拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
『最後の姫君』ではこういう女性も紹介されていた。 山内容堂の娘である光姫。
写真はこちら 関係ないが、帯の位置がかなり下なのでビックリ。こんなのでずれることはなかったんだろうか…
このお姫様、余り注目されることはないのですが、なかなか微妙な生涯を送られてます。 ある意味容堂の[影]を象徴しているような。 興味深いので紹介しちゃおう。
興味のある方は「つづきはこちら」をクリックプリーズ。
※この記事に掲載される写真は上の一枚も含めてすべて『最後の姫君』から引用した物です
写真はこちら 関係ないが、帯の位置がかなり下なのでビックリ。こんなのでずれることはなかったんだろうか…
このお姫様、余り注目されることはないのですが、なかなか微妙な生涯を送られてます。 ある意味容堂の[影]を象徴しているような。 興味深いので紹介しちゃおう。
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※この記事に掲載される写真は上の一枚も含めてすべて『最後の姫君』から引用した物です
光姫は安政6年5月6日、江戸の土佐藩邸で生まれます。 父は先述したように酒豪で有名ヾ(^^;)な山内容堂こと山内豊信(やまうちとよしげ)。 母親は側室で水上氏の出身、「鯉尾」という候名を名乗っていました が、この母は訳ありの人物でした…
鯉尾はもともとは幕府老中・阿部正弘の側室の一人でした。 が、どうも他家に聞こえるほど美人で有名だったらしく、安政4年6月に正弘が亡くなるとすぐに豊信は 「なんとかして鯉尾をゲットしたい!」 といろいろ工作を始めます。しかし、いくら江戸時代とは言え、他のお殿様の側室、しかもその殿様はなくなったばかりというのですから、世間がいい顔をするはずがありません。豊信と親しかった松平慶永(春嶽)、島津斉彬は必死になって止めますが、結局豊信は鯉尾を自分の側室にしてしまいます…。
光が生まれた安政6年、父・豊信は安政の大獄で失脚・蟄居させられるという失意の渦中にありました。光の誕生を豊信は「暗闇の中に光が差したような物」と喜び、お七夜の時に自ら「光」と命名します。 なお有名な話ですが、この蟄居中に豊信は「容堂」と改名しています。
この後、容堂の不倶戴天の敵・井伊直弼が桜田門外の変で殺害され、容堂も復権。 ただ、光の動向を知る史料は乏しく、文久3年に参勤交代制が変更された際に、義母に当たる正姫(なおひめ、烏丸光政(からすまるみつえ)女)とともに土佐に下向したことが分かっています。 父・容堂が京都で悪戦苦闘?していた明治元年、鯉尾は光の妹に当たる辰姫を高知の東屋敷で産みます。ただし、辰は病弱で成人前に亡くなります。 なお、同年に容堂のもう一人の側室・お勢(大橋氏)が弟の於兎丸(後の男爵・山内豊尹)を産んでいます。
維新後の明治3年。 まだこの時も土佐在住だった光ですが、於兎丸と共に東京(※明治元年に江戸から改名)に移ります。理由は東京に住む父・容堂の健康が悪化したからでした。 が、実子を東京に呼び寄せた効果もなく、2年後の明治5年に容堂は箱崎邸にて46歳で死去。原因は長年の大量飲酒が起因と思われる脳溢血でした。容堂の実子で一番年長だった光は"主婦"(祭祀主となる女)役として父の葬儀を取り仕切っています。
箱崎邸の全景写真 元々は田安徳川家の別邸だったのだが、容堂が以前から目を付けており、明治維新後に工作の末に奪取したらしい。どうも鯉尾の件といい、人の物が欲しくなる性格だったかも知れない?>容堂
その後は本家当主の山内豊範の養妹として箱崎邸で不自由のない生活を送っていた物と思われます。 過ぎること明治11年。19歳になった光に縁談が持ち込まれます。相手は毛利家分家の毛利元功でした。が、山内家ではどうも光の相手には元功では不足と思ったらしく、「元功は身前に不都合がある」と難癖を付けて断ってしまいます。
同年、今度は北白川宮家から縁談が持ち込まれます。これも一端は断ったようなのですが、山内家出身で三条公睦未亡人の信受院(恒子)が奨めたため、11月には受諾の返事をします。そのわずか1ヶ月後の12月に結婚。 ちなみにこの時北白川宮家側の使者に立ったのが、坂本龍馬の盟友として有名な三吉慎蔵です。この頃は北白川宮家の家礼となっていました。
