拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
amazonから予約購入の案内が来たんだけど。
なんか、これはどう見ても以前出された
とかの焼き直しとしか思えないんですが。
何か、世間のブームに便乗して小遣い稼ぎの小手先本しか書いてないような気がする>近頃の山本せんせ
内容紹介
2008年NHK大河ドラマ「篤姫」で描かれる天璋院篤姫、フジテレビドラマ「大奥~華の乱~」で登場する桂昌院など百花繚乱の歴代正室、側室そして子どもたちに乳母など江戸時代の“女の城”大奥を彩った254人の人物像を描きます。
また“大奥はどんなところだったのか”“どんな暮らしをしていたのか”など大奥をめぐる疑問と不思議の数々を、彼女たちの「しきたり」と「おきて」を通してバラエティ豊かなビジュアルで解き明かします。
図解が多いので、歴史好きな方はもちろん、はじめて読む方にも楽しめる一冊です。
- 目次 -
【其の壱】波乱万丈 大奥を揺るがせた女たちの五大事件
(対立)春日局VSお江与の方/(陰謀)天英院VS月光院/(破戒)日潤VS脇坂安董/(偽造)専行院VS水野忠邦/(諍い)天璋院VS和宮 コラム 将軍毒殺を語る大奥女中の手紙を発見!!
【其の弐】大奥をめぐる「しきたり」と「おきて」
大奥のなりたち・給与・住まい(御台所・女中)・法・一年/江戸城御殿/奥女中の職制・出世/将軍・御台所・側室の一日/出産と行事/子だくさん将軍家斉の戦略 コラム 大奥に入れた男
【其の参】ファッション大奥「流行白書」
(結う)流行ヘアカタログ/(粧う)錦絵にみる「メイク図鑑」/(纏う)ファッション/ペットブーム/愉しみ
【其の四】 大奥列伝 百花繚乱の女たち
初代家康/二代秀忠/三代家光/四代家綱/五代綱吉/六代家宣/七代家継/八代吉宗/九代家重/十代家治/十一代家斉/十二代家慶/十三代家定/十四代家茂/十五代慶喜の女たち
【其の伍】 古写真とともに見る天璋院篤姫の四十九年
篤姫の誕生/一橋派VS南紀派/将軍家へ輿入れ/和宮との確執/江戸城無血開城/晩年
2008年NHK大河ドラマ「篤姫」で描かれる天璋院篤姫、フジテレビドラマ「大奥~華の乱~」で登場する桂昌院など百花繚乱の歴代正室、側室そして子どもたちに乳母など江戸時代の“女の城”大奥を彩った254人の人物像を描きます。
また“大奥はどんなところだったのか”“どんな暮らしをしていたのか”など大奥をめぐる疑問と不思議の数々を、彼女たちの「しきたり」と「おきて」を通してバラエティ豊かなビジュアルで解き明かします。
図解が多いので、歴史好きな方はもちろん、はじめて読む方にも楽しめる一冊です。
- 目次 -
【其の壱】波乱万丈 大奥を揺るがせた女たちの五大事件
(対立)春日局VSお江与の方/(陰謀)天英院VS月光院/(破戒)日潤VS脇坂安董/(偽造)専行院VS水野忠邦/(諍い)天璋院VS和宮 コラム 将軍毒殺を語る大奥女中の手紙を発見!!
