拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
本日放送の『なんでも鑑定団』に登場していました こちら
北条幻庵がよく自作しており、意外なところでは織田信長も得意だったらしい(使用品が現存)。
拙ブログとして「一節切」といって名前が浮かぶのは
島津義久!
なにせ一節切の名手として知られ、あの細川幽斎に「その音が聞きたい」と小倉城にご招待された位なのである。
…もっとも、その招待された時期が「それがしは病気でゲホゲホ」と上洛を断った慶長7年(1602年)…をい!
ちなみにこの時義久が演奏したのは「隆達節」これ実は恋歌なんですな。こちらのブログで詳細に解説されています(歌詞の一部も紹介)
…義久、こういう事もやってるし、実はお色気満々のジジイだったのかも知れないヾ(^^;)
この話はこちらのブログでも紹介されているので、ご存じの人が多いかも。
上のブログでも紹介されてないようですが、この話の元ネタは「細川家記」、に該当箇所は載っているので簡単に読むことが出来ます。但しもう絶版のようなので図書館で取り寄せてみて下さい。
実は島津側の史料では、上の話は伝えられてない。何でだろう。やはり慶長7年の上洛命令を逃げておいて、小倉に遊びに行くのはOKだったというのがまずかったからだろうか(^^;)
さて
残念ながら、義久が使った一節切は現存していない(つ_`;)
弟の義弘の方は残ってるけど。
北条幻庵がよく自作しており、意外なところでは織田信長も得意だったらしい(使用品が現存)。
拙ブログとして「一節切」といって名前が浮かぶのは
島津義久!
なにせ一節切の名手として知られ、あの細川幽斎に「その音が聞きたい」と小倉城にご招待された位なのである。
…もっとも、その招待された時期が「それがしは病気でゲホゲホ」と上洛を断った慶長7年(1602年)…をい!
ちなみにこの時義久が演奏したのは「隆達節」これ実は恋歌なんですな。こちらのブログで詳細に解説されています(歌詞の一部も紹介)
…義久、こういう事もやってるし、実はお色気満々のジジイだったのかも知れないヾ(^^;)
この話はこちらのブログでも紹介されているので、ご存じの人が多いかも。
上のブログでも紹介されてないようですが、この話の元ネタは「細川家記」、に該当箇所は載っているので簡単に読むことが出来ます。但しもう絶版のようなので図書館で取り寄せてみて下さい。
実は島津側の史料では、上の話は伝えられてない。何でだろう。やはり慶長7年の上洛命令を逃げておいて、小倉に遊びに行くのはOKだったというのがまずかったからだろうか(^^;)
さて
残念ながら、義久が使った一節切は現存していない(つ_`;)
弟の義弘の方は残ってるけど。
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今月に入ってから東京スカイツリーのニュースや番組にこと欠かないわけですが、
すっかりその影に隠れてしまった東京タワーが不憫でなりません。
そういえば一度も東京タワーに昇ったこと無かったな、私…いつか機会があれば昇ってみたい
さて先日、BS朝日でスカイツリー関連番組?でこんなのやってました。
知られざる物語 京都1200年の旅
取り上げられたのは
・東寺の五重塔
・醍醐寺の五重塔
・仁和寺の五重塔
・海住山寺の五重塔
・大徳寺総見院の織田信長の供養塔(五輪塔)
・志子淵神社(現在大谷大学委託)の五輪塔
・宝積寺の三重塔
・法勝寺の八角九重塔 ※現存せず
・法観寺の五重塔
有名なのは上3つと下1つでしょうかね
個人的には醍醐寺の五重塔の中を初めて見られたのが収穫。
海住山寺と志子淵神社は…京都に住んでない人が行ってたら神ですな(^^;)
…
で、検索して調べたところ、確かに京都にはこの番組で取り上げた分しか五重塔残ってないみたい。
もっと残っているかと思ったので意外だった。
一番古い五重塔は醍醐寺(平安時代)
東寺の五重塔は国宝になってますが、江戸時代と意外に新しかったりする。ちなみに建てたのは徳川家光です。
ところで、
すっかりその影に隠れてしまった東京タワーが不憫でなりません。
そういえば一度も東京タワーに昇ったこと無かったな、私…いつか機会があれば昇ってみたい
さて先日、BS朝日でスカイツリー関連番組?でこんなのやってました。
