忍者ブログ
拙HP「戦国島津女系図」の別館…のはず
『島津義弘の賭け』などでもこの説だったと思うのだが、
「豊臣政権は文禄元年の太閤検地で義久の蔵入り地を大隅に、義弘の蔵入り地を薩摩に設定した
一般的に薩摩>大隅と思われており、この施策は義久を隠居させ、豊臣政権は義弘を島津家の当主とする意向を示した物だった」
…とされているが

上記の説の場合、以下の史料はどう考えればよいのだろう?(゜_。)?(。_゜)?

「義弘公御譜中」
天正十六年七月、 秀吉公賜称姓氏於義弘、仍称羽柴薩摩侍従豊臣義弘也、
同月廿六日、賜昇進之口、 宣、記左、
(「薩藩旧記雑録」後編2-487)

「正文在手鏡」
上卿 久我大納言
天正十六年七月廿六日 宣旨
 従五位下豊臣義弘
   宜叙従四位下、
     蔵人左中弁藤原頼宣
(「薩藩旧記雑録」後編2-488)

ちなみに、兄・義久は 天正9年(1581年)に従四位下になってからは昇進してないので、この時点では義弘と同列に並ばれたことになる。
もっとも、後の史料では出家後の義久について「三位法印龍伯」と書いてある物が見受けられるので、ある時点で従三位(たぶん正三位ではないと思う)になったのではと思われるが…。

拍手[0回]

PR
『中山世譜』は江戸時代の頃に編纂された沖縄(琉球王国)の歴史書である。
これに島津亀寿のことが出てくるのだが、変なのである。

世譜巻之一
(中略)
泰昌元年庚申。為進香惟新公事。遣馬氏伊計親雲上良徳。至薩州。
本年、為弔国分御上薨事。遣章氏安谷上親雲上正勝。至薩州。
本年九月。為奏尚寧王薨、尚豊王承桃事。法司・毛氏読谷山親方盛韶。至薩州。
(『中山世譜』蔡鐸本附巻)

世譜巻之一
(中略)
泰昌元年庚申。為弔祭惟新公事。遣馬氏伊計親雲上良徳。至薩州。四月回国
本年、為弔祭国分御上薨事。遣章氏安谷上親雲上正勝。至薩州。翌年二月回国。
本年九月。為稟報尚寧王薨、尚豊王即位事。法司・毛氏読谷山親方盛韶。至薩州。翌年回国。
(『中山世譜』蔡温本附巻)

琉球王国は基本的に中国の年号をそのまま使っているのだが、「泰昌元年」は1620年のことである。なので、叔父・義弘(惟新公)のお悔やみに来ている(前の年に死去)のは間違いじゃないのだが、次の項目で、この年に亀寿も死んだことになってしまっている(○。○)
ちなみに同年尚寧王が死んだのも確実なので、事実2つにはさまれたこの記事は他の年度からの混入とも考えがたい…。

いくつか考えられる予想
(1)「薩藩旧記雑録」など島津氏側の史料に書いてあるデータが間違い
→亀寿の命日は死んだ後も何回も出てくるので、間違いの可能性は薄いと思う…
(2)父・義久と間違えられた
→義弘を「惟新公」と書いてあることから類推するに、義久は「龍伯公」と書かれないとおかしいし、加えて義久の没年(1611年)とかなりズレがあるのが問題点か。
(3)実はこの『中山世譜』の記述間違ってない。間違った情報を伝えたのは当時の鹿児島藩
→ないない!…といいたいところだが、家久(忠恒)の外道な性格を考えると全くあり得ないとも言い切れないところが…亀寿+琉球王国両方の面目つぶせるしね。

琉球使者「亀寿様が亡くなられたということでお悔やみに上がりました…ってあれ?」
亀寿「私生きてますけど(-_-#)」
琉球使者「⊂(。Д。⊂⌒`つ」
-------------
その頃鹿児島城では
家久(忠恒)「ひひひ、嫌がらせ成功したぞ」



『中山世譜』については
『鹿児島県立短期大学研究紀要』25「島津氏の琉球侵攻に関する一考察」虎頭民雄
を参照させて頂きました(ちなみにCINIIから検索すると無料で読めます)

拍手[0回]

史料を見ていると
「おお、こんな事知らなかった!」
…と驚くことが多いのだが
「…こんな事知りたくなかった」_| ̄|○
…ということもたまにはある(^^;)
「御文庫四拾九番箱中」
猶々御息女之事呉〃可御心安候、拙者請取申候、不可有御気遣候、次ニ雖軽少之至候、扇十本進之候、誠御音信之験迄候、又御帰国之刻ハ、めつらしき御児御同道之由、かくれなく候、于今御寵愛無別儀候哉、一咲〃〃
(中略)
六月九日            (花押)「龍山公御判也」