【其の弐】大奥をめぐる「しきたり」と「おきて」
大奥のなりたち・給与・住まい(御台所・女中)・法・一年/江戸城御殿/奥女中の職制・出世/将軍・御台所・側室の一日/出産と行事/子だくさん将軍家斉の戦略 コラム 大奥に入れた男
【其の参】ファッション大奥「流行白書」
(結う)流行ヘアカタログ/(粧う)錦絵にみる「メイク図鑑」/(纏う)ファッション/ペットブーム/愉しみ
【其の四】 大奥列伝 百花繚乱の女たち
初代家康/二代秀忠/三代家光/四代家綱/五代綱吉/六代家宣/七代家継/八代吉宗/九代家重/十代家治/十一代家斉/十二代家慶/十三代家定/十四代家茂/十五代慶喜の女たち
【其の伍】 古写真とともに見る天璋院篤姫の四十九年
篤姫の誕生/一橋派VS南紀派/将軍家へ輿入れ/和宮との確執/江戸城無血開城/晩年
なんか、これはどう見ても以前出された
とかの焼き直しとしか思えないんですが。
何か、世間のブームに便乗して小遣い稼ぎの小手先本しか書いてないような気がする>近頃の山本せんせ
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前から気になっていた本を取り寄せて借りてみた。
これは「島津家」「鍋島家」「細川家」
こちらは「近衛家」「鷹司家」「三条家」
今は写真の版権の関係もあるのか、すべて絶版、どうしても手元に欲しければ古書買うしかないと言うのが残念ですが。
この6家、関係ないようで実は関係があったりして、ある人の写真が思いもかけない家から出てきたりとか、なかなか興味深い本。
島津ヲタの私ヾ(^^;)としては、やはり8巻の方に興味があったが、なんと以前図書館で借りたに所収されていたものと重複する写真が多くて_| ̄|○でも、お亡くなりになる前(1990年)の島津忠秀氏(1996年没)のご尊影を拝めたのが何よりの収穫。で、どんなお顔かというと
は虫類系…ヾ(--;)
9巻の「近衛家」の方に、元夫人の昭子氏(の若いころ)の写真が載っていますが、見るからに派手というか華やかな感じで…こりゃ性格が合わなかったのかな、等と思ってしまいました。ちなみに晩年の昭子氏のご様相についてはこちら。
あと、9巻には悲劇的な最期を遂げた鷹司平通氏(昭和天皇三女・和子氏の夫)の写真も所収されていました。彼の情報はweb上では乏しいですが
現在の近畿大卒、しかも鉄ヲタということで、とんでもない様相の方例えばこういう感じを想像していたのですが、写真を拝見してイメージ崩壊。けっこうほっそりした人だった。といっても公家然とした感じじゃなくて、親しみやすい感じの人でした。鉄道博物館で小学生に囲まれて機関車の説明をしている瞬間のお顔はとっても幸せそうでした。
平通氏と和子氏の縁組みは元五摂家と皇族と言うことで決まったのかも知れませんが、鷹司家は写真を見るからに摂家然としてない家風だったようで、この点で不幸になることが決まってしまったような気もします。
近衛家、鷹司家、三条家の中では一番三条家が容貌といいヾ(^^;)公家っぽいかな。近衛は前久を初めとして歴史の節目でとんでもない人物を輩出する伝統が(ヲイ)
こちらはテレビでもよく話題となった柳川市の料亭「御花」の先代女将こと立花伯爵家の家付き娘であった立花文子(あやこ)氏の自伝。amazonの紹介では「no image」となっているのが残念ですが、文子氏の全盛期ヾ(^^;)の麗しい肖像画が表紙を飾っています。
料亭御花の苦労談は意外に少なく、学生時代の話とか、家督を父に押しつけられる前(苦笑)の転勤サラリーマンの妻だったころのお話など興味深く読ませてもらいました。白黒ですが写真が思ったより多く所収されていたのが収穫。文子氏の母は田安徳川家の出身なんですね。そこで興味深い話があったのだが
