのついでにゲホゲホヾ(--;)
なお、今回この刀を寄贈したという奇特な奥田さんは恐らくこの人かと→こちら(78回訪伯経験を持つ奥田さん(88))
幻の「正宗」150年ぶり確認しかし、島津ヲタとしてやっぱり気になるのはなんで「島津正宗」と言う名前なのか?と言う事である。島津家から徳川幕府に献上されたものなんだろうか?(゜_。)?(。_゜)?
京都国立博物館(京都市東山区)は14日、幕末に徳川家が天皇に献上し、その後所在不明だった名刀「島津正宗」が約150年ぶりに確認されたと発表した。昨年度に個人から寄贈された品で、平成知新館のオープン記念展「京(みやこ)へのいざない」で15日から公開する。
島津正宗は、江戸中期に徳川吉宗が作らせた名刀リスト「享保名物帳」に記され、幕末の和宮降嫁で天皇に献上されたとの記録が残るが、その後は所在が分からなくなっていた。
今回公開される刀は、大阪市の実業家奥田米佛門(べふもん)氏から同館に寄贈された品で、1969年に天皇に近かった近衛家から奥田氏に譲られたという。長さ約68センチで、14世紀ごろの作とされる。同館や専門家が鑑定したところ、「享保名物帳」の記録通りの長さであることや、刀剣をスケッチした記録「継平(つぐひら)押形」(享保2年)に記された刃紋とそっくりなことから、島津正宗の可能性が高いと判断した。
同館は「行方不明だった名物の刀が出てくるのは珍しい。国宝と変わらぬ価値がある」としている。公開は11月16日まで。休館日あり。有料。文化庁所蔵の国宝「中務正宗」と並べて展示する。
【 2014年10月14日 23時58分 】
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20141014000136
本来天皇家が持ってたはずなのに、どういう経緯で近衞家が貰ったのかも気になるところです。
京都国立博物館の新館オープンを記念して展示されるようなので見てこようかな。実は先日京都の高島屋に私的にかなり高価な傘を忘れて取りに行かなければそのついでにゲホゲホヾ(--;)
なお、今回この刀を寄贈したという奇特な奥田さんは恐らくこの人かと→こちら(78回訪伯経験を持つ奥田さん(88))
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思うところあって『黒田家文書』を取り寄せてみたら、肝心の1巻が入手できない_| ̄|○
やっぱり今年の大河ドラマ関連で予約詰まってるんだろうな…
時期的に大河ドラマとかぶらない2巻と3巻(江戸時代初期黒田長政以降江戸中期黒田宣政まで)は入手。
私の欲しい情報は載ってなかったのですが、興味深い話が何点かありましたので紹介します。
<注記>
・史料は原文そのままではなく、ばんない超絶口語訳です。正確に読みたい方は『黒田家文書』をご入手されることを強く強くお奨めします(^^;)
・文書番号は「文書(巻)-(文書番号)」で表記します。<例>『黒田家文書』2巻の1番文書→2-1
・黒田長政と糸姫(蜂須賀小六の娘)の間の子供のその後
