拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
ズルズル9回目…(-_-;)
…などと書いている暇があったらともかく先に進む
ということで、今回も関ヶ原の合戦頃に島津家から黒田家に送られた文書をピックアップ
ただ今回のは前回ほど面白くないかも(ヲイ)
慶長6年頃11月21日と推定されている文書です。
前回紹介した同じ頃に島津義弘が黒田長政に書いた文書と比較すると、文自体も短いですが、内容が通り一辺倒というか中身がない文章のように感じました。
なんとなくですが、黒田家とのやりとりについて忠恒は父/義弘に一任していて、忠恒はタッチしていない(したくない?)という印象を受けました。皆様如何でしょうか。
あと前回の義弘の文書もそうですが、名乗りが「羽柴兵庫頭」「羽柴少将」となっているのが興味深いです。確か慶長7年頃までは”羽柴”名乗りしてたんだが、その後はきっぱり止めてしまうのだったかな?うろ覚え。
では気を取り直して次の文書の紹介
(注2)兵庫頭→島津義弘 今気が付いたが、この文書でも前半では島津義弘を「兵庫」といっているのに後半では「惟新」である 謎。
(注3)上方御弓箭の企→ご存じ関ヶ原の合戦
(注4)奉行衆→いわゆる五奉行…なんだが、関ヶ原の合戦時は浅野長政は隠退、石田三成は隠居させられていたので、残りの三奉行(増田長盛、長束政家、前田玄以)のことである
(注5)石田殿→ご存じ石田三成
(注6)八十嶋方→『黒田家文書 1』解説(p.354)では「石田三成の家臣。」としか書いていないが、名字から見て、関ヶ原の合戦時に島津豊久に追い返された八十島助左衛門と同一人物と見て間違いないのではないだろうか。ご意見お待ちしています。
(注7)さわ山→佐和山城。石田三成の本拠地。
(注8)藤堂佐渡守殿→藤堂高虎。八十島助左衛門(?)が関ヶ原の合戦後藤堂高虎の元に捕まっていたという話は初耳で興味深い。
(注9)本多佐渡守殿→本多正信。
(注10)内府様→徳川家康。ちなみに『黒田家文書』ではすべて「だいふさま」とルビが振ってある。
(注11)御縁辺の事→黒田長政養子・松寿丸と義弘の孫娘との縁談のこと。前回記事参照。
(注12)鳥居勘左衛門尉殿→黒田長政の家臣。前回の島津義弘の書状参照。
慶長6年閏11月3日付の書状で、書いた人は前回の島津義弘の書状にも登場した義弘の家老・伊勢貞林(伊勢貞昌の父)です。宛先は黒田長政の家臣・鳥居勘左衛門になっていますが、自分の身分から考えて黒田長政宛にするのは恐れ多いからでしょう。鳥居は長政の使者でもありますから、鳥居からこの文書の内容を長政に伝えてくれる事を期待して書いたと思われます。
内容ですが、島津義弘の処分に関して黒田長政の尽力を感謝する一方で、関ヶ原の合戦は石田三成やその家臣の八十島(助左衛門?)のせいでいやいや西軍に参加したんだ!…と、かなり言い訳臭いです(爆)
今回はここまで。
次回はこの件に関する、ある人物の実に興味深い文書を紹介する予定です。
…などと書いている暇があったらともかく先に進む
ということで、今回も関ヶ原の合戦頃に島津家から黒田家に送られた文書をピックアップ
ただ今回のは前回ほど面白くないかも(ヲイ)
(注1)兵入→「兵庫入道」の略、つまり島津義弘(島津兵庫頭義弘)のこと。でもこの後の文では「惟新」という号で書いたりしてるし、統一取れてないですな(^^;)
以上
其れ以来申し承らず、無言に
罷かり成り候処、御使札に預かり
畏れ入り存じ候。先日伏
見において申し入れ候御報、慥かに
相届き、披見申候。将又
兵入(注1)に到り仰せ越さるる儀共、委曲
承知せしめ候。猶惟新
の所より、申し達すべく候間、詳らかならず候。
恐惶謹言。
羽少将
霜月廿一日 忠恒(花押)
黒田甲斐守殿
御報
<165 島津忠恒書状(10巻14号)>
慶長6年頃11月21日と推定されている文書です。
前回紹介した同じ頃に島津義弘が黒田長政に書いた文書と比較すると、文自体も短いですが、内容が通り一辺倒というか中身がない文章のように感じました。
なんとなくですが、黒田家とのやりとりについて忠恒は父/義弘に一任していて、忠恒はタッチしていない(したくない?)という印象を受けました。皆様如何でしょうか。
あと前回の義弘の文書もそうですが、名乗りが「羽柴兵庫頭」「羽柴少将」となっているのが興味深いです。確か慶長7年頃までは”羽柴”名乗りしてたんだが、その後はきっぱり止めてしまうのだったかな?うろ覚え。