…忠義の娘では三女・常子は「絶世の美女で才女なのにあの時代に28歳まで行き遅れて後妻に」というのは知っていたが、四女・知子も後妻であったか…。
ところで所収の写真を見る限りでは、田安家の女性は美女揃いだったが、この4人とも母親は鏡子になるのかな…そういえば誰も顔は知子に似ていないような…田安達成氏は集合写真を見る限りでははれぼったい瞼が知子実母の山崎寿満子そっくりだしヾ(^^;)この方は知子の子なのかな。
おまけ
達成氏の妻も近年という本を上梓されたようですが、某掲示板で聞いたところによると、どうも姑に当たる知子と折り合いが悪かったようで(苦笑)、戦後になっても朝晩のキモノのお召し替えなど旧態依然の大名華族の生活を変えない知子に達成夫人・元子はぶちぎれられていたとか。…最も、立花文子氏の前掲書に寄れば、文子氏の母・艶子氏の戦後も全く同じ調子だったご様子_(。_゜)/
これは「島津家」「鍋島家」「細川家」
こちらは「近衛家」「鷹司家」「三条家」
今は写真の版権の関係もあるのか、すべて絶版、どうしても手元に欲しければ古書買うしかないと言うのが残念ですが。
この6家、関係ないようで実は関係があったりして、ある人の写真が思いもかけない家から出てきたりとか、なかなか興味深い本。
島津ヲタの私ヾ(^^;)としては、やはり8巻の方に興味があったが、なんと以前図書館で借りたに所収されていたものと重複する写真が多くて_| ̄|○でも、お亡くなりになる前(1990年)の島津忠秀氏(1996年没)のご尊影を拝めたのが何よりの収穫。で、どんなお顔かというと
は虫類系…ヾ(--;)
9巻の「近衛家」の方に、元夫人の昭子氏(の若いころ)の写真が載っていますが、見るからに派手というか華やかな感じで…こりゃ性格が合わなかったのかな、等と思ってしまいました。ちなみに晩年の昭子氏のご様相についてはこちら。
あと、9巻には悲劇的な最期を遂げた鷹司平通氏(昭和天皇三女・和子氏の夫)の写真も所収されていました。彼の情報はweb上では乏しいですが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%B9%B3%E9%80%9A鷹司 平通(たかつかさ としみち、1923年8月26日 - 1966年1月27日)は鉄道研究家。日本交通公社交通博物館調査役。
来歴・人物
東京都出身。公爵鷹司信輔の嗣子。17歳のとき、大政翼賛会の公募に応じて会歌「大政翼賛の歌」を応募し、入選する。大阪理工科大学(現在の近畿大学)を卒業。
1950年5月20日、東京高輪の光輪閣にて孝宮和子内親王(昭和天皇の娘)と結婚。華族制廃止以後のため鷹司家は一般人の扱いであり、そのため天皇家から一般家庭への初の嫁入りとされ、民主化の象徴として話題になった。
幼時より大の鉄道好きとして知られ、交通博物館に勤務する傍ら鉄道の研究を行い、特に『鉄道物語』(1964年)は名著として知られる。鉄道友の会の世話役も務めた。(以下略)
現在の近畿大卒、しかも鉄ヲタということで、とんでもない様相の方例えばこういう感じを想像していたのですが、写真を拝見してイメージ崩壊。けっこうほっそりした人だった。といっても公家然とした感じじゃなくて、親しみやすい感じの人でした。鉄道博物館で小学生に囲まれて機関車の説明をしている瞬間のお顔はとっても幸せそうでした。
平通氏と和子氏の縁組みは元五摂家と皇族と言うことで決まったのかも知れませんが、鷹司家は写真を見るからに摂家然としてない家風だったようで、この点で不幸になることが決まってしまったような気もします。