ネタバレになるのだが、慶長4年頃、長政は突然糸姫を離婚して徳川家康養女(実は家康の姪、実父は保科正直)・栄姫と再婚してしまう。秀吉死後、婚姻政策で派閥を広げようとした家康の作戦に乗ったのだった。
実は長政と糸姫の間には一人子供がいた。慶長元年生まれの菊姫である。両親が離婚した際、彼女は黒田家に残ることになった。成人後、黒田家の家老であった井上之房の息子/庸名の妻となっている(ちなみに庸名は黒田家の家臣ではなく、幕府旗本にスカウトされている)。異母妹達が大名家に嫁いでいるところから見て、やはり「格下」というように見られていたのだろう。このような境遇に置かれた彼女に対して、長政は大変気を使っていたと思われ、遺言で(1)2000石の化粧領を与えること(文書2-70)(2)母(櫛橋光)分の財産は、母の死後すべて菊姫に渡すように…と命じている(文書2-72)。化粧領2000石は異母妹/徳姫(後述)と同等である上、更に櫛橋光の財産まで相続すると妹を上回ることになる。
・長政の姑 久松多劫
実はこちらのコメントで「徳川家は女性の再婚OKだった家風だったらしい」という情報を頂いていたのだが、その徳川家の家風を最大限に生かした?女性が長政の後妻・栄姫の母である多劫姫のようである。多劫姫は徳川家康の父違いの妹(父・久松俊勝、母・お大の方)で、当初は松平忠正(桜井松平家)に嫁に行ったが最初の夫が早世した後、今度はその弟/忠吉の嫁になったという、島津亀寿みたいな人物である。最も亀寿は最初の夫や次の夫との間にも子供がいなかったのだが、この多劫姫は何と最初の夫との間に男子一人(松平家広)を産んだ後、次の夫との間にも男子2人(松平信吉、忠頼)を産んでいる。しかし、もっとすごいのはこの次の夫が死んだ後またまた再婚して、今度は2男4女を産んだらしい…(○。○)(文書2-79,80)その内の一人が栄姫というわけである。ちなみに栄姫も3男2女の母で多産だった。幸運にも栄姫は死別再婚はなかったですが。
・もしかしたら徳川家光の嫁になってたかも知れない?黒田長政の姫
実は『江戸城の宮廷政治』で山本博文氏が細川忠興リアルメールに載っていた話として上記のことを紹介していた物の、「まーた忠興が好物の噂話書いてるよ」ヾ(^^;)…ぐらいに受け流していた私。が、今回入手した『黒田家文書』により、その噂話は嘘800ではなく、どうも事実だったことが判明。
長政次女・徳姫は徳川家光の婚約者として、徳川秀忠正室(家光の母)/お江与の方の内諾まで得るまでに至っていたようです…が、徳姫が「丙午生まれ」というのがネックとなり破談となった、そうです(文書2-80)。最も徳姫の産まれ年なんて最初から分かっていそうなことで、おそらくは縁談が進んでいく内に「やっぱり次期将軍の正室は一大名家より、公家とか宮家から迎えた方が」という案が出て来て徳川側の事情で破談になったように思われます。なおこの徳姫はその後榊原忠次に嫁に行きますが、結婚1年目で難産のため死去、残された遺児・お万は黒田家に引き取られ栄姫によって養育されますが、彼女も8歳の時に病死してしまいます。以上から見て薄幸の人だったと思われます。最も家光はアレな人ヾ(--;)だったので、徳姫が家光御台所となっていたらそれは又別の意味で薄幸だった可能性が大。
・黒田長政のたった1回の?浮気???