知られざる物語 京都1200年の旅
取り上げられたのは
・東寺の五重塔
・醍醐寺の五重塔
・仁和寺の五重塔
・海住山寺の五重塔
・大徳寺総見院の織田信長の供養塔(五輪塔)
・志子淵神社(現在大谷大学委託)の五輪塔
・宝積寺の三重塔
・法勝寺の八角九重塔 ※現存せず
・法観寺の五重塔
有名なのは上3つと下1つでしょうかね
個人的には醍醐寺の五重塔の中を初めて見られたのが収穫。
海住山寺と志子淵神社は…京都に住んでない人が行ってたら神ですな(^^;)
…
で、検索して調べたところ、確かに京都にはこの番組で取り上げた分しか五重塔残ってないみたい。
もっと残っているかと思ったので意外だった。
一番古い五重塔は醍醐寺(平安時代)
東寺の五重塔は国宝になってますが、江戸時代と意外に新しかったりする。ちなみに建てたのは徳川家光です。
ところで、
京都国立博物館で行われているタイトルの展覧会に行ってきました。
…すんげ長いタイトルの展覧会だ(^^;)
取りあえずの感想
・「王朝文化の華」とありますが、その“王朝”たる平安時代に関係ある物は文献資料のみ…地味だヾ(^^;)
・前半が主に平安時代以前の日記などの史料、後半が近衛信尹、家凞の関係史料で構成されています。
・表装が無茶苦茶立派。実は表装用の生地や紙などもコレクションしていたようだ>近衛家 パンフには残念ながら表装が分かる写真が余り載ってない(T∀T)
・最後に突如近代絵画が出てくるのだが…去年の「細川家の至宝」展を彷彿とさせます ちなみに近衛家と細川家は親戚
・島津家関連の史料は「家凞の金琺瑯の茶碗」「広大院の持ち物だったらしい雛道具」ぐらいかなあ 前久と義久の往復書簡とか出てるかなという期待は見事に外れたのでした(T∀T) というか前久の史料自体がほとんど出てなかった…
・余りにも文献資料が多い(しかも達筆な人が多い)ので、思わず出た言葉「これ書道のお手本にしたい」ヾ(^^;)
パンフに興味深いことが書いてありましたが、感想は以下にて
…すんげ長いタイトルの展覧会だ(^^;)
取りあえずの感想
・「王朝文化の華」とありますが、その“王朝”たる平安時代に関係ある物は文献資料のみ…地味だヾ(^^;)
・前半が主に平安時代以前の日記などの史料、後半が近衛信尹、家凞の関係史料で構成されています。
・表装が無茶苦茶立派。実は表装用の生地や紙などもコレクションしていたようだ>近衛家 パンフには残念ながら表装が分かる写真が余り載ってない(T∀T)
・最後に突如近代絵画が出てくるのだが…去年の「細川家の至宝」展を彷彿とさせます ちなみに近衛家と細川家は親戚
・島津家関連の史料は「家凞の金琺瑯の茶碗」「広大院の持ち物だったらしい雛道具」ぐらいかなあ 前久と義久の往復書簡とか出てるかなという期待は見事に外れたのでした(T∀T) というか前久の史料自体がほとんど出てなかった…
・余りにも文献資料が多い(しかも達筆な人が多い)ので、思わず出た言葉「これ書道のお手本にしたい」ヾ(^^;)
パンフに興味深いことが書いてありましたが、感想は以下にて
先日再放送されていたので見ました。
何かもう3,4回は見てるような気がする(爆)
これのおもしろいのは、
「『源氏物語』というものがその時代時代でどういう風に利用され捉えられてきたか」
という観点で追っかけていること。
なので、『源氏物語』それ自体に興味のある人には余り面白くない番組かも。
やはり拙HP+ブログ的に興味深かったのは戦国時代(戦国武将)と『源氏物語』の関係についてのお話でしょうか。
都の華やか+雅な文化への憧れ=『源氏物語』というのは、まあ予想された展開だったのですが、
アメリカにある『源氏物語』の画帳が裏書きから三条西実隆が制作に関わっており、更に「実隆公記」の記述から注文主は大内氏(大内義興?)じゃないかと推測したお話が興味深かったです。
…いや、一番興味を引いたのは、それを推測したハーバード大学の先生(アメリカ人)が日本語ぺらぺらな上に、続郡書類従版「実隆公記」をぺらぺら読んでられたことですが…(^^;)ワタシモヨンダコトナイ
後は豊臣秀吉が必死になって「源氏物語」を研究しようとした?らしいノートが残ってるとか(でも誤字脱字が多いところを見ると途中で挫折したらしいとか(^^;))