近衛家、鷹司家、三条家の中では一番三条家が容貌といいヾ(^^;)公家っぽいかな。近衛は前久を初めとして歴史の節目でとんでもない人物を輩出する伝統が(ヲイ)
こちらはテレビでもよく話題となった柳川市の料亭「御花」の先代女将こと立花伯爵家の家付き娘であった立花文子(あやこ)氏の自伝。amazonの紹介では「no image」となっているのが残念ですが、文子氏の全盛期ヾ(^^;)の麗しい肖像画が表紙を飾っています。
料亭御花の苦労談は意外に少なく、学生時代の話とか、家督を父に押しつけられる前(苦笑)の転勤サラリーマンの妻だったころのお話など興味深く読ませてもらいました。白黒ですが写真が思ったより多く所収されていたのが収穫。文子氏の母は田安徳川家の出身なんですね。そこで興味深い話があったのだが
p.39母は最後の将軍であった徳川慶喜公の長女鏡子様と旧徳川御三卿の一つ、田安徳川家の御当主の徳川達孝伯爵の三女として明治二十四年に生まれました。高松宮妃殿下(喜久子姫)は母とは従兄弟に当たられます。
実家は三田にありましたので、その祖父母のことを私は「三田のお祖父様」「三田のお祖母様」とお呼びしていましたが、私が覚えているお祖母様とは後添えで入られた知子夫人の方です。こちらは島津忠義家の四女でいらっしゃいます。(以下略)
…忠義の娘では三女・常子は「絶世の美女で才女なのにあの時代に28歳まで行き遅れて後妻に」というのは知っていたが、四女・知子も後妻であったか…。
ところで所収の写真を見る限りでは、田安家の女性は美女揃いだったが、この4人とも母親は鏡子になるのかな…そういえば誰も顔は知子に似ていないような…田安達成氏は集合写真を見る限りでははれぼったい瞼が知子実母の山崎寿満子そっくりだしヾ(^^;)この方は知子の子なのかな。
おまけ
達成氏の妻も近年という本を上梓されたようですが、某掲示板で聞いたところによると、どうも姑に当たる知子と折り合いが悪かったようで(苦笑)、戦後になっても朝晩のキモノのお召し替えなど旧態依然の大名華族の生活を変えない知子に達成夫人・元子はぶちぎれられていたとか。…最も、立花文子氏の前掲書に寄れば、文子氏の母・艶子氏の戦後も全く同じ調子だったご様子_(。_゜)/
別館関連で、数少ない地元図書館にあった本を借りたのだが、
『鹿屋市史』
…今まで、鹿児島県のいろんな市町村史誌には大変お世話になってきたのだが、
これはほとんど見るべき所がなかった。
歴史の本としての冷静な視点に欠けている。
例えば
とどめのあとがきでも
「薩摩半島に対して虐げられたとってもかわいそうな大隅半島」
…というのはどうもこの市史の編纂基調だったらしい。といいつつ、何故か隣の市である垂水市には敵意満々の記述が多く、初代垂水領主・島津久信のことは「精神分裂病」(記述ママ)と具体的な証拠もなく決めつけ、ボロカスにけなしていたが…。
そういえば島津氏の出身者は明治時代〜昭和初期に国学者として大成した島津久基氏(鹿屋市を地盤とした花岡島津家出身)と島津岩子(花岡島津家初代当主の妻で島津継豊の妹)以外は「(秀吉に対して)しっぽを巻いて逃げる(島津)義久」とかこれでもかこれでもかと陰湿な言葉を丁寧に選んでけなしまくってたなぁ(^^;)。
まあ、この本自体が
上巻:昭和41年(1966年)
下巻:昭和47年(1972年)
というかなり古めの本ですから_(。_゜)/、こういう感情入りまくり講談調の記述も、百歩譲って許すにしても
鹿児島県の他の市町村は平成に入ってから改訂版の市町村史誌を出しているのに、鹿屋市は全く出す気配すらなし。このご時世、予算が苦しいからといっても、他の小さな町村はもっと苦しい中で新資料を取り入れた改訂版を出したわけで。