黒田長政は初妻(糸姫)との間に女子一人、後妻(栄姫)との間に3男2女、特に後妻は徳川家康の養女だからおとなしくしている…かと思っていたのだが、『黒田家文書』により、そうじゃなかったことが判明。それどころかその浮気相手???というのが筑紫広門の娘というのでぶっ飛んでしまった。筑紫広門は名前の通り筑前の有力国人で、そのしたたかかつ優柔不断な態度は島津義久を始め多くの九州戦国大名を悩ませた厄介な人物なのである。この筑紫広門、関ヶ原の戦いでは西軍について改易、ようやくそのUPDOWN人生も終わりか…と思っていたのだが、この様子を見ると、黒田長政にお近づきになって復活を狙っていたくさいです。なお、広門の娘は長政の次男(黒田甚四郎政冬)を産んだ物の、この次男はとっても長政の悩みの種だったようで、結局、長政は遺言で次男に条件付きで8000石の領地を与えて分家させています(「甚四郎は短慮で30歳になるまで随分堪忍してきたが、30過ぎても全く変わらないようだったら、この領地は忠之(長政長男)が取り上げて良いから」(文書2-70))。
・黒田綱政の正室 立花心空院
黒田綱政は長政から見たらひ孫、官兵衛孝高から見たら玄孫になる福岡藩4代藩主なのですが、彼が藩主になるまでに家中ではいざこざが絶えず(有名な黒田騒動然り、同母兄/綱之が突然廃嫡されたりとか…そのため弟の綱政が藩主になった)、実はなにげに福岡藩は安定していませんでした。そんな中に嫁いできた柳川藩主/立花鑑虎の妹。実名は『黒田家文書』には残念ながら記入が無く不明、立花家側の史料を見たら分かるかも知れない。『黒田家文書』では彼女が綱政の妻に選ばれた理由がよく分からないのですが、藩同志が九州で近所というよしみもあったのかも知れません(ちなみに綱政の父/光之はやはり隣の小倉藩小笠原家から妻を迎えています)。
彼女はなかなか出来た人物だったようで、ぎくしゃくしていた光之/綱政親子の間を取り持ったり(文書3-230)とか、実子3人の他に夫が側室に産ませた娘(お久)も手元に引き取り養育したりしています(文書3-228)。しかしなによりすごいのは、筑前で荒廃の一途だった立花氏関連史跡の整備に力を入れたこと。立花(戸次)道雪の菩提寺・梅岳寺を再建したりしています。(文書3 p.248解説)なお、彼女は立花家の出身ではありますが、幕府の妻子江戸集住策のため江戸生まれ江戸育ち江戸で結婚江戸で没(1647生~1708/9/4没)、一度も九州に上陸したことはないようです…_(。_゜)/
・黒田綱政の次男の「丑年の禁忌」?
黒田綱政の次男は5代藩主になった黒田宣政なのだが、当初は兄・吉政が健在だったので所謂部屋住の存在だった。この時に名乗っていた名前が何故か「守山政則」という。一人だけ突然黒田以外の名字を名乗り、しかも家臣の養子になったわけでもない。この様子が幕府にも不審がられたらしく、質問されたときの回答文書(案文)が残っている(文書3-144~146)。それによると(1)宣政は丑年生まれなので、そのタブーを避けるため黒田ではなく「守山」という名字を名乗ることになった。(2)「守山」という名字にしたのは、黒田家は近江佐々木氏の出身であり、その縁の地である「守山」からとった…ということらしい。ちなみに守山は現在のここだとか。なお文書3-146によると、他に「乾」「馬渕」「沢田」も候補に挙がったが、たまたまその時黒田光之が参勤交代で中山道守山宿に泊まっていたのが守山に決まった理由だとか。結構いい加減(^^;)
それにしても「丙午の女」のタブーは今でも有名だが、「丑年生まれのタブー」って聞いたことがない。誰か詳しい方御教示お待ちしてます<(_ _)>
やっぱり今年の大河ドラマ関連で予約詰まってるんだろうな…
時期的に大河ドラマとかぶらない2巻と3巻(江戸時代初期黒田長政以降江戸中期黒田宣政まで)は入手。