徳川家康が将軍になった直後、諸大名の前で行った演説は「源氏物語」”初音”の一節であり、この話が権力の反映を示した物と捉えられていたのではないかとか でも家康が源氏物語知ってたというのが意外だった 実学しか興味なさそうな人だからヾ(--;)
戦国・安土桃山関連のネタはこれくらいだったかな。
江戸時代はやはりというか庶民にとってエロ本のネタとして使われてたみたいですなヾ(^^;)
…まあ、「源氏物語」はそういうネタの宝庫ですし、”権力の象徴”や”都の文化の象徴”としてよりよっぽど正しい使い方かと(ヲイ)
ところで気になるのが、拙HPのネタである島津さん。
この中に「源氏物語」に詳しいと明言されている人がいるのである。
島津忠良の次女にして樺山善久の妻であった島津御隅がその人である。 拙ブログ関連ネタこちら
「源氏物語」は先述の通り、アレなネタのオンパレードなお話なのだがヾ(^^;)
御隅の父・忠良は無茶苦茶規律とか道徳とかにうるさい人であって…
たぶん忠良が御隅に渡した「源氏物語」って、その辺の記述が戦後直後の日本の教科書みたいに黒塗りで塗りつぶされた物だったんじゃないかと(ヲイ)
公式HP?はこちら ほとんど説明ありませんが(T∀T)
何かもう3,4回は見てるような気がする(爆)
これのおもしろいのは、
「『源氏物語』というものがその時代時代でどういう風に利用され捉えられてきたか」
という観点で追っかけていること。
なので、『源氏物語』それ自体に興味のある人には余り面白くない番組かも。
やはり拙HP+ブログ的に興味深かったのは戦国時代(戦国武将)と『源氏物語』の関係についてのお話でしょうか。
都の華やか+雅な文化への憧れ=『源氏物語』というのは、まあ予想された展開だったのですが、
アメリカにある『源氏物語』の画帳が裏書きから三条西実隆が制作に関わっており、更に「実隆公記」の記述から注文主は大内氏(大内義興?)じゃないかと推測したお話が興味深かったです。
…いや、一番興味を引いたのは、それを推測したハーバード大学の先生(アメリカ人)が日本語ぺらぺらな上に、続郡書類従版「実隆公記」をぺらぺら読んでられたことですが…(^^;)ワタシモヨンダコトナイ
後は豊臣秀吉が必死になって「源氏物語」を研究しようとした?らしいノートが残ってるとか(でも誤字脱字が多いところを見ると途中で挫折したらしいとか(^^;))
徳川家康が将軍になった直後、諸大名の前で行った演説は「源氏物語」”初音”の一節であり、この話が権力の反映を示した物と捉えられていたのではないかとか でも家康が源氏物語知ってたというのが意外だった 実学しか興味なさそうな人だからヾ(--;)
戦国・安土桃山関連のネタはこれくらいだったかな。
江戸時代はやはりというか庶民にとってエロ本のネタとして使われてたみたいですなヾ(^^;)
…まあ、「源氏物語」はそういうネタの宝庫ですし、”権力の象徴”や”都の文化の象徴”としてよりよっぽど正しい使い方かと(ヲイ)
ところで気になるのが、拙HPのネタである島津さん。
この中に「源氏物語」に詳しいと明言されている人がいるのである。
島津忠良の次女にして樺山善久の妻であった島津御隅がその人である。 拙ブログ関連ネタこちら
「源氏物語」は先述の通り、アレなネタのオンパレードなお話なのだがヾ(^^;)
御隅の父・忠良は無茶苦茶規律とか道徳とかにうるさい人であって…
たぶん忠良が御隅に渡した「源氏物語」って、その辺の記述が戦後直後の日本の教科書みたいに黒塗りで塗りつぶされた物だったんじゃないかと(ヲイ)
公式HP?はこちら ほとんど説明ありませんが(T∀T)
家人がJAFの会員のため、毎月会報『JAF MATE』が送られてくる。
内容は運転や交通マナーネタばかりではなく、旅のコラムみたいな物もあって、毎号楽しみにしたりしているのだが(^^;)
今月の旅の特集は「摂津・播磨」
…
思いっきり地元じゃーんヾ(^^;)
というわけで、いつも以上に興味深く拝見。
というか、神戸以外で平清盛がどう思われているのか、私は知りたい。
少なくとも戦前教育?『平家物語』まる覚えのように、単純に悪者として思っている人は少ないのではないかなあ。いや、単純に日本史の暗記のネタとしか思われてないようなヾ(--;)
ちなみに我が家の家人は神戸育ちですが、小学校の社会の教科書には平清盛は神戸の偉人として出てきたそうです。しかしかなり昔のことなので(^^;)今もそうなのかは知らない。