では気を取り直して次の文書の紹介
(注1)甲州様→黒田長政
以上
甲州様(注1)より御礼に預かり畏み
存じ候。仰せの如く、兵庫頭(注2)
進退の事、去んぬる年
上方御弓箭の企(注3)、
曽て以て存ぜず候と雖も、
太閤様以来
秀頼様に到り数通の誓紙を
上げ置き、剰え御高恩を蒙り候事、
今に忘却無きにおいては、人数ならびに出陳致すべき
の由、奉行衆(注4)より
仰せ聞かさるるに就き、力に及ばず在陳せしめ候。
聊か以て惟新私の分別に
あらず候事、最前石田殿(注5)
より右の入り組み共に付き、使として
八十嶋方(注6)さわ山(注7)より伏見へ
差し越され候刻も、存分の
返事申しきられ候いき。今に其の
隠れある間敷く候。既に八十嶋方事、
当分藤堂佐渡守殿(注8)へ
かんにん候故、証語分明たる由、
段々本多佐渡守殿(注9)に到り
申し分くるに依り、佐州御合点
を以て 御前御別儀ある
間敷き由、御誓紙を以て
仰せ下され候。 内府様(注10)より直に
御意を成さるる儀はこれ無く候
え共、先ず以て満足仕り候。誠に
最前以来惟新事に付き、
別して御機遣いを成され、度々において
御使差し越され、御懇志の
段々、我々式にいたるまで
忘却無く、忝く存じ候。弥当家
の事、御入魂を以て
内府様御前別儀無き
様に御取り合わせ成さるべき事、
頼み奉り候。仍って御縁辺の
儀(注11)、鳥居勘左衛門尉殿(注12)口上
ども惟新承られ、御返事
申し入れられ候之間、私の御報
申し上ぐるに能わず候。此等の旨、
漏れ申さしめ給うべく候。恐々謹言。
閏十一月三日 伊勢平左衛門尉
貞林(花押)
鳥居勘左衛門尉殿(注11)
<166 伊勢貞林書状(10巻15号)>
(注2)兵庫頭→島津義弘 今気が付いたが、この文書でも前半では島津義弘を「兵庫」といっているのに後半では「惟新」である 謎。
(注3)上方御弓箭の企→ご存じ関ヶ原の合戦
(注4)奉行衆→いわゆる五奉行…なんだが、関ヶ原の合戦時は浅野長政は隠退、石田三成は隠居させられていたので、残りの三奉行(増田長盛、長束政家、前田玄以)のことである
(注5)石田殿→ご存じ石田三成
(注6)八十嶋方→『黒田家文書 1』解説(p.354)では「石田三成の家臣。」としか書いていないが、名字から見て、関ヶ原の合戦時に島津豊久に追い返された八十島助左衛門と同一人物と見て間違いないのではないだろうか。ご意見お待ちしています。
(注7)さわ山→佐和山城。石田三成の本拠地。
(注8)藤堂佐渡守殿→藤堂高虎。八十島助左衛門(?)が関ヶ原の合戦後藤堂高虎の元に捕まっていたという話は初耳で興味深い。
(注9)本多佐渡守殿→本多正信。
(注10)内府様→徳川家康。ちなみに『黒田家文書』ではすべて「だいふさま」とルビが振ってある。
(注11)御縁辺の事→黒田長政養子・松寿丸と義弘の孫娘との縁談のこと。前回記事参照。
(注12)鳥居勘左衛門尉殿→黒田長政の家臣。前回の島津義弘の書状参照。
慶長6年閏11月3日付の書状で、書いた人は前回の島津義弘の書状にも登場した義弘の家老・伊勢貞林(伊勢貞昌の父)です。宛先は黒田長政の家臣・鳥居勘左衛門になっていますが、自分の身分から考えて黒田長政宛にするのは恐れ多いからでしょう。鳥居は長政の使者でもありますから、鳥居からこの文書の内容を長政に伝えてくれる事を期待して書いたと思われます。
内容ですが、島津義弘の処分に関して黒田長政の尽力を感謝する一方で、関ヶ原の合戦は石田三成やその家臣の八十島(助左衛門?)のせいでいやいや西軍に参加したんだ!…と、かなり言い訳臭いです(爆)
今回はここまで。
次回はこの件に関する、ある人物の実に興味深い文書を紹介する予定です。
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遂にこのネタずるずる8回目…(;¬_¬)
気を取り直して、早速本題に入ります。
予告通り、関ヶ原合戦後に島津家から来た文書を紹介。
最初の文ですがかなり長文です…でもがんばる
(注2)少将→あの島津忠恒
(注3)使者→鎌田政近
(注4)井伊兵部少輔殿→井伊直政 この翌年に死去
(注5)本多佐渡守、本佐州→本多正信 この頃から徳川家と島津家の取り次ぎ担当となる
(注6)内府様→来年400回忌を迎える名物の狸ヾ(--;)こと徳川家康