私の欲しい情報は載ってなかったのですが、興味深い話が何点かありましたので紹介します。
<注記>
・史料は原文そのままではなく、ばんない超絶口語訳です。正確に読みたい方は『黒田家文書』をご入手されることを強く強くお奨めします(^^;)
・文書番号は「文書(巻)-(文書番号)」で表記します。<例>『黒田家文書』2巻の1番文書→2-1
・黒田長政と糸姫(蜂須賀小六の娘)の間の子供のその後
ネタバレになるのだが、慶長4年頃、長政は突然糸姫を離婚して徳川家康養女(実は家康の姪、実父は保科正直)・栄姫と再婚してしまう。秀吉死後、婚姻政策で派閥を広げようとした家康の作戦に乗ったのだった。
実は長政と糸姫の間には一人子供がいた。慶長元年生まれの菊姫である。両親が離婚した際、彼女は黒田家に残ることになった。成人後、黒田家の家老であった井上之房の息子/庸名の妻となっている(ちなみに庸名は黒田家の家臣ではなく、幕府旗本にスカウトされている)。異母妹達が大名家に嫁いでいるところから見て、やはり「格下」というように見られていたのだろう。このような境遇に置かれた彼女に対して、長政は大変気を使っていたと思われ、遺言で(1)2000石の化粧領を与えること(文書2-70)(2)母(櫛橋光)分の財産は、母の死後すべて菊姫に渡すように…と命じている(文書2-72)。化粧領2000石は異母妹/徳姫(後述)と同等である上、更に櫛橋光の財産まで相続すると妹を上回ることになる。
・長政の姑 久松多劫
実はこちらのコメントで「徳川家は女性の再婚OKだった家風だったらしい」という情報を頂いていたのだが、その徳川家の家風を最大限に生かした?女性が長政の後妻・栄姫の母である多劫姫のようである。多劫姫は徳川家康の父違いの妹(父・久松俊勝、母・お大の方)で、当初は松平忠正(桜井松平家)に嫁に行ったが最初の夫が早世した後、今度はその弟/忠吉の嫁になったという、島津亀寿みたいな人物である。最も亀寿は最初の夫や次の夫との間にも子供がいなかったのだが、この多劫姫は何と最初の夫との間に男子一人(松平家広)を産んだ後、次の夫との間にも男子2人(松平信吉、忠頼)を産んでいる。しかし、もっとすごいのはこの次の夫が死んだ後またまた再婚して、今度は2男4女を産んだらしい…(○。○)(文書2-79,80)その内の一人が栄姫というわけである。ちなみに栄姫も3男2女の母で多産だった。幸運にも栄姫は死別再婚はなかったですが。
・もしかしたら徳川家光の嫁になってたかも知れない?黒田長政の姫
実は『江戸城の宮廷政治』で山本博文氏が細川忠興リアルメールに載っていた話として上記のことを紹介していた物の、「まーた忠興が好物の噂話書いてるよ」ヾ(^^;)…ぐらいに受け流していた私。が、今回入手した『黒田家文書』により、その噂話は嘘800ではなく、どうも事実だったことが判明。
長政次女・徳姫は徳川家光の婚約者として、徳川秀忠正室(家光の母)/お江与の方の内諾まで得るまでに至っていたようです…が、徳姫が「丙午生まれ」というのがネックとなり破談となった、そうです(文書2-80)。最も徳姫の産まれ年なんて最初から分かっていそうなことで、おそらくは縁談が進んでいく内に「やっぱり次期将軍の正室は一大名家より、公家とか宮家から迎えた方が」という案が出て来て徳川側の事情で破談になったように思われます。なおこの徳姫はその後榊原忠次に嫁に行きますが、結婚1年目で難産のため死去、残された遺児・お万は黒田家に引き取られ栄姫によって養育されますが、彼女も8歳の時に病死してしまいます。以上から見て薄幸の人だったと思われます。最も家光はアレな人ヾ(--;)だったので、徳姫が家光御台所となっていたらそれは又別の意味で薄幸だった可能性が大。
・黒田長政のたった1回の?浮気???
