拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
我ながら長すぎるタイトル(^^;)
2011年の大河で…というか、今までの大河でも時代劇でも何度も何度も登場し、知らなきゃモグリの
ちゃちゃ・はつ・GO!…こと「浅井三姉妹」。
だがしかし
拙HPor拙ブログを御覧の皆様ならば、こちらの方もご存じかと。
「戦国の三姉妹と言えば島津義久三姉妹でしょう」
だがだがしかし
戦国時代からは脱線するがヾ(--;)
島津家にはやはり時代に翻弄された薄幸の三姉妹が存在したのである
それは
2011年の大河で…というか、今までの大河でも時代劇でも何度も何度も登場し、知らなきゃモグリの
ちゃちゃ・はつ・GO!…こと「浅井三姉妹」。
だがしかし
拙HPor拙ブログを御覧の皆様ならば、こちらの方もご存じかと。
「戦国の三姉妹と言えば島津義久三姉妹でしょう」
だがだがしかし
戦国時代からは脱線するがヾ(--;)
島津家にはやはり時代に翻弄された薄幸の三姉妹が存在したのである
それは
島津斉彬三姉妹!
こっち(wikipedia)見てもらった方が早いのだが、
斉彬には大勢の子女がいた物のほとんどが夭折してしまった。これが後の御由羅騒動の遠因になるのは有名な話なのでご存じの方も多いと思う。
そのなか、残った数少ない子供が
てる(口韋)子・典子・寧子
の三姉妹。
斉彬が死んだとき、この三姉妹の他に哲丸という男子が残された。上記のような経緯から、斉彬も自分の血統の存続と子女の安全を心配した物か、以下のような遺言を残した。
1)弟・久光の長男である忠義を養子として家督を相続させる
2)忠義の妻には自分の娘を迎えさせること
3)自分の息子・哲丸を忠義の養子とすること
なお、次女・典子が久光・四男の珍彦に嫁いだのも遺言の可能性があるかと(史料を寡聞にして知らない)。というのも当時珍彦は島津家分家・重富家の当主となっていましたが、重富家は本家に万が一当主がいなくなった場合に備える家格の高い分家なので。ちなみに、久光次男・久治はすでに別の分家(宮之城家)の婿養子になっており、三男は故人でした。
この二重三重の”安全策”ですが…結論を先に言ってしまいますと失敗でした
まず、哲丸が斉彬の死んだ翌年(1859年)に早世してしまいます。まだ3歳でした。
次に、忠義は斉彬長女・てる姫と結婚し、1869年に長女が誕生します。が、てる姫は産褥のため、この後死んでしまいます。まだ18歳でした。そしてこの長女も2歳で亡くなってしまいます。
そこで、独身で残っていた三女の寧子を後妻として迎えることになります。実はこの時、忠義はすでに山崎寿満子という女性を妾として抱えていました。寧子の心中は穏やかならぬ物があったかと思いますが、この辺の記録を寡聞にして知りません。そして、1879年、寧子は待望の男子を産みます。が、やはり産褥のため死んでしまいます。産まれた男子も3ヶ月で亡くなってしまったのでした。
…こういう経緯で、現在の島津本家の当主は実は島津斉彬とは血統的に全く関係がなかったりする。
不運が重なり、自分の血を本家に残せなかった斉彬、
まだ、義久の血縁に連なる光久を次期当主にすえた亀寿はマシな方なのかも知れない…
詳しくはこちらのブログ(膏肓記)もご参照下さい(史料が明示されてます)
ところで、忠義の弟・珍彦に嫁いだ典姫はどうなったかというと
…珍彦との間に2男4女を産み、明治36年に死去。つまり分家に嫁いだ娘が一番子だくさんで長生き(つっても享年51だが)だった。
さて、以前某所で聞いたことがあるが、その後、島津家の中でも本家の忠義公爵家、そして久光の財産諸々を継いだ久光公爵家は別格視されて、鹿児島に帰省したときでも扱いに差別があったようなのだが、実はこの久光公爵家というのは久光がお妾さんとの間に産んだ子供が当主だった家で…本妻腹+斉彬の娘が嫁なのに分家の当主になっていたため男爵止まりだった珍彦に取っては、内心忸怩たる物があったらしいんですな。