(注7)鳥勘左衛門、鳥居勘左→黒田長政の家臣。知行は400石とのこと(『黒田家文書 1』p.350解説)。
(注8)伊勢平左衛門尉→伊勢貞成(貞林)。後に島津忠恒(家久)の家老となる伊勢貞昌の父。この当時は島津義弘付きの家老の一人である。
(注9)御息様→黒田松寿丸(1591~1603)。黒田長政の幼名と同じ名前を持っているが、実は養子。この当時先妻・蜂須賀長政女(糸)との間にも後妻・保科正直女(徳川家康養女・栄)との間にも男子がいなかったため、黒田如水の配慮により従兄弟を養子に迎えた。実父は一柳直末(天正18年(1590年)戦死)、実母は黒田如水の妹。
慶長6年11月4日付の、大変に興味深い内容の書状です。
これが桐野作人さんが「さつま人国記」2014年4月21日分で取り上げた物だと思います。
長文を要約すると
「井伊直政と本多正信の取りなしで自分も助かりそうなんだけど、まだ正式に決まったわけでない様子なんで、例の縁組みの件はなかったということに…もし御子息が他家と縁組みされても島津家と黒田家はこれまでのように仲良くしましょう」
です。
桐野さんも記事の中で指摘してますが、やっぱりこの文書の一番の注目点は「先年以来申し談ずる縁中の儀」とか「彼の縁組」といわれているものですよね!ヾ(--;)…でも、縁組って誰と誰の縁組みやねんな…。
黒田家側の相手は上記の(注9)でも書きましたが、黒田長政養子(黒田如水甥)の松寿丸と断定できます(『黒田家文書1』p.351解説)。この当時の黒田家はこの松寿丸一人しか後継者候補がおらず、この当時の島津家同様男子の跡継ぎ不足だったんですね。ただこの松寿丸は2年後に早世してしまいます(○。○)…ところがこの前年から長政の後妻・栄姫が量産体制に入りましてヾ(^^;)、松寿丸は長生きしたら長生きしたで黒田家の懸案の種になったことは間違いないでしょう。薄幸の人ですね…。
では島津家側ですが、誰が候補になっていたのでしょうか?この文中に「拙者孫の儀」とあるので、義弘の孫娘の誰かと言うことが分かります。この頃未婚の義弘の孫娘と言えば
(1)豊州家・島津朝久の娘1(母は島津御屋地(義弘長女))
(2)豊州家・島津朝久の娘2(母同上)
(3)伊集院忠真の娘(母は島津御下(義弘次女))
の3人がいます。
このうち(3)は
・先年に父が謀反を起こしていること
・余りにも若年であること(慶長5年(1600年)生まれ、慶長6年時点で数え2歳)
と言う事から除外して良いかと。もっとも幼年で婚約する人もこの時代ざらにいますが…
(1)と(2)は残念ながら現存史料からでは生年が分からないのですが、父・朝久の没年(文禄5年(1596年)から最も遅く見積もっても次女が文禄6年(1597年)生まれ慶長6年時点で数え5歳、母の御屋地の年齢(文禄6年に44歳)から見るともっとさかのぼる可能性の方が高いかと。松寿丸の相手として考えられていたのは(1)か(2)でしょう。
あと、桐野氏は言及されてませんでしたが、この縁組みは島津家の総意で勧められていたのかどうかが気になります。島津家側にはこの縁談に関する史料が全く残ってないので推測になってしまうのですが、黒田家と親しいのはどうも義弘一人だけで、他の義久とか忠恒とか懇意にしていた様子が「黒田家文書」から伺えないことから、義弘の独断で勧められていたのではないかと。
なお松寿丸婚約者候補だった島津朝久と御屋地の娘たちのその後ですが
(1)→島津忠倍(島津忠長の長男)の妻となるが、若くして夫に先立たれ、自分も幼い娘を残して早世したらしい…
(2)→松平定行と政略結婚させられ、桑名(原三重県桑名市)にて早世…
と松寿丸同様長生きされなかったようです。長生きだった母・御屋地よりも当然先立ったわけで、御屋地にとっては大変つらかったことと思われます。
あと、(2)に関しては寺沢広高(or息子の堅高)との政略結婚が整う途中で破談になった疑惑があります。(ちなみに破談を仕掛けたのは島津家側の可能性が高いw)参照:桐野さんブログ(コメント欄のやりとり)、拙HP「伊東権頭娘」
今回は長文だったので1件にて終了。「黒田家文書」の島津関連史料紹介、もうちょっと続く。
※しかし、今回「さつま人国記」のバックナンバー見たら、これを書くきっかけになった記事が掲載されてから1年以上経ったことを知る_| ̄|○ とほほ…。
拙ブログ関連ネタ「安土桃山期の島津家と黒田家」
気を取り直して、早速本題に入ります。