黒田長政は初妻(糸姫)との間に女子一人、後妻(栄姫)との間に3男2女、特に後妻は徳川家康の養女だからおとなしくしている…かと思っていたのだが、『黒田家文書』により、そうじゃなかったことが判明。それどころかその浮気相手???というのが筑紫広門の娘というのでぶっ飛んでしまった。筑紫広門は名前の通り筑前の有力国人で、そのしたたかかつ優柔不断な態度は島津義久を始め多くの九州戦国大名を悩ませた厄介な人物なのである。この筑紫広門、関ヶ原の戦いでは西軍について改易、ようやくそのUPDOWN人生も終わりか…と思っていたのだが、この様子を見ると、黒田長政にお近づきになって復活を狙っていたくさいです。なお、広門の娘は長政の次男(黒田甚四郎政冬)を産んだ物の、この次男はとっても長政の悩みの種だったようで、結局、長政は遺言で次男に条件付きで8000石の領地を与えて分家させています(「甚四郎は短慮で30歳になるまで随分堪忍してきたが、30過ぎても全く変わらないようだったら、この領地は忠之(長政長男)が取り上げて良いから」(文書2-70))。
・黒田綱政の正室 立花心空院
黒田綱政は長政から見たらひ孫、官兵衛孝高から見たら玄孫になる福岡藩4代藩主なのですが、彼が藩主になるまでに家中ではいざこざが絶えず(有名な黒田騒動然り、同母兄/綱之が突然廃嫡されたりとか…そのため弟の綱政が藩主になった)、実はなにげに福岡藩は安定していませんでした。そんな中に嫁いできた柳川藩主/立花鑑虎の妹。実名は『黒田家文書』には残念ながら記入が無く不明、立花家側の史料を見たら分かるかも知れない。『黒田家文書』では彼女が綱政の妻に選ばれた理由がよく分からないのですが、藩同志が九州で近所というよしみもあったのかも知れません(ちなみに綱政の父/光之はやはり隣の小倉藩小笠原家から妻を迎えています)。
彼女はなかなか出来た人物だったようで、ぎくしゃくしていた光之/綱政親子の間を取り持ったり(文書3-230)とか、実子3人の他に夫が側室に産ませた娘(お久)も手元に引き取り養育したりしています(文書3-228)。しかしなによりすごいのは、筑前で荒廃の一途だった立花氏関連史跡の整備に力を入れたこと。立花(戸次)道雪の菩提寺・梅岳寺を再建したりしています。(文書3 p.248解説)なお、彼女は立花家の出身ではありますが、幕府の妻子江戸集住策のため江戸生まれ江戸育ち江戸で結婚江戸で没(1647生~1708/9/4没)、一度も九州に上陸したことはないようです…_(。_゜)/
・黒田綱政の次男の「丑年の禁忌」?
黒田綱政の次男は5代藩主になった黒田宣政なのだが、当初は兄・吉政が健在だったので所謂部屋住の存在だった。この時に名乗っていた名前が何故か「守山政則」という。一人だけ突然黒田以外の名字を名乗り、しかも家臣の養子になったわけでもない。この様子が幕府にも不審がられたらしく、質問されたときの回答文書(案文)が残っている(文書3-144~146)。それによると(1)宣政は丑年生まれなので、そのタブーを避けるため黒田ではなく「守山」という名字を名乗ることになった。(2)「守山」という名字にしたのは、黒田家は近江佐々木氏の出身であり、その縁の地である「守山」からとった…ということらしい。ちなみに守山は現在のここだとか。なお文書3-146によると、他に「乾」「馬渕」「沢田」も候補に挙がったが、たまたまその時黒田光之が参勤交代で中山道守山宿に泊まっていたのが守山に決まった理由だとか。結構いい加減(^^;)
それにしても「丙午の女」のタブーは今でも有名だが、「丑年生まれのタブー」って聞いたことがない。誰か詳しい方御教示お待ちしてます<(_ _)>
これは、実は桐野作人氏のブログにコメントした物の続きだったりします(ヲイ)
他、さつま人国記関連記事はこちら
戦国島津家の女性を主に調べていた私にとって、この記事はとても衝撃的でした。