恨み節だけ書くだけ書いて、後は放置という、鹿屋市のいい加減さが際だってしまう…
『鹿屋市史』
…今まで、鹿児島県のいろんな市町村史誌には大変お世話になってきたのだが、
これはほとんど見るべき所がなかった。
歴史の本としての冷静な視点に欠けている。
例えば
戦国時代からは、どんな話の最後にもこれに似たような恨み節が着いてくるので、正直勘弁して欲しかった。古代においてはむしろ大隅の方がすべての面で薩摩より優位に立っていたが、中世にいたってそれが逆になってしまった。
中世以降の大隅の歴史は、惨めな被征服民の歴史である。(以下略)(p.272)
とどめのあとがきでも
と、同じ調子であるからして、鹿屋市史編纂を終えて
(中略)
大隅開発が叫ばれ在りし日の天孫民族の発祥の地でありながら長年月に亘って虐げられてきたこの地に、再び陽春が訪れ熊襲隼人の古墳文化が高く評価され、九州東回りの殷賑の紐遠くはあるまい。(以下略)
「薩摩半島に対して虐げられたとってもかわいそうな大隅半島」
…というのはどうもこの市史の編纂基調だったらしい。といいつつ、何故か隣の市である垂水市には敵意満々の記述が多く、初代垂水領主・島津久信のことは「精神分裂病」(記述ママ)と具体的な証拠もなく決めつけ、ボロカスにけなしていたが…。
そういえば島津氏の出身者は明治時代〜昭和初期に国学者として大成した島津久基氏(鹿屋市を地盤とした花岡島津家出身)と島津岩子(花岡島津家初代当主の妻で島津継豊の妹)以外は「(秀吉に対して)しっぽを巻いて逃げる(島津)義久」とかこれでもかこれでもかと陰湿な言葉を丁寧に選んでけなしまくってたなぁ(^^;)。
まあ、この本自体が
上巻:昭和41年(1966年)
下巻:昭和47年(1972年)
というかなり古めの本ですから_(。_゜)/、こういう感情入りまくり講談調の記述も、百歩譲って許すにしても
鹿児島県の他の市町村は平成に入ってから改訂版の市町村史誌を出しているのに、鹿屋市は全く出す気配すらなし。このご時世、予算が苦しいからといっても、他の小さな町村はもっと苦しい中で新資料を取り入れた改訂版を出したわけで。
恨み節だけ書くだけ書いて、後は放置という、鹿屋市のいい加減さが際だってしまう…
拙ブログ関連ネタ こちら
先日という本を借りてきた。
著者の関口すみ子氏の本来の専門はジェンダー論で、終章とあとがきの内容は正直「うぇっ」と思いましたがヾ(^^;)
残りは興味深く読ませていただきました<(_ _)>
その中で「三章 綱吉・吉宗・定信と姫さま」の項に、興味深い話が引用されていたので抜粋。
関口氏は
と、山本博文氏の論と同じ立場に立ってられるが(但し、巻末の参考文献を見ると山本氏の本は参照されてないらしい)、その後
とある。
関口氏は
とさらっと流し、その後他の大名家の話などもはさみながら、最後に11代将軍家斉正室(広大院)と13代将軍正室(天璋院)と島津家から2人の正室を出したのはこの時のつながりがきっかけだ、と締めている。
…ちょっと待った!お得意のジェンダーネタがない
関口はんヾ(^^;)、この結婚話熱心にすすめとったんは徳川吉宗はんやないんかいな、でも、最後の方では吉宗全然絡んでないやあらしませんかヾ(^^;)
結局、関口氏の引用した史料(おそらく『鹿児島県史料 旧記雑録追録』と思われる)を見ても、竹姫の島津家押しつけ降嫁に熱心だったのは吉宗と言うより大奥側という印象しか残らないんだが…。
先日という本を借りてきた。
著者の関口すみ子氏の本来の専門はジェンダー論で、終章とあとがきの内容は正直「うぇっ」と思いましたがヾ(^^;)
残りは興味深く読ませていただきました<(_ _)>
その中で「三章 綱吉・吉宗・定信と姫さま」の項に、興味深い話が引用されていたので抜粋。