ちなみに田辺先生は神戸の歴史系カルチャー講座には欠かせない有名人で、まあ神戸市の歴史講座のタージンと言えば…すいません、関西在住者しか分からないネタで。
でも清盛弁護しておくと、自家の利益中心思考はこの時代の上流階級(貴族とか、源頼朝みたいな武家のトップクラスも含めて)としては常識。清盛の日宋貿易重視はそれまでの貴族が荘園のような自国内の田畑から上がる収入に頼ったのに対して、外国から収益を上げると言うことを考えた点では革命的だよね。
次は大阪。
私の記憶では昭和50年代後半あたりから朝鮮半島から日本への影響を重視する歴史思考がでてきて、で、秀吉と言えば朝鮮の不倶戴天の敵+大阪には日本最大の在日コミュニティがある…などなどの理由で、昔ほどの人気ではない(というか隠れ太閤タンになってる?)ような。あるいは『プリンセス・トヨトミ 』のようにギャグのネタにされているような。ヾ(^^;)
ところで、大阪城、一時期韓国人観光客の落書きの餌食になってたという事を聞いたが、超円高で外国人観光客が減ったとおぼしき今、修繕されてるんでしょうか。
内容は運転や交通マナーネタばかりではなく、旅のコラムみたいな物もあって、毎号楽しみにしたりしているのだが(^^;)
今月の旅の特集は「摂津・播磨」
…
思いっきり地元じゃーんヾ(^^;)
というわけで、いつも以上に興味深く拝見。
そうかなあ?(゜_。)?(。_゜)?あまり知られていないが、どうやら、神戸の人たちは平清盛がとても好きらしい。
(p.24)
というか、神戸以外で平清盛がどう思われているのか、私は知りたい。
少なくとも戦前教育?『平家物語』まる覚えのように、単純に悪者として思っている人は少ないのではないかなあ。いや、単純に日本史の暗記のネタとしか思われてないようなヾ(--;)
ちなみに我が家の家人は神戸育ちですが、小学校の社会の教科書には平清盛は神戸の偉人として出てきたそうです。しかしかなり昔のことなので(^^;)今もそうなのかは知らない。
いやだからそう思ってるのは田辺先生だけなんではヾ(^^;)「神戸の人間が清盛をものすごい好きな一つの理由は、都を持ってきたからです」
そうおっしゃるのは、園田学園女子大学名誉教授・田辺眞人先生だ。
(p.24)
ちなみに田辺先生は神戸の歴史系カルチャー講座には欠かせない有名人で、まあ神戸市の歴史講座のタージンと言えば…すいません、関西在住者しか分からないネタで。
いや、多分清盛は単純に平家の利益を考えて都を移しただけだと思うぞ。勝海舟と一緒にしたらかわいそうだぞ、海舟がヾ(^^;) ちなみに自家の利益を考えて自分の陣地に都を移した例としては橘諸兄(拙ブログこのネタ)とかがいる。外国との交流を避けて250年あまり。当時の知識人の思考は、鎖国をしていた江戸時代末と似ている。
「清盛がやろうとしたことは勝海舟みたいな面があるわけです、ね」(※補注:このコメントは先述の田辺氏による物)
こういう風に時代の気分を説明されて、一気に清盛という人物の性格が浮かび上がってくる。確信的で常識や慣習に捕らわれないのだ。だからこそ、清盛は神戸に都を移した。大輪田泊(現在の神戸港西部)が日宋貿易で富をもたらすことを理解していたのだ。
(p.24)
でも清盛弁護しておくと、自家の利益中心思考はこの時代の上流階級(貴族とか、源頼朝みたいな武家のトップクラスも含めて)としては常識。清盛の日宋貿易重視はそれまでの貴族が荘園のような自国内の田畑から上がる収入に頼ったのに対して、外国から収益を上げると言うことを考えた点では革命的だよね。
次は大阪。
これは分かる。その人気は熊本県における加藤清正、山梨県に於ける武田信玄のように神聖かつ侵すべからずといった感じ。ただある年代から上の人に顕著な傾向かも。大阪の人たちは、豊臣秀吉が大好きである。
(p.26)
私の記憶では昭和50年代後半あたりから朝鮮半島から日本への影響を重視する歴史思考がでてきて、で、秀吉と言えば朝鮮の不倶戴天の敵+大阪には日本最大の在日コミュニティがある…などなどの理由で、昔ほどの人気ではない(というか隠れ太閤タンになってる?)ような。あるいは『プリンセス・トヨトミ 』のようにギャグのネタにされているような。ヾ(^^;)
ところで、大阪城、一時期韓国人観光客の落書きの餌食になってたという事を聞いたが、超円高で外国人観光客が減ったとおぼしき今、修繕されてるんでしょうか。