だってあのお椀ヘルメットヾ(--;)の黒田家と島津家が親戚になる可能性があったとは…全然知らなかった_| ̄|○ 不覚
ただ言い訳すると知らないのも当たり前で、この話は管見では島津側史料(島津家文書、「薩藩旧記雑録」など)には全く見えないのです。島津家にとって都合が悪かった?のかどうか???、縁談は記録の上でもなかったことになってしまったようだ…。
島津家にとって都合が悪くなった?理由としては以下のことが考えられます。
島津家と仲の良かった細川家と黒田家が不仲になったことです。
これについてはで、山本博文氏が非常に詳しく紹介されてます。知りたい方はそちらを呼んでもらうのが一番よく分かるかと思いますが、簡単にまとめますと
「領地替え(黒田家:豊前(現在の大分県中津)→筑前(現在の福岡市)、細川家:丹後(現在の宮津市、舞鶴市)→豊前(現在の北九州市小倉)の際、豊前前任領主の黒田家が当時の慣例である“その年の年貢は置いていく”を実践せず、ぜーんぶ自分の物にしてしまって、後任の細川家(もちろん丹後のその年の年貢は置いていった。常識だよねw)がある物と思っていた収入がない事態に陥りピーピーになったから」
要は「金の恨み」である。
この細川家、実は黒田家より遙か前から島津家とは縁が深かった。前当主・細川幽斎は島津義久の和歌の師匠でもあり、室町幕府がらみで早くからつき合いもあり、豊臣政権時代も秀吉との中継ぎ役の一人であった。現当主・細川忠興も、「島津家文書」や忠興の書簡によると島津忠恒(今さら説明するまでもないが、義久の婿養子で島津義弘の息子である)と仲が良かったらしい。
しかし上記の事情により、黒田家と細川家は公然の不仲となった。しかも困ったことに、黒田家は福岡で55万石、細川家も小倉で39万石の大大名である。同じ九州の大名・島津家としてはどちらを立てるか、去就を迫られたであろう。…結局島津家が取ったのは細川家だったと考えられる。そう考える理由はその後の「島津家文書」を見ると明らか、細川家からの書状は多数ある物の、黒田家関係の書状は皆無の状態になってしまうからである。関ヶ原で西軍(反徳川)についてしまい、その後も徳川家とは微妙な関係にあったと思われる島津家としては、双方とも東軍で活躍し名声高い黒田か細川かどちらを立てるかは重要な問題だったと思われるが、結局は豊臣秀吉の九州御動座以降のおつきあいしかなかった黒田家より、昔からのつきあいである細川家を取ったという所ではないだろうか。
なお、島津家、黒田家、細川家のその後だが
島津忠恒(後「家久」)と細川忠利の代までは友好につき合っていた島津家と細川家だが、忠恒(家久)が死に代替わりして光久になると、どうも疎遠になっていったらしい。これも前掲の山本氏の本に詳しく書かれているが、徳川家に気に入られていた細川忠利が島津光久に先輩風を吹かせ、光久に煙たがられたのが原因のようである(爆)。これと合わせて私が思うのは、島津光久は母方が徳川幕府に嫌疑を受けた切支丹に繋がるという胡散臭い出自であり、どうもお節介のおしゃべり(※)と思われる細川忠利を警戒したのではないかと。
※島津光久自身が細川忠利のことを「お節介やき」(意訳)といった史料が現存している。前掲の山本氏の本で紹介されている。
一方の黒田家だが、黒田長政の息子・忠之の代であの有名な「黒田騒動」を起こし、幕閣に対する発言力は細川家より低下する(一方の細川家は徳川幕府に覚え目出度く、小倉から熊本への転封も島津家への影響力を見込んだ幕府の抜擢だったとされる 山本前掲書参照)。黒田家より細川家を取った島津家のもくろみはあたったことになる。
…ところが。江戸時代中期、突然黒田家と島津家の間に縁談がまとまった。時の黒田家世子・重政と島津継豊の娘・菊姫が結婚することになったのである。この縁談はどうも黒田家から話が持ちかけられた物で、その理由は、菊姫の母・竹姫が徳川吉宗の養女(元々は徳川綱吉の養女)で将軍家と縁続きだったからであった(参照『徳川将軍家の結婚 (文春新書)』)。これが縁となって、その後黒田家は島津家から婿養子を迎えるまでになってしまった。