予告通り、関ヶ原合戦後に島津家から来た文書を紹介。
最初の文ですがかなり長文です…でもがんばる
(注1)龍伯→ご存じ島津義久
是より申し入るべく候処、遮って御使札
遠路に及び、御丁寧の至り、畏み存じ候。
承り候様、今度龍伯(注1)・少将(注1)前より使
者(注3)指し上げ候処、井伊兵部少輔殿(注4)・
本多佐渡守殿(注5)お取り成しを以て、
内府様(注6)御前異議無く相済み、殊に
拙者進退の儀迄異議ある
間敷きの由、本佐州(注5)誓紙を以て、
仰せ下され候間、先ず以て安堵致し候。定めて
各内々御取り合わせ候故たるべきと
存ずるばかりに候。
一、先年以来申し談ずる縁中の儀、
捨て思し食されず、今度落着の
事、聞こし食さるべきの由、御状并びに鳥
勘左衛門(注7)方口上の通り、具に承り届け候。
一、彼の縁中の儀に付き、拙者前より
今度使者を指し上げ候わば、京都
の儀をも仰せ調えられるべきの由、御念比に
承り候、尤も其の儀に応ずべく候え共、御存じの如く、
拙者身躰の事、本佐州より 内府様御前の儀、異議ある間敷
の由承り候と雖も、 内府様御前より
御別儀無きの旨、直に仰せ聞かされず
候の条、当分逼塞せしめ、手前
気遣いの段、御察し成さるべく候。然る
間、先年以来承り候縁中の儀とは
ありながら、此の節、拙者使書
指し上ぐべき事は、貴所御為にも、
勿論、拙者ためにも 内府様御
前の儀、計り難き始末に候間、拙者
使書など指し上ぐべき儀は、当分
斟酌深重候。此れ等の旨聞こし
食し分けられ候わば、本望たるべく候。
一、彼の縁中の儀、拙者手前ならざるにおいては、
別方へ仰せ合わさるべきかの由、伊勢
平左衛門尉(注8)への御書面、尤もに存じ候。
拙者孫の儀、方々より所望候と雖も、
先年以来申し談ずる辻を以て、今に
何方へも契約無く、手前に抱え置き
候え共、御息様(注9)御年ばえも承り
及び候。定めて御縁の儀いそがわしく
思し食さるべく候間、さように候わば、
その旨に任せらるべき事、御肝要に候。重言乍ら、
拙者進退の儀、当分は
京儀計り難き時分に候条、是より
落着の儀申し入れ難く候。申すに及ばず候と雖も、
彼の縁の事、たとい別方へ仰せ
組まれ候共、先年以来別して
御入魂致すべきの由、申し談ずる守備にて候条、
毛頭御隔心の儀御座あるまじく候。
此の段は定めて御同情たるべしと存じ候
間、鳥居勘左(注7)方へ申し入れ候。恐惶謹言。
後十一月四日 羽兵庫入道
惟新(花押)
黒甲州
御報
<164 島津惟新(義弘)書状(10巻13号)>
(注2)少将→あの島津忠恒
(注3)使者→鎌田政近
(注4)井伊兵部少輔殿→井伊直政 この翌年に死去
(注5)本多佐渡守、本佐州→本多正信 この頃から徳川家と島津家の取り次ぎ担当となる
(注6)内府様→来年400回忌を迎える名物の狸ヾ(--;)こと徳川家康
(注7)鳥勘左衛門、鳥居勘左→黒田長政の家臣。知行は400石とのこと(『黒田家文書 1』p.350解説)。
(注8)伊勢平左衛門尉→伊勢貞成(貞林)。後に島津忠恒(家久)の家老となる伊勢貞昌の父。この当時は島津義弘付きの家老の一人である。
(注9)御息様→黒田松寿丸(1591~1603)。黒田長政の幼名と同じ名前を持っているが、実は養子。この当時先妻・蜂須賀長政女(糸)との間にも後妻・保科正直女(徳川家康養女・栄)との間にも男子がいなかったため、黒田如水の配慮により従兄弟を養子に迎えた。実父は一柳直末(天正18年(1590年)戦死)、実母は黒田如水の妹。
慶長6年11月4日付の、大変に興味深い内容の書状です。
これが桐野作人さんが「さつま人国記」2014年4月21日分で取り上げた物だと思います。
長文を要約すると
「井伊直政と本多正信の取りなしで自分も助かりそうなんだけど、まだ正式に決まったわけでない様子なんで、例の縁組みの件はなかったということに…もし御子息が他家と縁組みされても島津家と黒田家はこれまでのように仲良くしましょう」
です。
桐野さんも記事の中で指摘してますが、やっぱりこの文書の一番の注目点は「先年以来申し談ずる縁中の儀」とか「彼の縁組」といわれているものですよね!ヾ(--;)…でも、縁組って誰と誰の縁組みやねんな…。
黒田家側の相手は上記の(注9)でも書きましたが、黒田長政養子(黒田如水甥)の松寿丸と断定できます(『黒田家文書1』p.351解説)。この当時の黒田家はこの松寿丸一人しか後継者候補がおらず、この当時の島津家同様男子の跡継ぎ不足だったんですね。ただこの松寿丸は2年後に早世してしまいます(○。○)…ところがこの前年から長政の後妻・栄姫が量産体制に入りましてヾ(^^;)、松寿丸は長生きしたら長生きしたで黒田家の懸案の種になったことは間違いないでしょう。薄幸の人ですね…。