光の相手となった宮様は北白川宮能久親王。この人はご存じの方が多いでしょうが、幕末のころは出家して「輪王寺宮公現法親王」をなのり上野の寛永寺に住持していたことから、奥羽越列藩同盟に"東武皇帝"(つまりもう一人の天皇)として担がれてしまったという経歴の持ち主です。こういう経緯もあって維新後もしばらくは不遇の身の上だったのですが、「北白川宮」を創設した異母弟の智成親王の遺言で跡を継ぎ、宮家の当主になれたという人物でした。
ちなみに光の異母妹(先述の山内豊尹の同母妹)・八重子(1869-1919)もその後小松宮依仁親王(能久親王の異母弟)妃となっています。 左が光子、右に座っているのが八重子
その後は恙なく宮中行事にも参加していたのです
が
7年後の明治18年、突然「光の病弱」を理由に離婚されてしまいます。能久親王との間に子供はいませんでした。
宮妃時代に撮られたと思われる一枚。気のせいか不幸そうな雰囲気の漂う一枚である。
失意の光は翌明治19年高知県に移り住みました。 なお、先述した異母妹の八重子も小松宮依仁親王と離婚しています。が、八重子はその後秋元興朝子爵と再婚しました。 しかし、光はその後再婚することはありませんでした。「病弱」も理由の一つでしょうが、もうひとつ原因があったようです。
光の母・鯉尾は明治8年に晴れて山内家の家籍に入ることが認められます。それまで女中扱いだったのが山内家の親族扱いに昇格したわけです。 ところが、明治12年の正月に鯉尾は山内家を追放されてしまいます。理由は山内家旧家臣との浮気が発覚したからでした。 現在の感覚で言えば夫?である容堂も死んで既に10年近く経ってますし、この程度のことならありそうなのですが、家籍にまで入れた山内家とすれば出家して尼になるくらいの覚悟で容堂の菩提を弔って欲しかったのかも知れません。もっとも、阿部正弘→山内容堂と渡り歩いてきた?鯉尾にそれを要求するのは厳しかったように思われます。 こういう「実母の身持ちの悪さ」が光の後半生に影を落とした物と思われます。 なお、山内家追放後の鯉尾の消息は不明です。
その後の光ですが、高知県に移住した明治19年に本家の山内豊範が41歳で亡くなったため、八重子と共に異母弟の豊尹の戸籍に移籍、再び東京に戻ります。
その後は父が亡くなった箱崎邸に暮らし、「病弱」と言われた割りには長い余生を送り、大正9年に死去。享年は61歳。兄弟達も既になくなっていました。 先夫の北白川宮能久親王も遙か前の明治28年に台湾で客死しています。
<参考文献>「山内容堂最愛の息女 山内光」(渡部淳 『幕末三百藩 古写真で見る最後の姫君たち』KADOKAWA)
鯉尾はもともとは幕府老中・阿部正弘の側室の一人でした。 が、どうも他家に聞こえるほど美人で有名だったらしく、安政4年6月に正弘が亡くなるとすぐに豊信は 「なんとかして鯉尾をゲットしたい!」 といろいろ工作を始めます。しかし、いくら江戸時代とは言え、他のお殿様の側室、しかもその殿様はなくなったばかりというのですから、世間がいい顔をするはずがありません。豊信と親しかった松平慶永(春嶽)、島津斉彬は必死になって止めますが、結局豊信は鯉尾を自分の側室にしてしまいます…。
光が生まれた安政6年、父・豊信は安政の大獄で失脚・蟄居させられるという失意の渦中にありました。光の誕生を豊信は「暗闇の中に光が差したような物」と喜び、お七夜の時に自ら「光」と命名します。 なお有名な話ですが、この蟄居中に豊信は「容堂」と改名しています。
この後、容堂の不倶戴天の敵・井伊直弼が桜田門外の変で殺害され、容堂も復権。 ただ、光の動向を知る史料は乏しく、文久3年に参勤交代制が変更された際に、義母に当たる正姫(なおひめ、烏丸光政(からすまるみつえ)女)とともに土佐に下向したことが分かっています。 父・容堂が京都で悪戦苦闘?していた明治元年、鯉尾は光の妹に当たる辰姫を高知の東屋敷で産みます。ただし、辰は病弱で成人前に亡くなります。 なお、同年に容堂のもう一人の側室・お勢(大橋氏)が弟の於兎丸(後の男爵・山内豊尹)を産んでいます。