江戸時代初期にいったん疎遠となった黒田家と島津家だが、ひょんなきっかけから江戸後期には島津家の黒田家乗っ取り?にまで至る関係となった。ちなみに明治時代になっても、黒田家は島津家から妻を迎えたりしている。
一方、江戸時代初期には親近関係にあった細川家と島津家だが、その後、当主同士の些細な性格の不一致から疎遠になってしまった。
…人間関係ていうのは分からない物である。
他、さつま人国記関連記事はこちら
戦国島津家の女性を主に調べていた私にとって、この記事はとても衝撃的でした。
だってあのお椀ヘルメットヾ(--;)の黒田家と島津家が親戚になる可能性があったとは…全然知らなかった_| ̄|○ 不覚
ただ言い訳すると知らないのも当たり前で、この話は管見では島津側史料(島津家文書、「薩藩旧記雑録」など)には全く見えないのです。島津家にとって都合が悪かった?のかどうか???、縁談は記録の上でもなかったことになってしまったようだ…。
島津家にとって都合が悪くなった?理由としては以下のことが考えられます。
島津家と仲の良かった細川家と黒田家が不仲になったことです。
これについてはで、山本博文氏が非常に詳しく紹介されてます。知りたい方はそちらを呼んでもらうのが一番よく分かるかと思いますが、簡単にまとめますと
「領地替え(黒田家:豊前(現在の大分県中津)→筑前(現在の福岡市)、細川家:丹後(現在の宮津市、舞鶴市)→豊前(現在の北九州市小倉)の際、豊前前任領主の黒田家が当時の慣例である“その年の年貢は置いていく”を実践せず、ぜーんぶ自分の物にしてしまって、後任の細川家(もちろん丹後のその年の年貢は置いていった。常識だよねw)がある物と思っていた収入がない事態に陥りピーピーになったから」
要は「金の恨み」である。
この細川家、実は黒田家より遙か前から島津家とは縁が深かった。前当主・細川幽斎は島津義久の和歌の師匠でもあり、室町幕府がらみで早くからつき合いもあり、豊臣政権時代も秀吉との中継ぎ役の一人であった。現当主・細川忠興も、「島津家文書」や忠興の書簡によると島津忠恒(今さら説明するまでもないが、義久の婿養子で島津義弘の息子である)と仲が良かったらしい。
しかし上記の事情により、黒田家と細川家は公然の不仲となった。しかも困ったことに、黒田家は福岡で55万石、細川家も小倉で39万石の大大名である。同じ九州の大名・島津家としてはどちらを立てるか、去就を迫られたであろう。…結局島津家が取ったのは細川家だったと考えられる。そう考える理由はその後の「島津家文書」を見ると明らか、細川家からの書状は多数ある物の、黒田家関係の書状は皆無の状態になってしまうからである。関ヶ原で西軍(反徳川)についてしまい、その後も徳川家とは微妙な関係にあったと思われる島津家としては、双方とも東軍で活躍し名声高い黒田か細川かどちらを立てるかは重要な問題だったと思われるが、結局は豊臣秀吉の九州御動座以降のおつきあいしかなかった黒田家より、昔からのつきあいである細川家を取ったという所ではないだろうか。
なお、島津家、黒田家、細川家のその後だが
島津忠恒(後「家久」)と細川忠利の代までは友好につき合っていた島津家と細川家だが、忠恒(家久)が死に代替わりして光久になると、どうも疎遠になっていったらしい。これも前掲の山本氏の本に詳しく書かれているが、徳川家に気に入られていた細川忠利が島津光久に先輩風を吹かせ、光久に煙たがられたのが原因のようである(爆)。これと合わせて私が思うのは、島津光久は母方が徳川幕府に嫌疑を受けた切支丹に繋がるという胡散臭い出自であり、どうもお節介のおしゃべり(※)と思われる細川忠利を警戒したのではないかと。