では島津家側ですが、誰が候補になっていたのでしょうか?この文中に「拙者孫の儀」とあるので、義弘の孫娘の誰かと言うことが分かります。この頃未婚の義弘の孫娘と言えば
(1)豊州家・島津朝久の娘1(母は島津御屋地(義弘長女))
(2)豊州家・島津朝久の娘2(母同上)
(3)伊集院忠真の娘(母は島津御下(義弘次女))
の3人がいます。
このうち(3)は
・先年に父が謀反を起こしていること
・余りにも若年であること(慶長5年(1600年)生まれ、慶長6年時点で数え2歳)
と言う事から除外して良いかと。もっとも幼年で婚約する人もこの時代ざらにいますが…
(1)と(2)は残念ながら現存史料からでは生年が分からないのですが、父・朝久の没年(文禄5年(1596年)から最も遅く見積もっても次女が文禄6年(1597年)生まれ慶長6年時点で数え5歳、母の御屋地の年齢(文禄6年に44歳)から見るともっとさかのぼる可能性の方が高いかと。松寿丸の相手として考えられていたのは(1)か(2)でしょう。
あと、桐野氏は言及されてませんでしたが、この縁組みは島津家の総意で勧められていたのかどうかが気になります。島津家側にはこの縁談に関する史料が全く残ってないので推測になってしまうのですが、黒田家と親しいのはどうも義弘一人だけで、他の義久とか忠恒とか懇意にしていた様子が「黒田家文書」から伺えないことから、義弘の独断で勧められていたのではないかと。
なお松寿丸婚約者候補だった島津朝久と御屋地の娘たちのその後ですが
(1)→島津忠倍(島津忠長の長男)の妻となるが、若くして夫に先立たれ、自分も幼い娘を残して早世したらしい…
(2)→松平定行と政略結婚させられ、桑名(原三重県桑名市)にて早世…
と松寿丸同様長生きされなかったようです。長生きだった母・御屋地よりも当然先立ったわけで、御屋地にとっては大変つらかったことと思われます。
あと、(2)に関しては寺沢広高(or息子の堅高)との政略結婚が整う途中で破談になった疑惑があります。(ちなみに破談を仕掛けたのは島津家側の可能性が高いw)参照:桐野さんブログ(コメント欄のやりとり)、拙HP「伊東権頭娘」
今回は長文だったので1件にて終了。「黒田家文書」の島津関連史料紹介、もうちょっと続く。
※しかし、今回「さつま人国記」のバックナンバー見たら、これを書くきっかけになった記事が掲載されてから1年以上経ったことを知る_| ̄|○ とほほ…。
拙ブログ関連ネタ「安土桃山期の島津家と黒田家」
5/26(火)にテレビ東京系で放送された『お宝なんでも鑑定団』では、ラストで大友家4代(義長、義鑑、義鎮(宗麟)、義統(吉統))の書状(中身は感状だった)が登場し、興味深く拝見致しました。この書状は既に史料集には所収されていた(=存在は確認済みだが所在不明だった)ものなのかな?
ただ書状には直接関係ないんですが、気になったのは
・島津氏が一方的に日向国に攻め込んで大友氏はその防戦をしたという内容の紹介だったこと その前に元々日向国を治めていた伊東氏が急速に弱体してとか色々あったわけで、島津氏が一方的に攻撃したわけではないんだが…
・「龍造寺」という名前すら全く言及されなかったこと_| ̄|○
以上小ネタ終了(^^;)
前回から2ヶ月近く開いてしまいましたが、まだ終わってない去年の大河がらみネタ続きです(滝汗)
今回ようやく本丸のネタ登場!…行き着くまでに時間かかりすぎ自分でも疲れました…
(注2)承り候一ヶ条:内容未詳
天正17年頃6月28日の文書です。黒田長政が「甲斐守」であること、島津義弘の「義弘」名乗り、義弘の花押の形などから年月はこの辺に想定されるとのこと(『黒田家文書』1巻p.335解説)。
解説によると「島津義弘が黒田長政に昨日訪問の折の歓待を謝し、今後疎意無く談合することを伝え」た文書だそうです(『黒田家文書』1巻p.335【大意】)。ざっと見た限りでは、この前後に本来は何か文書があったのではとも受け取れる内容です。が、それは現在は伝わってないので一体義弘と黒田長政の間でどういう約束をしたのか(「承り候一ヶ条」)、謎が多い内容です。