龍伯                竜
御返事
(「薩藩旧記雑録 後編」2-897)
 
文禄元年6月9日に龍山公こと近衛前久が龍伯こと島津義久宛に書いた物だが、太字で強調した所、えらいことを書いてないか?
ばんない風に口語訳してみたりする。
ところで御息女(=亀寿)のことはくれぐれもご安心を。私が引き受けましたので。御気遣いなく。次に些細なことですが、扇10本送りましたので、ほんのおつきあいのしるしです。また、ご帰国の時には可愛い男の子を連れて帰ったということ、しっかりばれてますよ。今も御寵愛されているのですかな?むふふのふ。
ちなみにこの頃の島津家、朝鮮出兵の仕度が調わずに四苦八苦しているところです…が、そんなときにいったい京都で何やってたんですか?義久公???

感想:近衛前久の手紙って、義弘宛のも強烈なのがあったような記憶があるし、けっこう下ネタ好きだったんだろうか(特にボーイズラブ系)ヾ(--;)

拍手[0回]

(天正12年陸月)十八日
(中略)
其後忠棟茶湯被成候、忠長/拙者也、忠棟御息増喜殿宮仕共候間、
(後略)
(「薩藩旧記雑録 後編」1-1427「上井覚兼日記」)
(天正11年参月)五日
(中略)
此日申刻計、忠棟より御茶一服被下候する由候侭参候、
(中略)
配膳者忠棟御子息増喜殿只一人にてめされ候、
(後略)
(「薩藩旧記雑録 後編」1-1367「上井覚兼日記 天正拾一年正月日記」)
今までコピーだけ取っていてこの辺をちゃんと読んでなかったので思いっきり見落としていたのだが
伊集院忠棟に「増喜」という名前のこんな息子いたのか?!
…いや、一次資料の「上井覚兼日記」だし、上井覚兼が嘘付いてるとかホラふいてるとかヾ(--;)何かを見間違っているという(しかも2回も)…ということはたぶんありえないので、忠棟には「増喜」という息子が天正11年~12年の時点ではいたということは確実なんだろう。
ちなみに上の史料では忠棟の御宿所での生け花(「立花」)や茶の湯などの私的な宴会に列席(ちなみに他の出席者には上井覚兼の他、恵玄という京都の人、島津忠長)、下の史料でも忠棟邸での茶の湯という私的な宴会に列席している(他の出席者は堀池宗叱、東雪、堀池弥次郎)。

伊集院忠棟の長男と言えば伊集院忠真(天正4(1576)~慶長7(1602))参考こちら がいるが、「庄内陣記」添付系図が間違ってないとすると、天正11年で忠真は数え7歳と言うことになり、上記で紹介した史料のような大人が居並ぶ茶会などに列席するかどうか疑問が残る。なので、この「増喜」は忠真とは別人なのではないだろうか。
また、「増喜」という名前にも疑問がある。伊集院家の通字は島津本宗家同様「忠」であるように思われる(棟の父は倉、祖父は朗、息子は前述の通り真)。が、「増喜」はこの通字をふんでいない。更に疑問に思われるのは、この名前自体、どうも出家名のようにも見えることである。この頃の「上井覚兼日記」では伊集院忠棟のことを「忠棟」と諱で呼び捨てしているのだが、その覚兼ですらこの増喜に対しては「御息増喜殿」等と敬称で書いているのも気に掛かる。

忠棟には忠真の上に長男がいたのだろうか?しかもその長男を出家させていた可能性もあるのだが、その背景にあった物はなんなのであろうか?

拍手[0回]

前の話はこちら


前の話で、最後に
もしかしたら、私が知らないだけで他の戦国武将の家にも「一の台」がいるのかもしれない。
と書いていたのですが

なんと、本当に他の家からも発掘ヾ(^^;)されました、「一の台」が。



拍手[0回]

カレンダー
01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28
最新記事
(01/27)
(01/26)
(01/25)
(01/23)
(01/22)
最新コメント
[01/23 ばんない]
[01/20 書き人知らず]
[05/19 春山]
[05/06 桐野作人]
[12/30 ばんない]
最新トラックバック
ブログ内検索
プロフィール
HN:
ばんない
性別:
非公開
自己紹介:
初めての方はこちらの説明をお読み下さい。リンク・引用の注意もあります。

プロフ詳細はこの辺とかこの辺とか
カウンター
バーコード
アクセス解析
P R
Template by Crow's nest 忍者ブログ [PR]