関口氏は
(上掲書p.113より)(荻生狙來は将軍家からの降嫁は男女の序列を見だして、将軍家を支える儒教に反するとして猛烈に反対していたが)じつは、それどころではない。吉宗は、竹姫の降嫁を、享保十四年(一七二九年)四月から、猛然と押し進めたのである。
と、山本博文氏の論と同じ立場に立ってられるが(但し、巻末の参考文献を見ると山本氏の本は参照されてないらしい)、その後
(上掲書p.115より)(島津家が竹姫降嫁を受託したことに対して)天英院や老女達の歓喜はひととおりではなかった。秀小路(ばんない注:天英院の上臈)からの返事として佐川(ばんない注:島津家の上臈)が伝えるところに依れば、天英院からは「御満足のたんよく心得申せとの 上意に御座候。御老女様方まて自分の御礼頼上候」という。(中略)天英院、更に西丸老女(秀小路、梅その、さくらい)、本丸老女(三室、豊岡、高瀬、外山、尾のえ)たちまで感謝している様子である。
とある。
関口氏は
(上掲書p.115)ここに大奥と島津家の間に確かな絆が出来たのである
とさらっと流し、その後他の大名家の話などもはさみながら、最後に11代将軍家斉正室(広大院)と13代将軍正室(天璋院)と島津家から2人の正室を出したのはこの時のつながりがきっかけだ、と締めている。
…ちょっと待った!
関口はんヾ(^^;)、この結婚話熱心にすすめとったんは徳川吉宗はんやないんかいな、でも、最後の方では吉宗全然絡んでないやあらしませんかヾ(^^;)
結局、関口氏の引用した史料(おそらく『鹿児島県史料 旧記雑録追録』と思われる)を見ても、竹姫の島津家
図書館で借りてきました。
第17代徳川家当主・徳川家正氏の三女に生まれた保科順子さんの回想録です。
とはいっても、前半の明治初年度のことなどは16代当主・徳川家達の娘である松平綾子・鷹司綏子(二人とも既に故人)の回想をインタビューから書き起こした物ですが。
文章としての軽妙さは欠けるのでこれとかに比べると同じ華族の回想録でも非常に読みにくいのですが、実際その場にいた人の証言だけに、今までの資料などでは全く分からなかった血の通った姿が見えます。
例えば
来年の大河のヒロインである天璋院はどういう晩年を過ごしていたか
14代将軍の母・実成院はどんな晩年を送ったのか
13代将軍の母で天璋院と犬猿の仲だった本寿院は明治時代天璋院と同じ屋敷で暮らしていた
…などなど。
また、五摂家・近衛家から輿入れした徳川家達夫人・泰子が衣替えや年末の大掃除の時には自ら姉さんかぶりして先頭に立っていた話は非常に意外でした。
更に徳川家正と正子(なおこ)との結婚については天璋院の遺言による物であり(※正子は島津家29代当主・島津忠義の娘)、幕末の事情から徳川家と正子の間には確執があった上に、正子自身に外交官夫人としての華やかさとか社交性が欠けていたこともあって(※徳川家正は外交官だった)、正子は寂しい家庭生活を送っていたらしいことなど、今だからこそ話せるような貴重な証言が多いです。ちなみに島津家と徳川家の間は余り親戚づきあいも芳しくなかったらしい(^^;)
家正と正子の間に生まれた唯一の男子で跡取り息子だった家英が早くから両親と離れて暮らした点には『明治日本見聞録』で描かれた島津忠重(先述の忠義の長男)の姿に通じる物がありました。しかも家英は23歳の若さで没した下りはあまりにもかわいそうで…。旧大名家の跡継ぎに生まれるって言うのはそれだけで大変なのだなあ、と思いました。
大名華族の生活とか、明治維新後の徳川家とかに興味のある方は、読んでまず損のない本です。というか必読書だと思う。
拙ブログ関連ネタ
『明治日本見聞録』
『徳川さん宅の常識』