ともかく島津家が豊臣政権に敗北して割と早く(2年後)には長政と義弘の間にパイプができたことだけは分かります。「薩藩旧記雑録」後編には関ヶ原合戦後に義弘が黒田家(官兵衛孝高、長政)宛てに送った大量の書状を所収していますが、この時の縁を使った物と思われます。
今回紹介するのはこれのみ_(。_゜)/
次回はその関ヶ原の合戦後に義弘や忠恒が黒田家に送った文書を紹介する予定。意外な人も登場します(が、これまでいきつけるかなあ…)。
ただ書状には直接関係ないんですが、気になったのは
・島津氏が一方的に日向国に攻め込んで大友氏はその防戦をしたという内容の紹介だったこと その前に元々日向国を治めていた伊東氏が急速に弱体してとか色々あったわけで、島津氏が一方的に攻撃したわけではないんだが…
・「龍造寺」という名前すら全く言及されなかったこと_| ̄|○
以上小ネタ終了(^^;)
前回から2ヶ月近く開いてしまいましたが、まだ終わってない去年の大河がらみネタ続きです(滝汗)
今回ようやく本丸のネタ登場!…行き着くまでに時間かかりすぎ自分でも疲れました…
(注1)道仲:「道中(どうちゅう)」かと思えるが、文章全体を見ると「道仲」という使者がいたようにも読める。皆様のご意見お待ちしております<(_ _)>
昨日は企参候の処、御丁寧
誠に以て外聞実儀畏み入り存じ候。仍って
自今以後別して御入魂に預かるべきの由承り候。
大慶至極に候。我等としても疎意無く、
向後申し談ずべく候。随って道仲(注1)にて
承り候一ヶ条(注2)の儀、御懇意謝し難く候。
何様入念の才覚申すべく候。巨細においては
道仲御到達あるべく候。恐惶謹言。
六月二十八日 義弘(花押)
黒田甲斐守殿
貴報
<157 島津義弘書状(19巻6号)>
(注2)承り候一ヶ条:内容未詳
天正17年頃6月28日の文書です。黒田長政が「甲斐守」であること、島津義弘の「義弘」名乗り、義弘の花押の形などから年月はこの辺に想定されるとのこと(『黒田家文書』1巻p.335解説)。
解説によると「島津義弘が黒田長政に昨日訪問の折の歓待を謝し、今後疎意無く談合することを伝え」た文書だそうです(『黒田家文書』1巻p.335【大意】)。ざっと見た限りでは、この前後に本来は何か文書があったのではとも受け取れる内容です。が、それは現在は伝わってないので一体義弘と黒田長政の間でどういう約束をしたのか(「承り候一ヶ条」)、謎が多い内容です。
ともかく島津家が豊臣政権に敗北して割と早く(2年後)には長政と義弘の間にパイプができたことだけは分かります。「薩藩旧記雑録」後編には関ヶ原合戦後に義弘が黒田家(官兵衛孝高、長政)宛てに送った大量の書状を所収していますが、この時の縁を使った物と思われます。
今回紹介するのはこれのみ_(。_゜)/
次回はその関ヶ原の合戦後に義弘や忠恒が黒田家に送った文書を紹介する予定。意外な人も登場します(が、これまでいきつけるかなあ…)。
この史料紹介中々終われないな(;¬_¬)
気を取り直して、今回は短く1文書のみ。
この秀吉の「在京賄い料」とか「妻子堪忍領」とかは研究した論文とかあるのかな?情報お待ちしてます。<(_ _)>
後些細なことかも知れませんが「前々の如く領知すべく」という一文が気になる。実はこの朱印状を貰う前から実質黒田家領になっていたところなのかな?矢田部村?
今回はここまで。
次回からはようやく本当にやりたかった(ヲイ)「黒田家文書に出てくる島津さんの文書」の紹介!ができる…はず、多分_(。_゜)/
気を取り直して、今回は短く1文書のみ。
全く島津氏関係ない文書なんですが(^^;)これを敢えてピックアップしたのは、島津氏も在京賄い料として摂津国と播磨国に分散して合計1万石の所領を秀吉から貰っているからです。
河内国丹北郡
矢田部村(注1)五百石
事、妻子(注2)堪忍分として
使わし候。前々の如く
領知すべく候なり。
天正十五
九月廿四日 (朱印)
黒田勘解由とのへ
<93.豊臣秀吉知行充行状(6巻14号)>
(注記)
1.河内国丹北郡矢田部村→元大阪市東住吉区矢田 現在は住宅密集地で田んぼなんて全くない
2.妻子→黒田官兵衛の妻・光と次男・熊之助
この秀吉の「在京賄い料」とか「妻子堪忍領」とかは研究した論文とかあるのかな?情報お待ちしてます。<(_ _)>
後些細なことかも知れませんが「前々の如く領知すべく」という一文が気になる。実はこの朱印状を貰う前から実質黒田家領になっていたところなのかな?矢田部村?