維新後の明治3年。 まだこの時も土佐在住だった光ですが、於兎丸と共に東京(※明治元年に江戸から改名)に移ります。理由は東京に住む父・容堂の健康が悪化したからでした。 が、実子を東京に呼び寄せた効果もなく、2年後の明治5年に容堂は箱崎邸にて46歳で死去。原因は長年の大量飲酒が起因と思われる脳溢血でした。容堂の実子で一番年長だった光は"主婦"(祭祀主となる女)役として父の葬儀を取り仕切っています。
箱崎邸の全景写真 元々は田安徳川家の別邸だったのだが、容堂が以前から目を付けており、明治維新後に工作の末に奪取したらしい。どうも鯉尾の件といい、人の物が欲しくなる性格だったかも知れない?>容堂
その後は本家当主の山内豊範の養妹として箱崎邸で不自由のない生活を送っていた物と思われます。 過ぎること明治11年。19歳になった光に縁談が持ち込まれます。相手は毛利家分家の毛利元功でした。が、山内家ではどうも光の相手には元功では不足と思ったらしく、「元功は身前に不都合がある」と難癖を付けて断ってしまいます。
同年、今度は北白川宮家から縁談が持ち込まれます。これも一端は断ったようなのですが、山内家出身で三条公睦未亡人の信受院(恒子)が奨めたため、11月には受諾の返事をします。そのわずか1ヶ月後の12月に結婚。 ちなみにこの時北白川宮家側の使者に立ったのが、坂本龍馬の盟友として有名な三吉慎蔵です。この頃は北白川宮家の家礼となっていました。
光の相手となった宮様は北白川宮能久親王。この人はご存じの方が多いでしょうが、幕末のころは出家して「輪王寺宮公現法親王」をなのり上野の寛永寺に住持していたことから、奥羽越列藩同盟に"東武皇帝"(つまりもう一人の天皇)として担がれてしまったという経歴の持ち主です。こういう経緯もあって維新後もしばらくは不遇の身の上だったのですが、「北白川宮」を創設した異母弟の智成親王の遺言で跡を継ぎ、宮家の当主になれたという人物でした。
ちなみに光の異母妹(先述の山内豊尹の同母妹)・八重子(1869-1919)もその後小松宮依仁親王(能久親王の異母弟)妃となっています。 左が光子、右に座っているのが八重子
その後は恙なく宮中行事にも参加していたのです
が
7年後の明治18年、突然「光の病弱」を理由に離婚されてしまいます。能久親王との間に子供はいませんでした。
宮妃時代に撮られたと思われる一枚。気のせいか不幸そうな雰囲気の漂う一枚である。
失意の光は翌明治19年高知県に移り住みました。 なお、先述した異母妹の八重子も小松宮依仁親王と離婚しています。が、八重子はその後秋元興朝子爵と再婚しました。 しかし、光はその後再婚することはありませんでした。「病弱」も理由の一つでしょうが、もうひとつ原因があったようです。
光の母・鯉尾は明治8年に晴れて山内家の家籍に入ることが認められます。それまで女中扱いだったのが山内家の親族扱いに昇格したわけです。 ところが、明治12年の正月に鯉尾は山内家を追放されてしまいます。理由は山内家旧家臣との浮気が発覚したからでした。 現在の感覚で言えば夫?である容堂も死んで既に10年近く経ってますし、この程度のことならありそうなのですが、家籍にまで入れた山内家とすれば出家して尼になるくらいの覚悟で容堂の菩提を弔って欲しかったのかも知れません。もっとも、阿部正弘→山内容堂と渡り歩いてきた?鯉尾にそれを要求するのは厳しかったように思われます。 こういう「実母の身持ちの悪さ」が光の後半生に影を落とした物と思われます。 なお、山内家追放後の鯉尾の消息は不明です。
その後の光ですが、高知県に移住した明治19年に本家の山内豊範が41歳で亡くなったため、八重子と共に異母弟の豊尹の戸籍に移籍、再び東京に戻ります。
その後は父が亡くなった箱崎邸に暮らし、「病弱」と言われた割りには長い余生を送り、大正9年に死去。享年は61歳。兄弟達も既になくなっていました。 先夫の北白川宮能久親王も遙か前の明治28年に台湾で客死しています。
<参考文献>「山内容堂最愛の息女 山内光」(渡部淳 『幕末三百藩 古写真で見る最後の姫君たち』KADOKAWA)
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