※島津光久自身が細川忠利のことを「お節介やき」(意訳)といった史料が現存している。前掲の山本氏の本で紹介されている。
一方の黒田家だが、黒田長政の息子・忠之の代であの有名な「黒田騒動」を起こし、幕閣に対する発言力は細川家より低下する(一方の細川家は徳川幕府に覚え目出度く、小倉から熊本への転封も島津家への影響力を見込んだ幕府の抜擢だったとされる 山本前掲書参照)。黒田家より細川家を取った島津家のもくろみはあたったことになる。
…ところが。江戸時代中期、突然黒田家と島津家の間に縁談がまとまった。時の黒田家世子・重政と島津継豊の娘・菊姫が結婚することになったのである。この縁談はどうも黒田家から話が持ちかけられた物で、その理由は、菊姫の母・竹姫が徳川吉宗の養女(元々は徳川綱吉の養女)で将軍家と縁続きだったからであった(参照『徳川将軍家の結婚 (文春新書)』)。これが縁となって、その後黒田家は島津家から婿養子を迎えるまでになってしまった。
江戸時代初期にいったん疎遠となった黒田家と島津家だが、ひょんなきっかけから江戸後期には島津家の黒田家乗っ取り?にまで至る関係となった。ちなみに明治時代になっても、黒田家は島津家から妻を迎えたりしている。
一方、江戸時代初期には親近関係にあった細川家と島津家だが、その後、当主同士の些細な性格の不一致から疎遠になってしまった。
…人間関係ていうのは分からない物である。
桂離宮を見学された方、このブログの読者で何人ぐらいいらっしゃるだろうか?
一般的に秋が良いと言われるが、その時期は抽選が激戦になるため、泣く泣く真夏の炎天下(or真冬)、朝もはよから集合させられた経験をお持ちの方も多いかと。実は私も_| ̄|○
さて。
この桂離宮、通用門の真正面に、池への景色を遮るように大きなソテツが植えられているのをご記憶の人も多いと思う。何しろぼうぼうに生えてましたからね(^^;)
純和風、日本の美の極致(byブルーノ・タウト)な桂離宮に南国風のソテツとは異な感じがするが、
実はこれ、島津家からの献上品なのだという。(宮内庁公式パンフによる)
ところが
島津家と桂離宮を建てた八条宮家とは管見では全く接点がないのである。
初代・智仁親王は正室は京極家出身、交友関係を見ても島津家までつながらないように思える。
二代・智忠親王は正室は加賀前田家出身、やはり交友関係を見ても島津家までつながらないように見える。
もしかしたら、桂離宮を建てた時点ではなく、かなり後になって島津家からもらったものなのだろうか?にしても、八条宮家(後「桂宮家」と改称)は最後まで島津家とそこまでの関係があったようには見えないので…ご存じの方、御教示御願いします。
一般的に秋が良いと言われるが、その時期は抽選が激戦になるため、泣く泣く真夏の炎天下(or真冬)、朝もはよから集合させられた経験をお持ちの方も多いかと。実は私も_| ̄|○
さて。
この桂離宮、通用門の真正面に、池への景色を遮るように大きなソテツが植えられているのをご記憶の人も多いと思う。何しろぼうぼうに生えてましたからね(^^;)
純和風、日本の美の極致(byブルーノ・タウト)な桂離宮に南国風のソテツとは異な感じがするが、
実はこれ、島津家からの献上品なのだという。(宮内庁公式パンフによる)
ところが
島津家と桂離宮を建てた八条宮家とは管見では全く接点がないのである。
初代・智仁親王は正室は京極家出身、交友関係を見ても島津家までつながらないように思える。
二代・智忠親王は正室は加賀前田家出身、やはり交友関係を見ても島津家までつながらないように見える。
もしかしたら、桂離宮を建てた時点ではなく、かなり後になって島津家からもらったものなのだろうか?にしても、八条宮家(後「桂宮家」と改称)は最後まで島津家とそこまでの関係があったようには見えないので…ご存じの方、御教示御願いします。