今回はここまで。
次回からはようやく本当にやりたかった(ヲイ)「黒田家文書に出てくる島津さんの文書」の紹介!ができる…はず、多分_(。_゜)/
なかなか終われない(涙)九州御動座編です
今回もまだ秀吉は九州に到達できそうにありませんヾ(--;)
それにしても今回も「薩州の奴原悉く敗軍せしむる」とか「路次にて討ち果たすべし」とか「万一北げ延び候わば、薩州へ付け入り仕り討ち果たすべく候」とか「法度もかようの時は入らざる事に候」などなど物騒な発言は更にエスカレート。これらの文言からは「降伏してきたら助ける」という気配は全く感じられません。
さてこの文書の中で特に名前を明記して「こいつ等は殺してしまえ」と言われた島津義弘と伊集院忠棟。山本博文説に依れば、この後一番秀吉政権寄りだったと言われるのがこの2人なんですから皮肉な物です…。
それに対して秀吉は超ご立腹だったようすがこの書状から伺えます。
「敵退かざる様に山取りせらるべき由、再三申し使わし候処、早五里六里まで相陣を構え候に依って、敵敗け軍致し候、付け入りに仕り、豊後の内にて大将分討ち留めざる事、先の衆ぬるき故と思し召され候(敵が退かないように山に陣取りしておけと再三言っといたのに、早くから五里六里先まで対陣を構えて敵が負けたというのに、逃げた後を追い込み豊後国内で大将クラスを討ち取れなかったのは、先手が手ぬるいからだと思われておられるぞ)」
「黒田勘解由、蜂須賀阿波守両人は、日比(ひごろ)秀吉付け入りの段存じ候に、何としたる子細(黒田官兵衛と蜂須賀家政両人は日ごろから秀吉の追い込み作戦のことを知っているのに、何というていたらくであるか)」
…と言う具合です。でも、その後はいつもの強気の秀吉君ヾ(^^;)でして、
「豊後表にて節所を構え、先手の者と一合戦いたさざる薩摩のやつばらが、にげちり国へ罷り越し候者が、何とてこわき儀あるべく候や(豊後国で難所を作り、こっちの先手と戦闘もしなかった薩摩の連中が、逃げ散って国に帰っている状態のどこが怖い物か)」
「薩摩の嶋津をしころばかし候(薩摩の嶋津を転ぶように倒してやる)」
「関白殿御さげすみは少しも違い申すまじく候。心やすく思われ候いて、日向へ乱入然るべく候(関白殿の計略はちっとも間違ってないので、心やすく思って日向国に押し入るべきである)」
と言う具合です。
ところで「敵の逃げちり候道がよき案内者」ともありますが、どうも九州の地理に詳しい人がいなかったんでしょうか?>秀吉軍 たしか伊東祐兵は九州での道案内の功で旧領を回復したとかどこかで見た記憶があるんだが。
延々と引きずった九州御動座もここまで。
この後も九州御動座関係の文書があったような気もするんですが、目に留まるような内容がなかったのかコピー取ってないようです(滝汗)
次回は直接島津に関係有るような無いような文書の紹介の予定です。
今回もまだ秀吉は九州に到達できそうにありませんヾ(--;)
追って申し候。敗け軍(まけいくさ)候時は天正15年3月19日発の秀吉朱印状です。前回書状から見て更に西に順調に移動していることが分かります。
少しも早く追い付き候程、
相たまらざる物に候間、
足次第追い付き討ち果たすべく候。
肥後口か日向口へか
敗け北ぐ(まけにぐ)べく候間、薩摩へ北げ
入らざる已前に追い付き、首を刎ぬべく候。
聊かも油断あるべからず候。
法度もかようの時は
入らざる事に候。以上。
去んぬる十五日の両通并びに
内空閑(注1)使者口上の趣、周防呼坂(注2)に至り
到来、委細聞こし召し
届けられ候。
一、豊後府内にこれある
島津兵庫頭(注3)・伊集院(注4)
を始め、薩州の奴原悉く
敗軍せしむるの由に候。定めて
路次にて討ち果たすべしと
思し召し候。万一北げ延び候わば、
薩州へ付け入り仕り
討ち果たすべく候。若したまる所
これあるにおいては、取り籠め逃れざる
様に仕るべく候事。
一、先手の者共、付け入りの儀
無案内たるべく候間、
其の意を得、軍法も入らざる
事に候間、北げざる様、追いつめ
討ち果たすべき事、肝要候。
一、時日を移さず其の面に至り
御着座成さるべく候間、其の意を
えべく候なり。
三月二十日 (朱印)
黒田勘解由とのへ
<84豊臣秀吉朱印状(6巻5号)>
(注記)
1:内空閑→肥後国の国人・内空閑(うちこが)氏。このころ内空閑鎮房(先代・鎮資の弟)と鎮照(鎮資の息子)で対立しており、使者を派遣したのが鎮房か鎮照かはよく分からないとのこと(p.201解説)
2:周防呼坂→現在の山口県周南市呼坂
3:島津兵庫頭→ご存じ島津義弘
4:伊集院→伊集院忠棟