んで、この珍彦の系統も結局昭和になってから子供がいなくて島津家と血縁のないところから養子を迎えたので…
…
なのだが、実は島津家のメンバーで島津斉彬の血統を継いでいる人はいるのだよ。苗字も島津でーす。
(ネタ晴らししてもいいが、やっぱりめんどくさいので続かないヾ(--;))
こっち(wikipedia)見てもらった方が早いのだが、
斉彬には大勢の子女がいた物のほとんどが夭折してしまった。これが後の御由羅騒動の遠因になるのは有名な話なのでご存じの方も多いと思う。
そのなか、残った数少ない子供が
てる(口韋)子・典子・寧子
の三姉妹。
斉彬が死んだとき、この三姉妹の他に哲丸という男子が残された。上記のような経緯から、斉彬も自分の血統の存続と子女の安全を心配した物か、以下のような遺言を残した。
1)弟・久光の長男である忠義を養子として家督を相続させる
2)忠義の妻には自分の娘を迎えさせること
3)自分の息子・哲丸を忠義の養子とすること
なお、次女・典子が久光・四男の珍彦に嫁いだのも遺言の可能性があるかと(史料を寡聞にして知らない)。というのも当時珍彦は島津家分家・重富家の当主となっていましたが、重富家は本家に万が一当主がいなくなった場合に備える家格の高い分家なので。ちなみに、久光次男・久治はすでに別の分家(宮之城家)の婿養子になっており、三男は故人でした。
この二重三重の”安全策”ですが…結論を先に言ってしまいますと失敗でした
まず、哲丸が斉彬の死んだ翌年(1859年)に早世してしまいます。まだ3歳でした。
次に、忠義は斉彬長女・てる姫と結婚し、1869年に長女が誕生します。が、てる姫は産褥のため、この後死んでしまいます。まだ18歳でした。そしてこの長女も2歳で亡くなってしまいます。
そこで、独身で残っていた三女の寧子を後妻として迎えることになります。実はこの時、忠義はすでに山崎寿満子という女性を妾として抱えていました。寧子の心中は穏やかならぬ物があったかと思いますが、この辺の記録を寡聞にして知りません。そして、1879年、寧子は待望の男子を産みます。が、やはり産褥のため死んでしまいます。産まれた男子も3ヶ月で亡くなってしまったのでした。
…こういう経緯で、現在の島津本家の当主は実は島津斉彬とは血統的に全く関係がなかったりする。
不運が重なり、自分の血を本家に残せなかった斉彬、
まだ、義久の血縁に連なる光久を次期当主にすえた亀寿はマシな方なのかも知れない…
詳しくはこちらのブログ(膏肓記)もご参照下さい(史料が明示されてます)
ところで、忠義の弟・珍彦に嫁いだ典姫はどうなったかというと
…珍彦との間に2男4女を産み、明治36年に死去。つまり分家に嫁いだ娘が一番子だくさんで長生き(つっても享年51だが)だった。
さて、以前某所で聞いたことがあるが、その後、島津家の中でも本家の忠義公爵家、そして久光の財産諸々を継いだ久光公爵家は別格視されて、鹿児島に帰省したときでも扱いに差別があったようなのだが、実はこの久光公爵家というのは久光がお妾さんとの間に産んだ子供が当主だった家で…本妻腹+斉彬の娘が嫁なのに分家の当主になっていたため男爵止まりだった珍彦に取っては、内心忸怩たる物があったらしいんですな。
んで、この珍彦の系統も結局昭和になってから子供がいなくて島津家と血縁のないところから養子を迎えたので…
…
なのだが、実は島津家のメンバーで島津斉彬の血統を継いでいる人はいるのだよ。苗字も島津でーす。
(ネタ晴らししてもいいが、やっぱりめんどくさいので続かないヾ(--;))
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