それにしても今回も「薩州の奴原悉く敗軍せしむる」とか「路次にて討ち果たすべし」とか「万一北げ延び候わば、薩州へ付け入り仕り討ち果たすべく候」とか「法度もかようの時は入らざる事に候」などなど物騒な発言は更にエスカレート。これらの文言からは「降伏してきたら助ける」という気配は全く感じられません。
さてこの文書の中で特に名前を明記して「こいつ等は殺してしまえ」と言われた島津義弘と伊集院忠棟。山本博文説に依れば、この後一番秀吉政権寄りだったと言われるのがこの2人なんですから皮肉な物です…。
去んぬる十六日の書状、今日廿一日周防冨田日付は天正15年3月21日、秀吉が九州する上陸前に島津氏は早々と撤退してしまったようです。
市(注1)において到来、披見候。
一、敵退かざる様に山取りせらるべき由、再三申し使わし候処、
早五里六里まで相陣を構え候に依って、
敵敗け軍致し候、付け入りに仕り、豊後の内にて
大将分討ち留めざる事、先の衆ぬるき故と
思し召され候事。
一、黒田勘解由、蜂須賀阿波守(注2)両人は、日比(ひごろ)
秀吉付け入りの段存じ候に、何としたる子細に、
中納言(注3)所へ、日向の儀節所(注4)にて候間、打ち返し
秋月(注5)を取り巻くべきかと申し候事、分別あたわず候事。
一、敵敗け北げ(まけにげ)いたす者にひっつき日向国へ
乱入せしめ候儀、節所とやらんは入るまじく候、
敵の逃げちり候道がよき案内者にて候事。
一、豊後表にて節所を構え、先手の者と
一合戦いたさざる薩摩のやつばらが、
にげちり国へ罷り越し候者が、何とてこわき
儀あるべく候や。土民百姓よりもにげ物は
入らざる物にて候。太刀もかたなも入らざる物にて候事。
一、節所と申は、退き候時入り候物にて候。薩摩の
嶋津をしころばかし候わでは、馬をおさめ
させられまじく候間、節所は入るまじき事。
一、敵敗軍せず、日向の国にこれあり、てっぽうを
かまえ、人数をそなえこえあるおりこそ、又
しより陣取りにておしこむべき儀も然るべく候に、
敗け軍の敵を追い打ち、付け入りに致し、殊に大
軍が乱入せしめ候に、あぶなき儀はある間敷く候や、
関白殿御さげすみは少しも違い申すまじく候。
心やすく思われ候いて、日向へ乱入然るべく候事。
(7ヶ条+後文省略)
三月廿一日 (朱印)
黒田勘解由とのへ
蜂須賀阿波守とのへ
<85豊臣秀吉朱印状(6巻6号)>
(注記)
1:周防冨田市→現在の山口県周南市
2:蜂須賀阿波守→蜂須賀家政
3:中納言→豊臣秀長
4:節所→峠や山道などの要害の場所、又難所を指す(「黒田家文書」第1巻解説p.85)
5:秋月→福岡県朝倉市。秋月種実・種長親子が籠城中の古処山城がある。
それに対して秀吉は超ご立腹だったようすがこの書状から伺えます。
「敵退かざる様に山取りせらるべき由、再三申し使わし候処、早五里六里まで相陣を構え候に依って、敵敗け軍致し候、付け入りに仕り、豊後の内にて大将分討ち留めざる事、先の衆ぬるき故と思し召され候(敵が退かないように山に陣取りしておけと再三言っといたのに、早くから五里六里先まで対陣を構えて敵が負けたというのに、逃げた後を追い込み豊後国内で大将クラスを討ち取れなかったのは、先手が手ぬるいからだと思われておられるぞ)」
「黒田勘解由、蜂須賀阿波守両人は、日比(ひごろ)秀吉付け入りの段存じ候に、何としたる子細(黒田官兵衛と蜂須賀家政両人は日ごろから秀吉の追い込み作戦のことを知っているのに、何というていたらくであるか)」
…と言う具合です。でも、その後はいつもの強気の秀吉君ヾ(^^;)でして、
「豊後表にて節所を構え、先手の者と一合戦いたさざる薩摩のやつばらが、にげちり国へ罷り越し候者が、何とてこわき儀あるべく候や(豊後国で難所を作り、こっちの先手と戦闘もしなかった薩摩の連中が、逃げ散って国に帰っている状態のどこが怖い物か)」
「薩摩の嶋津をしころばかし候(薩摩の嶋津を転ぶように倒してやる)」
「関白殿御さげすみは少しも違い申すまじく候。心やすく思われ候いて、日向へ乱入然るべく候(関白殿の計略はちっとも間違ってないので、心やすく思って日向国に押し入るべきである)」
と言う具合です。
ところで「敵の逃げちり候道がよき案内者」ともありますが、どうも九州の地理に詳しい人がいなかったんでしょうか?>秀吉軍 たしか伊東祐兵は九州での道案内の功で旧領を回復したとかどこかで見た記憶があるんだが。
延々と引きずった九州御動座もここまで。
この後も九州御動座関係の文書があったような気もするんですが、目に留まるような内容がなかったのかコピー取ってないようです(滝汗)
次回は直接島津に関係有るような無いような文書の紹介の予定です。